Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第4章

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 目が覚めると頬に草の柔らかい感触が当たった。
「……ぐっ……」
 リーチは身体が動かないことに気が付き、起こそうとした頭を又地面に下ろした。
「くしょっ……」
 ギリッと歯を食いしばる。
「なんでっ……何でおこさねえんだよ!こんな……こんな事されてお前はそれでも良いって思ったのか?ええ?畜生!」
 暫くリーチは真っ暗な闇の中で一人叫んでいた。

「リーチ!どうしたんですか?リーチ!」
 名執の声は悲壮であった。
「ユキ…迎えに来て…身体痛いし、動かない…」
「今、何処です?リーチ!怪我でもしたんですか?救急車を呼んだ方がいいですか?」
「呼ばれたら、恥かくことになるからいいよ。焼けた俺達のコーポの近く、ああ…ほら小さい河が横に流れ…」
 ずずーっという音と共に電話が切れた。名執は真っ青になって、自分の代わりになってくれそうな人に連絡を入れ交替を頼むと、すぐさま病院を飛び出した。そして病院の駐車場に停めてあった自分の車に乗り込むが、胸騒ぎがして仕方がなかった。
 しかし…
「ユキ…」
 か細い声で名執を呼ぶ、リーチの姿に呆然となりながらも、瞬間ムッとした。
 その格好はシャツをはだけ、見える肌にはキスマークをごっそり付け、ズボンも取りあえず履いたと言う出で立ちであった。
「リーチ、自分でまいた種を私に尻拭いさせるんですか?」
「えええっ?」
 くるりと振り返って帰ろうとする名執にリーチは泣きそうな声で助けを求めた。
「違う!犯されたのはトシだ!怒るぞ」
 怒っているが余り迫力は無かった。
「えっ」
 ビックリしたのは名執であった。
「頼むよユキ、何でもいいから早く連れて帰ってくれ」
「す…済みません。大丈夫ですか?」
 そう言って名執はリーチに肩を貸した。
「お…おせーんだよ…」
 不機嫌なリーチを名執は車に乗せ、自宅へと戻った。そしてシャワーを浴びさせ、パジャマに着替えさせた。その間ずっとリーチは口癖のように、身体が痛い…お尻が痛いと泣き言を言った。刺された傷でも痛いと言わないリーチがあんまり痛がるので、名執は思わず笑みをこぼした。
「笑ったな…」
 リーチの不機嫌は最高潮である。
 普段、自分がする方なので、入れられるという経験は無い。身体を交替する前の日は、絶対やるな!と、トシに厳守させているくらいである。
 それが、痛めつけるようなセックス直後の交替ともなると、不機嫌にもなる。
「え、ああ、済みません。それで、トシさん大丈夫ですか?」
「随分ショックを受けたようだ、横になって小さく丸まってる。…惚れた相手にこんな痛い目に合わされたら、ショック通り越して死にたいだろうよ…」
 リーチは酷く怒っていた。
「どうして、意識を眠らせたのです…リーチなら、こんな事になる前に逃げ出せたでしょうに…」
 名執は、毛布を口元まで引き寄せ、しかめっ面のリーチにそう言った。
「トシに自分達の問題だと言われて、仕方なく引いたんだ…それに、いくらなんでも幾浦がトシに、こんな強姦めいたことをするとは思わなかった。雨降って地固まるって言うだろ…上手くすればそんな風に仲直り出来るんじゃないかと、甘い考えでいたんだ…」
「可哀想に……トシさん辛かったでしょうね…」
 名執は、そう言ってリーチの身体を毛布の上からさすった。
「痛いよ…ホント…最中はもっと痛かっただろうな…」
 複雑な顔でリーチは言った。
「でも…もしリーチに婚約者が出来たとしたら…私は二番目でいいから側にいたい…」
 そう言ってベットに一緒に横になり、名執はリーチの首に腕を廻した。
「俺は、そんなどっちつかずは出来ない。すっぱり切る」
「えっ…」
 名執は悲しそうな顔をして、リーチを見つめた。
