「君がいるから途方に暮れる」 第1章
澤村戸浪は仕事で疲れた身体を休めるようにソファーで身体を伸ばしていた。
そしてため息。
ついこの間まで大地と博貴の事を反対していた。
理由は一つ。自分の立場と大地の立場を重ねていたからだ。
しかし、事情を良く知れば知るほど、戸浪とは違った。
空しい関係を続けている自分が情けないと、戸浪は思う。大地はその名の通りしっかりと地に足をつけた付き合いを博貴という男としているのに。
羨ましいのか。
それとも、やはり信じられずにいるのか。
自分でも戸浪は分からなかった。
確かなことは、戸浪は明らかに祐馬という男に欲望の捌け口にされ、うってかわって大地の方は博貴と恋人同士であるということ。
二人の間には愛情があり、信頼がある。祐馬からは感じられないそれらは、多分、望んでも与えられることが無いものだろう。
望んでいるのだろうか私は……
戸浪は自分の気持ちも分からない。
そんなことを考えていると来訪者を告げるベルが鳴らされた。
「上がらないのか?」
「え、あ。うん。ちょっと兄ちゃんに言っておきたいことがあっただけだから。あいつ下で待ってるし。近くまで来たからその……。あのことはもう、気にしてないよって言いたかったんだ」
大地は、玄関から上がることなくその場で笑って見せた。
「……本当に済まなかった……」
以前大地に嘘を付いて博貴と引き離そうと戸浪は考えたのだが、その後大地は事故に合い、暫く入院生活を送っていた。
もちろん、今も反対の立場を取っているが、病室で横たわる大地を見たときに、嘘はやめようと戸浪は痛烈に後悔したのだ。
あのショックを二度と戸浪は味わいたくなかった。
「別に……俺だって兄ちゃんの気持ち分かるよ……だから……もう忘れよって」
「だが大、私は認めた訳じゃないんだぞ。それとこれとは別だ。男とつき合ったとしても最後にお前が泣くだけだからな」
一番身にしみているのは自分だ。
ただ、大地がそんな兄のことを知らないだけだった。
「もー……そんなことどうでもいいよ。俺が納得してるんだから。それにあいつは俺を大事にしてくれるよ。俺も……あいつのこと大事にしてる」
ちょっと頬を赤らめて大地は照れくさそうに言う。
「はあ……お前は……まあ、暫くつき合えば目が覚めると思うがね……」
男とつき合っても恋愛関係など成り立たない。
「もういいよ。俺帰る」
口を尖らせて大地は頬を膨らませた。そんな仕草も、兄である戸浪は可愛いと思う。
「ああ、そうだ。土産持って帰りなさい。お前やっとうちに来たんだからね」
戸浪が口調を和らげて言うと、大地はムッとしていた顔を笑顔に変える。
やはり大地は素直で可愛い。
「うん……ありがとう兄ちゃん」
大地に出張土産を入れた紙袋を二つ持たせて、戸浪も下まで見送ろうと靴を履いた。
「たまには遊びに来なさい」
「兄ちゃんが苛めないって約束してくれたら、来るよ」
「苛めてなんかないぞ」
戸浪がそう言って苦笑したと同時に玄関が開いた。
「わっ……」
突然開かれた扉に驚いた大地が飛び退くと祐馬が立っていた。
「おい、誰だこいつ……」
祐馬は不機嫌そうな顔つきで大地に言った。
こういう時に鉢合わせするとは思わなかった為、一瞬言葉を失っていた戸浪であったが、大地はこの祐馬が誰かを知らないのだから、普段通りに振る舞えば良いのだとようやく気が付いた。
「……私の弟だよ。じゃあ、大地そろそろ帰りなさい」
「え、って、兄ちゃんこの人誰?」
と言って大地は祐馬を見上げた。
「三崎祐馬だ。お前は何て言うんだ?」
「大地……澤村大地です」
何も知らない大地は満面の笑みで答える。
「へえ、兄弟なのに戸浪と全然違うじゃないか。可愛いなあ」
そう言って祐馬は大地の頭を撫でると大地は困惑した顔になる。こんな風に触れられると子供扱いされていると感じて嫌だと本人から聞いたことがあるが、戸浪も確かに大地を見ていると頭を撫でたくなる。
多分そんな雰囲気が大地にあるのだろう。
「大地、良いから、帰りなさい。土産も忘れずにな」
大地を外に追いやるように背中を押して戸浪は言った。
これ以上長居されると非常にまずいのだ。
「あ、うん」
なんだか良く分からないと言う顔で大地は土産の袋を持って外に出る。悪いと思いながら戸浪は更に背を押した。
「兄ちゃん。そうだ、俺んちにも遊びに来てよ。兄ちゃんの好きなもん作ってやるからさあ!あいつのこと気にしなくていいからな」
大地は振り向きそう言うと、もう戸浪が背を押さなくともエレベーターホールに向かって歩き出した。その間、何度も振り返っては手を振る弟の可愛らしさに戸浪は思いがけず笑みが漏れた。
「ああ、今度行くよ」
戸浪は大地がエレベーターに乗ったのを確認してから、玄関の扉を閉めて祐馬に向き直った。
