「君がいるから途方に暮れる」 第10章
赤の他人からそんなことを言われる筋合いなど無い。なのにどうして博貴はああいうことを言うのか戸浪には分からなかった。例え知ったとしても、そっとしておくのが道理であろう。戸浪ならそうする。
くそ……
タクシーを拾い戸浪は自分のマンションに逃げ込むように帰った。そうして着替えることもなく寝室に向かうと、そのままベットに倒れ込んで溜息をつく。
乱された気持ちが未だに落ち着きを取り戻さない。
とにかく祐馬が大地にばらしたことがショックだったのだ。あの男は他にも戸浪とのことをばらしているのではないかと疑ってしまう。ようやく終わったと思っていたのに、どうして今頃こんな事で悩まないといけないのだ。
それよりどんな風に大地に言ったのだ?
一体何を話した?
何故大地は祐馬に手を挙げたのだ?
苛々する……
祐馬の所為だ。
戸浪自身が酷い目に合うのは構わない。何を言われようと耐える自信がある。だが、こんな自分を知られたくはなかった。
当分大地にはあえない……戸浪はそう考えながら目を閉じた。
翌日会社に出ると、自分の部署の人間が落ちつきなくうろうろとして、ざわついていた。そこに春日が通りかかったので戸浪は声を掛けた。
「春日、何かあったのか?」
「いえ、三崎さんが専務に呼ばれていて……一チームの仕事がストップしてるんですよ……。それは良いんですが、あそこ、今日入った仕事で急ぎがあるらしいんですが、三崎さんがいないことで動けないって……」
「専務に?何かあったのか?」
「三崎さんは専務の末娘の……えーと真由香さんでしたっけ。その人と婚約してたじゃないですか。それなのに彼女、昨日突然他の男と海外脱出したらしくって……。真由香さんの方の机にはきちんと辞表が入ってたとかで……なんだかもめてるみたいです」
それは祐馬が振られたと言うことなのだろうか。
「振られたってことかい?」
「ちょっと違うみたいですよ。その辺良く分からないんですけど……」
春日はため息をついて席に戻っていった。
何があったのだろうか?
どうでもいいが……
祐馬には大地の件で問いつめたいことがあった。だから今日はどうあっても祐馬と話をするつもりだったが、今は暫く待つしかないだろう。
「澤村君!」
自分の席に着いたところで戸浪は上司である柿本に呼ばれた。
「何でしょう?」
「ああ、一チームがストップしてるんだよ。ちょっと手伝いに行ってくれないか?かなり急ぎだそうで、配分を決めて欲しいそうだ」
「私で良ければ……」
本来なら関わりたくないが、仕事であるからそうもいかない。
戸浪は仕方なく一チームへ出向き、急ぎの仕事の配分を決め指示を出すと自分もその場に残って手伝うことにした。そうして他の部下に色々指示をしながら仕事を進めていたが、ふと気がつくと既に正午を過ぎていた。
戸浪はキーを叩く手を止めて、交代で食事を摂る指示を出し、また打ち込みの仕事に戻る。戸浪自身は最後に食堂へ行くことに決めた。
今は大地に会いたくなかったからだ。
他の人間が食事や休憩に出かけ、一チームのフロアに戸浪だけが仕事をしていると、祐馬が帰ってきた。
「なんだ、ひとんちで何やってるんだ」
祐馬は不機嫌そうにそう言う。
「ここの責任主任が朝からいなかったものでね。朝いちに急ぎが入って助っ人に入るように柿本部長に指示されたんだ」
色々聞きたいことがあるのだが、ここでは聞けないだろう。何時誰が戻ってくるか分からないから。
「それで仕事ってどんな?」
祐馬がそう言ったために、戸浪は指示書を渡した。
「段取りの組み方が違うだの、あれこれ言うなよ。やり方が違うのは仕方ないと今回は諦めてくれ」
「ああ、分かってる……。ん~又めんどくさいもんがきたなあ。じゃあ、交代するから俺の席からどけてくれ」
「ああ」
戸浪は席から立ち上がって祐馬と交代したが、顔を合わせてから祐馬と視線は合わせなかった。
「……何かあったのか?」
聞かなくても良いはずなのに戸浪は何故か気がつくとそう口にしていた。言ってしまってから自分の行為に驚いたほどだ。
「気になるか?」
祐馬は肩越しに振り返って苦笑いを浮かべている。
「別に……じゃあ、私は自分のチームに戻る」
きびすを返そうとした戸浪を祐馬は慌てて止めた。