「俺はユキが側にいてくれれば、誰もいらない…」
 リーチはそう言って、名執の頬を指で優しく撫でた。
「リーチ…」
 満面の笑みで、名執はリーチの身体に擦り寄った。
「しかし…アレの最中にチェンジされなくて良かった…もし、そうなってたら絶対幾浦のヤローぶっ殺してた!そう思ったらキスだけで済んで良かったのかもな…」
 それを聞いた名執は、訝しげな顔をした。
「キスだけで済んだとはどういう意味なんですか?」
「あっ、いや、トシと交替する前にいきなり幾浦にキスをされたんだ、ま、あいつは俺がトシだと思ってたんだから仕方な…」
 リーチが言い終わらぬうちに、名執が唇を塞いだ。
 そうして、暫くお互いの熱を口腔で感じ合った。
「利一がリーチで在るときは、誰にも…誰にもそんなことしないで下さい」
 唇を離して名執が言った。
「ユキ…」
 困った奴…というような表情で、リーチは名執を抱きしめた。
「リーチ、返事は?」
「もう絶対しないよ、約束する…」
「今回は許してあげましょう」
 名執はそう言って、クスリと笑った。
「な、ユキ…お前さ、いつも…その…こんなに痛いのか?」
 えっ?という名執の表情を受けて、リーチは続けた。
「だから…ほらっ…俺とやった後の話だよ!さ、最中でもいいけど…こんなに痛いのかなってさ」
 聞きにくいのか、リーチは毛布を鼻元までずり上げて言った。
「確かに…いつも泣かされてますね」
 意地悪そうに名執が言った。
「こんなに痛いのか…」
 すると、名執はリーチの耳元に顔を近づけて、甘い声で囁いた。
「私の場合、あんまり気持ち良くって泣かされるんです。リーチ上手いから…」
 それを聞いたリーチは柄にもなく顔を赤くした。
「ばっ、馬鹿野郎!そ、そんな恥ずかしい台詞を言うな!」
 リーチの赤、赤とした顔が、妙に可愛いと名執は思った。
 拗ねたように横向きに丸まったリーチの背中に、名執は身体を寄せ、先刻していたようにリーチの身体をさすりだした。
「ユキ、背中もさすって…」
 そう言ってリーチは名執の方に向き、自分の頭をその胸に寄せた。
 名執はリーチの髪を梳きながら、もう片方の手で背中をさすってやった。
「トシさん明日には起きられるでしょうか…」
 名執は心配そうに聞いた。
「明日一杯はまず無理だろうな…ゆっくり眠らせとくよ」
「そうですね…」
 言いながらも名執の手は、その動きを止めない。
「ユキ…気持ちいいよ…」
 ふと気が付くとリーチはいつの間にか眠りについていた。
 やっと無防備に全てを委ねて眠ってくれるようになりましたね…
 名執は思い、幸せな気分に浸った。
 付き合いだして最初の頃、名執が感じたのはリーチはとても野生動物的だということであった。
 先ず、遠くから声をかけようとしても、先に気付かれてしまう。次にそっと後ろから近づいてもリーチには分かるのであった。
 まるで危険と背中合わせのサバンナに住む野生動物のように、リーチは人の気配や物音に敏感で、一緒に眠っていても小さな物音がすると、身体がピクッと動いたり、うっすら目を開ける。時には、身体を起こして視線を一回りさせ、何もないことを確認してから再度、眠りにつく。
 リーチは利一を危険から守る役目を負っているようであった。
 最初それを見たとき、とても不思議だと感じたが、名執は寂しくもあった。
 野生動物でも安心して眠ることの出来る場所が有る筈である。自分の元がそうあって欲しいと名執はずっと願っていた。
 そうしてやっと最近、リーチは名執に全身を預けるようになった。
「リーチ…」
 名執は腕の中の恋人を抱きながら自分も眠りについた。



 次の日の朝、リーチの絶叫から始まった。
「手帳ーっ!警察手帳がっ無い!無い!無い!」
 リーチはそう言って、昨日着ていたスーツを隅から隅まで調べ、やはり無いことが分かると真っ青になってしまった。
「火事で燃えたんじゃありませんか?」
