Angel Sugar

「監禁愛4」 第2章

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 ちっ……
 一体なんだってんだよっ!
 リーチはそう一人ごちながら非常階段を上った。その間にベルは鳴り止む。
 逃げられたのだろう。
 走っていた速度を落とし、屋上に出るとビルの端まで移動した。そうして上から先ほど自分達が居た場所を窺うと警官達がパニックになっていた。
 立てこもっている犯人より、見えないスナイパーの方にみんなの関心が移ったのだ。
『撃たれた人達大丈夫かな……』
 トシが心配そうにそう言った。その撃たれた警官達は待機していた救急車に乗せられているのが見えた。
 リーチはそこから視線を上げ、辺りをぐるりと見回したが、案の定犯人は見あたらなかった。その代わり足元に薬莢だけが転がっていた。
『ここからみたいだな……』
 転がった薬莢を見ながらリーチは言った。
『M16A1かM655あたりかな……』
 トシの方と言えば、その薬莢の形から銃のモデルを想像している。だがリーチはそれより何故自分達が狙われたのかが気になっていた。
『なあ……なんかやばそうな奴と最近絡んだっけ?』
 リーチは考えながらトシに聞いた。
『う~ん。僕もそれを考えたけど、やばい事件にはさあ、今タッチしてないし……恨んでそうな人間は最近出所してないよ。リーチなんか身に覚えある?』
『あるかっ!』
 怒鳴るようにリーチは言った。
『だって、リーチってプライベートで何やってるのか分からない時があるじゃない……』
 くすくすとトシは笑いながら言った。
『何やってるって……もちろんユキんちでやることやってるに決まってるだろ……』
 鼻息荒くそうリーチが言うと、トシが呆れたように溜息をついた。
「隠岐!大丈夫か?」
 ようやく篠原や警官達が上がってきた。
「あ、はい。掠めただけですので……」
 頬からしたたり落ちる血を拭ってリーチはそう言った。すると篠原はこちらの無事を確認した後、屋上を見渡した。
「逃げられたみたいだな……」
「心当たり……無いのですが……」
 困惑したようにリーチは言った。
「ちょっと突然だよな……誰かに間違われたんじゃないか?」
 篠原はそう言って腕を組んだ。
「さぁ……でも正確に狙ってきていましたので相手はプロでしょうね……。これだけ警官がいて誰も姿を見なかったのですから……」
「だろうな……だがプロなんて日本にはいないぜ。あ、ちょっと待てよ」
 持っていた無線が鳴っていることに気が付いた篠原は、スイッチを入れて話し始めた。そんな篠原を見ながらリーチは言った。
『俺はプロだと思うな……』
『どうだろう……分からないよ僕には……。篠原さんの言うようにアメリカみたいに殺し屋でしかもプロ。それを職業としている人は日本に居るとは思わないけど……。銃の規制の問題もあるしさあ……。でも確かに簡単に手に入らないような銃で撃たれたのは間違いないんだけど……』
 トシはそう言って又考え込んだ。
「隠岐、係長が呼んでる。降りて来いってさ」
 無線は里中だったのだ。
「はい……どうせここに居ても仕方ありませんから……降りましょうか?後は鑑識さんに任せましょう……」
「下もびっくりパニックってとこか……」
 篠原がそう言い笑い顔を見せた為、リーチも笑みを浮かべようとした。が、その瞬間、ベルが又鳴った。
『ちっ……そっちだったか』
 気配は隣のビルからあった。こちらのビルよりやや高い造りのビルなのだが、どうもいつの間にか犯人は移動していたようであった。
『まずっ!思いっきり標的になる場所に立ってるっ!』
 リーチは身体を横っ飛びさせようとしたのだが、足が滑りそのまま体勢が沈んだ。その瞬間リーチは自分の肩に鋭い痛みと熱を感じた。
「っつ……」
 肩を押さえながらリーチは身体を起こし、すぐさま視線を弾の跳んできた方向に向けたが、やはり犯人の姿は見えなかった。
『リーチっ!大丈夫?』
 トシは大声でそう言った。
『ああ、肩やられただけだよ……それにしても……一体何だよっ!』
 くそっ……!
