Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第1章

前頁タイトル次頁
 男は、月を見上げながら思った。
 自分にこんな屈辱を味合わせたことを後悔させてやる、と。
 男は、星を見つめながら思った。
 地面を這い蹲り、涙ながらに懇願するまで、手を緩めない、と。
 それから…
 その先に、死の切符を用意しておいてやろう。いずれ自らそれを欲するようになるだろうから……
 


 そろそろ約束の時間が迫ってきたので、トシは銃を保管室に返し、帰る支度をした。
「隠岐、明日休暇だってな。羨ましいよ」
 トシは出口で、科警研(科学警察研究所)の木下とばったり会った。
 木下はちょっと憎らしげに、トシの首を絞める。
「でも、一ヶ月ぶりだよ。そんな毎日を過ごしたいなら、一課と代わる?」
 トシは、にこりと笑って同期である木下に言った。
「ご冗談!ま、楽しんでくれたまえ。そうそう、やっぱりコレとか?」
 木下はトシから手を離すと、今度はそう言って小指を立てて見せた。
「そうしたいのは山々だけど、そういった相手がいないから…」
 言ってトシは照れくさそうに頭をかいた。
「ふうん。お前くらいの男なら、一人や二人居そうなもんだけどな…。真面目すぎるのかもな、警察庁でいい子が居たら紹介してやるよ。じゃあなっ」
 そう言って木下は、トシが今来た道を走っていった。
『何だ、木下の奴、俺の首をさわりやがって…もしかして、トシ、お前に気があるんじゃないのか?』
 あったとしても利一だろうとトシは思いながら言った。
『友情をそんな風に勘ぐるのは、リーチだけだよっ』
 この青年は、名前を隠岐利一と言い、年齢は二十五才。警視庁捜査一課強行班三係に配属されている。身長はそれほど高くはないが、すらりとした延びた手足が、細身の体を実際の身長より高く見せていた。目は男にすればやや大きく、黒目がちの目が笑うと子供のような表情を見せ、大抵年齢より、かなり低く見られた。
 外見がそんな風体であったので、殺人事件を扱う部所には不似合いに思われがちであったが、一課の事件を積極的に解決し、数々の表彰を受けていた。又、剣道と空手の有段者であり、射撃の腕は全国で上位に位置し、コンピュータを扱わせれば右にでるものはなく、犯罪心理学の学位とFBI研修時にプロファイルの経験を積んだ。その上、日常会話程度なら英語、フランス語、ドイツ語が話せた。
 そういうわけで、一課に所属しては居たが、他部署からの勧誘も多く、利一の上司はそれを断るのに大変であった。
 そう言う訳で、彼は警視庁内から羨望の眼差しで見られていたが、実は秘密があった。
『俺の時に休暇が当たれば良かったのにな…。なぁ、一生のお願いだ!トシ、一日チェンジしてくれよ』
『何度一生のお願いを聞いてやったのか忘れてるだろ。それに、リーチは先週ずっと雪久さんの家にいたじゃないか。僕なんか恭眞に三週間も会ってないんだよ!』
 雪久というのは、名を名執雪久と言い警察病院の外科医で、リーチの恋人。
 恭眞というのは、名を幾浦恭眞と言い外資系のコンピュータ会社に勤めるトシの恋人。
 勿論、どちらも男性であった。
『そんなに怒るなよ…冗談だって、冗談』
『御邪魔虫はさっさとスリープしてよね』
 スリープとは意識の眠りである。
 そう、彼らは一つの身体に二つの魂を持っているのだ。
「うわっ!まずいっ。時間におくれちゃうよ」
 トシは手を上げ、タクシーを止めたが、後ろから聞き慣れた声が自分を呼び止めるのが聞こえた。
「トシさーん。ちょっと、待って待って」
 声をかけた人物は白衣をはためかせ、トシに走り寄った。それは、リーチの恋人の名執であった。
「どうしたんですか、雪久さん」
 名執は形のいい額にうっすら汗を滲ませ、リーチがその手で患者に触れて欲しくないと、駄々をこねる程の美しい指で、トシの肩を掴んだ。
 トシは、名執の細くしなやかな指を見て、リーチがそう言うのも無理がないな…と思った。
「リーチが…写真をトシさんに…渡しておいて欲しいって昨日言って…ましたから。良かったここでトシさんを捕まえられて……。近くまで来る用事がありましたから来てみたのですが、会えるとは思いませんでしたよ」
