Angel Sugar

「君がいるから途方に暮れる」 第5章

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 戸浪は明け方目が覚めた。
 気分が悪く身体中が痛い。
 いつも祐馬と抱き合うとこういう結果が待っている。
 祐馬?
 ハッと周りを見回したが既に祐馬の姿は消えていた。自分が望むことだけ満足させて帰って行ったのだろう。
 一体これの何処が冷静な話し合いなのだ。
 むかつきを覚えながらも、戸浪は怒りが持続するタイプではなかった。いつものことだと思うと、腹が立っていてもすぐに気持ちが収まるのだった。
「……今から帰っても……」
 くしゃくしゃになったシーツの皺を眺めながら戸浪はため息をついた。
 既に外は明るくなり始めている。どうせならこのまま昼まで寝過ごして会社を無断欠勤してやるのもいいのかもしれない。
 ただ、そういう気持ちに駆られたところで、行動に移せないのも戸浪だった。
「……はあ……」
 身体に残る愛撫の痕は祐馬の所有物だという刻印にも見える。事実そうなのだ。受け入れて流されているのは他ならぬ戸浪だった。
 戸浪はよろよろとバスルームに入って冷たいシャワーを浴びた。薄ぼんやりとした思考が冷たい水を浴びることではっきりとしてくる。
 どうすればいいのだろう。
 決断力のなさと、流されてしまう身体を切り裂けたのなら楽になるのだろうか。
「あんな男に……私は憧れていたのだ……」
 戸浪はぽつりと自分以外誰もいない浴室で呟いた。
 入社したとき一年上の先輩が数名を一チームにして面倒を見てくれた。ただ、戸浪は他の同期のように色々聞いたりコミニケーションをとるような行動は出来なかった。性格的に苦手だからだ。
 その為、戸浪のことは祐馬にとって空気みたいなもので多分、その頃の戸浪の印象など覚えていないはずだ。なにより研修時も滅多に様子を見に来ることも無く、他の同期の面倒を見ていた。
 祐馬は口はそれほど丁寧ではないが、明るく人に好かれる行動的なタイプだった。戸浪はいつも、祐馬のような行動的なタイプに憧れる。自分に無いものを持っているから羨ましいと思うのだ。
 弟の大地も似たところがあった。
 大地のように素直に自分を表現できたら……
 祐馬のように明るく行動的な自分になれたら……
 しかし、性格は簡単に変えることは出来ない。
 一度だけ僅かな時間ではあったが、祐馬と話をしたことが戸浪にはあった。研修中、自分達で与えられた課題のプログラムを組むのだが、どうにも理解できない所が出てきた。誰に尋ねることも出来ず、戸浪が一人で悩んでいると、祐馬がやってきて、「どうした?」と言いつつ教えてくれたのだ。
 それから研修期間も終わり、戸浪は祐馬とは違うチームに配属された。何年か互いに会話することも無かった二人だった。
 研修時に、たった数分会話したことなど祐馬は覚えていないだろう。高々、何人もいる研修生の一人、それもたいして印象に残らなかった戸浪のことなど忘れているはずだった。
 しかし戸浪はあの時優しくしてくれた祐馬が忘れられないでいた。
 今ではそんな優しさなどこれっぽっちも見あたらない。
 もしかしてあれが外面なのか。
 普段は優しげに振る舞い実際は、戸浪が散々見てきた祐馬が本来の姿なのだ。
 それでも、戸浪は昔知った祐馬のあの優しさを、未だに覚えていたから今まで耐えてきた。祐馬の優しさをもう一度感じることが出来る言動か態度を見られるのではないかと、戸浪は心の何処かで期待していたのかもしれない。
 だがそれは幻想だった。
 会えば抱き合うだけで終わる関係。
「馬鹿だな……私は……」
 そろそろ目が覚めても良いはずだ。
 この関係を切ってしまうのだ。
 もしも本当に戸浪が祐馬を傷つけ、その代償として今まで身体を差し出していたとするならば、そろそろ支払いが終わっても良い頃だった。