 舐めやがってっ!
「まだその辺にいる!探せ!……隠岐!」
 篠原はそう言ってリーチに覆い被さってきた。その所為で、ようやく起こした身体が又屋上のコンクリに押しつけられた。
 ……う~ん。なんとなく嫌な気分……
 と、リーチは思ったが、トシには言わなかった。
「大丈夫か?」
「肩、撃ち抜かれただけです……それより篠原さん……覆い被さったら、篠原さんが盾になっちゃいますよ」
「いい。お前が狙いなんだろ。俺を撃っても仕方ねーよ。プロは余分な人間まで殺さないだろうからな……」
『そうなのリーチ?』
 篠原の言った言葉にトシがそう聞いてきた。
『しんねえ。何かまた妙な映画の知識が入ってんじゃねえの?』
 心の中でトシにそう言い、こんな状況でありながら笑いが漏れた。
「大丈夫みたいだな……警官も一杯居ることだし……これじゃああっちも手出ししないだろう……」
 そろそろと篠原はリーチの身体から自分の身を離してそう言った。
 屋上には下から途切れることなく警官が上がって来るため、いつの間にか屋上も大騒ぎの様相になっている。
 そんな中、篠原とリーチだけが冷静であった。
「下では警官が巻き込まれて……あ……あれはここに呼ぶための餌だったのか……」
 撃たれた部分に手をやりながらリーチは一瞬ヒヤリとした。
 俺があそこで滑らなければ……
 死んでいたかもしれない……
 先程立っていた場所を眺めながらリーチは更に考えた。
 リーチ達を狙った人間はこちらの反射神経を計算に入れ、弾を撃ち込む先をずらせていたのだ。もし足が滑らなければ、弾は額にヒットしていただろう。
『リーチ……一体どうして……』
 トシは混乱した口調でそう言った。
『やっかいな奴が出てきたみたいだな……』
 溜息を付きつつリーチは言った。
「とにかく隠岐、お前も病院に行った方がいい。その方が安全だよ……」
 篠原はそう言いながらも相変わらず、周囲をキョロキョロ見回している。また弾が跳んできたらと警戒しているのだろう。
「そうですね……そうします」
 危険を知らせるベルの音は鳴りやんでいたが、いつ復活するか分からなかった。その為リーチは注意深くビルの一階まで降り、他の刑事達に守られながら救急車に乗せられた。
 その救急車の中には、先程下で撃たれた警官が三人と、救急隊員が一人乗っていた。だが撃たれた三人とも、後から入ってきたリーチに視線すら寄越さずひたすら震えていた。そんな中救急隊員がリーチに気付いて言った。
「貴方は大丈夫ですか?」
「え、はい。弾は貫通している様ですので、今はそれほど痛みはありません。私は病院で治療を受けますので、他の方の応急手当をお願いします」
 言ってリーチは笑みを浮かべた。
「必要なさそうなお顔をされていますね。その方が安心です。もうすぐ車が出ますので、座って待っていてください」
 救急隊員はそう言って笑いを返してきた。
「はい……じゃあ座ってます」
 リーチは車内の両側に設置されている椅子に腰を下ろすと、もう一度他の三人を眺めた。
 仕方ねえなあ……
 びびっちまってるよ……
 その三人が、軽傷であるのはリーチにも分かるのだが、日常的に銃に撃たれることのない日本では、いくら警官であろうと初めての銃弾に恐怖を感じるのは仕方のないことだと思った。何よりその三人はどう見ても新人だ。
 多分、この立てこもりに応援に出されたのだろう。ただ野次馬整理をしてこいと言われた筈が、ここに来て撃たれたのだ。それも心の準備の無いままにだった。その衝撃は言葉に出来ないものであったはずだ。
 それが分かるように、どの顔も蒼白で小刻みに身体を震わせているのがリーチに見てとれた。
「大丈夫ですか?」
 自分の隣で震えている警官にリーチは声をかけた。
「はい……」
 若い警官は顔をしかめながらそう言った。他の二人は相変わらずガタガタと震えている。初めての経験でショック状態なのかもしれなかった。こういう場合は、声をかけてやるのが一番であることをリーチは知っていた。
「貴方は掠っただけのようですね。大丈夫ですよ。そんな大した傷じゃありません。火傷付きのかすり傷だと思えば良いんですよ」
 言ってリーチが、隣の警官の肩をポンポンと叩いた瞬間、パンと音がし、急に車体が傾いた。
「うわあああっ」