 余程、急いで走ってきたのか、名執の言葉は吐く息で切れ切れに聞こえた。
「え?雪久さん車は?」
「この辺りに止めると、思いっきり駐車禁止に引っかかりますからね。ちょっと離れた所に止めているんですよ。私の方は今から出勤なのですが……」
「そうだったんですか、でも写真…ですか。雪久さんには悪いけど、僕は預かっても当分見せるつもりありませんよ。だって今週のプライベートは僕の番なんですから」
 そう言って、トシはぷいっと横を向いた。
 名執は唯一この二人の秘密を知っている人間である。
 名執はクスリと笑った。その顔を見て、トシは思った。
 本当に雪久さんって、綺麗だよな…何であんな根性悪のリーチに惚れたのか分からない よ…。
 フランス人とのハーフで、髪も瞳も真っ黒じゃなくて、柔らかい茶色。形の良い眉に長いまつげ。瞳はいつも潤んでいるように見える。物腰は柔らかくて本当に本当にいい人なんだよな。でもこんな人がメスをもって、手術してるなんて…うーん世の中分からないもんだよな。
「兄ちゃん、乗るのか乗らないのかどっちだい?」
 タクシーの運転手は、苛々とトシに言った。
「あ…乗ります。乗ります。じゃ今回は雪久さんの顔に免じて、渡しておきます」
 そう言ってトシは、雪久の持っていた封筒をサッと取ると、タクシーに乗り込んだ」
「ありがとうございます。じゃ、良い夜を」
「えっ」
 トシが振り向くと既にタクシーは走り出し、雪久は小さく見えた。
 リーチの奴…雪久さんに、今日僕が、恭眞の所に泊まること言ったんだ…もー。
 と考えながら、トシは嫌な顔をしていなかった。
 トシは、幾浦と約束した公園を運転手に言うと、座席に沈み込むように座わった。
 タクシーの窓から見える街の明かりは、終わりのない光の河となって尾を引き、トシの瞳に反射している。
 利一に両親はいない。二才の頃、孤児院の玄関に置き去りにされていた。その時、体中に傷と打撲を負っており、すぐに病院に収容された。孤児院の院長は、その子供の両親を捜したが見つからず、利一は退院するとその孤児院で暮らすことになった。
 いつからお互いを意識したのか二人とも分からないが、物心付いた頃からお互いの存在を知っており、他の人も自分達と同じだと信じていた。
 しかし、利一が小学校四年の時、頻繁に人格が変わったり、一人で二人を演じる少年に不安を感じた院長は、精神科の友人にカルテを残さないという条件で、診察を受けることになった。(将来の就職時に二重人格であったと分かり、希望の職種を選べなくなることを院長は危惧した為である)
 精神科の医者は、捨てられていた時の様子から、両親どちらかから虐待を受け、片方の親がそれを止めることが出来ない為に、子供を孤児院に置き去りにしたのだろうと予想し、更にその時の心の傷がもう一人の人格を生み出す土壌になったのだろうと院長に言った。
 院長は利一が不憫でならず、医者にどうにかしてやって欲しいと頼み込んだが、二人にとっては迷惑な話であった。
 治療過程は、約一年間続いた。パーソナリティの統合という治療であったが問題はどちらが基本のパーソナリティであるのかが医者にも、当の二人にも分からなかったのである。普通に考えると、この二重人格が虐待によって引き起こされたのであれば、利一が自分を守るため、自分より強く喧嘩っ早い性格を持つリーチの方を、後から形成させたと思われたが、二つの人格は余りにもお互いを依存し合い、統合といっても簡単に出来ず、困難を極めた。
 二人は治療過程が進むとお互い危機を感じた。どちらかが消えて無くなるという不安。
 実際は消えるわけでなく、統合され一つに成ることであったのだが、二人はそれを拒否し、対抗する為にある方法を作り出した。利一を意識的に作ったのである。もう一つ別人格が生まれたわけでなく、トシとリーチを足して割った様な性格を二人で想像し、創り、その人物を二人が演じることであった。
 二人のこの作戦は功を奏し、今に至るわけである。
 色々、危ない橋を渡る事もあったが、現在まで上手くやってきた。
