Angel Sugar

「監禁愛4」 第9章

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 名執が自殺を図ろうとした日から一週間が経った。
 その名執は食事を摂ることをひたすら拒否していた。ベットにずっと縛り付けることも出来なかったため、拘束服を着せて両足は自由に動かせるようにしたが、名執はいつも部屋の隅で壁を見つめて座っていた。格子状になっている扉の窓枠から覗けば、名執の痩せた背中が痛々しげにケインの目に入る。
 病室の壁は柔らかな素材になっており、例え暴れても身体が傷つかない様に造られ、窓はよじ登れないほど上の天井近くについている。そこから漏れる光を避けるように名執はいつもベットには横に成らず、部屋の隅で小さくなっていた。
 暴れることは無かったが、食事を摂らない名執の体力を心配し、ケインが点滴をしようとすると、名執はそれを拒否するように暴れた。その度に数人で押さえつけて点滴を施すような状況が続いていた。
 ケインがいくら話しかけても名執から返答は無い。それは言葉を忘れてしまったかのように、返事はいつも沈黙で返される。
 今、名執が何を考えているのかケインには全く分からなかった。たぶん死だけを望んでいるのだ。ケインはそう確信していた。
 心療内科のキアニスに相談をし、診察を受けさせたが、ショック状態ではあるが、意識はあるはずだと言うことだった。要するに、こちらの問いかけを理解しているが、答えたくないだけなのだろうと……。
 名執は狂え無いことを苦しんでいるのだろう。あっちの世界に行ってしまいたいのかもしれない。それが出来ないから、自分自身で外界をシャットアウトしているのだ。そしていつも頭の中は死だけを望んでいる。それが今の救いなのだ。反対にそう言う望みを持つから我を失えないのかもしれない。
 ケインはため息を付きながら、扉の窓から見える名執の背中を見つめ続けた。
 項垂れた頭はじっと床を見ているようであった。襟から覗くほっそりした首はいやに細く見える。まるで時間の止まった世界に存在するように名執は微動だにしなかった。
 このままでは本当に死んでしまうだろう。いつまで名執の体力が持つのかケインには分からなかった。
 どんなに重い病気でも生きる意志のある人間は生命力が強い。医者が駄目だと思っても奇跡的に助かることもあるのだ。
 だが、死ぬような病気でもないのに、生きる意志無い人間は退院がかなり伸びる。悪くすれば健康であるはずなのに、死んでしまうことだってあるのだ。
 名執はその事を考えると後者であった。生きることに絶望することが一番身体にとって悪いことなのだ。しかし何を話しかけても名執の耳には入っていない。
 食事を摂れと怒鳴っても、名執の目線は何処か遠くを眺めているのだ。
 こんな調子であるのだが、ケインはことある事に名執に話しかけていた。少しでも反応があれば……そう希望を持っていたのだ。例え、殆ど聞いていないとしても、だからといって放置することなど出来なかった。
 ケインはいつものように頑丈な扉の鍵を開け、中に入ると名執の座っている後ろに中腰になった。
「名執……ずっとレオナードさんを捜しているんだが……見つからない。いつもグランマイヤーさんの側にいるのにな。お前には初めて話すが、レオナードさんが、プロフェッサーに隠岐さんの電話を繋がないように話したそうだ。もしかしたら、あの人がすべての元凶じゃないのか?」
 ケインは名執にその事を初めて話した。話そうと考えていたときに名執が自殺未遂を起こした所為で話せなかったのだ。
「雪久……その事にお前は腹を立てていただろう?だからさ、元気になってあいつを縛り上げたいと思わないか?だったら、そんなに弱っていては、敵を取れないぞ」
 憎しみを糧に元気になって欲しいとケインは思わなかったが、この際、名執が元気になるならどういう理由でも良かった。