 三人の警官と、救急隊員が体勢を崩して床につんのめった。
『リーチ……まさかっ』
 トシが声を上げた。
『の、ようだ。しつけーんだよ』
 と言いながらもリーチの手は既に車内にある手すりを持って体勢を整えていた。だが他の四人は蛇行する車の動きと合わせて身体を車のあちこちにぶつけている。何より車内に設置されている器具や、応急処置の道具までが床をバラバラと転がるため、危なくて仕方ないのだ。
「しっかり捕まって下さいっ!」
 驚いてひっくり返っている三人の警官と救急隊員にリーチがそう叫ぶと、各々が一瞬我に返り、自分の近くにある手すりや椅子の足にしがみついた。その間も車は右へ左へ大きく振れ、車内の器具が宙を舞った。
「うわああああ」
 リーチ以外の人間は既にパニックであった。
 だから落ち付けって……
『り、り、リーチっ!』
 もう一人慌てている人間がバックに居た。
『お前も落ち付けって……』
 叫びながら手すりなどにしがみついている警官達から一旦視線を外し、リーチは手すりを伝って運転席の方に向かった。
 こちらの場所と運転席は小さな窓で繋がっている。そこにたどり着いたリーチは窓硝子から運転席を覗いた。すると運転している救急隊員は必死に車の傾きを直そうとしていた。
「ブレーキを思いっきり引いて下さい。下手に傾きを直そうとしないで!中途半端にブレーキを引けば回転します!」
 リーチが大声で言うと、運転手にそれが聞こえたのか、向こうも「はっ……はいっ!」と言い、必死にブレーキを踏んでいた。すると暫くは左右に振れていたが、運転していた救急隊員は何とか車を止めることが出来た。
「は……はは……止まった……」
 救急隊員は泣き笑いでそう言った。そのハンドルを持つ手が震えている。
 リーチはホッとしながら、そこから外の様子を窺うと他の車があっち向き、こっち向きしていた。それを見ながらリーチは良くまあ玉突きにならなかったと思わず感心した。
『ねえ、リーチ……他の人は大丈夫だったのかな?』
 トシがそう言ったため、リーチが後ろを振り返ると三人の警官と救急隊員はだらしなく伸びていた。リーチはその警官の一人がぶら下げている銃を取ると、後部の扉を開け、外へと出た。
『リーチ……どうして銃がいるの?』
『まだ外に気配がする……』
 言いながらリーチは道路に降り、辺りを見回した。するとこの出来事でかなりの人間が集まってきており、通行人がこちらに視線を一斉に浴びせかけた。
「済みませんっ!私は警視庁の隠岐というものです。他に怪我人がいますので、どなたか連絡をお願いできませんか?」
 リーチが大声で通行人に向かって言うと中の一人が「分かりました」と言って走り出した。それを見送り、再度、周囲を見回すと右端の歩道に母親と犬を連れた娘、そして一人の男がバイクにまたがってこちらを見ていた。
 あの野郎か……
 腹を立てながらリーチはバイクにまたがった男に向かっ歩き出した。近づくに連れてその男が日本人でないのが分かる。フルメットから覗く染めたわけではない金髪の髪が外国人であることを証明していたのだ。
「貴方が犯人ですね……何故私が狙われているのです?」
 その男の前に立ち、リーチは英語で言った。
「誰が狙っているだって?私は近くを通っただけだ」
 くぐもった声でそう男は言った。
「こんな状況で一人だけ怯えたり、驚いたりしていないからです」
 睨み付けた目でリーチは言った。
「ま、別に隠すつもりはないがね……」
 しれっとその男は言った。
「どうして私を狙うのです?」
「依頼人に聞いてくれ。私は痛めつけろと言われただけだ」
 言って両手をハンドルに置く。
「痛めつける?屋上では明らかに殺そうとしていた」
「確かに……が、あんたはそれを回避した。怖い男だな……」
「誰が……依頼人ですか?」
「言うと思うか?」
「吐かせます」
 リーチはじりっと歩を詰めたが、相手はさっと近くにいた犬の首を握りしめた。それを見ていた少女が驚いて泣き出した。
「なにを……」
「プロだからな……どんな状況で躊躇する相手かどうか大抵分かる。あんたにこの犬を見殺しに出来ない……それもこんな少女の前でな……」
 首を絞められた犬はか弱い声を上げた。飼い主の少女は母親に捕まれ、動けなかったが泣き叫ぶ声が辺りに木霊した。
