Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第5章

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 警視庁に戻ったリーチは玄関に足を踏み入れたとたん異変に気付いた。
 リリリリリリン
 危険を知らせるベルが、小さい音を立て始めた。それに伴ってトシの意識が目覚めた。
 二人とも、どんなに深く意識を眠らせても、危険を知らせる警報が心の中で鳴り出すと、自動的に意識が目覚めるのであった。
『リーチ!』
『分かってる』
 リーチは危険が何処にあるのか庁内をかけずり廻った。
 そんなことは分からない人達は、どうしたんだろうとばかり振り返った。
 総務課に入ると警報はその音をけたたましく打ち出した。
『ここだよ、リーチ!』
『ここに何があるって言うんだ!』
 きょろきょろしているリーチに、総務の南が手に袋を持って声をかけた。
「隠岐さん。ほらこれ、宅急便届いてますよ。スコープしてから後で届けま…」
「それだっ!」
『それだよっ!』
「えっ…」
 南はリーチの叫ぶような声を聞いて驚いた。
「それを捨てて!みんな伏せて下さい!」
 誰もが知っていた。
 利一という人間がこんな冗談を言う人間でないことを…
 利一と言う人間は危険に対し、アンテナを持っていて、外したことは無いと…
「きゃーっ!」
 南はそれを捨てると同時に、リーチに掴まれ机の向こう側に跳ぶように連れ出された。
 他の職員もみんな机の下か、棚の後ろに隠れた。
 次の瞬間、耳をつんざく爆発音が辺り一帯を駆け、天井の蛍光灯と壁が砕け、バラバラと地上に落ちた。
「大丈夫ですか?」
 しがみつく南を宥めながら、リーチは言った。
「はっ…はい…」
 南は突然のことで身体が恐怖で震え、すぐに動けなかった。
 もうもうと煙が立ちこめる中、他の警官や刑事が駆けつけた。
「なんだ、何があったんだ!」
「うわーっ、なんだこれは」
「鑑識を呼べ!」
 人が集まり出す頃、大騒ぎになってきた。
「誰か説明できる人間はおらんのか!」
 二課の石川管理官が叫んでいた。
「なんだか…私宛の宅急便に爆弾が仕掛けられていた様です」
 申し訳なさそうにリーチが言った。
「隠岐!本当か?それよりお前は怪我はしていないのか?」
「私は何とも…それより他の人は…」
 リーチは言いながらぐるりと周りを見回した。
 幸い、ゴホゴホと言いながらみんな立ち上がって、周りを伺っており、大怪我をした人間はいないようであった。
「とにかくここは鑑識に任せて、君は田原管理官の所へ行きなさい。君を探しておった」
「分かりました」
 リーチは身体についた埃を払うと一課に向かった。
『リーチ、替わろうか?今週は僕の番だし』
 と、トシ。
『じゃ、替わって貰おうかな』
 そこで二人の主導権が入れ替わった。
『リーチ、身体の…その…痛みは引き受けさせて…これは僕の所為だから…』
『分かった。それより、お前大丈夫か?』 
『うん。ありがとう』
 リーチは深くは聞かない。それがトシに対するリーチの優しさなのであった。
『言うのを忘れていたが、湯河崎斗が不起訴で釈放されているんだ』
 歩きながら、二人は心の中で会話をしていた。
『えっ。どうして?』
『かなりの金が動いたらしい』
 それを聞いたトシは暫く考え込んで言った。
『あいつ…危険だと思う。頭はいいけど、少しおかしい…何をするか分からないよ』
 トシは湯河を捕まえたときも、そう言っていたことをリーチは思い出した。
『確かに…死姦の件はマスコミにばれて大騒ぎになったからな…俺達の所為だと思ってるかもな…』
『前に言ったと思うけど…湯河は酷く根に持つタイプ、小さな事でも自分のプライドを傷つけられると、何度も何度も心の中で、恨む相手を八つ裂きにする。小動物なんかで実行することもあると思う。表に出ないだけでね…やだなーっ。僕ら絶対恨まれてるよ。時間が経つと恨みが益々増幅するタイプなんだから…』
『殺したいくらい恨んでるかな…』
『殺して、死姦しても飽き足らないと思うよ』
『それは…嫌だなぁ…』
 リーチは本当に嫌そうに言った。
「隠岐!」
 トシの進行方向から、同僚の篠原が走ってきた。
