Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第10章

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 それから三日目の昼頃リーチが先に意識を取り戻した。
「リーチ……」
 名執は思わず涙がこぼれた。
「ユ…キ……」
 掠れるような声でリーチは名執を呼ぶ。
 その手は名執に向けて差しだそうと、一生懸命指を動かしていた。
「リーチ……もう大丈夫ですよ……危険は去りました。ゆっくり身体を休めて下さい」
 名執はリーチの手を取り、しっかりと握りしめた。
「ユ…キ……俺…もう…駄目かと……思……っ……た」
 潤んだ瞳が名執を見つめていた。
「運が良かったんですよ……貴方達が本当に強運の持ち主で良かった」
「運が……良くて……撃た……れる……のかよ……」
 言葉は切れ切れだが、不満そうにリーチは言った。
「運がいいから、心臓の真上を撃たれたのにもかかわらず、助かったんじゃありませんか!」
「真上……!」
 リーチはビックリ目で名執を見た。
「真上で……助か……ったの……か?俺達の……心臓は……右……にあった……のか?」
「何を言ってるんです、そんなわけ無いでしょう……。真上に当たったのは確かです。ただ肋骨がクッションになって、助かったんですよ」
 へーっ……という顔をしてリーチは視線を自分の胸元に向け、必死に心臓の辺りを窺っていた。
「すげーな……奇跡だな……」
 リーチは感心したように言った。
「リーチ……私の方が心臓が止まりそうになりました。このまま……もし死んでしまったら……私はどうすればいいのだろう……そればかり考えて泣いてばかりいました。情けないと思われても仕方ないですが、泣くことしか出来なかったんです」
 名執はそう言って、また涙を流した。
 掴む手にも力が入る。
「ごめん……心配……か……けて……」
 リーチは優しい瞳を名執に向け、微笑んだ。
「今日の夕方、様子を見て個室に移します。意識が戻ったようですし、外の景色が見える方がいいでしょう?」
「ここやだよ……なんか機械ばっかり……あって……死にそう……な気分になる」
 少しずつはっきりと話すリーチを見た名執は個室に移しても大丈夫だと思った。
「トシさんはどうしてます?」
「撃たれた時…その衝撃…はトシが…引き受けて…くれたんだ……それでも俺…も…あの時もの凄い痛みを…胸…に感じた……それより…何倍も…あいつは痛みを……感じただろう。その所為か……あいつ…ま…だ気を失ってるよ……ああいう状態の……ときは……自分から起……きるのを……待つしか……ない……」
「ああいう状態って?どんな状態なんですか?」
「何て……言った…ら…いいのかな……俯いて…ピクリとも…せずに…倒れてる……」
「まさか……」
 名執が何を言おうとしているのかが分かったリーチは慌てて言った。
「死んで……なんか……ない……から……安心し……ろ」
「本当なんですね……」
「うん……」
「それなら安心ですね。良かった二人とも無事で……」
 名執は安堵のため息をついた。
「ユ……キ……な、キス……して……」
「駄目です。ここを何処だと思っているんですか!」
 全くという表情で名執は言った。
「嫌だ…して……くれよ……」
「駄目。誰が見てるか分からないでしょう……」
「誰も…見て……ない……」
「ガラス向こうに看護婦がいるでしょう。もう、駄々をこねないで下さい……」
「フン…だ……言ってろ…よ…元気に……なっ……たら……泣かす!」
「それほど元気ならもう心配ないですね……」
 にっこり笑って名執はそう言って出ていこうとした。
「ユ……キぃーっ……」
「隠岐さん。駄目ですよ。貴方は今、利一さんでしょう」
「先生……分かり……ましたよ。大人しく……寝て……います……」
 そう言って、ぷいっと顔だけ向こうに向けてリーチは目を瞑った。
 そんな姿を心の中で笑いながら名執は個室の手続きに追われた。そうして夕方個室に移されたリーチはまだ昼間の不機嫌を引きずっていた。

 個室に移されたリーチは病室に置かれた数々のプレゼントの箱や花束に驚いた。その中でも等身大のクマのぬいぐるみはさすがに気味が悪いと思った。
「中身は全てチェック済みだそうですから安心して下さい」
 名執はそう言って夕食のスープを持ってきた。
 その頃にはリーチは身体を動かすことは出来なかったが、はっきりと話せるようになっていた。
「なあ、なんだよこれは……」
 リーチは呆然とお見舞いのプレゼントの山を見ながらそう言った。
「貴方は知らないでしょうが、テレビで随分報道されましたからね。子供に撃たれながらも救おうとした刑事ってね。顔写真も出ていましたので、色んな人から毎日お見舞いが届いているんですよ。その顔写真がまた可愛い顔でしたので、同情を引いたんでは無いですか?中にはラブレターもあったそうですよ」