「卑怯者……」
「相手は人間じゃないからな……殺したって大した罪にならない」
 男が更に力を込めた所為で、犬は声を上げられず唸るような鳴き声を上げた。
「よせ……」
「ヒントをあげよう……依頼人はあんたを良く知っている人物だ。親しいとでもいうのかね……。だが邪魔になったようだ。詳しいことは分からないがな。その事は隠せと言われているわけじゃないから言うんだが……」
 くすくすと笑いながら男は言った。
「そいつは誰だ……」
 リーチの瞳が益々冷たく冷えたものになる。
「そう睨むなよ……。まあ……私達を雇うにはかなりの金がいる。はした金では動かないぜ。何たって海を越えて来るんだ。その上相手は刑事だ。一千、二千では引き受けない。それを簡単に払える相手だよ。ここまで言えばいくらあんたでも分かるだろうに……」
 知り合いで……
 親しくて……
 金を持っている相手……
 その人間はもう連絡をするなと言っている……
 それは……
 一体誰だ?
 ……まさか……な?
 いや……
 どうなんだ?
 リーチは男の言葉に混乱していた。
「……」
「私の様な男に二度と会いたくなければ、あんたが連絡を取るのを止めることだ」
「それは……どういう意味です?」
「さあな」
 パトカーの音が聞こえてきたのを合図にその男は、犬をこちらに投げつけて走り去った。道路に転がされた犬はキャウンと情けない声を上げ、尻尾を後ろ足の内側に入れると、その場にうずくまった。
『僕……変なこと考えちゃったよリーチ……』
 今まで黙って様子を窺っていたトシがようやく口を開いた。だが、リーチは何も考えたく無かった。

 リーチ達が病院に着くとすぐさま検査に廻された。弾は貫通していたが、検査の結果、簡単な手術を施されたのだ。病室と言えば、リーチ達にはおなじみになった対テロ用の防弾ガラス張りの部屋だった。
「あの……入院するほどの事は……」
 既に主導権を切り替えていたトシがそう言ったが、田村は首を縦に振らなかった。
 田村は名執付きの看護婦で、名執が不在中は彼女が予定を取り仕切っている。二人とも随分世話になっていたので、良く知っていた。田村の方も困った患者と言いながら良く世話を焼いてくれるのだ。
「精密検査の結果が出てからです。二日は強制的に入院していただきます。こんな事を名執先生が知ったら又怒られますよ……。逃亡前例ありの隠岐さんですからね」
 呆れた口調で田村は言った。
「あ、そう言えば名執先生はいかがされたのですか?」
 知らない振りをしてトシは田村に尋ねた。
「ええ、海外に研修をかねて行かれています。おととい連絡があって、後一ヶ月は戻ってこれなくなったそうですよ」
 やや寂しげに田村はそう言った。
「あ、そうですか……」
『あいつ……そんな大事なこと……連絡くれなかったよな……』
 リーチは田村の言葉を聞いて、呟くような声でそう言った。
『リーチ……』
「先生……あっちの方が居心地が良いのかもしれませんね……」
 田村がふとそんな事を漏らした。
「そんなこと……言っておられたのですか?」
「いえ……そうじゃありませんが……。来週先生が随分気にかけていた患者さんのオペを他の先生に廻すことになりましたので……少しそんな気がしただけです。はい隠岐さん、お話はここまでです。横になってください」
 ベットの毛布を整えながら田村はそう言った。そんな田村に逆らわず、トシはベットに横になった。
「では隠岐さん。大人しく眠っていて下さいね。言っておきますが窓は開けられません。カーテンも開けないで下さい。表には警察の方が見張ってらっしゃいますので馬鹿なことはされません様に……」
 そう言って田村は出ていった。
 そうして二人きりになると、トシはリーチに声をかけた。
「リーチ……あの……」
『何も言わないでくれ……』
「……うん……」
『暫くスリープするけど……いいか?』
「うん。何かあったら起こすから……」
 トシは出来るだけ明るい声でそう言うとリーチはもう何も言わずにスリープした。
 一体……
 どうなってるんだろう……
 トシには色々考えたことを、結局言葉に出来ずに自分も目を閉じた。

 夜遅く、誰かが表の警官ともめている声が聞こえ、その声でトシは目を覚ませた。
 ……なに?