「手帳は常備携帯!家に置きっぱなしはしない!ぎゃーっ!信じられない…これで二度目の減棒だ…そんな馬鹿なことって…只でさえ無一文なのに…この上…」
 泣き面に蜂とはこの事である。
 そこへ、携帯が鳴った。
「はい、隠岐です」
「トシ、忘れ物だ。課の受付に渡して置くから取りに来るといい」
 電話向こうの相手はそれだけ言うと、さっさと電話を切った。
「どなたですか?」
 げっー…というような顔をしているリーチに名執は聞いた。
「幾浦…。どうも、あいつが警察手帳を持ってるようだ…トシが幾浦の車の中にでも落としたんだろ…」
 リーチは名執に聞こえるようなため息をついた。
「朝から、寄っていくよ。会えたら嫌みの一言でも言ってやる!」
「リーチの場合、嫌味で済めば良いんですが……」
「けっ……ぼっこぼっこにしてやっても俺は良いと思うぞ」
 何よりまだ身体は痛いし、お尻も痛いのだ。
「トシさんは起こさなくて良いのですか?」
 困ったような表情で名執は言った。
「駄目だ!反対にくだらん事を言われて、よけい落ち込ませたくない。んーと…スーツも良いの着ていこうかな…あいつブランドで決めてやがるからな。あんまり差を付けられるのもしゃくだ!」
 言いながら、クローゼットルームでごそごそリーチはスーツを選んでいた。
 リーチは名執の家に、自分の服や(トシと好みが違うらしい)スーツを常備している。それはリーチの番の週は名執の家に入り浸っているからであった。
「あれ、こんなスーツ俺、持ってたっけ?」
 上品な濃いブラウンのスーツが自分のハンガーに掛かっていた。
 ブランド物なのはリーチにも分かるが、何処のものまでは分からない。
「それは、自分に買ったのですが、サイズが合わなくて…リーチには合うんじゃ無いかと思いまして、良かったら着て下さい」
 名執はいつもそう言って、リーチのスーツや洋服などを買ってくる。
 リーチは最初から自分のために買ってきてくれていることを知っていながらも、別に気にせずにありがたく頂くことにしていた。
 一人分も薄給なのにそこから二人分を養わなければならない隠岐家は、名執によって支えられているのであった。
 実は、名執は祖父の莫大な財産を相続しており、今後、子孫に残す予定は無いので、利息を有益な団体に毎年寄付をしている。
 名執は自分もたまに使うが、(最初は外科医になってから一切使わなかったが、トイレの芳香剤とか買って、爺さんが必死にため込んだ金で、こんなくだらないもんを買ってやったぞと笑ってやる方が復讐だー…とリーチは名執に言った)それでも増える一方の様だった。
 その所為か名執はある時リーチにカードを渡し、捜査上必要なお金の資金にして欲しいと言ってきた。最初断ったのだが、阿漕な商売で稼いだ祖父のお金を世間に有益に還元したい。それで、一人でも悪い奴を捕まえることが出来るのなら、これほど嬉しいことは無いと、散々お願いされ、リーチ達はありがたく貰うことにした。
 しかし二人は、自分の欲しい物をそこからは買わない。
 トシなんかは月に一度、明細をきちんと名執に報告するくらいである。
 名執は別にいいのに…と言うが、それがけじめだろう。
「まだ、身体辛いでしょう…送っていきましょうか?」
 玄関で靴を履くリーチに名執は声をかけてきた。
「大丈夫です、先生。では行って来ます」
 玄関の戸を開けたリーチは、既に利一モードに切り替わっていた。
「リーチ」
 呼び止めた名執を引き寄せリーチは軽くキスをした。
「では、先生もお仕事頑張って下さい」
 そう言って優しい笑みを残してリーチは名執家を後にした。



 うひゃー、いつ見ても、派手なビルだ…
 と、思いながらリーチは幾浦の会社の玄関で足を止めた。
 ビルの外には、その会社のキャラクターのオブジェが向かい合うように鎮座しており、出社する社員を出迎える。一階はバーチャルゲームの体験や、各種ゲーム、企業用ソフトの説明やら若者が喜びそうな施設になっていた。
