「君がいるから途方に暮れる」 第9章
「ちぇっ……」
舌打ちをして祐馬はキーボードを叩いた。
何も考えられないほど仕事に没頭すれば気も紛れるだろう。倒れるくらい仕事すれば忘れられるのかもしれない。たった一度だけ見せてくれた戸浪の笑みを祐馬は忘れたかった。
昔一度だけ見た笑顔。
そして……
その後知ったベッドでの顔。
潤んだ瞳。
もちろんそれは快感に酔った末に見せてくれたものではあったが、自分を求める戸浪の声を祐馬は忘れたかった。
「仕事だ仕事……」
祐馬が頭を切り換えて仕事に没頭しようとしていると内線が入った。
「三崎ですが……あ、真由香」
『予定より早くなったんだけどさ、ねえ、木曜有給取ってよ』
「はあ?どうしたんだよ」
『木曜、日本脱出なの』
真由香の弾んだ声が余計に祐馬を落ち込ませる。気軽に引き受けなければ良かったと思うのだが、祐馬は基本的に女性に優しい男だ。必死に頼まれて嫌だと断れなかったのだから仕方がない。
「おいおい、予定よりかなり早いじゃねえか」
『だって今週末に貴方のご両親に挨拶に行くって言ってとうさま聞かないのよ。だから、そうなると祐馬も困るでしょ?』
「それは困る。俺の親父達しらねえからな」
とはいえ、両親は真由香のことを知っている。この話が本当だと誤解した場合、あとあと面倒だ。
『だから、彼の方も、もう行こうって言ってくれて……。急だけど今週の木曜に決まったの。でもそうなると貴方も休みを取らないと変でしょ?だから休みを取って、良かったら私たちを空港まで見送ってよ』
結局はそう言うことだったのだ。
「……はいはい。急ぎの仕事はねえから休めるだろ……そうか、いっちまうのか……」
恋愛関係にはならなかったが、真由香は祐馬にとって良い幼なじみだった。その所為かやはりいなくなると聞くと寂しい。
『ありがとう。祐馬……一杯迷惑かけちゃった……』
「その代わり、なんかいいもん送ってこいよ」
『もちろん。彼も祐馬に感謝してるのよ。じゃあ、明日十時に迎えにきてね』
「分かったけど、お前荷物は?」
『それは彼が持ってきてくれるわ』
真由香はそう言って内線を切った。
「あー……俺にも幸せを分けて欲しいよ……」
嘘とはいえ、婚約者の件を知れば、クールな戸浪も多少は嫉妬心を見せてくれるかと本気で期待していたのだが、それがきっかけで戸浪は祐馬との関係を清算しようと決めたようだ。
もし、この事が無ければ、戸浪とはまだ続いていたのだろうか?
いや、いずれ迎える結末だった。
「……有給か……」
本当ならば木曜は戸浪との初めての飲み会だった。いつもは日常のちょっとした会話すら無かった二人であったが、もしかするとそこで進展が望めたのかもしれない。と、祐馬はもう、今更どうにもならないことを思い出して頭をせわしなくかいた。
当分この苛々は続くだろう。
それも暫くすれば苦い思い出に変わるのだろうか。
祐馬にはそうは思えなかった。
木曜日の夕方大地のうちに訪れると申し訳なさそうに大地が言った。
「ごめん兄ちゃん……真喜子さん急な用事で駄目になってさあ……」
「それは構わないが……いや……じゃあ、私も帰るか……」
いくらなんでも大地と博貴の間に挟まれるのは遠慮したいと戸浪は思ったのだ。
「駄目。いいじゃん。三人でもさあ~」
戸浪の腕を掴んで大地は子供が駄々をこねるように振り回す。こうなると戸浪は大地に弱い。
「……お前が良いなら……だがあの男は嫌がるだろう?」
「大丈夫。大丈夫。あいつが嫌なのは自分が飲む分が減ることだけだからさ」
大地は戸浪の腕を引っ張って自分のうちへ入れると、座布団を勧めた。驚くべき事に準備は既に出来ており、色々なつまみが机に並べられていた。
これでは帰ることは出来ない。
「大良を呼んでくるね」
ようやく戸浪の腕を放し、大地は壁に不自然に取り付けられた扉を開けて、隣にある博貴の部屋へと走っていく。見るたびに不愉快になっていた扉だが、今では対して気にならなくなっている事が不思議だ。
見慣れたのだろうと、戸浪は諦めることにした。
「どうも……今晩はお兄さん」
博貴が腰低くそう言って入ってきた。
「お兄さんは止めろ。気持ち悪い」
と言うと博貴が、ははっと笑う。
「そういや、大良と兄ちゃん同い年だもんなあ……」
