Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第2章

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 トシが目覚めたのは、既に太陽が真上に差しかかる頃だった。
「お腹空いた…」
 トシは身を起こそうとしたが、身体が鉛のように重く、頭の中は霞が掛かっているようにぼんやりしていた。
 どうやって帰ったんだろう…。
 そう考えながらトシはベットに座り、明るい外を見やった。
 外から降り注ぐ太陽の光は、目覚めたばかりのトシの目に容赦なく入り込み、その刺激に思わず手で目を覆う。
「あーそのまま寝たみたい…」
 トシは、くしゃくしゃのシャツを着ている自分が妙に哀れに見えた。
「着替えて、ディズニーランドに行かなきゃ…」
 ゆるゆるとシャツを脱ぎ始めたが、昨晩、上着を振り回して帰った記憶が戻ってきた。
 ハッとしてトシは、床に脱ぎ捨ててあった上着のポケットを探った。
「あった…警察手帳」
 半分眠っていたトシの意識は、警察手帳を確認する頃には、はっきりと目覚めていた。 一度リーチが、プライべートにべろべろに酔っぱらい、警察手帳を落としたことがあった。幸い、それを拾った人が交番に届けてくれたので、大事には至らなかったが、厳重注意と三ヶ月の減棒、その上始末書を山ほど書かされた。その時の事があってから、リーチは自宅と名執の家以外では飲まないようになった。
 あの時の減棒は堪えたからなぁ…。
 トシはその時のことを思い出してクスッと笑った。
 そして実感する。
 昨日、あんなに打ちひしがれた自分に、笑う余裕があるなんて…
 すると、昨日涸れた筈のトシの瞳が涙で潤んだ。

「昨日の晩、どうしてた?」

 何故、そんな事を聞くんだろうとトシは昨日の幾浦の問いかけに思った。
 あの時、幾浦の聞くリーチの昨日の予定を必死で思い出したのだ。
 彼らはお互いのプライベートの間、片方がスリープする代わりに、口裏を合わせる為に次の日の朝、打合せをする事にしている。何処へ行ったとか、何処の店で、食事を摂ったかである。そうしないと、もし片方のプライベートの時間に利一としての友人に会ったりして、後で、えっ、会ったっけ?という事態を避けるためである。
 確か、雪久さんの患者さんが急変して、約束の時間に会えなくて、リーチが雪久さんと会ったのは夜の十時頃だったって言ってた…遅かったから、警察病院の近くの公園で待ち合わせしたって…公園!
 あの時のショックは今もまだ胸に残っている。
 リーチと名執が会っていたのを幾浦は見たのだ。
「ごめん……恭眞……」
 トシはリーチを起こすことは避けた。
 二人はどんなに深くスリープしていても、ウェイクと声をかけられると眠りが醒める。他にも危険を知らせるベルが鳴ると、自動的にスリープしている意識が戻る。トシはそれが分かっていながらリーチを起こすことが出来なかった。
 リーチと雪久さんに、ずっと言われていたよな…早く秘密を言ってしまえって…。
 トシは幾浦との付き合いが二ヶ月を過ぎた頃から、二人から毎度のように、そう進言されていた。

 お前の身体だけが目的じゃ無いのなら、分かってくれるさ…もし全てを告白して気味悪るれて別れることになれば、それはいずれそうなる運命だったと諦めるしかない。いつかばれる。ユキに気付かれたようにな、それでもユキは俺達を認めてくれた。そして俺を愛してくれた。この世にはそんな人間も居るんだ。悲観的に考える必要は無いさ…

 リーチはそう言った。

 大丈夫、自分に自信を持って。話を聞いていると幾浦さんは随分トシさんに参っているようですし理解してくれますよ。但し、リーチは性格が悪いので、彼の事は毛嫌いするかもしれませんが…