 トシとリーチは一週間交替で体の支配権を受け渡ししている。例えば、この週がトシの番だとすると、リーチは意識の中にある花畑で横になっている。(何故そんな所があるのか二人にも分からないが、とにかく花畑があるのだ)トシの仕事中は休んでいるリーチの意識も目覚めていて、トシが見ている景色を眺めている。(花畑に大きなスクリーンがあるといった方がいい)勿論、会話も聞こえている。トシが犯人に対し体力的な事や(跳んだり、走ったりも含む)犯人と対峙するような時、瞬時に体の支配権の交替が行われる。言うなればリーチが空手や剣道の段を持っており、射撃も一流である。反対にトシはそういう事は全く苦手な反面、捜査方法の構築やコンピュータ関連の犯罪、プロファイルの作成など、頭をフルに使うことを得意としているので、リーチが支配権を行使している最中に頭を使う場に遭遇すれば、そこで支配権の交替が行われる。
 いずれも役目が終われば、早々に花畑に引っ込む。そして、プライベートは支配権を持っていない方がスリープという意識の休眠状態になり(要するに花畑で寝ているだけなのだが)お互いのプライバシーを完全に守る事を厳守している。
 両親も兄弟も居なかったトシにとって、リーチは大切な人であった。たとえ肉体は一つであっても、二人だから乗り越えて来れたことが沢山ある。口ではさんざん悪態を付いたりするが、本心からではない。
 今度、休暇の時に自分の番だったら、譲ってやろう。
 そう思っているうちにタクシーは公園に着いた。
 トシは精算をして車を降り、約束の噴水前で、ぐるりと見渡した。
「良かった。間に合ったみたいだ」
 トシはホッと胸をなで下ろすと近くのベンチに座って待つことにした。
 あれ、ここは警察病院の近くだ…雪久さんの車に同乗させて貰ったら良かった。
 雪久はリーチの番でない週に夜勤をまとめて取るので、今日から病院で寝ずの番をする事を知っていたのである。
 時間は七時五分、辺りは水銀灯で照らし出され、時折カップルが仲良く腕を組み通り過ぎて行く。それを見ながらトシは幾浦のことを思った。
 三ヶ月前、とあるコンピューター会社内で起こった殺人事件を解決するために、トシ達はその会社に新人として配属された。
 二週間の期限付で潜入捜査を行ったその時のトシ達の上司が幾浦で、トシの第一印象は寡黙な男だった。
 幾浦は二十七才であったが役職は部長代理で、自分より年上の人間の上司であった。それは実力主義の外資系では珍しくない光景だった。
 髪と瞳は漆黒で、切れ長の眼とすっきり通った鼻梁が、印象的であった。まるで雲のない夜に浮かぶ月のようなイメージをトシは浮かべた。身長もトシが少し分けて欲しいと思うくらい高く、百八十三センチあった。
 幾浦はことあるごとにトシに対して厳しく接していたが、それはトシを本当の新人と思い、育てようとしていたのだ。それが分かるとトシもその幾浦に答えたいと頑張った。が、所詮、自分は刑事でしかも犯人を特定するために潜入していたのだ。
 結局、そのトシ達の身分もばれ、犯人も無事逮捕したのだが、トシは幾浦の事が忘れられず、すったもんだの末、いつの間にかつき合うようになっていた。
 幾浦は社内では頼りになる上司と言われていたが、どちらかと言うと寡黙で、余り私事を話さず、尊敬されながらも恐れられていた。だがその企業戦士である幾浦の、本当の素顔を知って、トシは惹かれた。
 自分だけが知っている。
 本当はすごく照れ屋で、ただ表情を作るのが下手くそなんだ。容貌は男前だけど切れ長の瞳の所為で、人から取っつきにくい印象を与えているだけだ。別に仕事がすごく好きだと言う訳では無かったが、趣味もないのでとりあえず仕事をしていたら出世していたとか、実はマンションにアフガンハウンドを飼っていて、可愛がっている事も知っている。
 トシは一人デレデレと、そんな事を思い巡らせていると幾浦が自分を呼ぶ声を聞いた。声のする方を振り向くと幾浦がトシに向かって走ってくる。
「すまない、帰り際、会社で少しトラブったので遅れてしまったな」
 幾浦はそう言うと、少し乱れた前髪をかき上げた。ブランドのスーツをさらりと着こなしている幾浦を見てトシは、二度惚れした。
「僕も今来たとこ」
 そう言ってトシは満面の笑みを幾浦に返す。
 しかし幾浦はどことなく引っかかったような笑みを返しただけであった。
 ?