今頃気付いたように大地が言う。だがあまり嬉しい同年代ではない。
「えー……じゃあなんとお呼びすれば良いでしょう?」
「戸浪でいいじゃん。澤村って言ったら三人になっちゃうしさ。な、兄ちゃん」
「……あ、まあ、そうだな」
名前では呼ばれたくなかったが、この場合仕方がないだろう。普通はどう区別するのか戸浪には分からなかった。
「その代わり兄ちゃんも大良のこと、あんたとかお前とか言うなよ。俺の大事な人なんだから……」
大地は自分で言って顔を赤らめる。
「……大……自分で言って赤くなる奴があるか……」
呆れつつも、照れている弟が可愛いと戸浪は思った。こんな風に素直に表現できる大地が羨ましい。
「私は別に構わないですよ……あんたでもお前でも……」
博貴は笑いながら言うのだが、こっちの笑顔は気に入らないのだ。どこから見ても女を騙していそうな顔だからだろう。表情に笑顔が伴っていなくても軽薄な感じがするのは気のせいだと戸浪は思えない。
「認めたわけではないが、こうなったら仕方がない。だが、うちの大を泣かせるような事があったら、袋叩きにするからな」
戸浪はジロリと睨んで博貴に言った。
「そ、そんなことしませんよ……」
「兄ちゃん……兄ちゃんって、もーー」
「……大、お前ならもっと他に可愛い彼女が見つかるだろう?なのにどうして男を選ぶ?」
何度も言った言葉がまた口から出る。
大地から色々聞き、多少は博貴に対する評価も変わってはいるのだが、博貴を見るとどうしてもこんな風に戸浪は言ってしまうのだ。
やはり大地が将来泣くことになるかもしれないと言う不安が戸浪にはいつもつきまとっているから。
可愛い弟が泣く姿は戸浪も見たくない。
恋愛が問題のことだから余計だった。
「あのねえ、外見で大良のことをそんなこと言うなよ。戸浪にいの言うような奴なら俺、マジでつきあわないよ。……俺にとって……なんていうか。大良が本当に優しくて良い奴だから……その、俺は好きなんだ」
グラスにワインを注ぎながら大地はやはり顔を赤らめていた。博貴の方はそんな大地に照れた顔をして苦笑している。
「……まあ、私自身のことではなくてお前が良いというなら……仕方ないことだがね」
戸浪は二人の姿に呆れてそう言った。
「じゃ、そろそろ乾杯しようよ」
大地がワインの注がれたグラスを差し出してきたので、それを掴み、渋々という形で、グラスを合わせた。
久しぶりに飲むアルコールは確かに美味しかった。
高いワインと言うこともあって最初はちびちびと飲んでいたが、アルコールが廻るとみんなが饒舌になり、最初にダウンしたのは大地であった。
「俺……もっと飲む!」
「大ちゃん駄目だよ。君は弱いんだからね。全く……」
博貴は大地のグラスを取り上げる。取り上げられた大地は顔を真っ赤にして視線がふらふらと彷徨っているところを見ると、かなり酔っているようだった。
未成年なんだが……
それを言うと場を白けさせるために言えないが、戸浪はやはりこだわっていた。
「俺のグラス返せ~」
「駄目駄目。あ、お兄さんはどうぞ気になさらずに飲んでくださいね」
「……あ、ああ」
博貴はかなりアルコールがいける口なのか、顔色は全く変わっていない。心配していた大地のほうが先に酔うなど、兄ちゃんは情けないぞと戸浪は思いながらも酔っぱらう大地の姿を眺めていた。
「五月蠅いなあ……だって俺、そんなに飲んでねえもん。高いワインだから一杯飲まないと損じゃん」
確かに戸浪が見ている分には、大地はそれほど飲んではいなかった。逆に大地がここまで弱い事を戸浪も知らなかったのだ。
もう一人いる兄の早樹はざるである。戸浪もなかなかいけるくちだ。そのしわ寄せで弟の大地は弱いのだろう。
「又買えばいいよ。大ちゃんはここまでだよ。君、アルコールに弱いの分かってるでしょ?」
「うーっ……大良のいじめっ子」
大地は既に半泥酔だ。
「苛めてなんかないでしょ。はは、困りましたねえ……澤村さん」
と言ってこちらを見て博貴は言う。澤村で落ち着いたのかと戸浪は思いながら、とりあえず「放って置けばいいですよ」と言った。
「兄ちゃん!兄ちゃんつめてえ!」
いきなりこちらに振られて戸浪は困った。
「冷たくないよ。お前が自制しないからだろう」
呆れて戸浪が言うと大地はこちらに詰め寄ってきた。明らかに酔っぱらっている。
