Angel Sugar

「監禁愛4」 第7章

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「何を考えているのだ!」
 メールの内容を読みながらケインは飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。リーチの言っていることを理解できない訳ではない。しかしそんなことを本気でしようとしている事に腹を立てていた。
 返事にNOと書いて送り、暫くすると返事のメールが入ってきた。

 頼れるのはケインさんとレイさんだけなのです。

 ケインも分かってはいるが、四六時中名執を監視できる自信がケインには無かった。
 もしもの事があったら……
 利一は予想していないのだろうか?
 いや……
 しているはずだ。
 分かっていながら行動に出るつもりだろうか?
 考えるとケインは益々腹が立って来た。しかし、メールに書かれている利一の状況を読み、やや考えが変わった。
 周りの人間を傷つけられるのはさぞかし辛いだろう。そう同情はするものの、やはり自分の役目をやり通せる自身がケインには無かった。
 やはりNOである。
 受けたメールをすぐに削除して、暫く他のメールのチェックをしていると又受信のランプが灯った。

 責任は私が取ります。

 どう取るつもりだ!
 ケインはいまここにいない相手にそう叫びそうになったが、何度もメールを行き交わせ最後には承諾せざる終えなかった。
 すると一週間後に名執に話すとメールが入り、利一との話しは終わった。
 やはり受けたメールをケインはすべて削除し、深いため息をついた。同時に、自分の部屋の扉がノックされた。
「ケイン……名執です。今、宜しいでしょうか?」
「あ、ああ……いいとも……」
 あまりのタイミングの良さに動揺したが、何とか気持を落ち着けると、扉を開けて入ってくる名執に視線を移した。その名執の表情は困惑を極めていた。
「ケイン……私には何がなんだか分かりません」
 言いながら名執はケインの机の横に置かれている椅子に腰をかけた。
「グランマイヤーさんはどうだった?」
 そう問いかけると名執はグランマイヤーとどういった会話があったのかを話し出した。
「変だな……」
 名執から話しを聞き終え、ケインは益々訳が分からなくなってきた。
 では一体誰が……
「そうなのです……グランマイヤーさんが嘘をついているように思えないのです。では他に誰がいるのだと聞かれると出てきませんし……」
 視線をやや下に向けて名執は言った。
「殺し屋の件は言ったか?」
 身体を名執の方へ向け、ケインは机の肘を立てると、手を顎にかけた。
「聞けませんでした」
 今度は肩を落として名執は言った。
「だろうな……」
 名執を見ながらケインは利一から別れたいと聞いたらどうなるかを考えた。
 向こうは演技だろうが名執はその事等これっぽっちも考えずに真実だと思うだろう。
 過去の名執をこれほど変えた相手を失ったとき、名執はどう対処するのだろうか?
 誰も名執の心には入っていけなかったのだ。それをあの隠岐利一という刑事はやり遂げた。多分今名執にとって唯一の心の支えは利一だけに違いない。
 その唯一の存在を失ったと知ったら……
 考えると不吉な予感しかケインにはしなかった。
「……イン?」
「あ、ああ。すまない」
 自分の考えに没頭しすぎたケインは、名執が先程から声をかけてくれていることに気が付かなかった。
「何か考え事ですか?」
 小さく首を傾げ、名執はそう言った。
「いや……ああ、グランマイヤーさんでないとすると誰だろうと思ってね」
 誤魔化すしかないだろうとケインは意識を名執に集中した。気を抜くと、利一とのメールを思い出してしまうのだ。
「そうなんです……」
 自分の知らないところで、いろんな事が動いているのと名執は気が付いてない。いっそ利一のことをばらしてやろうかと思ったが、ケインには出来なかった。
「もう暫く相手の出方を見た方がいいかもしれないな」
 当たり障りのない事をケインは言った。
「確かに……そうですね」
 名執は考え込んでいた。
「暫く……様子をみましょうか……プロフェッサーにも折を見て伺いたいと思っていますし……」
「そうだな……とにかくまず本日のオペを済ませてから又考えよう」
 これから二人ともオペが立て続けに入っていたのだ。
「暫く仕事に熱中します。気にすればするほど落ち込みそうなので……」
 名執は疲れた表情に精一杯の笑みを浮かべているのがケインには分かった。
「それがいい」
 何とも言えないやり切れなさを感じながらケインはそう言った。



