「君がいるから途方に暮れる」 第11章
朝早く戸浪は目を覚ませると、トナミに朝食を与えてからマンションを出た。そうして、自分のマンションに戻り、軽くシャワーを浴びて衣服を整えてから戸浪は出社した。
祐馬が自宅に帰ってこなかったところを見ると仕事で徹夜したのだろう。帰ってきたらどんな顔で会えばいいのかと散々考えたもののそれは杞憂に終わった。
フロアに入るとやはり一チームがあわただしく仕事に追われているのが見えた。向こうに応援に行かせた春日達も目の下にクマを作っている。まだ人手が足りないのだろうかと心配する気持ちを戸浪は振り払った。
関係ないことだから。
席に着いてメールを確認すると驚くべき事に祐馬から一通入っていた。
昨日ありがとうな、悪いが今晩も頼んで良いか?
最初は、勘弁して欲しいと思ったが、他人にあの野菜が入った袋とトナミの寝床である小屋を見られたくなかった。当然社内の人間だともっと悪い。
これで終わりだぞ。
と戸浪がメールを送るとすぐに返事が返ってきた。忙しいはずであるのに、何を考えているのだと思いつつ、戸浪はメールを開封した。
なあ、あいつ可愛いだろ?
それに対する返事は出さなかった。単にメールを交わすだけの事なのだが、戸浪は祐馬との関係が続いているような気がして嫌だったのだ。
仕事をしよう……
気持ちを切り替えて戸浪は自分の仕事に没頭することにした。しかし頭をちらつくトナミという名前のフェレットのことが気になり、キーを打つ手が何度もおろそかになる。
どうしてフェレットに自分の名前が付けられているのだろう。
答えが出ているのに、戸浪は必死にその理由を否定していたのだ。どうせ祐馬の気まぐれ。いつか、戸浪にフェレットを見せるつもりでからかう材料として飼っていたというのが一番しっくりくる理由なのだろう。
そこまで考えて戸浪は頭を左右に振った。
祐馬がただ戸浪をからかうためだけに、手間のかかる動物を飼うとは思えないのだ。
だったら、どうして?
いや……
もうどうでもいいことだ。
戸浪はやはり見えている答えに目をつぶった。
昼過ぎに春日が一旦戻ってきた。
「大丈夫か?誰かと交代させるか?」
「いえ、俺達は大丈夫です。それより三崎主任がエンドレスなので心配してるんですよ。俺達には休めって言って、交代で休憩もらっているんですけど、三崎主任は全然休まないから……。同期の川田が言うのはいつもそうだから気にしないでいいよって言ってくれるんですけど……何か俺達気が気で仕方なくて……」
困惑したように春日は言う。
「本人が大丈夫だと言えば大丈夫なんだろう。気にしなくて良いと思うが……」
「最初怖い人だと思ったんですけどね……。すごく気を使って貰って……口調はきついんですけど、心配してくれているのが分かるんです……。だから余計に申し訳なくて……」
と春日が頭をかくと一チームの川田が飛んできた。
「春日、悪いこれチェック頼むわ」
「あ、うん。じゃあ、済みませんもう少しあっち手伝ってきます」
「ああ」
戸浪は春日が見えなくなってからふとどうして祐馬の良いところが分かるのだろうと胸が痛んだ。自分には見つけられなかったところが春日には見えているのだ。
いや。
昔、一度だけ自分もそんな気持ちになったことがあった。だがたった一度のことで、二度目はなかった。
多分、外面が良いだけなのだ。
小さなため息をついて戸浪は席から腰を上げて昼食を摂りに食堂に向かうことにした。時間がかち合わなかったのか、大地の姿は本日食堂にはない。
そのことに胸を撫で下ろしながらチケットを買い、それと交換したランチを持って窓際の席に向かった。
天気がいい……
外の景色を眺めながら戸浪はゆるゆるとトレーを机に置く。すると後ろの席に座っていた秘書課の女性達の声が耳に入ってきた。
「真由香ちょっと酷いと思わない?」
祐馬の婚約者だった女性の話だ。戸浪は思わず耳を澄ませた。
「思う思う」
「今日国際電話かかって聞いたんだけど、最初から計画してたんだって」
「嘘お。じゃあ、三崎さん立場無いじゃない」
「三崎さんは協力してくれたんだって。何でも真由香の父親が一緒に逃げた彼氏のこと気に入らなくて会えなくなったらしいのよ。それで三崎さんと婚約したってことで外に出して貰えるようになったんだって」
「そういえば、一時期真由香ったら病欠とかいって会社休んでたの、あれ、専務が家から出さなかったって事?」