 どうしたんだろ…なんかいつもと違うな。
「車…止めてあるから」
 そう言ってトシに背を向けた幾浦が何となく他人行儀に見えた。
「あの…さ、なにかあった?」
「えっ…何か言ったか?」
 こちらを振り返ることなく、幾浦は一呼吸置いて応えた。そんな幾浦の態度にトシは不安になった。
「仕事忙しいんだったら…」
 今日は帰るよ…と、トシが言おうとすると、幾浦は振り返り右腕を掴んだ。
「いたっ」
 トシは小さな悲鳴を上げた。
「済まん。痛かったか?怪我…してるのか?」
「い…一週間前、犯人と揉み合いになってナイフで刺されたんだ…」
 トシがそう言っている間に幾浦は、掴んでいる腕の袖をまくり上げ、まだ少し血が滲んでいる白い包帯を見つめた。
 トシは幾浦がどうしてこんな行動をとるのか皆目、見当が付かなかった。
 幾浦は掴んだ右腕を放そうとせず、酷く真剣な顔をして、掴んだ手に力をじわじわかける。言葉を掛けることもためらわれる幾浦の表情に圧倒されたトシは、とうとう涙目になった。そんなトシに気付いた幾浦は掴んでいる手の力を緩め、おもむろにトシを引き寄せその胸に抱いた。
 本来ならば、三週間ぶりの抱擁に幸せな気分に浸っていた所だが、トシはいつもと違う幾浦に動揺を隠せなかった。
「恭眞?」
「……うん」
「何かあった?」
「いや……」
「……」
 暫くそうしてから幾浦は、トシを腕の中から解放し、怪我をしていない方の手を握って歩き出した。その背中は、一切の問いかけを拒んでいるようにトシに思え、トシは言葉をかけられなかった。そう言う状態で、トシは幾浦に半ば引きずられるように車に乗せられた。
 紺のベンツはゆっくりと発進し、幾浦のマンションに着くまで二人とも一言も言葉を発しなかった。その沈黙の中、一言だけ幾浦はトシに問いかけた。
 兄弟居たか?
 それに対しトシは黙って、横に首を振っただけであった。幾浦のその問いかけが何を意味しているのかトシには分からなかった。
 幾浦の住む3LDKのマンションは、都内でも有数の高級マンションで、一戸億単位のものであった。幾浦は二〇代前半に、新しいコンピュータシステムを開発し世界中でヒットさせた。その報酬として、会社側から与えられたものであった。他にも換金は自由の自社株も、その働きによって毎年与えられ、いつの間にか膨らみ、かなりの資産を有していた。 
 トシが初めてここに連れられたときてっきり家族で住んでいるものと勘違いをした。
 独りで住むには余りにも広い部屋だったからであった。
 幾浦は何か考え事をしているのか、エレベーターの中では目を瞑り無言であった。トシは、そんな幾浦をまともに見ることができず、視線をずっと床に貼り付けていた。
 部屋の電子ロックを解除すると、アフガンハウンドのアルがトシに飛びついてきた。アルは嬉しさを隠せないようにトシの頬をペロペロ舐める。
「くすぐったいよ…アル。元気にしてた?」
 トシが、毛足の長いその体を抱きしめてやるとアルはクンクン鼻を鳴らし、尾をぐるぐる回した。そんな姿を後目に、幾浦はさっさと部屋に入っていった。
「ね、アル。ご主人様の機嫌が悪いんだ。どうしてか知ってる?」
 トシが小声でアルに問いかけたが、くうんと一声鳴くと、さあー…という様な顔をした。
 幾浦は居間で上着を脱ぎ、ネクタイを緩めていた。トシはそんな幾浦に声をかけた。
「僕、食事の用意するね。冷蔵庫のもの勝手に使うけど良い?」
「え…ああ」
 幾浦は側にトシが居るのを初めて知ったという様な顔をしてそう言った。
 ま…いいか。何があったのか分からないけど、落ち着いたら話してくれるよ、きっと
 トシはそう思うことにし、自分は普段通りに振る舞うことに決めた。

 トシがキッチンに向かって行く後ろを、アルがピッタリくっついて歩く。幾浦は、その後ろ姿を見送るとソファーに座り込み小さなため息をついた。
 あの公園で待ち合わせすることにトシは何の動揺も見せなかった…
 幾浦はトシとさっき会った時のことを細部に渡って思い出そうとした。
 トシはいつもと同じだった。変わらぬ笑顔を向けてくれた。だが…うちの内藤が、トシを見間違える訳がないんだ。その上、右腕の怪我…
 幾浦は、今朝、部内会議が始まる前、頭をハンマーで殴られる様な話を聞いた。