「……待てよ……おまえんところ誰か手えあいてねえか?」
「今のところ何人か空いてるだろう。どうした?」
「俺、これにかかりっきりになるわけにはいかねえんだよ。他にも抱えててな。誰かよこしてくれるとありがたいんだが……」
「じゃあ、人を集めて柿本部長を通してこちらへよこしてやる」
「ああ、頼むわ」
話しはそれで終わりという風に背を向けた祐馬に戸浪も戻ろうと歩き出すと、食事に出ていた一チームの人間が何人か帰ってきた。
「あ、三崎主任帰ってきたんですか?」
嬉しそうにそう言って入ってきた。
「ああ、私はこれで戻るから、後は三崎さんに聞くといい」
「どうもありがとうございました」
「こらあ、お前らさっさと仕事してくれよ。俺一人じゃどうにもなんねーぞ」
そんなところに三崎が自分の席から叫んでいた。チームの人間は「済みません」と何故か嬉しそうに三崎の所に走っていく。
何が嬉しいのだと戸浪は不思議に思いながらその場を後にした。その足で柿本の所に行き、一チームから人を貸して欲しいという依頼を伝え、戸浪は自分の席に戻った。
何故あんな事を口走ったのだろう。
戸浪は先程祐馬に聞こうとした自分が信じられなかったのだ。祐馬のことはもうどうでもいいことであるのに、気がつくと口をついて出ていた。
元から関係のない話だったはずだった。
なのに……
答えが出ぬまま、戸浪はただため息をついた。
夜九時過ぎ、そろそろ退社しようと戸浪がコートを羽織っていると、春日が走ってきた。
「主任!ちょっと待ってください。三崎さんが呼んでるんですけど」
「なんだ?まだ人手がたりないのか?」
「さあ、とにかく話しがあるらしいです。いま医務室にいるのでちょっと帰りに寄って貰えませんか?」
「倒れたのかい?」
「いえ、ちょっと休憩してるらしいです。聞くとここのところほとんど睡眠取ってないらしくて……じゃあ、宜しくお願いします」
「分かった……」
ここで断るのも春日に変に思われるだろうと思った戸浪は仕方なく医務室に向かった。医務室と言っても誰か医者が待機している訳ではない。年に一回行われる健康診断の為の場所で、日常は仮眠室代わりに社員が使っている。
医務室の扉を開けると六畳ほどの広さの部屋に設置されたベッドが三つ見えた。その手前に祐馬は目を閉じて横になっていた。
昼間は良く分からなかったが、こうやって見ると確かに祐馬は疲れ切った顔をしている。
「三崎、なんだ。私はこれから帰るんだが……」
声を掛けると祐馬はパッと目を開いて身体を起こした。
「……あ、ああ……すまない。悪いんだけど……ホント悪いんだけどさ。頼まれてくれないか?」
手を合わせて祐馬は言う。
「だからなんだ?」
「帰りに俺のマンションに一瞬で良いから寄ってくれないか?」
「……あのなあ……」
「俺、今日は帰れそうにないからさ……。そうするとしんじまうかもしれないんだ。こういう時頼んでいる友達が今日いねえんだよ」
はあと大きなため息をついて祐馬はこちらをじっと見つめてくる。
「はあ?何か飼ってるのか?」
そういうと祐馬は今まで見せたことのない照れくさい顔をして頭をかく。そんな仕草に戸浪は胸に小さな痛みを覚えた。
「あー……ちょっとな」
「そのくらいなら、他の人間に頼め」
関わりたくない。祐馬も戸浪には頼みごとなどしたくはないはずなのに、何故こんな事を言うのだろうか。
戸浪が不審に思っていると祐馬が言った。
「他の人間にばれるよりお前にばれた方がまだマシだからな……。お前にとってもいいはずなんだよ……」
「どういう意味だ?良く分からないぞ」
「……駄目か?駄目なら……あいつ……しんじまうな……」
責任を転嫁しようとしているのかと戸浪はだんだん腹が立ってきた。
「お前が帰ってまた戻ってくればいいだろ?」
「マジで納期やばいんだよ……その時間も惜しいんだ……」
「ここで休んでる暇があったら仕事しろ」
「……俺がしんじまうって……あーもういいよ。俺だってな、お前に頼みたくはなかったんだよ……どうせ嫌がられるの分かってっから……。だから事情があるっていっただろ。でもいいさ、そこまで言うなら他の人間に行って貰うから……」
そう言って祐馬が背を向けるので、戸浪はその背中を見ながら考えた。
もしかして、妙な写真とか貼っているのではないか?