「兄ちゃ~ん……」
べたーっと寄りかかってきた大地は嬉しそうだった。思わずこちらも笑みが漏れる。大地は可愛い。本当に可愛いのだ。
「はいはい」
「俺、兄ちゃん大好き……」
えへえへと言う大地に博貴が中腰でじーっと視線を向けていたが、戸浪と目が合うと慌てて座り直す。おいおい私は大地の兄だぞ……と思ったが、向こうにすれば気が気ではないのだろう。
確かに大地は可愛く、例え相手が兄であっても心配なのは分かる。
「好きだと言う相手を間違ってるだろう?」
「……だって兄ちゃんのことも好きだもん」
そう言って大地は膝の上で丸くなって、笑っていた。こんな風に素直になってみたいものだと戸浪は本心から思った。
こちらは酔えるタイプではなかった。素直になれるきっかけをアルコールにも求められない体質だった。
「……大ちゃん……お兄ちゃんの方が好きなんだ……」
なんだか寂しそうに博貴が大地を見ていた。
「だって、お前苛めるもん」
ちょっと顔をしかめて大地は言った。
「苛めてないだろ……。あーあー。大ちゃんお兄ちゃんの方が良いんだなあ……寂しいなあ……」
と博貴があからさまに言うと、今度大地は博貴の方へよろよろと張って行き、あちらの膝に倒れ込んだ。そんな大地に博貴は甘ったるい表情になる。
見ていてこちらまで甘くなりそうな雰囲気だった。
「ばーか……俺が愛しちゃってるのは大良だよ……」
恥ずかしいとは思わないのかと戸浪は呆れっぱなしだ。なんだかここにいるのもいたたまれない。
「済みませんねえ……大ちゃん酔っぱらうともう、なんだか訳が分からなくなっちゃうもので……」
と言いつつ博貴は嬉しそうだ。
「ああ、いつもの事だよ。未成年のくせに飲みたがるし、その上、酔うと大地はみんなに愛嬌を振りまくんだ。馬鹿だからね。外では飲まないようにきつくしつけて置いた方がいい。君が嫌な事になって欲しくないだろうし」
そんなことは無い。
例え酔っぱらってその隙に誰かが悪戯でもしようものなら、大地にぼこぼこにされてしまうだろう。酔っていてもその辺は大地もわきまえているのだ。
危険だと思ったらその気配が無くなるまで大地は相手を袋にする。地元でもそうだったらしい。だから大地は今無事なのだ。
だがそんなことは博貴には教えてやるつもりはなかった。少々心配させて置いた方が良いのだ。
「や、やっぱりそうですか……うーん、絶対飲ませないようにしないと……」
博貴は真面目に受け取っている。その顔があまりにも真剣なので戸浪は思わず笑ってしまった。
「その方がいいね」
笑いを納めながら戸浪はまたグラスを口に運んだ。
「本当に、これでも色々と……あれ。大ちゃん……?」
気がつくと大地は博貴の膝の上で眠っていた。
「寝たようだね……全く……」
「はあ、いつもこんな感じですよ。こういう大ちゃんが可愛くて仕方ないんです。でも反面心配ですけどね」
そう言いながら博貴は大地の頭を撫でていた。その姿は見ていて腹が立つと言うより微笑ましかった。
不思議な気分だ。
いつもならむかついていたはずだった。
きっと心の何処かで既にこの二人を認めているのだろう。だが悪い気分ではなかった。
「大地は顔に似合わず喧嘩っ早い所もあるから気をつけた方がいい」
そう戸浪が言うと博貴は「そうなんですよ」といって笑った。
日常から大地は喧嘩っ早いようだ。
「澤村さんはどちらかというと綺麗な顔立ちされてますね。まあ、大ちゃんを見てると納得できますけど……」
「……そうか?どうでもいいがね……」
二人で飲み直しながら戸浪は言ったが意外に口調はきつくなかった。いつもならもっと冷たい感じになるはずだ。そんな自分が戸浪は嫌で仕方がなかったのだが、日常はどうしてもそうなってしまう。
多分、アルコールが戸浪の口調を柔らかくしているのだろう。
「もてるでしょう?」
「いや。それを言うなら君の方がもてるんじゃないか?」
「もてるというより仕事でしたから……もてなきゃ商売になりませんでしたからねえ…」
どうして博貴がホストという商売を選んだかを戸浪は大地から聞いていた。その為にホストという仕事を悪くは言えなかった。
「だろうね……」
「誰かつき合っている人がいらっしゃいますか?」
突然、博貴に問われた戸浪は何故か祐馬を思い出した。
「いや……どうしてそんなことを聞く?」