 しかし名執の返答を暫く待ったが返事は無かった。相変わらず微動だにせず壁にもたれて床に視線を落としてる。
「雪久……頼む……誰かを憎んでも構わない……そんな風に死を望むな……」
 何を話しかけても、今までそうであったように全くの無駄であった。もしかして本当に自分が分からないのだろうかという疑問すら沸いてくる。
 沈黙が病室に漂い、ケインは仕方無しに腰を上げた。すると聞き慣れた声が後ろからかけられた。
「ケイン……そこにいるの……まさかスノウ?」
 レイは驚いた顔で、半開きになっている扉の所に立っていた。その表情は真っ青だった。
「レイ!いつ戻ったんだ」
 そういうケインの方などレイはチラとも見ず、目線は名執に釘付けであった。
「スノウ……こんな事になってたなんて……僕は……」
 表情をくしゃくしゃにしてレイは病室内に入ろうとした。
「近づかないで下さい……」
 レイが近づこうとすると名執は静かに言った。
「雪久……お前……」
 意識はあったのだ。
「私は……レイ……貴方を殺してやりたいくらい……憎んでいます……。筋違いと分かっていても……私は……」
 振り向かずに名執は呟くように言った。
「ス……ノウ……僕は……ごめんなさい……僕……」
 近づくかないでと言われた所為か、レイはそれ以上病室には入ってこなかった。
「出ていって……お願いです……もう……そっとして置いて…一人にして下さい……」
 名執は淡々とそう言う。
「隠岐さんは来られているのか?」
 ケインがレイの方を向くと、半泣きの顔でレイは頷いた。 
「今……プロフェッサーと話を……もう暫くしたら……来られます」
 そう話している間にリーチはやってきた。右頬はガーゼを当ててテープで留めてあった。口の端や目の上を殴られたのかまだ青あざになっている。
 なんという事になっていたのだ。ケインはその姿に驚いた。こんな目に合わされていたのかと驚きがまず襲った。
「お久しぶりです……ケインさん……このたびは無理を聞いていただきまして本当に感謝しています……」
 そう言って利一は深く頭を下げた。
「いや、いい。それより雪久を何とかしてくれ。こればかりは私にはどうにも出来なかった」
 そう言うと自分の前にいる名執に視線を移して利一は表情を変えた。当然であろう。
 これはお前が招いたことだとケインは目線で伝えた。
「済みません……二人きりにしていただけませんか?」
 ケインはようやくホッと安堵の溜息を一つ付くと、泣いているレイを連れて病室を後にした。

「ユキ……」
 声を掛けても名執は部屋の隅で小さくなって動かなかった。拘束服を着せなければいけなかったのだろうか?……だが、それはあまりにも残酷に見えた。
「ユキ……」
 もう一度そう言うとぴくりと肩が動いた。
「身体……もう大丈夫ですか?」
 こちらを振り向くことなく名執は言った。だが後ろから見ても分かるように、肩幅の肉がそげ落ちて本当に痩せてしまっていた。
「ああ、大丈夫だよ」
「そう……良かった……」
 名執はやはり振り向かない。
「こんな服……お前に似合わないよ……」
 近づいて膝をつくと、リーチは名執の拘束服の背についているベルトを外し始めた。
「ユキ……ごめん……」
 ベルトを外しながら本当に痩せてしまった恋人の身体を確認してリーチは胸が痛かった。
「もう……良いんです……貴方を責めたり……してませんから……ケインに言われてここに来たのなら……無駄です……帰って下さい。同情されて……哀れまれても……余計に辛くなるだけです」
 小さく肩を震わせて名執は言った。
「ユキ……俺は……」
 名執のあまりにも傷ついた姿がリーチの声を詰まらせた。
「お願いです……レイを選んだのだから……優しい言葉なんてかけないで……完全に無視して下さい……も……貴方の声を……聞いていられない……」