「そうらしいわ。で、三崎さんと真由香は幼なじみで、専務、三崎さんのことはお気に入りだったんだって。だから許して貰えたって。でもさあ、真由香はさっさと彼氏と海外に逃げて良いかもしれないけど……後に残った三崎さんが大変じゃない。昨日だって専務にかなり問いつめられたらしいわよ。それよりさあ社内の事情の知らない人が誤解してるの真由香どう思ってるのかしら……」
「ちょっと酷いわよね。三崎さんって口調はきついけど、仕事離れると面白くて、優しい人だもん。同期がさ、一チームにいるんだけど、三崎さん狙ってたの。これでまたアタックするんだろうなあ……」
「うん。三崎さんかっこいいもんね……」
と、話しているのを聞いてようやく戸浪は事情が飲み込めた。
振られたのではない。
振ったのでもない。
最初から演技していたのだ。
幼なじみに頼まれたからといって、その後、残った自分の立場を祐馬はどうして考えなかったのだろう?
悪者にされるのは目に見えている。戸浪がもし、祐馬の立場であったとして、そんなことを引き受けて欲しいと頼まれても絶対に首を縦に振らない。
祐馬は人が良すぎる……と、思ったところで、そんな風に祐馬のことを思った自分が戸浪には信じられなかった。
どうしたんだ私は……。
何故祐馬に対して同情しているんだ……
小さく溜息をついて戸浪は昼食もそこそこに自分の部署に戻った。するとやはり一チームの方はバタバタといている。よほど急ぎの仕事なのだろう。
忙しくしているチームを眺めながら、戸浪はこの日何度目か分からないため息をついた。
結局戸浪は、祐馬の方の仕事が終わらないことで、フェレットの面倒を何日か見ることになったのだが、その四日目に事件が起こった。
その日は戸浪にも残業があり、仕事を終えてから慌てて祐馬のマンションへ行くと玄関にいつものようにフェレットが元気良く走ってきた。その姿に戸浪はホッとする。
「遅くなって……そのごめんな」
小さな頭を撫でながら戸浪はいつの間にか笑みを浮かべていた。最近笑うことが少なかった自分が、このフェレットには笑みを向けることができる。
不思議なことだった。
戸浪はさっそく餌をやり、水を換え、新聞紙を取り替えた。フェレットの方も随分と戸浪に慣れて、膝に乗ったり、身体を擦りつけてくるようになった。
こうやってみるとなかなかこのフェレットが可愛い。祐馬は毎日この作業をしているのだろう。戸浪のマンションに泊まることがほとんど無かったのはこのフェレットの為だったのだ。このマンションへ戸浪を連れ込むことが無かったのも、このフェレットの名前の所為だろう。
それが分かると妙に心がそわそわして仕方がなかった。
はあ……
一体なんだって言うんだ……
ふと気がつくとフェレットが食べたものを吐いているのが目に映った。戸浪は驚いて床で玉を転がして遊んでいるフェレットに視線を向かわせたが、身体の調子が悪いようには見えない。一見すると元気そうに見えるのだが戸浪には動物を飼った経験が無く、これが悪いことなのか分からない。
それでも食べたものを吐いている事実が戸浪を不安にさせた。自分が預かっている間にフェレットに何かあったら……そう思うといても立ってもいられなくなったのだ。
戸浪はかごを捜してフェレットを入れると、二十四時間対応の動物病院にタクシーを飛ばした。今まで祐馬から言われたとおりにしてきたが、自分が何か間違ったことをしていたから吐いたのかもしれない。
これでフェレットが死んでしまったらどうしよう。
と、戸浪はタクシーに乗り込んでからも不安で仕方が無かった。
病院に着き、受付を済ませて順番を待つあいだも、心に渦巻く不安が拭えない。そうしてようやく自分の番が来ると、フェレットは籠の中で丸くなって動かなかった。
「どうしよう……死んでしまったのかも……」
戸浪は泣きそうだった。
祐馬が大事にしているフェレットである。それが自分の所為で死んだのだ。
「落ち着いてください。眠っているだけですよ。で、どうしました?」
「あ、ああ……そ、そうなんですか……動物を飼った経験がないのに、友人から預かって……良かった……。いえ、さっき食べたものを吐いてしまったんです……だから何か病気かと思って……」
戸浪は必死に平静になろうとしながら言ったが、籠を持つ手が震えて仕方なかった。
「一応レントゲンを撮りますので、暫く外でお待ちいただけますか?」
そう医者に言われ、戸浪は外に出ると、椅子に座って待つことにした。しかし、頭の中は既にパニックだ。
次はどれだけ頭を下げて頼まれても二度と面倒なんか見ない。
絶対に見ない。
動物を飼ったことのある人間に頼むものだろう。
私に頼むからこんな事になるんだっ!
