「君がいるから途方に暮れる」 第8章
「何やってるんだよ……おい、どうしたんだ?」
祐馬が戸浪の腕を相変わらず掴んだまま引っ張り、両膝が余計に痛む。
「あっつ……頼む……引っ張るな……」
床に倒れるような形で戸浪は言った。
「足、痛いのか?そういや、お前の弟が言ってたな、小さい頃に両膝を壊したって……。寒くなると痛むんだろ?朝晩は冷えるからなア……」
そう言って祐馬はヒョイと戸浪を抱き上げた。
「三崎……」
「歩けないんだろ……仕方ないさ」
祐馬は戸浪を寝室へ連れて行くと、そろりとベットに横たえた。だが嫌な予感がした戸浪が思わず腰を引くと祐馬は吹き出した。
「ばっか、こんな時までさからねえよ」
そう言って祐馬は戸浪の隣にごろりと横になると、目を閉じる。
「……祐馬……」
「足……そんなに悪いのか?」
目を閉じたまま祐馬は言う。
「大したことはない……。暫くじっとしていたら痛みも治まる」
「そうか……」
言いながら祐馬は戸浪の膝に手を乗せてきたが、条件反射的に身体がビクリと跳ねた。だがそんな戸浪の態度など祐馬は意に介さず、膝をゆるゆるとなで始めた。
「痛むか?」
「……いや……」
「ほら、足をもう少し伸ばせよ」
「っ……」
「……お前が素直に言うことを聞かないから痛いんだからな」
そう言って祐馬はまた膝を撫でる。不思議なことに祐馬の大きな手が何度も撫でると膝の痛みが少し和らぐような気がした。
「マシか?」
暫くのあいだ、手を動かして祐馬は問いかけてくる。信じられないことに、祐馬の口調には確かに相手を気遣う優しさが滲んでいた。
こんな事は初めてだったため、戸浪は動揺を隠せない。
「……ああ……少し……」
「そっか……良かったな」
祐馬が口元だけで笑みを浮かべる。しかし、閉じた瞳は開かれない。
戸浪は祐馬の行為に胸が一杯になった。
無理矢理関係を強要する相手が僅かばかりの優しさを見せたからと言って何故こんなに胸が苦しいのだろう?
戸浪はそんな自分を悟られないように祐馬と同じように目を閉じた。すると目と目の間がじいんとしみるような痛みを訴えてきた。
「祐馬……」
「なんだ?」
「何故こんな事をするんだ?」
「何故って、お前、膝が痛いんだろう?」
どうしてそんなことを聞くんだと言う口調だ。
「痛い」
「痛かったら仕方ないだろ。お前、今、歩くとつれえんだろ……」
「……辛い……」
辛いのは……痛いのは心だ。
こんな優しさを見せて欲しくなど無い。
又、なにかを期待して、ずるずると関係が続いてしまうから。
「膝か?」
「違う」
戸浪が言うと暫く沈黙していた祐馬であったが、また話し出した。
「……小さかった頃……さ」
「え?」
「いや、ガキの頃、俺は良く喧嘩して、あちこち痣を作って家に帰るのが日常だったんだけどさ。そう言うとき、母親が腫れた箇所をこうやって撫でてくれたんだ。すると、不思議なことに痛みが引いて……あんな感じか?」
「……」
「辛いのは膝じゃねえか……」
「……ああ」
「普通にさ……」
そう言って祐馬の言葉が途切れた。
「なんだ?」
「なんでもねえ……」
「……」
「戸浪……」
膝にあったはずの手がいつの間にか頬に添えられたことに気がついた戸浪は目を開けた。すると祐馬は身体を起こしてじっとこちらを見つめているのが見えた。
切ない……
何かを言おうとしている瞳。
普段からは考えられないような事ばかり今起こっている。
「俺は……続けたい」
「断る」
きっぱりと戸浪は言った。そうしなければぐらついた気持ちをどうすることも出来ないからだ。
「……だろうな」
フッと笑う祐馬は戸浪の頬から手を離すと、ベッドからおりてこちらに背を向けたまま言った。
「分かったよ。じゃあな」
がっしりとした祐馬の背が今日ほど小さく見えたことはない。その理由を戸浪には説明できなかった。
「……分かったって……何だ?」
戸浪が聞くと、祐馬は肩越しにキーを投げてきた。それは音も立てずにベッドに転がる。
それがこのマンションの合い鍵だと気がつくのに戸浪は数秒を要した。
「お前が辛いのと同じだけ俺だって……」
最後の言葉を吐き出すことなく、祐馬は寝室から出ていった。
終わったのか?