 なんかあったの?
 目を擦りながら様子を窺いにトシが外に出ると、警官と揉めていたのは幾浦であった。
「幾浦さん……」
 驚いた口調でトシはそう言った。
「隠岐さん……話を聞いて心配して来たのですが、この警官が……」
 と幾浦は言って警官を睨み付けた。
「済みません。友人です。通して上げて下さい」
 そうトシが言うと警官は顔を見合わせ、「申し訳ありません。どうぞお通り下さい」と言った。
「……はじめからそう言え」
 と警官達には聞こえないように幾浦はトシにだけ聞こえるよう小さな声で言った。その口調にトシは思わず笑みが零れた。
 そうして、病室に入ると幾浦は言った。
「大変だったみたいだな……国道はまだ通行止めだったぞ」
「なんか……変な殺し屋が出てきて……」
 ベットに腰を下ろし、両足をぶらぶらさせながらトシは言った。
「殺し屋だ?」
 驚いた顔で幾浦は言った。
「うん……それより……恭眞……相談に乗って欲しいんだけど……」
 言いにくそうにトシがそう言うと、幾浦はベット脇にある椅子を引き寄せて腰をかけた。
「構わないが……何だ?」
 幾浦は嬉しそうな表情でそう言う。だがトシは嬉しい顔など出来なかった。
「それがね……」
 トシは屋上での出来事からここに来るまでの出来事を詳しく幾浦に話した。そして話し終える頃には最初見せていた嬉しそうな表情は何処にも無かった。
「私が考えていた人物の名前を言うと……怒るだろう……」
 チラリと幾浦がトシを見てそう言った。
「僕も……たぶん同じだと思う……。その事はリーチも考えたみたい……。だけど口にするのが怖くて言えなかったと思うんだ。ほら、何かの間違いかもしれないし……。ただそうなると思い当たる人間がいないんだ」
 困ったようにトシはそう言った。
「私が今言ったことは忘れてくれ。まだリーチに殺されたくは無いからな……」
 幾浦はぶるっと身体を震わせてそう言った。それはトシも同じであった。
「あのね……もう一週間以上雪久さんと連絡取れないんだ……。それに、かかっても来ないし……。で、雪久さんの帰国が一ヶ月遅れるって看護婦さんから聞いたんだ……。リーチ、その事も含めて落ち込んじゃって……。遅れるなら遅れるって、どうして連絡くれなかったんだろうって……」
 小さく溜息を付いてトシは言った。
「……わからんな……」
 う~んと幾浦は唸った。
「僕もどうして良いか分からないんだ。雪久さんは今アメリカだし、すぐに行ける距離じゃないから確認しようが無い……。一日くらい休みを取ったからって行って帰って来られる場所じゃないでしょ……。だから本当に困ってるんだ……」
 視線を床に向けてトシはそう言った。すると幾浦が言った。
「来週……私が様子を見に行ってこよう」
「え?本当?構わないの?」
 トシは下を向いていた視線を上げて幾浦に言った。
「丁度出張が入っているからな……何とか時間を作って足を延ばしてみる。ところで誰でも入れる研究所なのか?」
「ごめん……知らない。もしかしたら駄目かもしれないね……」
 よくよく考えると、アメリカに行ったことはリーチから聞いていたのだが、場所など詳しいことなど聞いていなかったのだ。
「詳しいことは看護婦の田村さんに聞けば分かると思うんだけど……」
「じゃあ聞いて置いてくれ、それはメールで連絡してくれたらいい」
 ニッコリ笑って幾浦は言った。
「ありがとう……恭眞……」
 本当に心の底からトシはそう言った。
「いや、気にするな。それより殺し屋だが……」
「それは、リーチが回避出来そうだから大丈夫だよ……」