 自由になった手で顔を覆って名執は涙を落としながらそう言った。
「こっち向けよ……」
 リーチがそう言うと項垂れた頭を振った。
「リーチを見たら……きっと……耐えられないから……。お願い……出ていって……」
「ユキ……」
 言いながらリーチは名執の両肩をやんわりと掴んだ。
「いやっ!」
 だが名執はその手をはねつけた。
「つっ……」
 その衝撃は強いものではなかったが、折れて繋がっていない肋骨に直接響いた。
「ご、ごめんなさ……」 
 名執はようやくこちらを振り向いた。その頬は痩け、別人の様にリーチには見えた。今見ている名執の姿は自分が招いたのだ。ここまで追いつめたのは自分が決断したことの結果であった。
「こんな酷い怪我をしていたなんて……私の所為で……」
 リーチの姿を見て名執は言ったが、その名執の方が酷かった。袖から覗く手首は細く、そこから伸びる指先も妙に筋張っていた。
「ユキ……お前……なんて事に……」
リーチの言わんとしていることに気がついたのか、名執は身体を反転させようとした。だが、リーチはその前に名執を抱きしめていた。
「リーチ……止めて……同情なんかいらないの……」
 必死に腕の中でもがく名執であったが、ほとんど力が入っていない。そんな名執がリーチから逃げられるわけは無かった。
「ごめんな……」
 抱きしめている身体がすっぽりと自分の腕の中に収まっていることでリーチは涙がにじんだ。
「お願い……離して……おねが……」
 だが名執の腕は言葉とは逆に、リーチの背に廻された。
「ユキ……ごめん……俺……っ」
 事情を説明しようとするのだが、リーチは胸が一杯で言葉が出ないのだ。
「二番でも三番でもいい……時々抱きしめてくれるだけでいい……。それも駄目なら側に居ることだけでも許して……。お願いですから……私を……捨てないで……。我が儘も言わない……だから……側に居るだけでも……たまに貴方を見ることだけでも……いい……だから……お願い……私を……こんな私を可哀想だと思って、少しだけ私に優しくして……少しで……ほんの少しで満足だから……それだけで……生きていけるから……」
 涙をポロポロと落としながら、名執は途切れ途切れにそう言った。
「お前が……ずっと一番だ……二番も三番も無い……」
 歯を食いしばるようにしてリーチは言った。こんな台詞を名執に言わせてしまった……その事でリーチは自分自身が許せないのだ。
「リーチ?」
 名執は今リーチが何を言ったのか理解できないと言う表情を向けた。
「レイのことは芝居だったんだ……俺が周りを巻き込まずにお前を取り戻すにはこの方法しか思いつかなかった。……俺についていた監視を振り切るには……どうしてもお前を一度切り離さないと振りきれないと思った……だから……」
 名執に廻す手に力を込めてリーチは言った。
「芝居?」
「俺が動くたびに他人が怪我をしてた。だから……もし俺がここに来ようとすれば又邪魔が入って誰かが傷つくと思ったんだ。最悪の場合、俺はここまでたどり着けないと思った。そういう事情で……レイとケインに協力して貰って……」
「……え……」
 涙で曇った名執の透明感のある薄茶色の瞳が、困惑したような輝きを見せた。
「ごめん……お前がこんな風になるんじゃないかと分かっていながら、これしか選べなかった俺を許してくれ……。このことでお前が俺を許せないと……もう俺の顔なんて見たくないと言っても……俺はお前を離さない……」
 驚いたままの顔で固まっている名執の頬に、リーチは自分の頬を擦りつけてそう言った。すると体温の低い名執の頬がひんやりとした感触をリーチに伝えた。
「リーチ……ほんとに?ほんとに嘘だったの?夢じゃない……」
 止まらない涙が名執の赤くなった瞳からひっきりなしに流れ落ちた。その涙が余計にリーチを苦しくさせる。
 俺が招いたことなのだ……