「篠原さん。田原管理官がお呼びだと伺ったのですが、どちらにいらっしゃるのでしょう」
「ああ、俺にお前を連れてこいと言われて迎えに来たんだ。第四会議室だ、みんな勢揃いさ」
「みんなって…一課ですか?」
「ああ、他の所轄に応援に行ってる奴らは仕方ないとして、何とか手の空いてる人間だけだけどな。聞いたよ、下、大変な騒ぎになっているそうじゃないか…俺はいつもの地震かと思ってたんだが…その件も含めてややこしいことになってきてるみたいだ…田原管理官の顔がいつになく強張ってる。お前なんかやったのか?」
「湯河崎斗が絡んでるようです……」
「えっ、そうなのか?」
 横について歩いていた篠原が、驚いて聞いた。
「何となく…ですが…不起訴で釈放は聞いておりましたので、このままでは済まないだろうな…と、感じておりました」
 トシは、そう言って篠原に笑いかけた。
「おまえ、ホント笑い事じゃないぞ…」
 呆れ顔の篠原と、トシが第四会議室に着くと田原管理官を囲んで何人かの一課の人間が座っていた。
「隠岐君、大丈夫だったかね」
「ええ」
 トシはそう言いながら椅子に座った。その隣に篠原が座る。
「隠岐君、君のコーポはやはり放火だった。鑑識からの報告書は後で届けるよう言っておく。まず、一昨日の晩十時頃不審な人物が目撃されている。小型トラックをコーポの前に止め、ウロウロしていたそうだ。その男は痩せ形ということしか分かっていない。心当たりはあるかね?」
「痩せ形…」
 勿論二人とも思い浮かべたのは湯河であった。
 一見大人しそうに見える湯河であったが、トシは目つきが気に入らなかった。酷く濁った印象を受けたからである。食事は摂っているのだろうが、妙に痩せていて身長は低くは無いのだがその所為で小柄に見える。なにを考えているのか、視線はいつも漂っていて掴みどころがない。
 トシは取り調べの才能を持っていて、大抵の犯人を自供させる事が出来る。しかし湯河ほど手こずった相手はいなかった。
 まず、リーチが現行犯で捕まえたのにも関わらず、自分はやっていないと言い張って困り果てた。
 会話にしても自分の興味のあることには饒舌であったが、死姦については黙秘。トシは日常会話から相手の性格を分析するが、湯河の昆虫の標本の作り方の話や動物の解剖についての話に半日付き合わされ、リーチはあいつを標本にしたいー…と言った程である。「一概に言えませんが湯河ではないかと…」
「そうか…」
 田原は難しそうな顔でそう言った。
「それと、先程の爆発物は私宛に送られてきた物でした。偶然私が気が付いて、警告しましたので、全員怪我はなかったようですが、湯河が私本人をその爆弾のターゲットとして送ってよこしたとは考えられません。誰が怪我をしようと構わなかったと思います。それで自分の存在を示そうとしたのではないかと思われるのですが…」
 トシは淡々とそう述べた。
「湯河の自宅へ所轄の警官を訪問致させましたが、会えなかったとの事です」
 係長の里中が田原に報告した。
 さすが田原管理官…
 既に、田原の指示が飛んでいたようなのでトシ達は尊敬の念を新たに抱いた。
「湯河が在宅していたのは確認されているのでしょうか…」
 トシが里中に聞いた。
「いや、湯河の家の手伝いに、追い返されたと警官から報告を受けたが、本人が居たかどうかは分からないそうだ」
「そうですか…」
 少し困った顔をしてトシは言った。
「隠岐君、まだ断定されていないこの時点では手出しが出来ない。おおっぴらに周りをうろつくこともできん。出来るだけ一人にならんように気を付けたまえ。それとも誰か付けた方がいいか?」
 田原はそう言ってトシの返答を待った。
「いえ、大丈夫です。捜査本部をいくつも抱えている一課は一人でも人手が惜しい状況です。私よりそちらを優先して頂いて構いません。それに一人の方が巻き込むことも有りませんし、私も安心して行動できます」
 トシはニッコリと笑ってそう言った。
「分かった。しかしおかしな事が続くようなら、こちらの申し出をのむようにしてくれるか?」
「はい。私も命が惜しいですから…その時は、お願いします」
「話はそれだけだ…君は課に戻りたまえ、篠原君には話があるので残ってくれるか?」
「はい」