 そう言って名執はくすくす笑った。
「スーツとか生活用品ならありがたくもらうけど……クマのぬいぐるみはなんだよ……俺はガキじゃないぞ!」
 火事でみんな燃えてしまった彼らには、本当に助かるなと思えるものもあった。しかし、等身大のクマのぬいぐるみは理解に苦しんだ。
「可愛いじゃないですか……せっかく送って下さったのですから、喜んだらどうです?」
「なんかさ、ユキって昼間もそうだったけど、言葉の一つ一つが冷たいよな……別にいいけどさ、どうせ俺が死んだって別に何とも思わないんだろ……お前さ、俺が苦しんでる間に誰かいい人でも出来たんじゃないのか?」
 リーチは言ってはいけないことを言ってしまった。
「リーチ……」
 名執は怒ったような顔をしてリーチを見つめた。
「本当にそんな風に思っているんですか?」
 その目の端は潤んでいた。
「え、あ……その……」
 そこには真剣に怒っている名執がいた。
「私が……どんなに心配したかなんて、リーチには分かってもらえないんですね……」
 そう言って、滲んだ涙を手で拭いながら名執はスープ皿を持ってベット脇の椅子に腰を降ろした。
「さ、口を開けて下さい。いつまでも点滴では栄養が摂れませんから……」
 名執はスプーンでスープを掬うとリーチの口元に運んだ。
「ごめん……ユキ……俺さ……」
 と言った口に名執はスプーンを差し込んだ。
「私も忙しいんです。早く食べて下さい。本当なら貴方に食事を摂らせるのは看護婦の仕事なんですよ。これは……」
 リーチはもう何も言わずに運ばれてくるスープを胃に入れた。
 食事が済んでも名執は無言であった。
「明日の朝食はもう少し栄養の摂れる物を用意しますので、夕食はこれで我慢して下さい」
「ユキ……」 
 リーチの呼びかけに答えず、名執はさっさと病室を後にした。
 なんだよ…確かに俺が悪かったけど、優しくして欲しかったんだから仕方ないだろ。えてして病人は被害妄想が酷くて、我が儘なのは医者である名執が一番知っているだろうとリーチは思った。
 貴方が一番好きとか、愛してるとか言えないのかよ……
 しかし病院で、しかもそこが名執の職場で、その上白衣を着た医者が患者に向かって言える訳がないと言うことは分かっていた。
 それでも……
 ユキ……俺、生まれて初めて恐怖を感じたんだぜ。優しくして欲しいんだよ……
 怖かったとはプライドもあって言えなかったが、それが本当の事であった。
 本当に怖かった……
 死ぬのだと思った……
 リーチは撃たれたときの事を思い出して身体が震えるのが分かった。
 トシ……トシは大丈夫だろうか……
 トシの状態は、少しましになったのか今度は横向きに丸まっていた。
 明日には起きてくるだろう……
 リーチもトシも声をかけて起こせる状態とそうでない状態が、お互い何となく分かる。自分から起きるのを待つしか無いと思うときはそっとしておくことにしていた。
 トシ……早く起きて話相手になってくれよ……なんか無性に人恋しいんだ……
 リーチはそう心の中でトシに語りかけ、ゆっくり目を瞑った。
 すると睡魔が優しくリーチを包み始めた……



 名執は機嫌が悪かった。
 リーチがとんでもないことを言ったからである。
 しかし看護婦から問われたことで目が覚めた。
「先生、隠岐さんをやっと個室に移せて良かったですね」
「ええ、これで直ぐに元気になられるでしょう」
 言葉とは裏腹に名執の気持ちは沈んでいた。
 必死に看護し、身が捩れるような日々を名執は送ったのだ。それにもかかわらずリーチのあの言い方は酷い。
 名執は悲しかった。どうしてそれが分からないのかと腹も立った。
「でも先生、隠岐さんはそんな酷い怪我をしても、いつもみたいに落ち着いて丁寧に話してるんですか?」
 リーチ達は警察病院に入院している少年の見舞いに今もよく訪れていたので知らない看護婦はいなかった。
「えっ……」
「きっと痛いとか、苦しいとかおっしゃらないんでしょうね……なんだかああいう性格も損ですよね」
「そうですね……」
 甘えたかったんだ……
 リーチが妙に絡んで来たのは、彼が甘えたかったからであるという事に名執はやっと気が付いた。
 誰にもそんな姿を見せられないから……
 そんな自分をさらけ出せる人がいないから……
 私に甘えたかったんだ……
 自分が今いる場所が何処であるか分かっていながら、リーチは悪態を付きながら名執に恐かったと訴えていたのだ。撃たれた時の衝撃が心に傷をつくり、助かったと分かった今でもきっと怖いのだ。
 だから気の許せる唯一の名執に甘えたかった。
 医者であり、人の心を一応、癒すことの出来る免許を持っているにも関わらず、重傷を負った患者の心理状態を名執は見誤った。
 それはいつもリーチが精神的に強い存在であったからだ。
