Angel Sugar

「君がいるから途方に暮れる」 第3章

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 翌朝目が覚めると祐馬は隣でぐっすりと寝込んでいた。
 眠りこけているこの男の顔は意外にも可愛い。
 その警戒心のかけらもない顔は普段の口の悪さが想像できないほどだ。一つしか年齢が変わらないくせに、いつも命令形。いつまで経っても横暴さはなりを潜めてくれない。
 こんな男が本当に結婚しても戸浪と関係を続けようなどと本気で思ってはいないだろう。可愛い妻と子供が出来たらこの男も変わるはずだ。
 ただ今は、いいなりになる玩具を手の中で思い通りに転がすことが面白いだけ。
 はあ……
 ついたため息は数え切れない。
 どうしてこういう理不尽を許してしまうのか、戸浪自身にも分からない。ただ、三人兄弟の真ん中に生まれた所為で、自分で言うのもなんだが、耐えることに苦を感じないのだ。
 時には弟に、そして兄の役目もこなさなければならないという立場は結構大変だった。
 いつもお下がりの洋服や制服。それに文句は言ったことはない。
 家の家計が苦しいのもあって贅沢が言えなかったから。
 弟として甘やかされたこともない。
 ちらりと未だ夢を貪っている祐馬を見て息をつく。
 確かに快感におぼれている自分を自覚している。
 祐馬の愛撫に慣らされた身体は自分でも制御できない。
 理性と本能がこれほど対立するとは思わなかったほど。
 だから、自分から爛れた関係を清算することが出来なかった。だが、いずれ何とかしなければならないと戸浪は最近になってようやく思い始めていた。
 このままではいけない。
 だから、祐馬に婚約者の話を聞かされ時は、ホッとしたものだ。
「なんだ……起きたのか?」
 目を開けて祐馬は気怠そうに身体を伸ばす。
「そろそろ会社に行く準備をしないとね」
 視線を逸らせて戸浪はベッドから下りた。
 祐馬の瞳には何か力がある。見据えられると吸い寄せられるような得体のしれないものがあるのだ。
 それをじっと見ていると戸浪はしらずに身体がすくむ。
 だから視線を逸らせた。
「なあ……」
 祐馬が着替えている戸浪を見ながら言った。
「……なんだ?」
「……いや、映画のさあ……チケットあるんだけど……どう?」
 妙に低姿勢で祐馬が言った。
「はあ?」
 こんな事を言ってきたのは初めてであったので戸浪は驚いた。
 二人の関係はそろそろ一年になるが、映画や食事に行ったことはない。祐馬が気まぐれに来て帰っていくだけなのだ。
 だから戸浪は祐馬が何処に住んでいるのかも知らないし、聞かない。
「週末とかさあ……」
 言いにくそうに祐馬は言った。婚約者に用事があって余ったチケットが廻ってきたのだろう。どうせそんなところだ。
「悪いが週末は予定が入っているんだ」
「予定?……」
「納期が近くてね、出社だ。ああ、出ていくときは鍵を閉めていってくれよ」
 そう言って戸浪はスーツの上着を羽織り、鞄を持った。    
「真由香さんも駄目でお前も駄目か……他の女でも誘うかなあ……」
 やはりそうだったのだ。
「そうしろ」
 戸浪はマンションを出た。



「にいちゃーん!」
 土曜出勤すると会社の受付で大地が走ってきた。
「大、どうしたんだ?お前がどうしてここにいるんだ?」
「俺、暫くこのビル警備担当!お昼一緒に行こうよ」
 大地は嬉しそうにそう言った。
「ああ、そうだね」
 大地の頭をくしゃくしゃと撫でながら戸浪は言った。そこに同じチームの春日がやってきた。 
「澤村主任。おはようございます。あれ、彼は?」
 後輩の春日は大地を目線に捉えると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「私の弟だよ。警備員の仕事をしていてね。当分このビルに来るようなんだ」
「こんにちは……」
 大地はおずおずとそう言う。
「可愛い弟さんですねえ。そう言えば以前に受付の女の子達が騒いでましたよ。無茶苦茶可愛い弟さんだって。あ、やっぱり主任と似てますねえ」
 そんな風に言われたことは無かった。
「そうか?」
「似てますよ、そりゃ、弟さんの方が目も大きいし、ちっちゃいけど……主任はかっこいいんです」
 春日がそう言って大地の方をじっと見た。大地はくるくるっとした瞳で春日の方を見ている。
「……はは……大地、じゃあ、お昼に食堂で……」
「うん。俺も仕事行ってくるね」
「え、主任お昼弟さんと?」
「ああ、良かったら君も一緒に来るかい?人が多い方が弟は喜ぶんだ」
 というより、誰かがいると大地と二人っきりにならなくて済むのだ。今はまだ色んな事を戸浪は引きずっている。大地の方は寝たら忘れるタイプなのだが、こちらはそうでない。
「じゃあ、俺も行きます。嬉しいなあ。主任って誰かと食べるタイプじゃないでしょ。みんな主任と一緒に食事したがってましたよ。でも、近寄りがたいから……。今の見なかったら俺も一緒にって言えませんでした」
「今の?」
「えー弟さんに笑ってたじゃないですか……俺、主任の笑った顔初めてみました。なんというか……主任は笑った方が魅力的ですよ……」
「……そ、そうか、そんなに私は笑わないかい?」
 自分で気にしたことは無かったが、他人からはそう思われていたのだろうか?
 戸浪は思わず顔が赤くなった。
「主任って……可愛い……」
 春日は満面の笑みでそう言った。
「……可愛いって……君ねえ……」
 こういうのは苦手だ。
「じゃあ、俺、先に行ってます。主任は先に打合せするんですよね」
「ああ、それじゃあ」
 春日がようやく離れてくれて戸浪はホッとした。