 篠原がそう答えると、既にトシは会議室から退出していた。
「篠原君に頼みたいのだが…」
 田原は利一が出ていったのを確認すると、おもむろに言った。
「何でしょう」
「彼には言ってないのだが…こんな手紙が来ておった」
 そう言って、手紙を出して田原は横にいる里中に手渡した。
 里中からそれを受け取った篠原はそれを読んで驚いた。
「これは…湯河からですか…」
 その顔は真っ青であった。
「筆跡鑑定の結果、90%湯河だそうだ」
 田原がため息をつきながら言った。
「それで、だ。君がそれとなく隠岐君の監視をして貰いたい。彼に必要は無いとは思うが相手はおかしな奴だ…何をするか分からない。だが、これは彼には秘密だ、余計な心配はかけたくないのでな…」
「分かりました」
 篠原は真剣な顔でそう答えた。
「他の者も彼にかかってくる電話や、配達物に気を付けるように。特におかしな電話は録音、逆短をするようにしてくれるか?」
 集まった一課の人間が一様に頷いた。
「ですが管理官…隠岐君でしたら大丈夫かと…」
 里中が言った。
「そう思いたい…だが悪い予感がするんだよ。余り勘など信じないのだが…」
 田原がそんな風に言うことは滅多になかったので、周囲の人間も感化されたように悪い予感に支配され始めた。
 こんな手紙を送ってくるとは…
 篠原は、もう一度その手紙に目を落とした。

 追われる立場になるのはどうだい隠岐刑事
 ずっと忘れられなかったよ君のことが
 だから追いつめて殺してあげる
 俺が殺してからどうするかは、刑事さんが良く知ってるよね
 楽しみに待っててくれよ

 君のファンより

 篠原はそれを折り畳むと、深いため息をついた。
 隠岐よ…えらいのに目を付けられてしまったな…
 でも、俺達がちゃんと守ってやるからな…
 そのトシは課には戻らず、湯河の家を訪問するために警視庁を後にしていた。



『いつこの辺に来ても、豪勢な家ばかりで羨ましいぜ、全くよ…』
『リーチ、人はそれぞれ!仕方ないだろ』
『おれたちの家はあいつに燃やされちまったし、不公平だよな…』
 リーチはぶつぶつと文句を言っていた。
『ほら、着いたよ』
『もう来たくなかったのに…ここの親父、息子を溺愛してるからな…今度は、何を言われるか…』
 彼らが湯河を捕まえたとき、崎斗の父親は激怒し、でっち上げだと怒りまくった事をリーチは思い出したようだった。
 ピンポーン
 トシがベルを押すが、返事はなく辺りは静まりかえっている。
 ピンポーン、ピンポーン、
「留守かな…でもここの家は、絶対一人はお手伝いさんが居るようになってた筈なんだけど…」
 トシは言いながら、重そうな門のノブに手をかけた。すると、鍵がかかっていないのかスルリと音もたてずに門が動いた。
『リーチどう思う?入っていいと思う?』
『開いてるんだ、いいんじゃないの?』
 リーチはそう言ったがトシは暫く考えて、入ることにした。
「すみませーん!警視庁の隠岐ですが、誰かいらっしゃいませんかーっ」
 家の玄関までの石畳をゆっくりトシは歩きながら、声をかけて進んだ。
 しかし、辺りに人の気配は無かった。
 庭には木が鬱蒼と茂っており、どんよりとした空気が流れもせず周囲に垂れ込め、晴れているにも関わらず、この家の一帯だけが何か別のものに取り囲まれたかのような雰囲気であった。
『なんだか…気持ち悪いな…以前来たとき、こんなんだったっけ』
『リーチだけじゃない?僕は別に何とも思わないけど…』
 呑気なトシであった。
 玄関に着くとやはり扉が少し開いていた。
『妙だね…空き巣でも入ったのかな?』
 危険を知らせる警報は鳴りを潜めていたので、トシは取りあえず勝手に上がることにした。
「すみませーん。湯河さん。お手伝いさん、誰かいませんか?」
 トシは綺麗に手入れされ、ツルツルに磨かれた廊下を進む。周囲を見回すがやはり人の気配はない。
 壁のリトグラフや油絵が、トシを見つめていた。
 その時、二階から人の声がした。
『今の、聞こえたか?』
『うん。悲鳴だった!』
 心の中でトシはそう言うより早く、二階に向かって階段を駆け上がっていた。
 トシは二階に上がると、端の部屋から戸を開けて廻った。
「湯河さん!何処ですか?」