 祐馬が止める気がないのなら、戸浪から切れば良い。行動に出なければいつまでもこの爛れた関係は続く。そんなものを戸浪は望まなかった。
 マンションを引っ越して、会社を変えても良い。
 何か戸浪の方から行動を起こさなければ、何も変えられないのだ。
 そう決めてしまうと戸浪は気持ちが楽になり、出社する時間が来るまでベッドで寝転がって時間を潰して、会社へは時間通りに出社した。
 が、仕事について暫くすると、ここしばらくの不摂生がたたったのか、書類を運ぼうと立ち上がった瞬間、激しい立ちくらみを起こしてその場に座り込んでしまった。

 目が覚めると、大地が心配そうに覗き込んでいる顔が真っ先に視界に入ってきた。
「兄ちゃん大丈夫?」
「ああ……っ……」
 周りを見回すと社内にある医務室だと戸浪は気がついた。
「あんまり驚かせないでよ……倒れたっていうからびっくりした」
「悪かったね……。ああ、だが、私は意識を失ったのか?」
 座り込んだまでは覚えているのだが、そこからの記憶が途切れていた。
「兄ちゃん……何言ってるんだよ。意識を失ったからここにいるんだろ?」
「そうだな。心配させてしまって悪かった。もう大丈夫だから……」
 身体を起こして戸浪は背を枕にもたれさせて起きあがった。すると頭の芯がぐらりとおおきく揺れ、酔ったような浮遊感が前身を覆った。
 ここしばらく大地の問題で頭を悩ませ、同時に祐馬のことでも悩んでいた戸浪は、食事も取ることも不規則で、摂らない日も数えきれないほどあった。当然、睡眠もほとんど取られなかった。
 昨晩決心したことで、心の奥にあった思い枷が外されたせいで、ホッと気がゆるみ今まで蓄積されていた負担が一気に身体にかかってしまったのだ。
「兄ちゃんさ、そんなにこの会社って忙しいのか?今いないけど、医者が疲労だっていってたぞ。うちでちゃんとご飯食べてるのか?そういや、なんだかここしばらく顔色悪かったよな。で、今日は家でゆっくりしろって言ってた。で、俺は仕事で動けないから、大良に迎えに来て貰うから……」
 大地は珍しく矢継ぎ早にそう言った。
「はあ?そ、それは勘弁してくれ。自分で何とか出来る」
「駄目だよ兄ちゃん。また倒れるといけないから、誰か面倒見てくれる人いないと。だから俺んち来てくれていいよ。俺は面倒見られないけど、まあ、あいつも面倒まで見られないと思うけど、何かあっても大良が隣に住んでるから安心だろ?医者も来てくれてるからついでに診て貰えるしさ。嫌だって言っても俺はきかねえぞ」
 大地は仁王立ちでそう言った。
 こうなると首を縦に振るまで大地は動かない。だが考えると、今日一日は祐馬の顔を見ずに済むと言うことなのだ。隣に住む男は気に入らないが、大地の家の方が安心して眠れるような気がする。
 戸浪はそう思って大地の提案を受け入れることにした。
「……大……じゃあ、お前のうちに今日は世話になるよ……いいか?」
「うん!良かった。俺大良に連絡して、こっちに直接来て貰うよ。じゃあ、俺仕事あるから行くね。夕方帰るからゆっくり身体休めててよね」
「ありがとう……大……」
「気にすんなよ!」
 そう言って大地は仕事へと戻っていった。

 戸浪はそれから一眠りし、自分の名前を呼ばれたことで目が覚めた。すると、大地が言ったとおり、博貴がベッド脇に立っていた。
「済みません。起こしてしまいましたね。ところで……大丈夫ですか?」
「今日は済まない……弟から聞いたよ。君も大変なのに申し訳ない」
「いえ、私は構いませんので、気を使わないでください」
 ははと博貴は笑いながら言った。
 以前見たときよりも痩せているのは例の一件の傷をまだ引きずっているのだ。詳しくは大地も話さなかったが、多少の事情は戸浪も聞いていて、多少、博貴のことを見直していた。
「車を外につけてますから、そこまで歩けそうですか?」
「多分……大丈夫だろう……」