戸浪はまだ良く理解できずにベッドに転がったキーを暫く眺めていたが、これを返すと言うことはもうここへは来ないという意思表示なのだと気がついた。
翌日には両膝の痛みも取れ、戸浪は会社に出社する事が出来た。なんだか久しぶりのように思える。
とにかく積み上がっていた仕事を片づけ、昼過ぎに昼食を摂りに食堂に降りた。すると大地がやはり手を振っていた。
「兄ちゃんこっちこっち」
「大地……お弁当はもう良いぞ……」
大地の隣に座り戸浪は言う。
「あーそうなんだけどね……ついでだし……」
えへへへと笑って大地はまた大きな風呂敷を広げる。
「まあ、お前の手料理は一番だから……私はうれしいがね」
「なあなあ、でさあ、木曜来るんだろ?」
風呂敷を畳み、弁当箱を開けて大地はこちらを見る。だが、その話は中止になったはずだった。
「え?中止だろ?」
「違うよ……それはあいつを断る理由だろ。やるよ。で、真喜子さんを兄ちゃんに紹介してやるよ」
「はは、いいよ……別に……」
「兄ちゃん真喜子さんのこと嫌い?」
「いや、綺麗で優しい人だし嫌いじゃないよ。でもね、あれだけ綺麗な人なら他にいるだろう?」
「今フリーだって言ってたよ」
「はは……」
「だからさあ、つき合わなくてもたまに食事とか映画とかさあ……行ってみれば?」
「……うーん……そうだね……」
と言ったところでガタンと後ろから音がした。振り返ると祐馬がトレーを持って立ち上がって出ていくところだった。
聞かれたのだろうか?
多分聞いていただろう。
だが戸浪にはもうどうでも良いことだった。
「あちゃ……聞かれたかな?」
戸浪より大地の方が気にしているようだ。
「気にすること無いさ……」
「だよな。あいつのこと、俺は嫌いだもん」
口を尖らせ大地は、ムッとしたような顔になった。
「どうした?三崎と何かあったのか?そう言えばこの間妙だったな」
ガキに殴られたと言っていたが……
もしかして?
「え?はは……何でもねえよ」
「大地……」
「俺……さ、ちょっと喧嘩しちゃったんだ」
「喧嘩?」
「あいつが妙なこと言うから……腹立って……ちょっと殴っちゃった」
「殴ったあ??」
ではあの晩、祐馬が殴られたといった相手は大地だったのだ。どうしてそうなったのか、戸浪には想像もつかない。
「ごめん兄ちゃん」
「……済んでしまったことは良い。で、どうしてそんなことになったんだ?」
「別に大したことないよ」
大地はそれだけ言って自分が握ったおにぎりをぱくつく。しかし、戸浪はどうしても理由を知りたかった。
「大……」
「もーいいじゃん。あれから別に絡むことねえし……もう殴ったりしねえよ」
「……なら良いが……」
何があったのか祐馬に聞きたいのだが、今更聞くことは出来ない。折角祐馬がその気になって離れてくれたのだから、追いかけるようなまねはしたくなかったのだ。
「兄ちゃん……何か心配事あったら俺、相談のるよ」
「いや、どうしたんだ?」
「なんか悩んでるように見えるから……」
「もう、悩んでないよ。まあ、色々あったが、けりは付いた」
と、思う。
「そっか。じゃ、大丈夫だね」
大地の言い方が気になったが戸浪はあえて聞かなかった。もしかすると戸浪自身が気がつかないところで大地に思い悩んでいる顔を見せていた可能性もあるからだ。
それを再確認する必要などない。
「さて、大のおにぎりを食べて昼からもか頑張るか……」
戸浪も大地の作ってきてくれたおにぎりを一つ掴むと口に運んだ。
しかし、心の何処かにまだスッキリしない部分が痼りのように残っていた。
あのお子ちゃま余計なことばっかり戸浪にいいやがって……と祐馬はムカムカしながら自分の席に戻った。
ここのところ苛々して仕方ないのだ。
昨晩からそれは頂点に達している。
あんな何もかも投げ出すような別れ方を選んでしまった自分が、ばかばかしく涙が出そうなほどだ。
自分の言葉に滑稽すぎて吐き気がしたほどだった。
今更戸浪に優しく接したとしても、今まで自分がやってきたことを精算などできるわけなどない。分かっていたのだが、昨晩は一生懸命優しく接しようとした。痛めた膝をかかえている戸浪に何かしてやりたかった。
それだけだった。
いくら何でもあんな戸浪を抱くことなど出来ない。
これでも色々気を使ってきたのだ。
戸浪の弟が事故で入院したときも、行かなかった。それどころではないと思ったからだ。だが素直にその事を伝えられなかった。
確かに祐馬は無理矢理戸浪を抱いた。最初はそうだった。だが、その一回を除いた後は優しくしてきたつもりであった。
戸浪が止めようと言ってから、自制が出来ずに無茶なやり方で抱いた事は祐馬自身も反省していたが、それまでは恋人にするように優しくしてきたはずだ。
だが敏感な戸浪はそれが上っ面だけの優しさであることに気がついていたのだろう。
どうしてこれほど素直になれないのだ。
もうすこし素直に、戸浪に対する想いを聞かせていたら、こちらを向いてくれる可能性だったあったのだ。
簡単なことであるはずなのに、祐馬には出来なかった。
やろうとした。
しかし、性格的に無理だったのだ。
今更どうにもならないのに祐馬はそんなことばかり考える。
一度でもこちらを見て笑みをみせてくれたら、自分の胸の内を語って聞かせようと祐馬は思ってきた。
出会ってからずっとだ。
だがそんな笑みは一度とて祐馬に向けられることは無かった。
あれが戸浪の答え。
祐馬が想いを募らせている間、戸浪はどうやって切ろうかと思いめぐらせていたのだろう。お互いちぐはぐな気持ちを抱えて抱き合ってきたのだ。
一年も続いた滑稽な関係。
終わって当然。
終わらせて正解だった。
もちろん、戸浪にとって。