 その会議は十時からであったが、この日の会議は他部所との合同だった。しかし出席予定の部でトラブルがあり、仕方なく会議の時間を十時半に変更する事になった。
 既に会議室に入っていた幾浦とその部下の槙田、川上らは三十分そこで時間を潰すことにした。幾浦はその時間が惜しくて、携帯用のノートパソコンを開き自分の仕事をしていたが、槙田と川上は同期である気安さで世間話に花を咲かせていた。
「…の公園でさ、昨日の晩彼女とデートしてたんだよ。そしたら誰を見たと思う?」
 槙田は意味深に川上に言った。
「誰だよ…俺の知ってる奴か?」
「知ってるも何も、社内の人間じゃなくて、ほら、三ヶ月程前にうちの会社に何日か来たあの刑事さん。何てったかな…そうそう、隠岐って名の刑事さん。覚えてるだろ」
 そこで、キーを叩く幾浦の手が止まった。幾浦は二人の会話に気にも止めて居ない様な表情を作り、耳をそばだてた。
「はいはい、ちょっと可愛い顔した、目の大きな刑事さんだ」
 川上はポンっと手を叩くとそう言った。
「連れはてっきり女かと思ったんだけど、すごい綺麗な男だったんだ」
「それで、それで」
 川上は、興味津々と言う風に槙田に詰め寄る。
「俺さ、彼女と一緒にそっとつけてみたんだ、そしたら公園の奥に入っていくじゃないか、俺達、マジ、気になって見てたら、最初綺麗な方の男がなんか話して、刑事さんが包帯をした右腕を見せた。きっとなんかの事件で怪我したんだろうな。そしたらその手を綺麗な男が愛おしそうに唇に当てて、二人が見つめ合ったー…と思ったら、突然二人が抱き合って…」
「抱き合って?」
「キスしたんだ」
 ガタン
「急に立ち上がって、どうしたんですか?代理」
 川上が幾浦を見て言った。
「あ…いや、何でもない」
 幾浦はそう言って、浮かせた腰を椅子に降ろした。
 突然のことに一瞬驚いた二人であったが、幾浦が再度パソコンのキーを叩き出すのを見て、先程の話を続けた。
「問題はそれからなんだよ、聞いてびっくりするぜ!」
「内藤、焦らすなよ」
 川上は、居ても立っても居られないと言う表情で内藤を見つめた。
 だから、何だ、早く言え!
 幾浦は苛々としながら会話の続きを待った。
「木陰に隠れて、まった~抱き合ってさ、もうここでやる気かっていうくらい、ディープなキスの応酬だったんだ」
「ヒューやるなあ」
 川上が口笛を鳴らしてそう言った。
「俺だって、驚いたよ…。コンピュータ扱ってたあの手つきや、プログラムを組むあの頭脳が、俺達専門の人間より数段上だったからさ…結構、尊敬してたし。けど俺さ、実際そうゆうのを初めて見て、ショックで真っ白になってしまったんだ。なのに俺の彼女なんかへっちゃらでさ、ホモって居るんだ、へーっって感心して、ついに出た言葉が愛し合う二人をそっとしてあげましょうだってよ。女の方があっけらかんとしてるんだぜ、参ったよ」
 ショックで、真っ白なのは幾浦の方であった。
「本当に、隠岐刑事だったのか?」
 そこで幾浦が二人の会話に入った。
「ええ、そうですよ。まだ三ヶ月前の話ですし、見間違える事はまずありません。代理程の人が、あの刑事さんに感心してたみたいでしたから、こんな話聞いて驚かれたんじゃありませんか?」
 槙田は幾浦にそう聞いた。
「少しばかりな…。しかし、人の好みは色々だろう。くだらん話はいい加減にして、会議資料でも読んでいろ」
 幾浦のショックは少しばかりでは無かった。
「あっ、はい申し訳ありません」
 槙田はそう言うと会議資料の束を手に取り、ゆっくり目を通し始めた。川上も槙田を見習って資料を読み始めた。
 幾浦は気分によって、部下を振り回すこともなく、冷静沈着で的確な指示を出す上司であったが、この日ばかりはミスを連発し、何人かの部下を怒鳴った。部下達の中にはそんな幾浦を見て、天変地異の前触れではないかと真剣に考えた者もいた。
 聞けば良いんだ、そうすれば他人のそら似だという事が分かる。トシが二股をかけられるような人間で無いことは私が一番知っていることだろう
 意を決して幾浦はキッチンに向かった。
 キッチンではトシが、アルに話しかけていた。
「お宅のご主人様は、野菜の好き嫌いが多いから、こうやって小さく切って、何でも煮込んじゃうんだよ」