 と、言って名執は笑った。

 だけど…雪久さんは僕達がどういう人間かと言うことを知って、それでもすんなり受け入れられたのは、外科医だけど、精神科医の免許も持ってるからだ。でも恭眞は違う。普通のサラリーマンだ、全てを打ち明けて、それを受け入れることなんて先ず無理だ。
 トシは昔、孤児院の院長が、利一の事を知った後、最初、気味の悪いという目を向け、次に憐憫の目を向けたことを思い出した。それからは、まるで疫病を持った病人を扱うように接された。
 その事は…特にトシがショックを受けた。しかし二人は、そういう院長が悪いとは思わなかった。普通一般の人々が自分達を知ると、こうゆう反応をするのだろうと、諦めることにした。
 人が普通と違うことに拒否反応を起こすことは至極当然である。自分達が、もし別々の肉体を持って生まれ、利一の様な人間に関わる機会があったとしたら、院長と同じ反応を示していたかもしれないとトシは思うのだ。
 トシは幾浦を本当に愛していた。だからこそ自分の全てを告げることが出来なかった。
 幾浦が奇異の目、あるいは憐憫の目を自分に向ける。関わりを避けるように妙に明るく別れを告げる。そんな幾浦の事をトシは想像するだけでも耐えられなかった。
 自分達が他の人と違うとは思わない。神様の悪戯で、一つの肉体に二つの魂が宿ってしまっただけだと二人とも信じていた。
 だけど、そんなことを他の誰が理解してくれるというんだろう…誰もいない。いつも愛していると囁く恭眞ですら例外じゃない。
 トシはそう心の中で呟やいた。

 俺がユキと仲良く歩いている姿を、何処で幾浦が目撃するかもしれない。他の奴らになら、どう思われても構わないが、それで誤解を生んで喧嘩になり、別れる事になっても俺の所為じゃないからな。だから早くばらせ。

 リーチはそうも言っていた。

 リーチの言ってた通りになっちゃったよ…。
 トシの涙は目の端に盛り上がり、今にもこぼれ落ちそうであった。
 幾浦のことを深く愛せば愛するほど、トシは臆病になっていった。
 いつ来るとも知れない別れを…見えない自分の未来を想像し、怯えていた。
 だが、もうそれも終わった…
 幾浦に、出て行けと言われ、かき集めたありったけの気力を絞ってトシは、何とかそのマンションから出ることが出来た。そしてエレベータを降り、月夜に照らし出された幾浦の部屋を見上げた瞬間、切り裂かれた自分の心から、血が吹き出て死んでしまうのではないかとトシは思った。
 涙が止めどもなく溢れ、その場にうずくまってトシは泣いた。誤解を解くこともできず、かといって真実を告げることの叶わない自分を呪った。
 でも、これで良かったんだ…
 この心の傷は死ぬまで癒えることは無いだろう。いつまでも塞がることなく、ことあるごとに血を流し続けるだろう。それでも、誰かを心から愛せて良かったと、その思い出だけできっと生きていけるとトシは思った。
 いつの間にか頬を伝っていた涙をトシは拭うと、風呂場に足を運んだ。
 今は自分がしなくてはならないことに意識を集中するんだ…ディズニーランドに行って今度こそあの記憶を乗り越えなくちゃならない。
 ともすれば、今にも泣き崩れてしまいそうな自分を叱咤しながら、トシは熱いシャワーを頭から浴びた。すると、足の裏から感じるヒヤリとするタイルの冷たさが、熱い湯によって和らいできた。
 僕は刑事なんだ。
 それをトシは何度も呪文のように唱えた。
 頼ることのできる暖かい腕は、今はもう無い。だからこそ自分自身がしっかりしなくてはならない…。
 窓から差し込む光を受けて、トシは決意を新たにした。