「今日は平日だぞ。何しに来た」
「お前って、弟にはあんな風に笑えるんだな……」
祐馬はそう言って相変わらず不機嫌な顔を見せる。
真っ黒の髪と真っ黒の瞳。その上肌もやや色素が濃い。いや、母親譲りの色白の肌を持っている自分と比べてしまい、戸浪はそう思うのかもしれない。
祐馬は夏にサーフィン冬にスキーとスポーツをするせいか身体はがっちりとしている。それは同じ職業とはとても思えない程だ。
「人の話聞いているか?何しに来たと聞いているんだ」
溜息をついて戸浪は言った。
「そう、露骨に嫌な顔をするな。たまには平日の晩に尋ねてきても良いだろ?」
ずいっと近づかれた戸浪はそれをかわすと、リビングへと歩きだした。だが当然のごとく祐馬も着いてくる。
「こっちはごめんだ。さっさと帰ってくれないか?」
「馬鹿かお前、ここまで来て、はいそうですね。と、帰れるか」
祐馬はどかどかついてきて戸浪の腕を掴む。
「あのなあ……」
「俺、明日代休」
今度は首元に腕を廻してきた。
「だから?私は会社なんだぞ」
「お前の都合なんかどうでもいいよ」
そう言って戸浪の眼鏡を外した。
「いい加減にしてくれ……祐馬。お前婚約者がいてよくこんな事ができるな」
「いつも言うけど、なんで伊達の眼鏡なんかするんだ?しない方がいい顔なのに……」
こちらの言うことを全く聞かずに祐馬は無理矢理唇を重ねてきた。思わず口元を引き絞って戸浪は抵抗した。
「……強情張るなよ……お前がどんなに快感に弱いか俺は知ってる……俺を憎もうが、嫌おうが最後に欲しがるのはお前の方だ」
その言葉に戸浪はかあっと顔を赤くした。
確かにそうだが、そんな身体にしたのはこの祐馬だ。
どれだけ離れたいと願っても、この男は戸浪から離れていってはくれない。その上婚約者がいるにも関わらず、戸浪の身体を祐馬は欲しがるのだった。
「……よせよ……」
横を向いた戸浪の顎を祐馬は掴む。
「いつまで経っても素直にならねえやつ……」
「悪いな……性格だ……っ!」
リビングのソファーにいきなり押し倒された戸浪は一瞬息が止まりそうになった。
「お前が嫌がっても俺はやるぞ。嫌がられるのはいつものことだ」
そう言って上にのしかかった祐馬は、戸浪のシャツを手荒に脱がし始めた。その手を掴んで戸浪は「寝室にしてくれ……後始末のことも考えろ」と言うと意外なことに祐馬は「それもそうだ」と言って戸浪を抱き上げ寝室へ向かった。
寝室に入ると、祐馬は戸浪の身体をベッドに下ろし、すかさず戸浪の身体にのしかかると、飢えたように首元に噛みつき舌を這わせてくる。
祐馬の手は既に戸浪のシャツを捲り上げていた。
「止めてお前が止まった試しは無いからな……」
戸浪にはそう言うしかない。
こちらが呆れている間もどんどんと服は脱がされていくのだから。
何時から抵抗しなくなったのだろうか?
戸浪はふとそんなことを考えた。
祐馬は横暴で、戸浪がいくら嫌だと言おうが聞きいれてくれたことなど無い。
だからいつの間にか無駄な努力をしなくなった。下手に抵抗して無茶をされると次の日が大変だからというのもある。そうであるから祐馬が満足するまで身を任せている方が楽だった。
だから戸浪は抵抗しない。
最初の始まりも戸浪が祐馬を馬鹿にしたと勘違いしたことから始まった。
戸浪自身は祐馬を馬鹿になどしたことないのに。
祐馬は同じ会社の同じ部に所属していたが、祐馬は七チームあるうちの一番目のチームで戸浪が三番目のチームであった。依頼された内容にあった独特のプログラムを組む専門の部であるのだが、同じ部と言っても一チームの人数が十人はおり、チームごとに部屋が別れているために祐馬の存在など知らなかった。それが、一年前、一チームでは手に負えないプログラムの作成依頼にそのときたまたま手の空いていた戸浪や同じチームの数名が助っ人に一チームへと行った。
そのとき最後の段階になって妙なバグが出たのだ。納期は迫っているにもかかわらずバグが除去できない。プログラムの何処に問題があるのか分からなかった。
それを見つけて解決したのが戸浪で、問題のバグの部分を担当していたのが祐馬だった。誰も彼を責めたりはしなかった。
戸浪とて文句など言わなかった。
こういう仕事をしているといつか我が身なのだから、みんなで協力して解決すればいい。誰が悪いのでも無ければ、偉いのでもない。
なのに祐馬はそうは思わなかったようだ。
無事納期を終えて、一チームの打ち上げに戸浪達も呼ばれた。
そうして一次会二次会と付き合い、途中で「そろそろ」と言って抜け出したのだが、祐馬はそんな戸浪をつけ、マンションの玄関を開けたところでいきなり掴まれて板間に押しつられた。
全てはそこから始まったのだ。