 リーチは野生だし……
 なんてトシは思っていた。
「そうか……」
 それから幾浦と暫く雑談をしていると看護婦が消灯を伝えに来た。それを合図に幾浦は帰っていった。
 何だか色々あって疲れちゃった……
 問題は一杯あるけど……
 明日又考えたらいいよね……
 トシはそう考えることにし、とりあえず今日はもう休もうとベットに深く潜り込んだ。……と、同時に田村が入ってきた。
「隠岐さん……起きてますか?」
 こちらを窺うように田村は言った。
「え……はい。何か御用ですか?」
 横にした身体を起こしてトシはそう言った。
「済みません。こんなに夜遅く……名執先生から電話が入っていまして、隠岐さんのことをお話しすると、どうしても電話口に連れてくるようにおっしゃって……。隠岐さんの様態を自分で伺わないと、先生の気が済まないようです。もうお休みだとお断りしても構いませんが……」 
 田村はそう言って笑みを見せた。
「あ、はい。もちろん電話に出ます。きちんと話しておかないと、帰ってきたとき先生に叱られそうですから……」
 そう言ってトシはベットから降り、スリッパを履いた。その間にリーチを起こした。
『リーチ……ウェイクして。雪久さんの電話入ってるよ』
『何だって?』
 名執の名前を聞いたリーチは速攻に起きてきた。
『病院に定期的に入る連絡みたいだよ。で、雪久さんが僕達を電話口に連れて来て欲しいって田村さんに言ってるらしいんだけど、どうする?』
「隠岐さん、国際電話ですのでお早く願います」
 悠長にバックで話していると、それを知らない田村がこちらを急がせるように言った。
「あ、済みません」
 そう言ってトシと交代したリーチが田村の後を追いかけた。

「あの、ついてこられなくても……」
 表に立っていた警官の二人のうち、一人がリーチについてきた。
「何処で何があるか分かりませんので……」
 警官は真面目くさった声でそう言った。
「……」
 後ろからぴったりついてくる警官がリーチには鬱陶しく思ったが、田村に急かされ、ようやく看護婦の詰め所に着いた。
 その詰め所には夜勤の看護婦が何人かデスクワークをしていた。
「どうぞ隠岐さん」
 田村は電話の受話器をこちらに渡してきた。
「ありがとうございます」
 受話器を受け取り、リーチは言葉ではそう言っていたが内心は緊張していた。
 いつものように利一として話ささなければならないのだ。周りには看護婦がいる。
 今、利一を演じなければならないことがリーチには苦痛であった。
「お久しぶりです先生。見ないと思ったら研修だったのですね。先ほど田村さんに伺いました。後一ヶ月ほどそちらにいるそうですね」
 内心はイライラしながらリーチは言った。
「リーチ……周りに人がいるのですか?」
 名執はいつもの口調でそう言った。
「ええ、皆さん仕事熱心です。私の方は護衛もついていますし……」
「護衛……又危険な仕事をしているのですか?」
 そんな話はどうでもいい。何故滞在が延びたのか話してくれ。
 益々いらつきながらリーチは心の中でそう言っていた。
「リーチ……黙らないで……声を聞かせて下さい……」
 電話向こうの名執は、相変わらずいつもの声であった。
 何も知らないのか?
 どうなってる?
「リーチ……ずっと連絡していたのですよ……なのに……繋がらなかった……。日本の新聞はチェックしていましたが、それらしいことは無かったので、まだ表に出ていない事件を追っているのだと思っていましたが……護衛がつくくらい危険だなんて……」
 次に名執は心配そうにそう言った。
 ずっと連絡をしていた?