 だがこれ程の負傷を負って、精神的に強いとか弱いとかの問題では無かったと名執は思った。
 それが分かると名執の足はもう一度リーチの病室へと向かっていた。
 しかし病室には先着がいた。
 病室には幾浦がいて、リーチと揉めていた。
 幾浦は既に顔なじみになっていたので、病室から少し離れた所に構えている警官に止められることなく、利一の病室に入る事が出来たのであった。
「幾浦さん……」
 どうしてもめているのか分からずに名執はリーチを見た。そのリーチの顔は酷く沈んだ表情をしている。
「ユキ……お前が話したのか?」
 リーチは入り口に立つ名執に言った。話したのか?というのはリーチとトシの秘密の事だろうとすぐに気が付いた。
「あ、はい」
 トシに対しての気持ちが真剣だと分かった時、幾浦なら大丈夫だと思った名執は彼らの秘密を話したのである。
「リーチ……頼むからトシを出してくれ……話があるんだ……」
 名執はこの状況を見て、幾浦が先程からトシを出せとリーチと揉めていたことが分かった。
「駄目だ。今は無理だ」
 リーチは苦しそうにそう言った。
「お前はどうしてそういつも、私達の間に入って来るんだ!お前には関係ないだろう」
「そんなことを……言ってるんじゃない……」
「幾浦さんやめて下さい。やっと意識が戻ったのです。貴方の気持ちも分かりますが、もう暫く待って下さい」
 名執のそんな言葉も聞こえない幾浦はリーチの心を抉るような事を言った。
「お前は邪魔なんだ。何でもいいから何処かに行ってくれ。トシだけで私はいい。リーチ、頼むから出ていってくれ……」
 トシに会いたいばかりに、幾浦は自分の言った事の重大さを分かっていなかった。
 その幾浦をリーチは凍り付いたような表情で見ていた。
「幾浦さん!」
 声と同時に名執の平手が飛んだ。
「…………」
 頬を叩かれた幾浦は驚いた表情で名執を見た。
「貴方は何も分かってないようですね……話した私が馬鹿でした……」
「先生……」
「出ていって下さい……これからは、この病室の入室を禁止します」
 幾浦がそれでも、病室から動かずに立っているので名執は再度言った。
「出ていって下さい!追い出されたいのですか!」
 そう怒鳴る名執の目は有無を言わせないものであった。
「済みません……」
 幾浦はそう言って出ていった。
「リーチ……」
「何であいつに話したんだ……」
 リーチの視線は天井を見たままじっと動かなかった。
「済みません……あなた達がICUにいた頃からお見舞いにいらしてまして……その姿に思わず……」
 名執は何と言っていいのか分からなかった。
「トシが幾浦に言うならまだしも……俺達に話す権利は無いだろう?」
 そう言ってリーチは目を瞑った。
「済みません……」
「あいつに言われるまでもなく知ってたよ……俺がトシにとって邪魔だってな……」
「リーチ!……何を……」
 思わず名執は否定しようとしたが、リーチはじっと天井を見つめ微動だにしなかった。
「昔にやっぱり言われたから……」
 低くそして自嘲気味にリーチが言う。だが名執はそんなリーチを見たくは無かった。
「リーチ……そんなことは言わないで……」
 名執が、手を握ろうとするとリーチが言った。
「出ていけ……」
 それは静かな声だった。
「リーチ……!」
「……いいから……出ていけ」
 こちらをチラリとも見ずにリーチはただその言葉だけを繰り返した。
「出ていってくれ……」
「一人には出来ません……」
 名執は優しく言ったがリーチはそれを拒否した。
「出てってくれって言ってるんだよ!……あ……くっ……」
 大声を張り上げたリーチはその瞬間、胸を押さえて咳き込んだ。
「リーチ……興奮しないで……傷はまだちゃんと塞がってないのですよ……」
 何とか落ち着かせようと名執は声をかけた。
「はぁ……はぁ……頼む……出ていってくれ……」
 痛みを堪えて、絞り出すようにリーチは言った。
「分かりました……分かりましたから……落ち着いて下さい……」
 一人にはしたくはなかったが、あまりにもリーチが興奮するので傷に障ると思った名執は仕方なく出ていくことにした。
「静かに……休んで下さいね……」
「俺だけ死ねたら良かった……」
 背後からリーチがそう呟く声を聞いた名執は、辛くて胸が押しつぶされそうだった。それでもリーチが望むように病室を出ていった。
 そうしなければICUに逆戻りの可能性があったからだ。

 小さい頃に言われたな……
 昔、二人が孤児院の院長の友人である精神科医に暫く治療にかかったとき、やはり似たようなことを言われたのだ。
 基本的パーソナリティはトシの方ですね……
 黒縁の眼鏡をかけた医者はそう言った。
 じゃ、俺はなんなんだよ……俺はトシが二歳のころからちゃんといたんだ。それも俺はその時四歳だったんだぞ!そんなトシが俺を作り出せる訳が無いだろう!