 幾浦から聞いたトシのメールアドレスに名執がいくらメールを送っても返事が無い日が続いた。
「メールも出来ないんですか……リーチ……」
 パソコンの画面を見ながら名執は呟くように言った。だが幾ら確認してもリーチからのメールは入っていない。仕方無しにパソコンから目を離した名執は、日本の新聞社のHPからダウンロードし、プリントアウトした記事に、もう一度目を通し始めた。
 リーチ達の事件は当然のように新聞紙各紙に載っていたのだ。それを読み、彼らの置かれた状況が名執には少しずつではあったが分かって来た。
 それにしても病院にまでやってくるなんて……
 酷い……
 絶対に許せない。
 今、帰国してもリーチには会えない。なによりリーチ達を酷い目に合わせようとしている犯人は、この研究所にいる誰かなのだ。
 絶対突き止めて自分が敵をとってやる……
 そのくらい名執は憤慨していた。
「でもリーチ……盲腸って……」
 記事の最後の方に載っている内容は何度読んでも名執の表情に笑みを浮かばせるのだ。どの怪我よりも盲腸の方が大変だったというコメントは不思議と名執をホッとさせる。いずれにしてもリーチ達に盲腸というのが可笑しかったのだ。
 そう言えばまだ取ってなかったですものね……
 今頃痛むなんて……
 あ、最初仮病を使っていたことが合ったけど……
 本当は痛かったの?
 リーチとまだつき合っていなかった頃、よく盲腸だと言って名執の診察を受けに通っていたリーチのことを思い出し、また小さな笑いが漏れた。
 そうして自室で何度も記事を読んでいると電話が鳴った。
「名執です」
「日本の隠岐様からお電話です」
 交換手の女性はこれと言った感慨もなく、いつものようにそう言った。だが名執は嬉しくて飛び上がってしまいそうであった。やっと電話が解禁になったのだ。
「繋いで下さい」
 声が震えるのを必死に押さえながら名執は言った。
「もしもし……」
 そう言ったリーチの声が酷く懐かしく名執には思えた。
 もうどの位会っていないのだろう……。
 こちらに来て約一ヶ月経っていたが、名執にはもっと経過しているように感じた。
「リーチ……」
「ユキ……」
 心なしかリーチの声は沈んでいる。
 どうしたんだろう……
 何か気がかりなことでもあるのだろうか?
 名執にはリーチの声が沈んでいる理由が分からなかった。
「どうしたのです?なんだか元気がありませんが……。まだ体調が戻っていないのですか?」
 現在も色々あるのかもしれない……名執はそう思うことにした。
「いや、身体の方は大丈夫だ」
「あ、HPからダウンロードした新聞社の記事に書いてありました。盲腸の方はどうです?」
「もう大丈夫」
「良かった……レイから重体だと聞いてから連絡がありませんでしたので……心配しておりました」
 本心から名執はそう言った。
 ずっと心配していたのだ。声を聞くまで安心など出来るわけがなかった。だがようやくリーチの声を聞き、名執はホッと胸の重みが取れたような気がした。
「レイ……レイは良くやってくれてるよ」
 リーチの声は何だか妙であった。
 言いにくいような、話したくないような……という含みがあるように名執には聞こえたの。
「そうですか。それなら安心ですね。レイは頼りなく見えますが腕は一流です」
 何だろう……
 この違和感は……
 どうしたんだろう……
 いつもとリーチが違う……
「うん。そう思うよ」
 リーチが先ほどから妙に気を使って話しているのが名執にはようやく分かった。
「リーチ……なんだか変です……」
 ホッとしたのもつかの間、リーチの明らかに妙な態度に名執はまた不安が心の中に生まれるのが分かった。
「うん……」
「済みません。こんな時にこそ貴方の側にいなければいけないのに……」
 その気持ちだけはリーチに分かって貰いたいと思った。
「いいよ」
「リーチ?」
「お前さ、そっち気に入ってるんだろ?」
「え?」
「だってな、約束したじゃないか……重傷を負っても私の元に必ず帰ってきて下さい。そうすればどんなことをしても俺を助けてくれるって……俺……今回ほどお前に側にいて欲しいと思ったこと無かったよ……」
 そう一気に言い終えると、リーチが小さく溜息を付くのが名執には聞こえた。
「ごめんなさい……帰るつもりだったのですが……」
 なかなか上手く行かなくて……
 それにこっちに原因があるようですし……
 私は……
 名執は心の中でそんな言葉を繰り返していた。言えば言い訳になるような気がして言えなかったのだ。
「うん……分かってる。俺がそんな状態でも帰られない事情があるんだろ」