 それは俺の方だ……そう言えない自分が辛かった。
「私は……」
 リーチは言葉が続かなかった。聞きたいこと、話したいことが山ほどあるにも関わらず、話せない今の状況がリーチは苦しかった。
 その所為か撃ち抜かれた肩の傷が、又、熱く感じられた。
「リーチ……?」
 こちらの様子の分からない名執は窺うようにそう言った。
「……」
 限界であった。受話器を持つ手が震え、リーチは声が出ないのだ。利一であることが、これほど苦痛に感じたのは初めてであった。
「隠岐さん……痛みが出たのですか?そろそろお部屋に戻りますか?」
 様子を見ていた田村が声を掛けてきた。
「いえ……大丈夫です」
「リーチ……田村さんから肩の話は聞きました。辛いのでしたら又明日にでも……」
 リーチには明日またこうして名執と話せるかどうか分からなかった。
 どうせ又繋がらない……何故かそれは確信に近かった。
「いえ……もう少し……。先生……そちらは楽しいですか?田村さんが心配されていました。もう戻って来ないのでは……と。それほど居心地がいいですか?」
 どうなんだ?
 お前は一体どう思ってるんだ?
「リーチ……真剣にそんなことを聞いているのですか?」
 ムッとしたように名執が言った。だがムッとしているのはリーチも同じであった。
「ええ」
 真剣でなければ聞けないだろうっ!
 そう怒鳴りそうになるのをリーチは必死に堪えた。
「ちょっと伸びただけです。ある患者さんの様態が安定したのを見届けから戻ります。リーチも今大変そうですし、お互い丁度良かったみたいですね」
 名執は世間話でもしているような口調であった。
「……」
 なんで……
 こいつこんな普通なんだ?
 一体何だって言うんだ?
 電話繋がらなかったんだぞっ!
 その話はする気は無いのか?
 俺から言えるわけ無いだろう!!
 言いたいことが言えない苦痛に、リーチの握りしめた拳が震えた。そんなリーチに気が付いたトシが宥めるような口調で言った。
『リーチ……大丈夫?分かってる?今は利一だからね。気持ちは分かるけど押さえて』
「…………」
『リーチ……駄目なら僕が交代するよ』
『俺は……何を信じれば良いんだ……』
『リーチ……交代しよう』
 心配そうにトシが言った。だがリーチはガンとして身体の支配権を譲らなかった。
「そう……ですね……」
「リーチ……何か変です。そこでは話せないことがあるのですか?」
「あります」
「明日……携帯に電話入れます。いえ……十分後に入れます。病室で取って貰えますか?」
「無理です」
 きっと繋がらない。
「リーチ!私にどうしろと言うのです。そこで話せないのは分かります。だから私は……話せる様にそう言っているのです。無理だと言われたら私はどう答えればいいのです?」
 何故お前が怒るんだ?
 怒ってるのは俺だっ!!
「私も……先生に何を相談すれば良いのかどうかも分かりません」
 絞り出すような声でリーチはそう言った。
「……何が……私がいない間に……何があったのですか?リーチ!」
「先生……」
 そう言ったところでベルが鳴った。まさかとは思ったがガラス張りから見える廊下の先に、照明とは明らかに違う光りが見えた。
 レーザーサイトだっ!
「伏せて下さい!」
 同時に詰め所の四方のガラスが砕け散った。
「きゃー……!!」
 看護婦達が叫びながら床に蹲る中、二人を警護していた警官が、赤い光りがちらついた方に向かって走り出していた。
「門脇巡査!追っては駄目です。相手はプロです。戻って下さい!」
 リーチは走り出した警官に声を掛けて止めた。
「リーチ!大丈夫ですか?」
 気がつくと持っていた受話器から名執の声が聞こえた。
「ユキ……お前……」
 思わずそう言ったが、混乱している周囲の人間はリーチの口調に気がつかなかった。
「俺が邪魔か?」
「リーチ……一体何を言っているのですか?どうしてそんな言葉が出てくるのですか?私がいない間に何がどうなってしまっているのですか!」
「済みません先生……ちょっと取り込んでますので……又……今度……」
「トシ……さんですか?リーチじゃありませんよね」
「はい……」
「トシさん……教えて下さい……私は……」
「又……連絡します」
 トシはそう言って受話器を置いた。
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