 戸浪はそう言って立ち上がった。頭が大きく左右に揺れるような気がしたが耐えられないほどでもない。
 何とか戸浪が歩き出そうとすると、博貴が肩を支えようと手を出してきた。
「あの……」
「君も養生中なんだろう?それなのに手を借りることは出来ないよ」
「……そうなんですけどねえ……どちらかというと今はさぼり癖がついてしまってブラブラしてるだけなんですよ。身体はもう随分良いんです。マラソンは出来ませんけど」
 そう言って博貴はニッコリ笑うと、もう一度戸浪の肩を支えようとした。今度は戸浪も逆らわなかった。
「済まない……」
「いえいえ」
 ようやく車までたどり着くと戸浪は車を見て倒れそうになった。みんなその車を振り返りながら去っていく。
「ポルシェ……」
 真っ赤な色ははっきり言って恥ずかしかった。
「いやあ、埃だらけで済みません。普通のが無くて……いえね、滅多に乗らないのでずっとガレージに入れっぱなしだったんです」
「そ、そう言うことより……こんな車……」
 恥ずかしくて乗れないと言いそうになったが、助手席を開けられて仕方なく戸浪は乗った。
「大ちゃんも嫌がるんですよ、遊び人みたいだってねえ。まあ頻繁に乗りませんのでとりあえずこれで我慢してもらえますか?ベンツか何かもっと大人しい感じの車を今度買おうとは思ってるんですが……」
 博貴は言いながら、エンジンを掛ける。その手首にはピアジェの時計だ。ホストというのはそんなに儲かるのだろうか?
 人の趣味にとやかく言うこともないだろう……
 戸浪は色々気になりながらも目を閉じて、シートに深く身体をもたれさせた。
 大地は博貴を選んだのだ。
 それでいいのだろう。
 心地よい車の揺れに、戸浪はまた意識を手放した。
 
 揺り起こされて目が覚めると既に大地の住むコーポに着いていた。車を降りて戸浪は階段を上り博貴に案内されるまま、まず博貴のうちに入って扉を抜け、大地の部屋に入る。するといつの間にかきちんと布団が敷かれているのが目に入った。
 博貴が用意してくれたのだろう。
「パジャマはこれを使ってください。あ、これ、私のですが一度も袖を通してませんので、気になさらないで着てくださいね」
「いや、もう大丈夫……。ただの疲労ですからあとは自分で勝手にしますよ。私のことより、大良さんもご自分の部屋に戻って身体を休めた方が宜しいのでは?」 
 戸浪は博貴に着替えるところを見られたくなかった。祐馬がつけた愛撫のあとがしっかりまだ身体に残っていたから。
「じゃあ。何かあったら呼んでくださいね」
 そう言って博貴は自分の部屋に帰っていった。
「……はあ……」
 ぐったりと布団に身体を倒して戸浪は息をついた。
 久しぶりに畳の部屋で横になれるのが戸浪には嬉しかったのだ。戸浪のマンションには畳間はない。都会に出てきてから畳間で戸浪は寝たことがない。しかし、実家は全て畳間であった。そこで生まれ育った戸浪には畳間が懐かしい記憶を呼び覚ます。
 ホッとする……
 大地のうちであるのだが、自分のうちで横になるより気持ちが落ち着く。それはほのかに漂う畳独特の匂いが戸浪を包んでいるからだ。
 折角休みにできたのだからゆっくり寝ようか……
 戸浪は博貴が用意してくれたパジャマに着替えて布団へ潜り込んだ。するとドッと疲れが身体を襲う。
 随分疲れていたのだ……
 戸浪はすぐに睡魔の虜になった。



 何なんだあの男は……。
 祐馬は戸浪を連れだした男を柱の影から見てそう思った。
 じっと見ていると向こうがこちらの視線に気がついたのか、ちらりと肩越しに振り返ったの為、別段悪いことをしているわけでもなかったのだが思わず身体を柱の影に隠した。
 そこで引き返せば良かったのだが、祐馬は肩よりやや長い栗色の髪を持っていた男の事が気になり、そろそろとまた柱の影から顔を出し、二人の様子を窺った。