 そう言ってトシは、既に肉を炒めておいた圧力鍋に、切り終わった野菜を入れていた。
 アルは、戸口に立ってその光景を見ている幾浦に気付いたが、チラリと視線を投げかけただけで、すぐトシに視線を戻した。それというのも幾浦が、アルに餌として与えるのはドックフードだけであったが、トシの場合、料理の最中、肉を炒めればその肉を一片、卵をゆでれば余分に一個ありつける事を知っていたからであった。
 アルはトシにねだるように、お座りの姿勢でトシのズボンを何度も前足で器用に叩く。
「おまえさー。さっきお肉、沢山あげただろ。これ以上はもうだめだよ。シチューがジャガイモと人参、ブロッコリーだけになっちゃうよ」
 そう言って曇りなく笑うトシを見た幾浦は、立って見つめている事が出来なくなり、後ろからいきなり抱きしめた。
「恭眞…」
 幾浦の腕の中にすっぽり収まったトシは、気持ちいいのか目を細めた。
「な、トシ…ここに一緒に住まないか?一人増えても充分広い家だし、アルも喜ぶ」
「嬉しいけど…それは出来ないよ。僕の仕事は他のどんな仕事に較べても不規則だから、恭眞の生活リズムを絶対狂わせてしまうから…」
 トシが、うんと言えない本当の理由は別にあったが、幾浦はそれを知らない。
「いい。そんなことは気にするな、私は大丈夫だ。だからここに…」
 トシは、廻されている腕を払い、幾浦に向き直ると今度は自分から抱きついた。
「だめだよ。それは出来ない。生活リズム狂わされた恭眞に文句言われるのがおちだから」
「トシ…」
 いつの間にかトシを抱きしめている幾浦の腕に力が入る。
 そんな風に私の申し出を断るのは、やはり他に誰かが居るからなのか?
 トシが、ただその抱擁に酔っている時、幾浦は心の中に生まれた疑惑を益々強めていた。 一度、居座った疑惑は雪だるま式にその重みを増していく。幾浦はそれを否定しながらも否定できずにいる自分を情けなく思った。
「恭眞…夕食の支度が出来ないよ」
 幾浦がそんなことを考えていることなど全く知らないトシは、いつもの笑顔でそう言った。
「ああ…」
 幾浦は若干腕の力を緩めたが、トシの背中で自分の手を組み、完全な解放はしなかった。
「そうだ、明日…ディズニーランド連れて行ってくれるんだよね」
 トシは幾浦を見つめ、相変わらず無邪気に振る舞っている。
「約束だからな」
 トシ達は、二ヶ月ほど前ディズニーランドで誘拐犯から少女を助けるのに失敗しかけた。
 結局、少女は保護されたが、一週間意識不明で生死の境を彷徨わせてしまい、その時のショックで、そこへ入ることが出来なくなってしまった。
「怖いか?」
 その話を幾浦はトシから聞いていた。だから一緒に行ってみるかと提案していたのだ。
「少し…」
「大丈夫だ、私が付いてる」
「うん」
「なあトシ…。話を戻すが、一緒に暮らす事を真剣に考えておいて欲しい。出来ればいい返事が聞きたい。いや、返事はイエスしか受け付けない」
 幾浦は真摯な眼差しをトシに向け、その瞳は有無を言わせない光を発していた。
「だめ」
 トシは幾浦の視線を避けるように、俯いて首を振った。しかし、幾浦はトシの顎を掴み、視線を避ける事を許さなかった。
「刑事なんて仕事を辞めさせて、お前をここに閉じこめてしまいたい。私の目の届くところにいて欲しい。私だけに微笑んでいて貰いたい。いつもいつもそう思っている。そんな事は出来ないことは充分解っている。だからせめて…」
 幾浦が言葉を言い終える前にトシは言った。
「僕には恭眞しか見えない。恭眞しかいらない、欲しくない。僕は恭眞のものだよ」
 幾浦はその言葉を聞きくと、もう待ちきれなくなって、トシを抱き上げた。
「恭眞、夕食が…」
 トシは言いながらちらりと視線をコンロの方に向けガスを付けていないことを確認すると、もう一度幾浦の方を向いた。
「三週間おあずけをさせられた、もう待てない…」
 そう言って幾浦はトシを寝室まで運ぶと、ダブルのベットに下ろした。
 そして幾浦はトシのネクタイを手荒に解き、シャツは一番上のボタンだけ外した。次に、その裾を掴むと両手を上に挙げさせ、捲り上げ、頭から引き抜くように脱がす。