 昼になると、春日の方がありがたくも迎えに来てくれた。
「主任お昼ですよ……」
「ああ……」
 と言ってパソコンの画面から目を離すと、三チームのうちほとんどの人間が立っていた。
「みんな一緒にってことで……」
「え、あ、はは……構わないが……」
 ぞろぞろと食堂に行くと大地が戸浪を見つけて手を振ったが、後ろの人間を見て手が止まった。
「に、兄ちゃん……」
「なんだかね、みんなついてきてしまったんだよ……お前が見たいってね」
「俺?」
 不思議そうな顔をしている大地を後目にみんなはざわざわとカウンターにお昼を買いに行く。会社が会社だけに、休日も少ないが社員は出社してくる。その為、食堂は常時おばさんが待機していた。
 但し、休日はおばさんが数人しかいないので、食べられるメニューも限られていた。それでも金額が安いのと、すぐに出てくる料理の為に、みんなここで食べるのだ。
「あ、兄ちゃん俺、今日は兄ちゃんにも作ってきたから一緒に食べよ」
 戸浪もカウンターに行こうとしたのを大地はそう言って止めた。
「作ってきた??」
「うん。っていうか、大良は昼ご飯食べるからさ、その用意してくるんだけど、じゃあついでにって……」
 そう言って大きなお弁当箱を取り出した。
「あんな男の面倒見る必要は無いだろう。嫁でもあるまいし……」
「でもさあ、あいつまだ仕事は無理なんだ。マジ弱ってるし……往診だって来て貰ってる状態だろ。ほっといたらレトルトばっか食いそうなんだもんなあ……。あ、違う食いかけてたし……。だからちゃんと飯作っておいてやるんだ」
 本当に嬉しそうに大地は言う。
 大地はあの男が今更ながらに本気で好きなのだと戸浪は感じた。これでは反対したところで大地は反発するだけだろう。
 しかも戸浪はこの二人に関して最近は、まあいいか、という気分になっていた。
 最初は自分と祐馬の事があって、自分と大地を重ねる部分があったために、強固に反対したが二人を見ていると、自分達とは違い、愛情があるのが分かった。
 そうなると強く反対できない。
 不思議なものだった。
「まあいい、で、何を作ってきたんだい?」
 机に常備されているポットのお茶をやはり積み上げてあるプラスティックのコップ二つに入れ、大地と自分の前に置いた。
「たいしたもんじゃないけど……」
 がさがさ包みを開けると、大量のおにぎりがそこにあった。
「大……こんなに沢山……」
「え、兄ちゃん色ご飯好きだろ。食べやすいように握ってきたんだ。それと出汁巻き卵、それっとーウインナーとキュウリの串刺し……」
「……食べきれないぞ……」
「残ったら、俺がおやつにするし、兄ちゃんだっておやつにしろよ。俺だって全部面倒見られないぞ」
 おやつにおにぎりとはなんだか笑えると戸浪は思わず笑みが漏れた。そこに先程昼食を買いに行った課の人間が戻ってきて声を上げた。
「ほ、ホントだ……主任が笑ってる……」だの、「意外に可愛い」だの聞いていて恥ずかしい事ばかり口々に言われて戸浪は肩を竦める。
「えー兄ちゃん。会社でそんなに笑わないの?」
 聞かないで欲しいことを大地はさらりと言葉にした。
「そうそう、主任はいっつも難しい顔してるしね。君のお陰で親近感がわいたよ。なあ」
 と言って春日は横の同期に言い同期の方はうんうんと頷いている。その話題から離れて欲しいと思うのだが、誰も離れてくれない。
「あ、食べきれないので良かったら春日さんも食べてください……」
 大地がそう言うと、今度は色ご飯のおにぎりの話しに話題が変わったので戸浪はホッした。
「でもね、兄ちゃんの眼鏡って伊達なんだよ。外せばかっこいいのに……」
 と、いきなり大地が隠していることを言うので戸浪は思わずおにぎりが喉に詰まった。
「に、兄ちゃん、何慌てて食ってるんだよ。ゆっくり食えよ……逃げねえんだから……」
 背中を叩かれて戸浪は言葉が出ない。周りは二人のその光景と、伊達眼鏡の話題で口々に何かを言っていた。
「主任……伊達なら外せば良いんじゃないですか?伊達してる方が目が悪くなりますよ」
 何故か嬉しそうに春日が言った。
「いや、これは……いいんだ……」
「あっ……兄ちゃんあれ!」
 と急に大地が言ったのでその方向を見た瞬間に眼鏡を奪われた。
「大!お前!」
 取り返そうと手を伸ばしたが、大地は眼鏡をさっとポケットにしまう。
「いいじゃん。別に、俺、眼鏡してる兄ちゃんより、してない方がかっこいいって思うんだからさあ。都会ではクールでないとっていうけど、別にもういいだろ」
「大……頼むから……」
 照れくさくて仕方ないのだ。だから伊達メガネで自分を偽っている。
「主任って……実はかっこいいんですね。眼鏡の所為できつく見えたんだ……」
 春日がほーっとした顔で言った。
「いや、これは……」
 と言おうとしたとき、女子の騒ぎでかき消された。
「主任ってかっこいいーその方が良いです。絶対!」
 そうなのか?
「ほんと、そんなに怖い顔じゃないですねえ」
 怖かったのか?
「眼鏡絶対もうかけさせないんだから……」
 だから……やめてくれ……と思うのだが、どうにもならない。
「大地……お前恨むぞ……」
「俺、いつか絶対外してやろうって思ってたんだ。ばれたんだからもうする必要ないだろ。ははっ」
 大地は脳天気に笑っている。ここまで来ると再度かけることが出来ない。戸浪は諦めてお茶を一口飲んだ。
「そうだ、大ちゃんって彼女いるの?」
 女子が大地にそう聞く。まさか本当の事を話したりしないだろうなと戸浪が思っていると「うん。つき合ってる人いるよ」で留まった。一応、世間体はわきまえているようだ。
 それはいいんだが……
 メガネを失った顔は何故かスースーする。チラリと大地の方を見たが、メガネを返してくれそうな気配がない。
 仕方ない……
 散々なお昼を過ごして戸浪はその日一日顔を上げることが出来なかった。