 戸浪を支える男は彫りの深い顔で、整っており、背も高く、サラリーマンというよりモデルか芸能人のようだった。
 手首にはピアジェの時計、車はポルシェ。
 一体あの男は戸浪の何だと、苛々と眺めているとそのまま車に乗って行ってしまった。
 自分の部に戻ると、三チームの人間がいたので、それとなく祐馬は戸浪の話題を出してみた。すると戸浪は体調が悪く、家に帰ったと言うことだった。
 それはどう考えても祐馬の責任だろう。
 確かに自分のしたことはちょっと行き過ぎだったと思うが、向こうだって楽しんだはずなのだ。だから全部が自分の責任じゃない。と必死に思おうとするのだが、やはり一番悪いのは祐馬だ。
 平日にしかも、話し合おうといいつつ、ホテルに連れ込み、結局自分の欲求を満たしただけで終始した。
 それは祐馬も反省している。
 戸浪があまりにも切ってくれと言うので、どうにかして引き留めたいと思っていたた、めに、戸浪を引き留めようとしている焦りがあんな行動へと祐馬を駆り立てたのだ。もっと違うやり方で……と、いつも考えるが、戸浪を前にして、見ると口づけたくなる口元から「もう、止めよう」と聞かされると、祐馬はいつもそこで何もかもが吹っ飛んでしまう。
「……ふう……」
 パソコンの画面を見ながら祐馬は溜息をついた。
 どうしてこう自分は素直になれないのだろうか。
 確かに今更なのだが、今更だから白状しても良いのではないかと祐馬は思う。だが、戸浪がそんな勝手な想いを拒否するのも目に見えていた。
 冷静になりたいと思っても、最近の戸浪を見ていると冷静になれないのだからどうしようもない。祐馬がいくら言っても眼鏡を外さなかったのに、今は外している。
 その顔で笑みの一つでも向けて貰いたいのだが、目線はいつも祐馬ではなく、何処か違うところを見ていた。
 それなのに、他の人間には、時折笑みを向けるのだった。
 弟に対しては満面の笑みを戸浪は向けることが出来る。そんな表情を一度たりとも祐馬には見せてくれたことが無い。
 いや、一度だけあった。
 あれが戸浪に参ったそもそもの始まりだった。
 戸浪は覚えていないだろう。
 眼鏡が無いだけでどうして女が寄ってくるのだ。
 今まで戸浪の事を何も知らなかったくせに。そんな女共に戸浪はくそ真面目に断りの返事を出している。
 放っておけばいいのだ。
 最初に戸浪を見つけて目を付けていたのは祐馬なのだ。
 キョロキョロと見回して、人がいないのを確認すると、祐馬は戸浪の携帯に電話を掛けた。だが呼び出しているのだが誰も出ない。
 戸浪は眠っているのだろうかと思って切ろうとしたときに相手が出た。 「……もしもし?」
 戸浪と違う声であった。
「あ……澤村さんは?」
「あの、どちら様ですか?」
「……同僚の……三崎と言いますが……」
「ああ、会社の方ですね。今ずっと眠っていらっしゃいますので、急ぎならおこしますが?」
「いえ……その必要はありません。又電話します」
 祐馬は慌てて電話を切った。
「……なあんで電話したかなあ……」
 呟くように祐馬は言った。
 謝ろうと思ったのは確かだが、こういう電話を掛けて謝ることが出来た試しなど祐馬には無い。大抵戸浪に怒鳴って終わりだった。
 こんな自分が駄目なのだ。
 分かっているのにどうにもならない。
 だが何とかしなければ戸浪はどんどん自分から遠い存在になってしまう。
「三崎主任……お昼言ってなかったでしょう。お腹空きませんか?今部長もいないし言ってきたらどうです?」
「あ、そうだなあ……」
 部下に言われて時間を確認すると三時になっていた。
 食欲は無いが仕方なく立ち上がって食堂へ行くと、戸浪の弟がお弁当を広げているのを見つけた。
 そうだ、弟の方を味方につけりゃいいんだ。と、祐馬は考えつき、昼食を取りそろえたトレーを持って大地の隣に座った。
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