「それは……ただ電話が繋がらないのと貴方の周りで起こったことの原因がこちらにあるようですので、私はその原因を探し出そうとしているんです」
 だから……
 だから帰られないんです。
 私も……貴方の力になりたくて……
 少しでも……
 いつも貴方に助けて貰っている……
 支えて貰っている……
 そのお礼がしたかったから……
 名執が思う気持ちとは裏腹に、リーチの言葉は冷たかった。
「やめとけ……怪我するぞ」
「いいえ、貴方をそんな目に合わせた相手です。私も腹を立てているんです」
「俺が引けば丸く収まるんだ。それにそれが無くてもお前がそっちを気に入っていることはいくら馬鹿でも分かる。だからもう帰ってこなくて良いぞ」
「冗談言うの止めて下さい。そんな余裕はありません」
 言って良い時と悪いときがあった。
「本気だよ……ユキ……」
 リーチの声は冗談を言っているようには聞こえなかった。
「あの……リーチ……」
「俺……お前がいなくて凄く寂しかったし……辛かった……。そんなときずっと励ましてくれた人がいるんだ……それで……」
「リーチ?」
 リーチが何を言おうとしているのか名執には分からなかった。
「歩けばお前がらみで狙われるし……周りはどんどん怪我していくし……俺……責任感じてて……。会いたいお前には会えない。電話も繋がらない……。その上俺がそんな状況なのにお前は帰ってこない……最悪だろ……」
 リーチは電話向こうで小さなため息をついたようであった。
「リーチ電話が繋がらなかったのには理由があって……」
「もう……いいんだ……」
「リーチ」
「俺……どんなときでも側にいてくれる人がいい。それが俺のわがままだと分かってる。言えばお前の将来を駄目にしてしまうことも分かってた。それで言えなかったけど……俺、側にいて欲しかった。今回の怪我を知ってきっとお前は帰ってきてくれると信じてた。でもお前が選んだのは俺じゃないんだ。分かっているけど……強要できないけど……俺が一番であって欲しかったんだ」
「リーチ……それには……」
「だから、理由はもう良いんだ。言ったろ側にいてくれる人を見つけたって……」
 リーチが冗談を言っているようには聞こえなかった。
「……嘘」
「嘘なんか……言っても仕方ないだろ。お前には悪いけど……そう言うことだから……。お前も都合良かったんじゃないか?帰らなくても良くなったんだから……」
 本気でそんな風に考えているのだろうか?名執はまだリーチの話が理解できなかった。 側にいてくれる人を見つけた
 それは自分の事ではなかったのか?違う等とは考えたくはなかった。
「や……止めて下さい……冗談言うの……も……リーチ、悪ふざけしすぎです」
 冗談だと言って欲しかった。
「お前……こんな事冗談で言えることか?いい加減に分かってくれよ。今更お前が俺に愛してるだの信じてるなど言われても困るんだよ。俺、口先だけのものなんていらないんだ。俺が欲しかったのはお前が側にいてくれることだけだったんだ」
「リー……」
 まだリーチの言うことが信じられず、名執は言葉を継ごうとしたが喉が詰まって出なかった。
「ユキ……お前もがんばれよ……」
 そう言うとリーチは電話を切った。
「待っ……」
 涙が急に溢れてきた。
「待って……リーチ……待って下さい……お願い……」
 受話器を持ったまま名執は床に座り込んだ。頭がぐらぐらとして事態が上手く理解できないのだ。
「嘘ですよね……リーチはすぐ人をからかうんですもの……又……からかっているんでしょう?だって…リーチ私のこと愛してくれているんですもの……冗談だって……言ってくれるんですよね……ね……リーチ……」
 既に切れている電話に向かって名執は話し続けた。涙がボロボロとこぼれだして膝に落ち、白衣の色が変わった。
「リーチ……」
 ツーという音が耳に無情に聞こえていた。視界から色があせていた。まるで時間が止まってしまったかのように辺りは静かであった。
「本当に……これで終わりなのですか?」
 ぼんやりと呟いた。
「今はレイを……」
 愛しているのだ。
 では自分はどうなるのだろう。帰る場所も安らげる場所も失ってしまったのだ。過去そうであった自分に戻ってしまうのか?
 戻れなかった。
 夢でも無かった。
「いや……」
 恐れていた。心の何処かでずっと名執は恐れていたのだ。いつかこんな事になるのではないかと……。信じていた。それでも失うことが怖くて恐れていたのだ。あまりにも自分が幸せであったからだ。幸せを感じれば感じるほど怖かった。
 リーチを失うことが。