 鼓動が早くなってくるのが二人に感じられた。
『奥の部屋から気配がする。トシ!交替するぞ!』
『うん』 
 奥の部屋に近づくと、ムッとした臭いが戸の隙間から漂ってきた。
『トシ、血の臭いがするぞ、覚悟した方がいい…』
『分かってる…』
 リーチは壁に背中を付け奥の部屋の戸をハンカチでくるんで左手で押した。
 戸はゆっくり内側に向かって動き、内側から小さな声が聞こえてきた。
 そしてそっと中の様子を覗き込んだ。
『!』
 トシは一瞬言葉に詰まった。
「何がここで有ったんだ…」
 思わずリーチが呟いた。
 部屋は寝室のようであった。真ん中に血塗れのダブルベットが置かれており、部屋の角には飛び散った血がアンティックの鏡台を覆い、その血は重力の法則のため下にドロリと流れ、その隙間から鏡が部屋を格子状に映しだしていた。
 カーテンは厚く、窓全体に血で染められた裾を拡げている。
 白い壁は、点々と赤い花を咲かせ、天井までその花は花弁を拡げるかのように咲き誇っていた。
 血には馴れたリーチですら、すぐに言葉が継げなかった。
『リーチ、ベットの端に誰かうずくまってるよ…なんかもう済んだ後みたいだし…僕、状況把握したいから代わってくれる?』
『分かった』
 トシは殺人現場でも仕事中はその責任感から、血を見て倒れることはない。彼にとって耐えられないのは、あのディズニーランドで起こった事件で見た、少女の血だけであった。
「もしもし…大丈夫ですか?何処か怪我をされてませんか?」
 ベットの端にうずくまった人間に、トシは声をかけた。
 ゆっくり振り返った人物は湯河崎斗の父親であった。
「湯河さん。ここで何があったのですか?」
 トシが以前、会ったときは精力的で、エネルギーに満ちあふれた印象があったが、今はその影も無く、ただの怯えた哀れな小男に見えた。
「あれが…あれが…」
 湯河はベットの上を指して震えるような声で言った。
「ベットの上に何がある…」
 ベットの布団から血の付いた指が覗いていた。
『トシ…死体だ…』
『………』
 トシがやはりハンカチでくるんだ手で、そっと布団をめくると、以前会ったお手伝いの女が、そこに仰向けに死んでいた。
 身体は裸で、手足を大の字にのばし、目は潰されているのか血で真っ赤に染まり、口からも鼻からも血を流していた。
 かなり酷く殴られたのか広範囲に渡って青あざが出来ている。
 下半身には性的暴行も認められた。
「湯河さん。貴方がやったのですか?」
 返り血を浴びていない湯河が犯行を行ったとは考えられないが、一様トシは聞いてみた。
「わっ、わしじゃない!妻になる洋子を…どうして…どうしてこんな目に…」
 湯河は酷く混乱していた。
「湯河さん、では心当たりが有りますか?」
 トシは出来るだけ穏やかに宥めるように聞いた。
「むっ…息子を殺しておけば良かった…こんな…こんな事を平気で…平気で…わしは知っとった。息子が小さい頃から犬や猫を殺していたのを…だが、あんな息子でもわしには可愛かった…いつもかばってきたのに…それが…ようこーっようこーっ」
 湯河はあまりの惨状に我を失い、妙なことを口走り始めて暴れ出した。
 すかさずリーチが湯河のみぞおちに拳を当て、眠って貰うことにした。
「現場を荒らされちゃ困るから暫く眠ってろ!」
 それだけ言って、トシに代わる。
「見てリーチ…壁にメッセージが残されてるよ…僕らにみたい…」 

 いずれ、お前もこうなる。楽しみにしててくれよ刑事さん

『信じたくないが、妙な奴に愛されちゃったようだな…』
「崎斗の牙は僕らに向いてる。これはほんのお遊びなんだ…。きっと逮捕されたときにその残忍さが加速してしまったんだ…。拘束されている間、毎日毎日憎しみで心を一杯にして、僕達を何度も殺し、犯した…。そして、釈放されて家に戻り、心の中で描いていた殺しを実行に移した…思い描いていたことを現実に実行した。リーチ、次は僕らを狙ってくるよ…」
 トシが顔色も変えずにそう言った。
『行動の予想はつくか?』
「分からない…」
『本当に俺達に向かってくるか?』
「確実…」
 嫌な予感がする…二人はお互いそう口には出さなかったが、全神経にその予感をひしひしと感じていた。
 しかしそれからが大変な騒ぎになった。