 その事実が酷く自分自身を苦しめるのだ。
 だがようやく名執を取り戻せたという安堵も確かにリーチの中にあった。
「ユキ……こんなになって……こんな風にしたの……俺なんだよな……俺は……ごめんな……本当に……ごめんな……」
 そのリーチの言葉に名執は泣きながら首を横に振った。今はもう、言葉が出ないのだろう。その名執の気持ちもリーチは充分理解していた。
「ユキ……帰ろう……。俺達の家に一緒に帰ろう……。俺……お前を迎えに来たんだ」
 リーチは名執に笑みを見せながらそう言った。
「あっ……あ……」
 喘ぐように名執は何かを言おうとしているのだが、言葉を成さなかった。
「ユキ……愛してるよ……」
 信じられないという顔をしている名執に分からせるよう、リーチはもう一度言った。
「お前だけを愛してるんだ……ユキ……」
 二度目の台詞で名執はリーチを見つめたまま、こちらを掴んでいる手に力を込めた。
「……ユキ……俺……とことんお前に参ってるんだぜ……。何度でも……お前が信じられるまで愛してるって言ってやるから……もう泣かないでくれ……」
 そこでようやく名執はリーチを見ていた顔を、ずっと望んでいたであろう胸に埋めた。
「……済まなかった……」
 しがみつく名執の頭を撫でながらリーチは言った。
「う……うう……」
「百回くらい愛してるって言ったら許してくれる?」
「あああああっ……」
 名執はリーチの胸の中で声を上げて泣いた。言葉は当分継げそうに無かった。

 目を覚ませると名執は自室のベットに寝かされていた。
 あ……
 手に重みを感じ、目線だけで眺めると腕に点滴が点けられていた。どういう点滴かを確認すると、栄養剤であった。
 拘束服はいつの間にか柔らかいパジャマに変わっており、ベットの近くにあるソファーでリーチがうたた寝しているの見えた。
 夢じゃない……
 リーチがいる……
 胸が一杯になりながら、うとうとしているリーチを名執は幸せな気持で眺めた。だがその姿をきちんと確認し、名執は驚いた。
 リーチの頬にはガーゼが止められており、目の上や口の端が殴られた痕を残している。襟元から包帯が見えるのは、身体になにかしら怪我をしているのだろう。盲腸の手術もつい最近である。腹膜炎を起こしかけていたと言うことは名執も聞いていた。それが本当なのだとすると本来ならまだリーチもベットで安静にしていなければならないはずだった。
 しかしそんな身体でリーチはここまで来てくれたのだ。
 名執は嬉しかった。本当に嬉しかった。
「じっと見るなよ……照れくさいじゃないか……」
 眠っているはずのリーチが目を開けてそう言った。立ち上がってこちらに歩いてくる姿が夢ではないかと思われるくらい名執にはまぶしく見えた。
「襟から包帯が見えますが……どうかしたのですか?」
「え、ああ。俺のことよりお前だ、全くするめじゃないんだから……」
 リーチは呆れた風にそう言ってベットに腰をかけた。
「する……め?」
 するめって……
 イカを干したものですよね?
「お前……するめみたいにひからびてる」
 苦笑しながらリーチはそう言って、横になっている名執の髪を撫でさすった。
「……あ……」
 確かに痩せてしまっていたので否定できなかった。だがするめとは思いつかなかった。
 そんなに痩せているのだろうか?
 名執は怖くて鏡が見られないのだ。だが全身は確認できないが、確かにこうしていても見える自分の腕や足が細くなっているのだけは分かった。ただ、鏡を見ることが出来なかったため自分の顔がどうなっているのか想像ができなかった。
「……私……酷い顔してるんですよね……」
 じっとこちらを見るリーチの視線を外してそう言った。
「酷い」
「……」
「でもな、めし食えばすぐにもどるさ。気にするな」
 気にするなと言うリーチが気にするようなことを言うのだ。それを分かっているのだろうか?