 会社に入るにはビルの隣にある階段を上がり、二階から入るのである。ビル内は各階警備員が巡回し、階によっては許可証か、指紋ロックになっていて外部の人間、社員すらシャットアウトするようになっていた。
 幾浦はその世界屈指のコンピュータ会社に勤めている。その上、若くして部長代理の地位にあった。部長は大抵海外を飛び回っているらしく、殆ど幾浦が部長業務をこなしているらしい。
 こんな会社に勤めるおたくの幾浦と付き合う事を最後まで反対しておれば良かったとリーチは思いながら、二階の受付へ足を運んだ。
 受付には見知った上品な女性が二人と、警備員が張り付いていた。
「隠岐さん。お久しぶりです。又事件ですか?」
 髪の長いほうの女性が言った。
「今日は幾浦さんに用がありまして、受付で書類を受け取るように伺ったのですが…聞いておられませんか?」
「少々お待ち下さい」
 今度は短い方の髪の女性が、電話をかけて確認している。
「はい、はい分かりました。ではそちらまでの証明書を発行します。有効時間は三十分で宜しいでしょうか?はい。そのように致します」
 電話を切った女性が、手元の機械で何か打ち込み証明書をそこに通した。
「では、隠岐さん。もうご存じかと思いますが、エレベーター内の差込口にこれを挟んで頂くと二十五階まで自動的に運んでくれます。各、フロアーからフロアーへ移る場合にこれを所定の場所に差し込んで下さい。それ以外は、設置されているモニターにこの証明書が見えるよう胸に付けて歩いて下さい。システム開発部の受付は4Bのフロアーです。それから有効時間は三十分ですので気付けて下さいね。隠岐さん宜しいでしょうか?」
 制約が余りにも多いので、覚えるのに必死のリーチは受付嬢からぼんやり見えたに違いなかった。
「あ、はいっ。ありがとうございます」
 そう言って、リーチはエレベーターに乗り、目的地に何とかたどり着いた。
 システム開発部のプレートをかけた受付机にやはり女性が座っていた。
「お久しぶりです、こちらの幾浦さんから書類を預かるように伺ったのですが…」
「隠岐さん。お久しぶりです」
 たしか弥生と言ったはずだった。
「あ、弥生さん。一段と綺麗になっておられたのですぐ思い出せませんでした。済みません」
 リーチはそう言ってうろ覚えの弥生を切り抜けた。
「またーっ。お口が上手いんだから…そうそう幾浦の方からは預かっております。お待ち下さい」
 そう言って受付嬢は、封筒を出し、リーチに手渡した。
 リーチはその場で中身を確認し、ホッとした。
 良かった…減棒は免れた…。
「ありがとう。じゃ」
 と、去ろうとしたが弥生が言った。
「隠岐さん。恋人っいるんですか?」
「うん。います。ごめんなさい」
「やっぱりね。やだっ、謝らなくてもいいことなのに…」
 といって弥生は笑った。
 その時リーチは人の気配を感じた。
 くそっ。幾浦が聞いてやがった。
 幾浦が社内の人間を連れ、向こうからやって来たのが分かったリーチは、忘れようと努力している身体の痛みが、ぶり返してくるのが分かった。
「代理、隠岐さんが来られてます」
 幾浦に気付いた弥生が言った。
「あ、ああ」
 一瞬動揺し、幾浦が答えた。
「幾浦さん。お久しぶりです。これありがとうございました」
 人が居る手前、リーチは嫌味も言えず仕方なしに帰ろうときびすを返した。
 がっ、何故か後ろをついてくる気配がした。
 向こうも乗りたくは無いのだろうが幾浦も一階に降りる用事があるのと、もう一人社内の人間を連れた手前、仕方なく同じエレベーターに乗り込むことにしたようであった。
 エレベーター内でそのもう一人がリーチに指を差して言った。
「隠岐さんじゃないですか!」
 今度は誰だよ…
「あ、お久しぶりです。ご無沙汰しております」
 相手がえっ…という顔をしたので、リーチは自分の返事が間違っていたことに気が付いた。
 あ、何かミスった!