 眼鏡を外して暫くすると戸浪は次第に慣れた。
 まあ、ばれてから又掛けると言うことが出来なかったのと、同じチームの女子の数人が、二度と眼鏡を掛けさせないという運動?なるものをおこしてしまったのでどうにもならなかったのだ。
 戸浪自身はいつかは外そうと考えていた為、それはそれで良いのだと思うようになった。
 大地の存在も大きい。
 日勤時はお昼を、夜勤の時は夜食を一緒にとるようになったので自ずからチームの人間も集まってくる。大地の周りにはいつの間にか人が集まって来るという徳があるのだ。
 そういうなかで、戸浪も今までとは違った親近感をチームの人間に感じるようになった。向こうもそうなのだろう。会話も増え、コミニケーションが上手く取れるようになったのだ。
 戸浪はどちらかというと人付き合いが苦手だ。
 今もそれは変わらない。
 自分を表現することが苦手だから。その沈黙が寡黙と取られていたのだろう。だが誤解は大地が解いてくれた。仕事する為だけに来ていた会社であったが、最近はなかなか居心地が良くなってきていた。
 ただそれに伴って問題も増えた。
 上司から見合いを、机にいつの間にか置かれたラブレターのことだ。
 この年になってラブレターを貰うとは思わなかったが、捨てるわけにもいかない。仕方がないので、社内の人間にはメール番号を調べて、丁重に断っていた。
 そんな誠実さも戸浪の好感度を上げていることなど、戸浪自身は気付いていなかった。
 だがそれらを快く思っていない人間がいることを戸浪は気付いていなかった。
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