待っている間中、戸浪は何度も何度も心の中で繰り返して思った。
「澤村さん入ってください」
呼ばれて戸浪は慌てて中に入る。すると診察台に乗せられたフェレットは怯えて震えていたが、戸浪の顔を見ると嬉しそうな表情に変わったように見えた。
「大丈夫ですよ。フェレットというのは時々ボタンなどを飲み込んでしまうので、原因はそれかと思ったのですが、何も余計なものは飲み込んでいません。多分毛繕いして胃に入った毛玉を吐き出したのでしょう。良くあることですから病気ではありませんよ」
「良くあること……ですか?」
「はい。毛艶もいいし、手入れが行き届いています。大事にされているようですねえ」
医者はそう言って褒めたつもりなのだろうが、そんな言葉は戸浪の耳に入らなかった。それよりも、ホッとしたことで力が抜けて、戸浪は思わずへなへなと床に座り込んでしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
慌てて医者が戸浪の手を取って立ち上がらせてくれる。情けない姿なのだが、この際仕方がないだろう。本当に力が抜けてしまったのだから。
「済みません……ホッとして……良かった。死んでしまうんじゃないかと思って……」
「初めてだと色々気になりますからねえ……」
医者はそれが日常のごとく笑った。
診察を終えて戸浪はフェレットをまたかごに入れると、病院を出た。時間を確認すると既に一時を過ぎている。チラリとかごの中を見ると又フェレットは丸くなっている。
戸浪はそんなフェレットに思わず笑みが漏れた。
「人騒がせな奴だよ……全く……」
すやすや眠るフェレットは戸浪の心配をよそに気持ちよさそうに眠っていた。
祐馬のマンションに帰り着き、キーを使って扉を開けようとすると反対に向こうから開けられた。
「ど、何処に行ってたんだ……心配したんだからな!」
祐馬が帰ってきていたのだ。
「え、あ。ちょっと病院に……」
「病院!な、なんかこいつにあったのか?」
真っ青な顔で祐馬は戸浪が持っていたかごを掴んで中に入っているフェレットを確認していた。よほど心配のようだ。だが、腰を抜かす程心配したのは戸浪の方だった。
「……いや……悪いが私は動物を飼ったことがない……」
説明するのが恥ずかしい。
「だからなんだ!」
祐馬の剣幕に仕方なく話すと、祐馬は最初、あっけにとられた表情になり、次に笑い出した。
「……あのなあ……面倒見ていた私に対してお前は笑うのか?こっちは死ぬんじゃないかと本気で心配したんだぞ」
「いや、悪い……俺もさあ、飼い始めに同じ事したから……それを思い出してな」
笑いながら祐馬はそう言った。だがその顔は疲れた顔をしている。
「二度と頼まれてやらないからな……」
戸浪はさっさと靴を脱いで玄関を上がった。荷物とコートを置きっぱなしにしていたから。それを持って帰ろうと思ったのだ。いくらなんでも二人きりでここにはいられない。
「遅いし……泊まっていくか?」
「ふざけるな、コートと荷物を置きっぱなしなんだ。それを取ったら帰る」
「そうか……」
後ろから籠を持ってついてくる祐馬の声は何処か落胆しているように聞こえた。