 大抵こういう場合、トシと情報交換するのであるが、今は無理だった。だから自分で思い出すしか無いのだが、ここでの社内状況をリーチはあまり関知しなかったのと、自分がここへ再度来る事態になるとは夢にも思わなかったので、利一の人間関係をあまり把握しようと思っていなかったのだ。だから人の顔をそれほど覚えていない。確か見た顔なのだが、顔と名前がいまいち一致しないのだ。
「昨日、電子メールしたはずなんですが…届いてません?」
 何となく小声で、その人物は言った。
 幾浦は背を向け景色を見ている。
「済みません。家が火事で燃えてしまって、見ることが出来なかったのです。何か急ぎなんでしょうか?」
「うわっ、大変だったんですね」
 ビックリしたようであった。
「ええ、まあ。ところで用件はなんでしょうか?」
「いや、実はね」
 と言ってその人物は、幾浦の方をチラリと見た。
「あの、隠岐さんは御存知無いかと思うんですけど…隣の部署の榊のことなんです…あいつ隠岐さんと、どうしても会いたいって言って困ってるんですよ…で、俺が隠岐さんのメール番号知ってたので、とうとう昨日その件を送ったんですが…あいつ俺の親友なんですが、ちょっと変わっていて…でもいい奴なんです。男前だし…」
 いいにくそうに小声でその人物は言った。確かに何度か隣の部署に行ったが、そんな野郎のことはしらねえよ、とリーチは思ったが、そんな風には口には出せない。
「あの、済みません。私、付き合っている人がおりますので…申し訳ないのですが…」
 今度は男かよ…
 リーチはげんなりした。
「やっぱりそうですよね。済みません。なんか妙なこと言って…。それも男なんて……変なこと言ってしまって済みません」
 その人物は、ばつの悪そうな顔をして十階で降りていった。
 暫く、狭い空間に沈黙が流れる。
 幾浦はリーチに背を向けて外の景色を見ていた。それを見たリーチは後ろからボコボコにしてやってもいいかな、と真面目に考えていた。
 そうして一階に着き、リーチは降り際、幾浦に背を向け立ち止まった。
「お互い夜道には気を付けた方がいいですね…」
 リーチはそこまで言うと今度は、幾浦の方を向き、
「幾浦さんがあんなケダモノとは思いませんでしたよ…でもあの後、恋人にちゃんと慰めて貰いましたから…」
 そう言って、ニッコリと笑って見せた。
 蒼白になっている幾浦を後目に、リーチは許可証を受付に返却すると早々に立ち去った。
 その足取りは軽くステップを踏んでいた。



 ケダモノか…
 幾浦は自販機のある喫煙コーナーで煙草を吹かしながら、トシが言った台詞を思い出していた。
 あの時……
 恐くない……囁きの様なトシのその呟きを頭上に聞いた幾浦は、初めてトシを抱いたときのことを思い出した。
 最初抱いた時のようにトシはそうやって呟いていた。
 私が教えたのだ…そう言えば怖くなくなると。私が…
 幾浦はその時、トシを大切にしてやりたいと心から思った。小さな小鳥を胸に抱くように、力任せに壊してしまわないように…出来るだけ怖がらせないよう、痛みを少しでも感じないように、時間をかけて抱いたことを思い出した。
 まだ誰も足を踏み入れた事のない真っ白い雪のような純粋さを持っていて、何事にも一生懸命のトシを幾浦は愛した。仕事中は、そつのない振る舞いをするくせに、一旦仕事から放れると鈍くさくて目が離せない。そんなトシが可愛いく、愛おしかった。
 頭の回転は誰よりも早く、頭脳も優秀なのに肝心な事が分からない。
 幾浦はトシにモーションを何度もかけたのだが、最初の頃は全くその事に気付かなかった。
 なんという鈍感さ…と、苛ついたこともあった。
 仕方なく観念して、愛してると白状しても、まだ冗談だと信じてもらえなかった。
 まるで運命が微笑んだかと思われるような再会をし、ここで逃したらもう駄目だと思い、食事に誘い、そのまま部屋に連れ帰ると半ば強引にトシを抱いた。
 やっと想いが通じたと安堵するのもつかの間…他に男が居たなんてな…
 幾浦はトシが見せていた無邪気な仕草が全て、演技だったと分かった瞬間、自分ではどうしようもない怒りがこみ上げてきた。他に誰がいてもいいと、そこまで譲歩しているのにはねつけられたのが、ショックだったのかもしれなかった。
 初めて合ったときの、あの丁寧なだけの会話をするトシがそこにいた。それがまた、幾浦の癇に障った。
 幾浦さん…そう言ったときのトシは突き放すような目を自分に向けた。
 あれがトシなのかと、信じられなかった。
 トシ…
 こんなにも大事にしていたのに…
 誰よりも、誰よりも愛しているのに…
 お前に、その事が伝わらなかったなんて…
 私が馬鹿だったのか?