 トシは所轄に連絡を入れ、閑静な住宅街が警官や刑事、鑑識にパトカー、本庁からも動員された人間達でごった返した。その上何処から聞きつけたのかマスコミ連中の嵐が吹き荒れ。
 トシ達の自宅の火事は小さく新聞に載っただけであったが、それと今回の事件が繋がっているとかぎつけた頭のいい記者がおり(以前、湯河崎斗の事件でも利一に散々つきまとった)本来ならば初動捜査に参加するはずだったトシもその攻勢に参り、上司命令も相まって、警視庁に早々に引き上げることになった。
「おーまーえー」
 警視庁に戻ると篠原がトシを不機嫌な顔で出迎えた。
「どうしたんですか?」
「どうしたんじゃない!課に戻れと言われただけで、湯河の家に行けとは言われなかっただろう!管理官がご立腹だ」
 篠原は田原からこっそり利一を警護するよう命令を受けていたので、いきなりそれが振られた事が気に入らなかったのだ。
「そうですが…気になりまして…」
「ーで、お前が第一発見者だって?」
「そのようです…御邪魔したとき家の中から妙な声がしたんです。ベルを鳴らしてのですが応答が無くて…ですが玄関が開いておりましたので、思わず入っていってしまったんですよ」
 最初、声など聞こえなかったが、そうでも言わなければ不法侵入になってしまう事をトシは知っていた。
「緊配と指名手配は既に手配済みだが、まだ崎斗は確認されていないそうだ…もしかしたら現金もかなり持ち出されているようだし、何処か遠くに逃亡したのかもな…」
 緊配とは緊急配備のことである。
「都内から出るとは思いませんが…」
 トシは何となく、近くで身を潜めていそうな気がした。
「それより隠岐、お前当分警視庁で寝泊まりした方がいいんじゃないか?どうせ今、帰る家は無いんだろう?」
「えーっ。やですよ」
「マスコミが下でウロウロしてるぞ。またえらい目に合いたいのならいいが…」
 トシ達は以前、湯河を逮捕したときも、その事件の異常さにマスコミが飛びつき、湯河を逮捕した利一から、その時の様子を聞き出そうと、追いかけ廻されたことを思い出した。
「そういえば、あの富士新聞の川波さん。私がこちらに戻ろうとパトカーに乗り込んだのを見つけて、車の前に立ちはだかってしまって困りましたよ…。あんた何か知ってるだろ!あんたの家も湯河が燃やしたんじゃないのか!ー…って。まぁ警官に取り押さえられてましたけど…これからまたあの人に追いかけられるかと思ったら、いい気はしませんが私も他の件も抱えていますし、外に出ないわけにはいきませんよ」
 トシはそう言って、にっこり笑った。
「あーもう。周りが神経ピリピリさせてるのに、お前がそんな呑気でどうするんだ…特に湯河は本当に人を殺したんだぞ。死んだ人間に悪戯したのとは訳が違う。何を仕掛けてくるかわからないんだ。聞いたんだよ、湯河の家でメッセージが残されていたそうじゃないか…誰とは書いてなかったそうだが、それはお前宛としか考えられないだろ!そこんとこ分かっているのか?」
「分かってますって…でも刑事の私に何かしようとは思わないでしょう。ホントにもう篠原さんって心配性なんですから…」
 篠原はトシからそう言われて、呆れ顔になった。
『なんか他の件もあったようだな…篠原って、すぐ顔に出るから分かるんだよ…』
 リーチはそう言った。
『たぶんね…僕らに知らされていないだけなんだと思うよ』
「じゃ、私は自分の仕事があるので一課に戻ります」
「あ、俺も戻ろうかな…」
 篠原はトシにくっついて歩いた。
「篠原さんは杉並署の方の捜査本部に応援に行く筈じゃ無かったのですか?」
 トシは歩きながら篠原にそう問いかけた。
「いや、交替させられて…今は一課に戻ってる」
「ふーん。そうですか…」
 篠原は訝しげな目を向けるトシの目線を避け、前を向いて歩いていた。
『俺達の子守を頼まれたようだぞ』
 リーチは、いい加減にして欲しいよ…という口調でそう呟いた。
『僕は篠原さんの事の方が心配になっちゃうよ…』
 トシは篠原と共にエレベータに乗り、そこから見える景色を眺めた。
 ビル群はただ無機質な風景を描き出し、曇り始めた空が嵐の前兆を予感させていた。
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