いや、もっと驚くようなものがうちにあるとか?
当然戸浪に関することだ。
だから祐馬は他の人間に頼むのを躊躇しているのだろう。
眠っているうちに取った写真などがその辺に転がっていたとしたら確かにまずい。もしそんなものが本当にあるなら全部処分出来るチャンスだ。
「今回だけ聞いてやる」
「良かった。マジで助かる。これ俺の住所、で、キーね」
困惑しながらも頼むという表情で祐馬は言った。
「で、どうしたらいいんだ?」
「冷蔵庫の野菜室にそいつ用の餌が分かるようにパックして入ってるからそれやってくれよ。水も新しいのに取り替えてくれたらそれでいいよ」
「ああ、分かった」
戸浪はそう言ってさっさとその場を後にした。
後ろから祐馬がもの言いたげに見送っていたことには気がつかなかった。
祐馬のマンションに着き、部屋の扉を開けると何か細長いものが走ってきた。
「わっ……!」
驚いた戸浪が思わずそう叫ぶと、細長い生き物は後ろ足だけで立ち上がってじいっとこちらを見つめ、次にくるりと振り返って何処かに走っていった。
「ふぇ……フェレット?」
イタチのようなその姿を戸浪は何度かペットショップで見たことがある。最近、一人暮らしのOLの間でペットとして人気だと聞いたこともあったが、まさか祐馬が飼っているとは思わなかった。
「馬鹿かあいつは……」
思わずそう呟いてキョロキョロと先程のフェレットを捜したが、見知らぬ人間が入ってきたことで何処かに隠れてしまったのだろう。
仕方なしに戸浪は、とりあえず餌をやろうとキッチンに向かった。
柔らかいベージュに統一されたキッチンはホッと出来る空間になっている。不思議な感じだった。雑然としている訳でもなく、かといって、自炊をしないから綺麗なのではなく、使い込まれた鍋や皿などが綺麗に洗われて並べられているのを見ると、祐馬がここで生活をしていることがわかる。
もっと汚くしていると思ったんだが……
そんなことは良いか。
システムキッチンに添うように置かれていた冷蔵庫の野菜室を開けると、そこに小さなビニール袋に野菜が入ったものがいくつもあった。
多分これだろうと戸浪が袋の一つを手に取ると、とんでもない言葉が書かれていた。
「トナミの餌……って……あのフェレットはトナミというのか!」
それも、戸浪のえさと書いて最後にハートマークだ。確認すると他の袋にも同じように書かれていて、戸浪は卒倒しそうになった。
「た……確かに……他の人間には見せられん……」
頭を抱えながら戸浪は例のフェレットを捜したが、何処にもいない。あちこち探しまわり、最後に寝室へ向かうと綺麗にベットメイクされた部屋の端に小さな小屋のようなものを見つけた。そこからごそごそという音が聞こえる。
小屋にはやはりトナミのおうち&ハートマークの文字が書かれていた。
「あ、あいつは何を考えてるんだ!」
かあっと血が昇った戸浪は思わずそう叫ぶ。するとがさごそと動いていた新聞紙がぴたりと止まった。
深いため息をついて、戸浪は野菜を袋から取り出すと、水が入れてある入れ物の隣にある空の入れ物に野菜を入れ、水の入っている入れ物を取り上げた。
「勝手に食べろよ……」
隠れている相手にそう言って戸浪はキッチンに戻ると入れ物を洗い、綺麗な水を入れて又寝室に戻ってきたのだが、例のフェレットが餌を食べた様子が無いことに気がついた。
「おい、帰るぞ。勝手に食べろよ……」
と言うのだが、新聞紙に潜ったフェレットは動かない。その様子に戸浪は不安になる。
昔、大地が犬を飼っていたのだが、戸浪は世話をしたことがない。だからどういう状態が普通なのか分からないのだ。
散々悩んだすえ戸浪は「おいで……出ておいで……美味しい餌があるぞ」と、恥ずかしい言い方だと思いながらもフェレットを呼んだ。が、顔も見せない。
時折、ごそごそ聞こえるのだから、ここにいるのだろう。だが刻んだ新聞に潜り込んで全く出てこないのだ。
「トナミ……ご飯だよ……」
と複雑な気持ちで戸浪が呼ぶとフェレットはようやく顔を上げた。黒く小さな瞳がじいっと戸浪を見つめる。そんなフェレットに戸浪は先程箱に入れた餌を持ってチラチラを振ると、そーっと餌を持つ手に近寄ってきた。
「お前の主人は仕事で帰られないらしいから……代わりに来たんだよ」
そう言うと暫く悩んだような顔をしてからフェレットは、ぱくりと餌に噛みつく。次に野菜を両手で持って食べる姿は意外に可愛い。
一枚食べ終わるごとにフェレットの方は戸浪に慣れてきたのか、最後の一枚を食べる頃には戸浪の膝まで乗って餌を食べた。
時折口元を野菜から離してふんふんと鼻を鳴らす仕草が可愛い。
祐馬が何故このフェレットにトナミとつけたのだろうか?