 幾浦は自分も痛みを感じていた。それ以上にトシの痛みは想像を絶するもので有ることも分かっていた。
 このまま、こんな事をした私を許してくれー…と言って抱きしめてあげたいという気持ちに幾浦は駆られた。
 こんな姿のトシを見るに耐えられない…
 だが、自分で全てを壊してしまったんだ。もう、戻れない…
 昨日幾浦はあの後、ほとんど置き去りというようにトシを車から追い出して帰った。
 マンションに帰り、車内の足元に警察手帳と例の写真が残されていたのを見て、幾浦は散々悩んで、もう一度あの場所へ戻ったのだが、既にトシの姿はなかった。
 翌日、やはり返してあげないと困るだろうと思い、携帯に電話を入れた。
 それに受付に渡しておけば、トシに会うことも無いだろうと考えていた。
 それが…
 何が、恋人にちゃんと慰めて貰った、だっ!
 幾浦は、ドンッー…と壁を拳で叩き付けた。
 トシの変貌に、幾浦は混乱していた。昨日幾浦は、強姦まがいのことをトシにした。それなのに先程の別れ際、満面の笑みで幾浦に微笑んだ。
 幾浦は謝るつもりはなかったが、責められ罵しられるのを覚悟していた。
 それなのに、返ってきたのは微笑みだった。
 何故、笑える…?まだ身体も痛いだろう…私が何をしたのかも分かっている筈…
 それなのに何故笑えるんだっ!
 昨晩、再度自宅に帰ってからというもの、幾浦は激しい後悔と、苦渋が嵐のように吹き荒れ、胸と心が押しつぶされそうな圧迫感に四六時中襲われていた。
 幾浦自身、どう対処していいのか全く分からなかった。
 自分で、何もかも壊してしまった。
 友達としてすら、繋がっておれなくなった。
 幾浦は設置されているベンチに腰を下ろし、頭を抱え込んだ。
 それで、忘れることが出来るのならいい…
 出来ない…どうしても出来ない…
 私はトシを愛している…
 愛しているんだ…トシ…
「幾浦君、ここにいたのか」
 そこへ入ってきたのは専務の野村であった。
「あ、専務…」
 急に声をかけられ、幾浦は驚いたが平静を何とか保った。
「どうした?君がそんなに悩む姿は初めて見たよ。何かトラブルでもあったのかね?」
「いえ、何でもありません。私も人並みに、悩むこともあるんですよ…」
 そう言って幾浦はなんとか笑みを見せた。
「君を捜していたんだよ」
「私を…ですか?」
 野村はおもむろに幾浦の横に腰を下ろした。
「君、結婚はまだだったね」
「はい。それが何か…」
「私の娘が…今年二十四になるんだがね…そろそろ嫁に出したいと思っている。君にどうだろうとおもってな…」
 突然の申し出に幾浦は驚きを隠せなかった。
「え、ですが私のような者には釣り合わないと思いますが…」
「いやいや、お願いしたいくらいだよ。君はうちの会社でもエリートだ。まだまだ出世できるだろう。人望も厚い。嫁にやるなら、自分の目に叶った男の所に行って貰いたいと常々考えていたんだ。幾浦君、君なら任せると私は思っとる。どうかね、前向きに考えてくれないか?」
 あまりの野村の勢いに押され、幾浦は言葉に詰まった。
「専務…」
「それとも、もう決まった人がいるのかね?」
「いえ…」
 そうだ私には誰もいないんだ…
 トシのことは忘れなければならない……
 だが…
「では、会ってみてくれ、断ってくれても構わない」
 野村はそう言っているが、会った後で断ることなど出来ないだろう。
 幾浦は、そう考えると、野村に言った。
「暫く考えさせて下さい」
 そう言う答えが返ってくるとは思わなかったのか、野村の顔は一瞬強張ったが、すぐに気を取り直したように幾浦に言った。
「ああ、分かった。でも返事は早めに頼むよ」
 そう言って、野村は帰っていった。
 幾浦はそれを見送った後、持っていた紙コップを握りつぶした。
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