 リーチは目が覚めると、そこが何処なのかすぐに分からなかった。
「大丈夫ですか?」
 白衣を着た人物が自分を見下ろしている。
 ユキじゃない…誰だ…
 リーチが、白衣を着た人間で知っているのは名執だけであった。
 目を何度もしばたかせ、リーチは状況の把握に努めた。
「大丈夫ですか、隠岐さん」
 白衣の人物は自分の事を知っているようだ。そう言えば何処かで見たことが…
 あっ、そうか
「ここはディズニーランドの医務室ですね」
「そうです。お久しぶりですね、木崎ですよ。覚えてますか?」
 丸顔の人の良さそうな木崎が笑っていた。
「木崎さん。お久しぶりです」
 そう言うリーチは、既に利一モードに切り替わっていた。
「警備員から門の所に人が倒れてると連絡を受けて、行ってみれば以前お世話になった刑事さんでしょう。ビックリしましたよ」
 リーチが心の中を探ってみると、トシは花畑で気を失っていた。
 やはり駄目だったみたいだな…。
 それも仕方ないとリーチは思ったが、一緒に来ている筈の幾浦の姿が無いのに気付いた。
「私に連れは…居ませんでした?」
「いえ、お一人でしたよ。誰かと待ち合わせして居られたんですか?それなら園内放送で呼びますが…」
 利一の彼女とでも思ったのか、木崎は心配そうにそう言った。
「いいんです。来れないと言っていたのを今、思い出しました」
 リーチは笑って誤魔化した。
「それより、ちゃんと食事を摂っていらっしゃいますか?随分、疲れた顔をしておられますよ。刑事さんは不規則な仕事だと思いますが、身体には充分気を配って栄養のあるものをしっかり摂るようにして下さいね」
 木崎にそう言われ、リーチは、医務室にある鏡で自分の顔を映して見た。
 そこには酷く憔悴した顔の利一が映し出された。
 なんだこりゃ、ひっでー顔してるじゃないか…
 これでは木崎でなくても心配するだろうとリーチは思った。
「大丈夫ですよ。少し立ち眩みを起こしただけなので、これで失礼しますよ」
 リーチは衣服を整える手を止めたがハッとし、木崎の方を向いて聞いた。
「木崎さん。まさか、警視庁に連絡を…」 
「ここへ来られる位ですから、隠岐さん今日非番でしょう。だから、連絡はしていません」
「助かります」
 嬉しそうに笑うリーチの顔は、木崎には無邪気な子供に見えた。

 利一が、二ヶ月前、誘拐された少女と犯人を追って、この園内を誰よりもかけずり廻っていた事を思い出した。
 少女を誘拐した犯人は、現金の受け渡し場所にこのディズニーランドを指定したが、現金の受け渡しとなった場所は塔の下の橋の上で、警察側に取っては都合によい場所でありすぎ、普通は避ける場所であったので、当初その指定場所は犯人の狂言だろうと思われたが、指定時刻に犯人が現れると、両端から警官が取り押さえに走った。
 あえなく逮捕される筈であった。しかし、麻薬常習者であった犯人は狂ったように刃物を振りかざし、何人もの警官に傷を負わせ、重傷者を出し、利一に取り押さえられるまで暴れ続けた。
 その逮捕劇を、木崎は待機場の茂みでつぶさに見ていた。他の警官や、刑事とは違うその利一のしなやかな動きに目を奪われた。繰り出される刃物を難なく交わし、その腕を掴み押さえ付けるまでの出来事が、一瞬に行われた。すごい刑事だと木崎は思った。
 木崎はその刑事を後で紹介され、瞳の大きな、どちらかと言えば子供っぽく、可愛い顔立ちの利一を見て二度驚いた。
 当初、木崎が想像していた刑事とは全く違っていたからであった。
 あの後のことが堪えているのかも知れないな…
 疲れた顔の利一を見て木崎は思った。
 利一は時折、ディズニーランドの門から園内に入れず、ウロウロしているのを警備員に目撃されている。
 きっと、あのことが彼を苦しめているのかも知れない。