 元々、そんな風に脱ぐシャツではなかったので、捲り上げられた時、裏が返ったシャツのボタンでトシは鼻を擦った。
「ど、どうしたの?」
 トシはそんなこちらに驚いたのか、幾浦の肩に手をかけようとしたが、その手を掴みトシをベットに押し倒した。
「きょ…」
 トシは幾浦の名を呼ぼうとした。しかし、その口を塞ぎ、幾浦は言葉を発することをさせなかった。
「……う……ん……」
 幾浦の舌は、トシの口蓋を丹念になぞり、舌を絡ませた。吸い寄せて放し、時には喉の奥まで進入させる。そのあまりの激しさにトシは何度もくぐもった声を上げた。
 トシの口の端から混じり合った二人の唾液がこぼれ落ちる。しかし、そんな事などお構いなしに幾浦は、執拗にトシの舌を嬲った。
 暫くそうしてようやく解放したトシの口から小さな喘ぎが洩れた。
「恭…眞。手…力緩めて」
 トシはやっとそれだけを喘ぎの中から絞り出すと、うっすら笑った。
 こんな表情を他の奴にも見せたのか?
 幾浦は真実を聞けない自分の歯がゆさに苛立った。
 右手を腰に這わせ、ズボンの上からトシのものを、繰り返し擦り上げる。
「あっー…はぁ」
 幾浦は、ズボンの布地を通して、トシのものは堅さを増してくるのが分かった。
「きょ…まぁ…」
 切ない響きを持ったトシの声は、疑いの火を灯らせた幾浦の心を激しく揺さぶった。
 そんな風に誰かを呼ぶのか?
 トシのズボンのベルトを緩め、幾浦は手を滑り込ませる。久しぶりに愛しい恋人のものを掴んだ幾浦は今、自分の中に、トシを滅茶苦茶に犯してやりたいという欲望と嫉妬で一杯になっている事を認識した。
「んっ、あ…あっ…」
 そんな声で、私以外の人間に鳴いて聞かせるのか?トシ!
 心の中で幾浦は叫ぶと、まだ準備の出来ていないトシの身体の奥にに二本の指をねじ込んだ。その瞬間、トシは言葉にならない悲鳴を上げた。
「き…恭眞!いっ、痛い」
 トシは身をよじって、その異物から逃れようとしたが、幾浦の身体はトシの両足の間に身体を入れていたので、動くことすら出来なかった。
「や…嫌だ…。恭眞、抜いてよ」
 その言葉を幾浦は無視し、奥を抉るように指を廻した。乾いた接合点から、ギリリという音が聞こえてくるような激しさであった。トシの身体は激痛の為に、身体を弓なりにのけ反らせる。だが幾浦の手は執拗にその部分を攻めた。トシはその度に何度も叫び声を上げ、とうとう見開いた瞳から大粒の涙があふれ出した。
「ど…どう…して」
 嗚咽と共に発せられた、掠れたトシの声を聞き、やっと我に返った幾浦は、その拘束していた力を一気に解いた。
 身体の自由が戻ったトシは、恐怖と痛みでで身を縮込ませ、全身の震えを止めることが出来ずに、自分を守ろうと横向きに丸まった。
「どうしたんだよ…何があったんだよ…言ってくれなきゃ、僕には分からないよ」
 一瞬言い淀んだ幾浦だったが、暫くの沈黙の後、口を開いた。
「昨日の晩、どうしてた?」
 眉根をひそめた幾浦が、苦しそうにトシに聞く。
「昨日の晩?」
 トシがサッと顔色を変えたのを幾浦は見逃さなかった。
「昨日の晩、今日待ち合わせした公園で、お前によく似た男を見かけたんだ」
 実際はその話を聞いたのだが、幾浦は見たと言ってしまった。
(連れはてっきり女かと思ったんだけど、すごい綺麗な男だったんだ)
「その男は、綺麗な男と一緒に歩いていた」
 トシは横向きにこちらの言うことをじっと聞いているようであった。
「私は何となく気になってな、仕事で忙しいと言っていたお前がそんな所にいるわけが無いんだが、余りにもトシにそっくりだったから、つい、後を追いかけてしまった」
 トシが僅かに動いたように幾浦には見えた。
「綺麗な方の男が、相手の男の包帯をした右腕を掴んで、愛おしそうに口づけした。そして…」
(二人が見つめ合ったー…と思ったら、突然二人が抱き合って…)
「キスした」
 トシはぎゅっと目を閉じた。
「それから…」
「も…もぅ…いい」
 トシは聞き取れないような小さな声で言った。
「木陰に隠れて…」
「もういい、言わないで…」
 目を閉じたトシが静かに言った。
「やはり…お前なのか?」
 どうして否定しない?何でもいい、嘘を付け、納得できなくてもいい…
 どんな言い訳でもいいから言ってくれ!