「……大ちゃんが五月蠅くて……兄ちゃんに恋人を作るんだって張り切っちゃって……お兄さんにはお兄さんの事情も色々あるだろうから、余計なことはしない方が良いって言ってるんですが……」
「ああ、確かにしつこく言ってますよ……。だが、まあ、縁のものだろうから、今は特に欲しいとは思わないんです」
「その事、大ちゃんに言っておきますよ」
「ああ、そうして貰えるとありがたいね」
「やっぱり大ちゃんと澤村さんは兄弟ですね。よく似てる……」
頷きながら博貴は納得している。
「……はあ?」
「自分の気持ちを正直に言えないタイプでしょう?」
「……君にそんなことを言われる筋合いはないが……」
ちょっとムッとして戸浪は言った。博貴に言われなくても自分で分かっていることだ。
「ホストがどうしてもてると思います?あんまり格好がよくなくてももてるんですよ」
「……しらんね」
「言葉でちゃんと話せるからもてるんです。好きなら好き、可愛いなら可愛いって……慣れるまで照れくさいですが。誰だって言葉が欲しいんですよ。人間って不思議と本音が言えなくなってますからねえ……。私もホストでそう言う風に慣らされたはずなのに、大ちゃんにはなかなか本音が言えなくて、それが元で色々ごちゃついたこともありましたよ。まあ、今は上手くいってますが……」
言いながら博貴は照れていた。どうしてそんな事を急に話すのか戸浪には分からない。
「……大良さん。何故急にそんな話しをされるんですか?」
「はあ、なんというか……澤村さんが何か随分悩んでいるように見受けられて…色んなお客さんを相手にしてきた癖で分かるんですよ。他の人なら放っておくのですが、大ちゃんのお兄さんだし……。もし良かったら相談に乗りますけど……」
博貴は真剣に戸浪の目を見つめてくる。確かにこの男は侮れないと戸浪は感じた。
「……で、どうして恋愛の話しになる?」
「悩んでるのは恋愛問題……」
「馬鹿な……」
戸浪は頭を振ってそう言った。
「……正直に話します。大ちゃんがそちらの会社の人を殴る蹴ると、まあちょっともめたようなんです」
祐馬のことだと戸浪はすぐに分かった。
「それで?」
「……理由が……その……」
博貴は言いにくそうに言葉を濁した。
「なんだ?」
「戸浪さんとの関係を三崎さんが大ちゃんに話したそうです。それで大ちゃんが切れて……まあ、殴った理由は、大ちゃんも羽交い締めにされたらしいので、それで殴ったらしいんですけど……」
「なっ……三崎が!」
戸浪は顔色が真っ青になった。
一番知られたくない弟に三崎は話したのだ。そして大地は博貴に相談した。
隠していたことが実はばれていたという事実に戸浪はこのまま倒れてしまいそうな気分になった。
「……大ちゃんはそれから、ずっとお兄さんのことを心配して……」
祐馬は何をどんな風に大地に話したのだ?
戸浪はそれが一番心配だった。しかし聞けない。聞くのが怖かった。
「もういい……放って置いてくれ……君たちに心配されなくても、もう終わったことだ」
絞り出すように戸浪はそう言った。
「……そうなんですか?」
心配そうな顔をする博貴に対し、怒鳴りつけたい気分に駆られたが戸浪は必死に平静を保った。
「ああ……そうだ。だから……聞いたことは忘れてくれ……全部だっ!」
「……そうおっしゃるなら……」
「大地にもそう伝えてくれ。私に構うなと……放って置いてくれと……」
そう言って戸浪は立ち上がった。もうここにいるのが辛い。
「……分かりました……。あ、送りますが……」
ちらっと膝に頭を乗せて、眠っている大地に視線を落として博貴は言った。
「いや、いい。タクシーを拾う。ご馳走になった……」
既に玄関で靴を履きながら戸浪は言った。
「いえ……」
扉を開けて外に出る前に戸浪は博貴の方を肩越しに振り返る。
「大に……気持ちは嬉しいと……気持ちだけはありがたく頂くと……そう、一緒に付け加えておいてくれ……」
「……分かってますよ、あの……もう一つ余計なことですが……」
「何だ!」
「この間貴方を迎えに行ったときに……ずっと後ろから視線を感じたのですが……振り返ると三崎さんに睨まれましてね……あの目は貴方に惚れてますよ……」
戸浪は博貴の言葉に、苛立ちを全てぶつけるような勢いで玄関の扉を閉めた。