「じゃ、失礼します」
「今度こそ、彼女と来て下さい」
 リーチは木崎にそう声をかけられ、頭をかきながら医務室を後にした。
 外に出ると、平日にも関わらず、沢山の人が楽しそうに歩いている。
 ここで悲劇は起こった…。
 リーチは、まだ鮮明に覚えている事件を思い出した。
 犯人を捕らえ、トシがその男のポケットから探り出した園内地図を丹念に見、犯人が爪で僅かに付けた場所を見つけ、そこに少女がいると推測し、保護に向かった。
 少女はリトルワールド館内の人形群の中で眠っていた。トシは少女を見つけ、抱き上げ、怪我が無いのを確認してホッとした。トシは少女を降ろし、手を繋ぐと館内を出た。一応、病院で少女に精密検査を受けさせる為、救急車の待機している所まで他の警官とともに急いだ。
 トシは何台ものパトカーの赤いランプが廻る中、その先に止まっている救急車を目指した。
 少女を保護し、ホッとして二人とも隙ができていた。その一瞬の緩みをついて、パトカーを乗るのを拒んだ犯人は、暴れ、取り押さえる警官を振り払って、トシに後ろから突進した。
 犯人は後ろ手に手錠が掛けられていたにも関わらず、狂気が宿った瞳を燃やし、周囲の利一を呼ぶ声と、けたたましく鳴る心の中の警報に驚いたトシと、リーチが振り返った。
 その瞬間、犯人は少女の腹にその歯を立てた。
 少女の悲鳴が空を切り裂き、大量の血が飛び散った。その血を浴びたトシは、理解できない行為に呆然となり、動けず、代わりにリーチが犯人の唇と歯茎の間に手を掛け、それを外そうと試みた。しかし血で手が滑り、上手くいかず、その間、麻酔を何本も打ち込むがその効力は興奮した犯人には全く通じなかった。
 少女の意識は既に無く、口からも血が吹き出してきた。
 業を煮やしたリーチは始末書覚悟で、急所を外し犯人の両肩を銃で撃ち抜いた。
 麻酔が効かなかった犯人であったが、その痛みに耐えきれず、その歯のかみ合わせの力を緩めた。リーチがそれを見逃す訳はなく、今度は口腔に手を掛け後ろに投げ飛ばした。
 少女はすぐさま病院に運ばれ手術が行われた。手術は無事済んだが、一週間も意識が戻らず、両親や周囲は死を覚悟した。が、奇跡的に助かった。
 その後、トシは始末書の嵐に追われ、リーチは自分のミスに落ち込んだ。たとえ少女の命が助かったとしても、あの傷跡が一生残るという事実に、二人とも苦い痼りを残した。 一ヶ月程経ち、少女とその両親が、警視庁の利一の元にやってきて、本来ならば、責められる筈の自分達が感謝の言葉を貰ったとき、リーチの心は癒えた。その上、話を聞けば整形手術で、何度か皮膚の移植をすれば、醜い傷跡も完全に消すことは出来ないが、目立たなくなると聞き、更に心の重荷が取れた。
 だが、トシは違った。狂った男の凶行と、自分に飛び散った少女の生暖かい鮮血の感触が心と身体に焼き付き、どうしても忘れられないでいた。現場検証で、再度ディズニーランドに向かった時、そのショックがいかに大きかったかをトシは知った。
 門から先に入れないのである。
 崩れ落ちそうになるトシが支配する四肢の体勢を、リーチが素早く交替し、立て直す。
 あれから何度トシが挑戦しようと、全く駄目であった。
 名執はリーチに、

 時間が経つと人間は忘却という機能で、少しはその時のショックが和らぐはずですから、出来れば何度も短期間に行くより、期間をある程度開けチャレンジする方が効果的です。それに短期間に行き、その度に失敗すると、そのショックも加算されてしまい、益々傷深めてしまう事にもなりますから、出来るだけ期間を開けるようトシさんに伝えてあげて下さい。