小猫ほどのある身体のフェレットは既に何年かここに飼われているのだろう。そうするとずっとトナミなのだ。
もしかしてトナミと名付けて苛めていたのだろうか?
だが目の前にいるフェレットは警戒心はあるようだが、虐待されたような感じはない。綺麗に手入れされた毛並みは艶があり、爪も綺麗に整えられていた。一晩帰られないくらいで餌の事を気にする祐馬なのだから、きっとこの小さな生き物を大事にしているのだろう。
しかし……
「……どうして私の名前なんだ?」
ベッドに腰をかけて戸浪は呟く。
床では、フェレットが丸い玉を転がして一人で遊んでいる。
あるだろうと思った妙な写真は何処にも無かった。混乱した気持ちだけが今どうして良いか分からずに途方に暮れていた。
ごく自然にベットに横になって戸浪がぼんやり考えていると、フェレットがこちらの身体に登ってきてふんふんと鼻を鳴らした。
「トナミ……か……」
自分が呼ばれたと勘違いしたのか、フェレットは嬉しそうに口元をペロペロとなめる。最初は変だと思わなかったのだが、これは間接キスになるのだろうか?とふと思ったことで、戸浪はそっとフェレットを離した。するとフェレットはベッドの脇にある机に乗り移ると今度は身体を毛繕いし始める。
そこに写真立てが立っていた。今まで枕で見えなかったのだ。
「……」
その写真立てには新人研修の最後の日に撮った写真が入っていた。もちろん戸浪も入っている。写真を撮られるのが嫌いな戸浪にとってこれは貴重な写真だろう。自分は何処にやってしまったのか思い出せないが、祐馬はこれを写真立てに入れている。
改めてこの写真を見て自分の真後ろに祐馬が写っているのに気がついた。
こういう写真だったろうか?
思い出せないが、戸浪は妙に強ばった顔で写っている。どちらかというときつい顔立ちだ。この顔が嫌で仕方ない。だから写真をとられるのが嫌だった。その後ろに一人だけ妙に嬉しそうに写っているのが祐馬だ。他の人間が緊張した顔をしているのに一人だけ嬉しそうな顔は周囲から当然浮いていた。
全体写真だった筈なのだが、戸浪と祐馬が写り込んでいる部分だけをカットして手の平位の写真立てに入れていた。
抜いて持って帰ってやろうかと思ったが、祐馬がこんな風に大事にしている写真を勝手に持ち出すことは出来ないだろう。もっと妙な写真なら処分していた。だが見つけたのはごく普通の写真だった。
「……」
あいつが私にしてきたことは……欲望を処理するだけの……。そう考えて戸浪は頭を振った。それは自分もそうだったのだ。決して祐馬だけが悪いのではない。戸浪とて、それで良しとしてきたのだ。苦しくなって止めたいと思ったのは、祐馬に婚約者が出来たことを知ってからだ。例え欲望を処理するだけの関係であっても、自分だけが特別だと思っていたから続けて来られた。だが、自分が特別でないと分かったときに、苦しくて止めたいと思った。
割り切ってきたはずなのに、本当にそんな存在だと思い知らされて苦しくなったから。
気がつくとトナミは黒い瞳をこちらに向けていた。
「……なんだい?」
そう言うとトナミは又膝の上に乗り、今度は丸くなって眠ってしまった。戸浪はそのまま動けなくなってとうとう朝までそこですごした。