 医者はリーチをトシという人格に統合しようとした。それはまるでリーチが、トシの付属品の様な扱いであった。
 リーチはその時、子供心に酷く傷ついた。自分が本物でないと否定されたとき、目の前が真っ暗になるほどショックを受けた。
 リーチは怖かった。自分が消えるかもしれないと思ったからである。だから、トシを説得して利一という人格を創作した。
 トシ、どちらかを消そうと医者は企んでる……
 そう言ってリーチはトシを説得したのである。自分が消される対象であったにもかかわらず、トシに嘘を付いた。その罪悪感から利一の痛みを引き受けるようになったのかもしれないとリーチは思った。
 ずっと忘れていたのに……
 ずっと忘れてようとしていたのに……
 胸の痛みと心の痛みが身体を支配する。
 それから逃れるためにリーチはスリープをすることにした。
 眠ろう……暫く……起きていることが……辛い……
 リーチはそう考え、深い眠りについた。



「先生、隠岐さんが起きないのです……」
 夕食を運んだ看護婦が言った。
「起きておられませんか?」
 名執は今見ていたカルテを机に置いて顔を上げた。
「ええ、声をかけても、少し揺すっても駄目でした。呼吸は正常なので心配は無いと思うのですが…先生、何か薬を投与されました?」
「いえ、そんなことは……私が様子を見に行きましょう……」
 昼間、あまりにも興奮したので、自分が行き、またそんな状態になるのを恐れた名執は夕食は看護婦に運ばせたのである。
 リーチ達の病室に向かい中に入ると彼はぐっすりと寝込んでいるように見えた。
「隠岐さん……隠岐さん……夕食の時間です。起きて下さい……」
 名執はそう言ってリーチを起こそうとしたが、ピクリとも身体は動かなかった。
「先生……」
 心配そうに看護婦言う。
「随分よく眠っておられるようですので、点滴で済ませましょう。五百ほど準備して下さい」 
「はい。分かりました」
 看護婦が出ていくと名執はリーチの額を優しく撫でてやった。
 リーチ……スリープしたのですね……
 名執はどうしてあの時、抱きしめてやらなかったのかと後悔した。たとえ抱きしめることが出来なくても優しくキスをしてあげれば良かったと思った。貴方が必要だと……そう囁いてあげることも出来た筈なのだ。
 生死を彷徨うような怪我を負い、ただでさえ身体も、気も弱っているところにあんな事を言われたリーチは深く傷ついたに違いなかった。
 トシにはリーチという甘えるところがあったが、リーチには無かった。何時も問題が起こるとリーチが引き受け自分で解決してきたようだった。
 だから自分がその役目を今、引き受けてあげなければならなかった……
「リーチ……もし誰も貴方を必要としなくなっても……私には貴方が必要なのです……」
 声を出してリーチに囁いた。
「リーチ……ごめんなさい……辛い思いをさせてしまって……私の所為ですね……許して下さい……医者として失格でした……恋人としても……失格です……」
 涙がこぼれそうになるのを必死に押さえ、戻ってきた看護婦から点滴を受け取ると少し痩せた利一の腕に針を刺した。
 リーチ……愛しています。だから早く起きて下さいね……
 名執のそんな思いも今はリーチには届かなかった。



 湯河は街中のテレビで利一が意識を回復したことを知った。
 そうでなくっちゃな……
 まだ殺すつもりは無かった湯河は、少女が撃った弾がまさか心臓に当たるとは思っていなかった。
 まだ楽しめるって事だ……
 簡単に殺すつもりは湯河には無かった。
 散々苦しめて殺し、最後の仕上げに犯す……それが目的であった。
 人生を狂わせた男に対する復讐としてはなかなかのもんだろう……
 くくく……と低い笑いを湯河はあげた。
 時間はたっぷりある。俺は馬鹿な警察には捕まらない……
 もうすぐ……俺の望んだように決着が付く……
 もうすぐな……
 湯河はそう思いながら雑踏に身を沈めた。
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