 幾浦はトシの肩を掴み、引き寄せ、その表情を読もうとした。しかし、その顔から読み取れるのは、自分にとって絶望的な答えだけであった。
「他に何か言う事は無いのか?」
 幾浦が激しくトシの身体を揺すぶると、トシはやっと、細く目を開けた。
「ごめん…」
 視線の定まらないまま、トシは言った。
 肩を掴んでいた幾浦の手が、力を失ってずり落ちる。
 トシは視線を逸らせたまま微動だにしなかった。
「で…出て行け」
 暫くして幾浦は喉の奥からそう絞り出した。
 震える手で、トシは自分の衣服を整えると、ヨロヨロと立ち上がった。
「恭眞…ごめんね…」
 トシは、振り返ることなく、ただ一言そう言うと、寝室を後にした。
 私は、どうして出て行けと言ったんだ…
 幾浦は自問自答した。
 今日一日、散々考えて答えを出した筈だった。
 もし本当に、誰か他にも付き合っている人間が居たとしても、幾浦はトシを手放すつもりはなかった。幾浦自身、トシと出合った頃、別に関係を持っていた女性がいたからだ。
 但し、トシと関係を結んでからは、幾浦は他の誰とも寝てはいなかった。
 もし自分じゃないー…と否定されたら、それが嘘だと分かっても、幾浦はそれでも良いとさえ思った。
 トシが違うと言い張れば、違うという事にしようと…。
 そう思わせるほど、幾浦はトシに惚れていた。それも、自分を見失うほどに…。
 幾浦は自分が恋愛に対し、淡泊であると思っていた。今まで、何人もの女性と付き合ってきたが、自分の付き合っている人間が浮気しようと、たとえ、別れを告げられても別に何とも思わなかったからである。
 幾浦にとってセックスは自分の情欲を処理するだけのものだと常々、思っていた。
 それがトシに出会って、自分の中の何かが変わった。
 トシに会って初めて恋を知ったと思った。恋する相手の事を気遣うこと、良く思われたくて、時に自分を飾ってしまうこと、大切に守りたいと思うこと、トシの同僚すら嫉妬の対象になることー…を知った。
 幾浦は自分をそれ程まで翻弄し、愛しくて身悶えさせる相手を、例えどんな事があっても、仮に他に誰がいようとも手放すつもりはなかった。今、自分以外にトシに誰かがいても、その人間を忘れさせ、いずれこちらの事しか考えられない様にしてしまえばいいー…そう考えた。
 それなのに…どうしてあんな事を…
 トシはごめん、と言った。それしか言わなかった。否定せず、嘘を付く事すらしなかっ た。
 自分の知らない相手をトシは肯定したと幾浦は思った。その言葉で自分よりその男を選んだと思った。それを目前に叩き付けられて、怒りと嫉妬、このまま押し倒してしまいたいという欲求がない交ぜになり幾浦を混乱させた。そしてやっと出た言葉が“出て行け”と言う台詞であった。
 実は幾浦がそう言ったのは本心からでは無い。トシを試したのだ。
 もし、自分に未練が有るなら泣いて縋り付くか、関係を壊したくないと訴えてくるだろう。自信もあった。きっと自分を選んでくれるだろうと…
 だがトシは静かに幾浦の元を去った。その姿に未練は無かった。
「トシ…」
 もし、戻って来てくれたら、何も言わずに抱きしめてやろう。
 今度、ごめんー…と謝ったら許してやろう。
 幾浦はそう心に決め、トシが出て行った扉を、その日一晩中見つめていた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP