「君がいるから途方に暮れる」 第12章
寝室までくると、祐馬は戸浪を追い越して、部屋の隅にあるフェレットの小屋に向かった。それを眺めながら戸浪は置きっぱなしになっていた鞄とコートを手に取る。広い背が丸くなって見えるのは祐馬が籠からフェレットを出して小屋に移そうとしているからだ。
よほどフェレットが可愛いいのか、祐馬は膝に乗せたフェレットの頭を撫でている。戸浪を愛撫した暖かな手は今はフェレットのものだ。
それがふと寂しく戸浪には思えた。
「……その……ハートは止めろ!」
何を言って良いか分からずに、思わず戸浪はそんなことを口走っていた。
「うるせえよ。俺が気に入ってるんだからお前に指図されるいわれはねえ。それより……聞かないのか?こいつの名前の事……」
肩越しに祐馬に見つめられた戸浪は視線を逸らせるように顔を床に向ける。
「……別に……良くある名前だ」
「珍しいよ……トナミってな……」
「……じゃあ、変えろ。ぽちでもたまでも良いから変えろ」
「今更変えられるか。トナミはトナミなんだからな……」
愛おしそうに祐馬は眠っているフェレットの耳の辺りを撫でる。それを見た戸浪はこちらも耳がくすぐったく感じた。
「じゃあ、私は……」
戸浪が帰ろうときびすを返すと祐馬が独り言のように言った。
「なあ、こいつさ、二年前に俺が夜遅く帰ってきたときに拾ったんだ。小雨がふっててな、ゴミ置き場の隣を抜けようとしたら、暗闇でがさがさいうんだ。何だろうなあって思って覗いてみたら、囲いの端においてある紙袋が動くんだよ。それで、気味悪かったんだけど興味もあって、それを開けたら両手に乗るくらいのこいつが震えて丸くなってたんだ。飼う気なんか無かったんだけど、見つけたからにはそこに放置できないだろ。だから連れて帰ってきた。それからの付き合いなんだ……」
「お前にも雀の涙くらいの良いところがあるんだな」
コートに袖を通して戸浪は言った。
「俺……良い奴だと思うんだけどなア……」
「……自分で言うな。もう二度とペットの面倒は見ないからな」
そう言って振り返ると祐馬が床に倒れていた。
「お、おい!」
戸浪が駆け寄り自分より重量のある身体を支えて起こすと、祐馬は目を閉じたまま「……気分が悪い……」とだけ言って身体を弛緩させた。
「お前の面倒も見ろと言うのか?」
このまま転がしていこうかと戸浪は本気で考えたが、さっきまで眠っていたはずのフェレットがじっとこっちを見つめる視線に気がつき、今考えたことが実行に移せなくなった。
仕方無しに戸浪は祐馬を引きずり、何とかベッドに横たえた。それだけで息が切れるほど祐馬の身体は重かった。
「……はあ……全く……」
だらしなく身体を伸ばしている男に、戸浪が毛布を掛けるとさっきまで自分の小屋にいたフェレットがすかさず祐馬の横にやってきて丸くなった。
いつもこんな風に寝ているのだろうか。
寝返りでも打って下敷きにしてしまわないのだろうか……と考えたが、戸浪が心配することなど無いのだろう。
言葉に表せない奇妙なざわめきが心の中で渦巻いている。自分がどうしてここにいるのかも説明できない。
断ることも出来たのだ。
なのにどうして祐馬の頼みを聞いてやったのだ。
コートのボタンを留め、鞄を再度持ち直して戸浪はここを出ようと扉の目前まで来たのだが、何気なくベットで眠る祐馬の方を振り返った。
「……全く……」
戸浪は今着たコートを脱いだ。
フッと目が覚めるとトナミがいつものように枕元で眠っていた。細い毛がカーテンから漏れる日に照らされて光沢を放っている。
何時だ……
寝室の時計を確認すると翌日の、それも昼になる頃だった。
「俺、何時の間にここに寝たんだ?……記憶がねえなア……まあいいか」
呟くように言うと、隣で丸くなっていたトナミが顔を上げて肩の所まで駆け上がってきた。そこから祐馬の頬をぺろぺろとなめてくる。
「トナミってやっぱり可愛いなあ……。あー…でも腹減った……折角の代休なのに一日寝て過ごしそうだ……」
考えると昨日の晩も食べていない。それほど睡眠に対する欲求が強かったのだ。
「なんか作ろうか……でも怠いなあ……。しっかし、マジ今回は仕事で死ぬかと思ったよなあ」
一度起こした身体を祐馬はまたゴロンとベッドに倒して天井を眺める。すると今度は目の前にトナミが見えた。まん丸の小さな目が遊んで欲しいと訴えている。そんなトナミが祐馬には可愛い。
「トナミ……お前は戸浪に可愛がって貰っていたんだよな。いいなあ……羨ましいぞ。俺だって可愛がって貰いたいのによ……。なあ、あいつ何か言ってなかった?俺の悪口言ってたか?やっぱり嫌いだって言ってた?……はあ、俺って……馬鹿?」
一人で話しかけているのがなんだか馬鹿らしくなってきた祐馬はため息をついた。するとフェレットは又口元をペロペロとなめてくる。
これが本当に戸浪なら、そのまま抱きしめていただろう。だが現実は戸浪ではなく長細い身体を持ったフェレットのトナミだ。
いつから戸浪の身体に触れていないのだろうか。
会社では同じフロアにいるはずなのに、戸浪が避けているのか顔を合わせる事が全くない。フェレットの話を持ち出したのも、もちろん名前がトナミであるために他の人間に頼めなかったというのもあったが、それを知った戸浪の反応が知りたかっただけだったのだ。
遠回しに自分の気持ちが伝わるのではないか……
そんな、期待を持ったこともあったが、不快にさせただけでこちらの意図などくみ取ってはくれなかったようだ。
馬鹿だよ……俺は……
自分の本当の気持ちを吐き出してしまえば良かったのだろう。もっと早くに。だが何も出来なかった祐馬自身が悪いのだ。
「戸浪……愛してるよ……」
「じゃあ、フェレットとつがいにでもなるといい」
突然寝室に響いた声に、祐馬は目を見開いたまま声がすぐに出なかった。そろそろと身体を起こすと戸浪が寝室の扉の所に立っている。
多分、いや、当然今の言葉を聞かれただろう。その事実に祐馬はベッドから落ちそうになった。
「えっ!あ、戸浪?何やってるんだ?」
「何だと?お前が倒れたから私がくそ重い体を引きずってベッドに寝かせたんだ。様子を見て帰ろうと思ったんだが、お前が死んだみたいに眠っていたから心配になってね。とりあえず朝までここにいて、私は会社に出たんだが、お前が寝ていることでトナミのことが今度心配になってね。お腹を空かせているのに、お前が起きなかったら可哀想だろう?だから今日は昼から半休をとってまた様子を見に来たんだ」
一気に話す言葉に何処か不自然さがあった。
「お前……まさか、うちに朝までいたのか?」
祐馬は驚きながらそう言った。
何処にいたのだろう?
リビングのソファーで寝たのだろうか?
とはいえ、祐馬は何も知らずに今まで眠っていたのだから想像しかできない。
「多分眠いだけで眠っているんだとは思ったがね……。まだ寝ているようなら病院にでも連れて行ったところだ。まあ、今起きている姿を見て、本当に眠いだけで倒れたと言うことが分かってホッとした」
ふうと溜息をついて戸浪は言った。
「なあ……心配してくれたんだ……」
何故だか祐馬は嬉しくて仕方がない。戸浪が事もあろうに自分のことを心配してくれたのだ。こんな事は初めてだ。
「……仕方ないだろう」
寝室の扉の所に相変わらず立ったまま戸浪は言う。どうにかして側に来てもらいたいと思うのだが、こちらから近づくと戸浪が逃げ出してしまいそうだったので祐馬は動けなかった。何かいい方法がないかと考えあぐねていると、フェレットが後ろ足で立ち上がり、戸浪に向かってきゅうと鳴いた。
「お前を呼んでるぞ」
祐馬が戸浪に言うと、「ああもう」と、小さく言い、渋々ベッドに近寄ってきた。そんな戸浪にフェレットは嬉しそうに身体を左右にせわしなく動かして愛嬌を振りまく。戸浪は苦笑しながらもベッドに腰を下ろすと、フェレットの長細い背を撫でてやった。
「こいつお前のこと気に入ったみたいだな……」
「さあね。餌を貰える相手なら誰でもいいんだろう」
言いながらも戸浪は口元に笑みを浮かべていることに気がついているのだろうか。だが口に出してしまうと戸浪は又ポーカーフェイスに戻るだろう。
そういう男だった。
「戸浪……」
「どっちの?」
フェレットの方を向いたまま戸浪は言う。
「お前……」
「……なんだ?」
チラリとこちらを見て、またすぐに視線をフェレットに戻す。
「……我慢できない……」
祐馬は手を伸ばせばそこにいる戸浪を抱きしめてキスをしたいのだ。
「トイレは自分で行け」
「違う……」
我慢できなくなった祐馬は戸浪の手首を掴んだ。
「……あのなあ……」
「俺のこと……どうあっても嫌いか?許せないのか?」
「何を言ってるんだ?」
じっと見つめ返してくる戸浪の表情は困惑していても綺麗だった。
「終わった……終わったけどさ……俺はやっぱり納得できない」
「忙しくてたまっているのか?」
少し軽蔑するような表情で戸浪は言った。
「そうじゃない……違う……俺は……」
どう説明しようかと言葉を選んでいると戸浪の方から唇が触れられた。祐馬は思わず両腕を戸浪に廻して捕まえると、久しぶりの舌の感触を味わった。
「ん……」
唇を離そうとする戸浪をもう一度引き寄せて祐馬は口内を味わった。自分の体温が高いせいか、戸浪の舌がひんやりとした感触を伝えてきた。
「も……やめ……ろ……息が……」
と言い、離れようとする戸浪を今度はベットに引きずり込む。その時ベッドが揺れたせいでフェレットはするりと自分の小屋に戻っていった。
「……三崎……」
「……どうしてキスしてくれたんだ?」
「さあ……分からない……」
戸浪は困惑した顔でそう言った。
「……考えてみろよ……」
もしかして戸浪は好意を抱いてくれているのだろうか?
「習慣はなかなか身体から抜けないのかもしれない……」
暫くして戸浪がそう言うと祐馬は拘束している手を離した。
このまま抱き合えば今までと一緒。
確かに抱きしめたい。
このまま裸にしてしまいたいと思うが、今だけの快感を追ったところで後でまた戸浪は己の行動に後悔するだろう。
それは祐馬も望まない。
「……そうだな……でもよく考えると、どうせお前のことだから、又止めたいって言い出す。多分俺は、よりが戻る度にお前に期待するぞ。でもお前は……後悔する。どちらも辛いな」
祐馬の言葉に戸浪は唇をキュッと噛みしめた。自分のことを恥ずかしいとでも思ったのだろう。
「私は……」
目を伏せる戸浪の睫毛は意外に長かった。
「お前は完全に割り切れるか?俺は……もう割り切れねえぞ。身体も欲しい……でも……俺はそれより心が欲しい……いや、どっちも欲しいんだ……」
祐馬は正直に自分の気持ちを言った。
「……それはどういう言うことなんだ?」
戸浪は祐馬がここまで言っても自分が愛されていることに気がつかないのだろうか。
それはあんまりだ。
「……俺は……お前が好きだ」
祐馬の言葉に戸浪は視線を逸らせた。
「……」
「ああ。好きだ。好きだからお前を抱いてきた。……今更遅いかもしれないけど……な」
言ってしまうと気が楽になったが、今度は互いに落ちた沈黙が祐馬の気持ちを落ち込ませる。要するに言わなければ良かったという結果が出たのだろう。
何処までも自分は馬鹿なのだ。
関係を終わらせる前に言えば良かったのだ。
祐馬がうじうじと心の中で後悔していると、戸浪が言葉を発した。
「私が……その……一度……決めたことを自分から取り消したことがあるか?」
相変わらず戸浪は祐馬を見ようとしない。しかも何が言いたいのか祐馬には良くわからなかった。
「何のことだ?」
「……私は……」
ベットに仰向けになっている戸浪は手で自分の顔を隠した。
「はっきり言えよ……俺には、わからねえぞ」
顔を隠した手を掴んで脇にどかせると祐馬は戸浪の表情を読みとろうとした。
元々戸浪はポーカーフェイスで何を考えているのか表情を読みとりにくいからだ。
「もういい……」
絞り出すような声で戸浪は言う。
「何がもういいんだよ……。その、途中で言葉を切るのはよせ。言いたいことがあるんなら、分かるように言えよ。俺はお前と違って複雑に出来てねえんだよ。ストレートに言ってくれないと分からないんだ!おいっ、聞いてるか?」
何故か戸浪の顔は真っ赤になっている。
「……?」
「……馬鹿見るなっ!」
「何で……赤い顔してるんだ……?」
祐馬が不思議に思った瞬間、戸浪は顔を横に向けた。
「……私は……自分のことや思っていることを昔から上手く話せない……。誤解されても……それの解き方が分からない。そうすると……口を閉ざすことを選んできたんだ」
自分で決めたことを取り消したことが無いと言った。
確かにそうだ。
戸浪は頑固なのだ。
この関係を止めようと言ったことを取り消すつもりはない。だからそういう意味で抱き合うことはしない。だが、そうじゃないから抱き合いたい。と言いたいのだろうか?
「それって……もしかして……あのさあ……」
祐馬がそう言うと、戸浪は首元まで赤くした。
「……」
「俺の事……好き?なあ、そうなのか?なあって……」
祐馬はドキドキしながら戸浪をこちらに向かせた。赤い顔と何故か泣きそうな瞳がそこにあった。