「リーチ……」
 また涙が零れそうになったが、それにいち早く気が付いたのか、リーチは更に名執の髪を撫でた。
「馬鹿。死にそうな顔してるだけだよ。気にすんな」
「リーチがするめとか言うから……私……」
「ごめん。そんなつもりはなかったんだ。笑わせようとしたんだけど……」
 申し訳なさそうにリーチは言った。その間も手は髪を撫でていた。名執はその仕草がとても気持ちよかった。
「リーチ……私が元気になってから……実は……嘘だとか……止めて下さいね……」
 まだ夢の中に居るような気がしていたのだ。
 幸せな気分になると、名執はいつも今が現実かどうかを確かめてしまうのだ。
「言うかそんなこと……」
「ケインに頼まれたのでしたら……今のうちに白状して下さい。苦しい思いは二度もしたくないのです……」
 それは名執の本心であった。
「そんな風に疑うのも……仕方ないか……」 
 困ったようにリーチは言った。
「で、嘘だって言ったらお前……」
 とリーチが言ったところで名執は又涙がこぼれた。
「じょ、冗談だよ。嘘なんかもうついてないって!」
 慌ててリーチはそう言った。
「どうして……リーチはそうやって……私をからかうんですか?そんな冗談を、今冗談と取れないことくらい分かるはずです」
 ボロボロ涙をこぼしながら名執は訴えた。今何が本当のことなのか名執には分からないのだ。リーチの言葉だけが真実だと受け止めることが出来る。そのリーチがからかうのだから泣きたくもなるのは当然と言えば当然のことであった。
「冗談ばっかり止めて下さい、もう信じませんっ……て、言って笑ってくれるかな~と思ったんだ。俺、随分お前の笑顔を見てないからさ、なんか笑えるようなこと言ってみようかと……」
 泣いている名執をそっと抱きしめてリーチはそう言った。
「ユキ……キスしていい?」
 ベットに横たわる名執の頭上にリーチの笑顔が見えた。
「え……あ……」
 慣れたものであるのに妙に名執は恥ずかしかった。
「ユキちゃんはキスの仕方も忘れちゃったのかな?」
 ニヤニヤとした笑いを見せながらリーチは言った。
「そ、そんなこと……聞かないでその……」
 自分の顔が赤く染まっていくのが名執には分かった。何故だか分からないがとても恥ずかしかったのだ。
「じゃ、遠慮なく……あ……惜しい、誰か来た」
 ちぇっと舌打ちしてリーチはそう言って、扉が開くまでにソファーの方に座り直した。「どうだ、気分は?」
 ケインがお盆にオートミールの入った皿と暖めたミルクの入ったカップをのせてやってきた。
「済みません……その……ご迷惑をかけました」
 名執は身体を何とか起こし、俯き加減でそう言った。
「いや、気にするな。ああ、顔色が随分良くなった。大したもんだな」
 大したものだといいながらリーチの方にケインは意味ありげな目線を送った。
「もう、ケインさんには頭が上がりません……」
 リーチは利一モードでそう言い、肩をすくめてる。
「で、名執。今度はきちんと食事を摂れるな?」
 起こした名執の身体に負担がかからないようにと、ケインは枕をもう一つ名執の背にあてがった。その心遣いに名執は本当に感謝した。
「はい……」
「まだ固形物は胃が受け付けないだろうから、オートミールのスープとミルクを持ってきた。様子を見て少しずつ内容を変えるつもりだ。さっさと元気になって貰わないとな」
 ケインは持ってきたお盆をベット脇に設置した台に乗せた。
「隠岐さん、私はオペで行きますが、雪久が綺麗に食べ終わるまで見張っていて下さいよ」
 あわただしくそう言い、ケインは既に扉の所に立った。
「もちろんです。早く良くなっていただかないと私も困りますので……」
 頭を掻きながらリーチはそう言ったが、何だか名執にはその台詞がとても意味深に聞こえた。
「そう言えば……どの位いらっしゃるのですか?」
 扉のノブを持ったまま、ケインはリーチに聞いた。
「あ、ちょっと色々事情がありまして、ケインさんのオペが終わってゆっくりしたときにでもお話しします。まだ先生にも話しておりませんので……」