「いやぁぁぁぁっ」
 名執はこのまま気が狂ってしまいたかった。
「こんなの……こんなの……嘘っ……嘘ですっ……」
 蹲り、顔を両手で覆いながら名執はそう呻くように言った。その手の間だから涙がボロボロと流れ落ちる。
 嘘じゃない……
 嘘じゃないんだ……
 息付くことも苦しい自分がそこにいる。
 私……
 貴方を失ったんですか……?
 離れてしまったから……?
 離れてしまった……から……失った。
 何かに心臓が掴まれたような痛みが胸元から感じられ、息をするのも名執には辛かった。
 もう……
 リーチは私の側にいてくれないんだ……
 現実として認識できたのはそれだけだった。
 もう……
 ゆらっと名執は立ち上がり自分の机の所まで歩くと、俯いていた視線を上げた。
 帰らなくても良くなった……
 ここで……
 私はずっと……?
 この建物自体が元々息苦しかった。まるで檻の様に最初感じたが、正にその通りだったのかもしれない。
 私は……
 ここから出られない?
 もう……
 出して貰えないの?
 帰りたいのに……
 帰りたかったのに……
 あの人の側に戻りたかったのに……
 戻っても……
 私のいる場所はもう無くなってしまった……。
 じゃあ……何処に帰ったら良い?
 何処に行けば……
 それともここでずっと私は生きて行かなければならないの?
 こんなところで……
 どうしてこんな事になったのだろう……
 何が悪かった?
 チラリと視線を横に滑らせ、机の上に置いてあるペン立てを名執は眺めた。
 私……
 ペン立てを掴むと中身をバラバラと机に落とした。その中にカッターが入っている。名執は白い柄のカッターを手に取ると、引っ込めていた刃を出した。すると鈍い光沢を放つ鋭い先が目に入った。
 何処を切れば……
 ゆっくり楽になれるんだろう……
 良く言う手首ではなかなか死ねないのだ。
 だからといって名執は一気に死ぬ気はなかった。出来ればゆっくりと死にたいと思ったのだ。その間リーチとの思い出に浸りたかった。
 死ぬ間際まで……
 あの人のこと考えて逝けたら……
 私もリーチを守る存在になれるのだろうか?
 過去リーチを愛した女性は今もリーチを守っている。そんな存在に名執もなりたかった。
 リーチに沢山のものをもらった。
 心の安らぎも……
 愛情も……
 だから……
 何も返せなかった自分に出来ることはそれだけしか残されていなかったのだ。
 動脈は……駄目だ……
 静脈なら……ゆっくり死ねる……
 名執はそう考えて口元に笑みが浮かんだ。本当なら何か確実に死ねる薬が欲しかったのだが、ここは管理が厳しく、そうそう手に入らないのだ。
 こんな状態でも自分は医者であることを名執は認識していた。それが酷く滑稽に思えた。
 仕方ない……
 名執はカッターを持ったままベットまで移動すると腰をかけた。
 別れようなんて聞かされたら、その場で死んでしまうかもしれないと思ってきたが、人間は生きたまま死ぬことも出来るのだと名執は思った。
 こんなに辛いのに……
 まだ私は息をしている……
 ぼんやりと手の中にあるカッターを見つめながら名執は思った。
 喉を通る空気が酷く冷たい。現実に今自分がこの世界に息をして生きていると思えなかった。
 夢の中に居るみたい……
 リーチの言ったことがまだ名執には信じられないでいたのだ。
 夢なのかもしれない……
 違う……
 きっと今まで……
 私は夢の中で生きていたのかも……
 現実が全て色あせて見えている今、名執には何が本当のことで嘘なのか判断が付かなかった。既に自分の視界には何も映していなかったからだ。
 リーチ……
 貴方の側に行って良いですか?
 良いですよね……
 見えない存在なら居ても分からないですよね……
 それでもいい……
 私……これからも貴方の側にいたい……
 何も出来ないと思う……
 でも……
 私……何も出来なくても……
 側にいたい……
 貴方を見ていたい……
 貴方を……守ってあげたい……
 違う……
 私が側にいたいんです。
 だから……
 そのくらいは許してくれますよね?
 ただ見守るだけだから……
 良いですよね……
 名執はそう思いながら、流れ落ちる涙を拭うこともせず、持っているカッターを持ち上げた。何故か口元に笑みを浮かべている自分の顔がカッターの刃に歪んで映っているのが名執に見えた。
 
 帰ろう……
 リーチの元に……
 ずっと……
 帰りたかった……。
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