「そうでしたか、ではごゆっくり……」
 そう言ってケインは部屋を出ていった。
「さ、て。しっかり食って貰わないとな……自分で食べられるか?」
 立ち上がってリーチはまたベットに近づき、先程座っていたベットの端に腰を下ろした。
「え……ええ」
 名執は震える手でスプーンを持ち、スープを食べ始めた。久しぶりの食事に胃にしみるような痛みがある。だがそれも暫くすると落ち着いた。
 スプーンの動きをリーチの目は逐一追っかけている。名執は食べているところをじろじろ見られたくなかった。
「あの、余りじろじろ見ないで下さい……」
 目線をリーチから少し逸らして名執は小さな声で言った。
「ずっとお前を見られなかったからな……その分を取り返しているんだ」
 リーチは嬉しそうに訳の分からないことを言った。
「ところで……リーチ……何時戻るのですか?」
 刑事という仕事を長くは休めないだろうと名執は思ったのだ。もしかすると、明日には戻るのかもしれない。だからといって自分がそれについていくことが出来る身体ではないことも分かっていた。
 また一人、ここに取り残されるのだ。
 それは今の名執には耐えられないことであった。
「ユキ……泣きながら飯を食うな。まずくなるだろ……」
 リーチが困ったようにそう言った。
「私……貴方と一緒に帰ります。明日帰るって……リーチが言うのでしたら、私も帰る……」
「そんな身体で数歩も歩けないだろう。それなのにどうやって日本まで行けるっていうんだ。途中で死んじまうよ」
「今は……貴方の側にいたいのです……一人になるのが……怖い……。一人になるくらいなら……」
 減っていないスープの表面をスプーンでかき混ぜながら名執は言った。
「なんだよ……死んだって良いなんて冗談で言っても怒るぞ。言っただろ、俺はお前を連れ戻しに来たんだって。目的はそれだ。その目的を果たさずに、手ぶらで帰ると思ってるのか?」
 怒った顔だが、優しい口調でリーチは言った。
「リーチ……」
「実はさ、俺、今、失踪中なの」
「え?」
 驚いていると新聞の切り抜きをリーチはポケットから出した。それは小さな記事ではあったが、リーチのことが書かれていた。
「警視庁捜査一課の隠岐利一巡査が十三日未明から当初より入院中の警察病院より行方不明。隠岐さんは数日前から何者かによって襲撃を受けていた。警視庁では何らかの事件に巻き込まれた可能性もあると……ってリーチ……」
 驚いて名執はリーチの方を見た。当のリーチは苦笑いをしていた。
「ま、いいじゃないか……なんとかなるだろ」
 なんとかって……
「……」
「俺、今、仕事に縛られたくないんだ。お前のことが一番心配なんだからな。分かったか」
 ふふんと鼻をならし、得意げにそう言ったリーチは満面の笑顔であった。
「ごめんなさい……」
 また瞼が熱くなるのが名執には分かった。
「ユキ……」
 リーチが名執の膝に乗っている皿を脇机に移動させ、名執の顎をそっと掴んだ。
「謝るのは……俺の方だよ……お前に本当に辛い思いをさせてしまった。お前が本当に死んでいたら……俺は……」
 苦痛を堪えるリーチの表情がそこにあった。
「リーチ……もういいの……事情はわかりましたし……。芝居だった……嘘だったということが分かって……それがどれほど嬉しかったか……。死にたいと思いながら私はあの部屋で、ずっと貴方のことを考えていました。もしかしたらリーチが来て嘘だよって言ってくれるかもしれない……。目が覚めたら貴方の側にいて……私の夢だったということになるかもしれないって……ずっとずっと考えていました。それが本当になって……私……」
 笑顔でそう言うとリーチが優しい瞳を向けていた。
「ああ、やっと笑ってくれたな……」
 そう言ってリーチは唇を合わせてきた。リーチの舌が絡まる度に名執は現実なのだと実感していた。
 夢じゃない……
 夢じゃないんだ……
 名執は労るように絡みつくリーチの舌に暫く酔った。
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