 ー…と言っていた。
 しかしそんな忠告をトシは全く聞かず、この一ヶ月の間に、四度も挑戦していた。
 まあ、トシは真面目だから、思い詰めてしまうのだろう…リーチはそう思った。
 利一としてのトシは、しっかりしているように見える。しかしトシがトシで在るときは、泣き虫で、騙されやすく、よく言うと天真爛漫で純粋なタイプであった。頭脳はリーチよりも何倍も持っていて、頭を使う分野に関しては、切れるタイプであった。事件を解決しようとするとする、あのひたむきなエネルギーは他の刑事より何倍も持っている。トシが没頭している時はまるで別人であった。それなのに、幾浦もそうであるのだが、とにかく放っておけないのである。
 仕事中はリーチも目覚めているので支障は無い。トシがプライベートの時は、現在は幾浦が面倒を見てくれるが、それまではスリープした振りをして、四六時中様子を伺っていなければならなかった。
 仕事を放れたトシは、鈍くさいと言うのか…抜けてると言うのか…放っておけば、何をしでかすか、何に巻き込まれるか分からない。そういう危うさが、リーチと幾浦が目が離せない理由になっていた。
 幾浦が一緒の筈なんだけどな…
 幾浦は約束を守る男であるというのは、ずっと二人を見ていてリーチが思った事であった。まして、今日この日が遊ぶのが目的では無いことを幾浦は知っている筈である。余程の事が有っても、約束を破るとは考えられなかった。
 ま、いっか、なーんかあったんだろ…あの二人のことだし、心配することも無いだろう。
 幾浦がよりトシに惚れている事は一目瞭然だったからである。
 リーチはベンチに座って、さあ、どうしようかと考えた。今週はトシの番であったが、どうも起きそうになかった。トシの恋人の幾浦は、何かの事情で今日は休みを取れなかった様で、ラッキーにも自分に休暇が回ってきた。と、いって一緒にいたい名執は、今週夜勤で会えそうもない。
 うーん、とリーチが考え込んでいると鋭い視線を感じた。
 それは紛れもない憎悪であった。
 リーチには動物的かと思われる程の敏感さを持ち合わせていた。誰が、どんなに気配を消して近付いてもリーチには分かるのであった。
 なん…だ。
 しかし、放たれた視線はその存在を隠そうともせず、誇示するかのようにリーチに浴びせかけた。リーチは、視線の送られてくる方向を見定めようと、立ち上がって周囲を見渡した。すると、帆船の上から、こちらを見つめる男の姿を見つけた。
 あいつは…まさか、いやこんな所にいる筈は無い。ではあれは…
 その目は、冷えた目で語っていた。
 お前を許さないー…と
「くそっ」
 小さく吐き捨てるとリーチは、その男に向かって駆け出した。
 数分もかからずに男のいた場所に着いたが、既に姿は無かった。
 帆船の上をごおっと言う音と共に風が吹き抜けた。
「確かに…見たはずだ…」
 釈然としないリーチに、利一を呼ぶポケットベルが鳴った。
 表示は“先ずTEL、すぐ戻れ”というものであった。
 リーチは携帯電話をポケットから取り出すと、電話をかけた。
「隠岐です。ベルが鳴りましたが…」
「俺だ、篠原だ。隠岐、大変なことになった。お前のコーポが焼けたんだ」
 三係で同僚の篠原が電話に出た。
「えっ、焼けたって?何がですか?」
 篠原が、要領の得ないリーチにもう一度言った。
「火事で、お前の住んでるコーポが丸焼け…じゃなくて多分そうなるだろう。まだ燃えてるらしいからな。放火の疑いがあるらしい」
「燃えている?放火?」
 突然の事にリーチは、まだ良く事情がのめなかった。
「ああーもうっ、だからっ燃えてるんだよ、お前の借りてる部屋も!」
「じ、自分の住んでいる所が燃えてるって言ったんですか?」
 やっと理解したリーチは、もう少しで利一モードを忘れてしまうところであった。
「管理官もお呼びで他の件も話があるんだが、電話じゃ埒があかない。今何処にいるんだ?」
「ディズニーランドです」
「なんだ、デートの最中だったのか…そりゃ悪かったな、だけど一緒にいる相手には仕方ないと諦めて貰ってくれ、とにかく、そっちの所轄から車を廻すようにするから、門の所でまってろ」
 篠原は、捲し立てるように言うと電話を切った。
 俺達の全財産が燃えちまったて事かよ…
 リーチはまだ実感が湧かず、ただ機械的に出口に向かって歩き出した。
 が、しかし。まだ俺はいい、俺はな。俺の殆どのものはユキん家に、いつの間にか移 動してるから…。だけどトシのものは随分あった筈だ。とリーチは思った。だが、トシは、幾浦の所には歯磨きすら自分のものを置いていなかった。泊まりも滅多にしない。大抵必要な物は、持参して持って帰ってくる。トシは幾浦が歯噛みするほど、気を使うのであった。
 門に着いたリーチは、再度携帯電話を取り出し、名執の携帯へ電話をかけた。
 名執の携帯電話は予想通り、留守電になっていた。
「名執先生、警視庁捜査一課の隠岐です。相談したいことがありますので折り返しお電話を下…」
 リーチが言い終わろうとした瞬間、電話がカチッといって繋がった。
「もしかして、リーチ?」
 名執の携帯は、リーチの方しか番号教えていなかったので、驚いたような声が返ってきた。
「ああ、俺。なあユキ、今晩夜勤か?」
「ええ、そうですが…どうしたのですか?今日はトシさんと幾浦さんのデートの日ではありませんでした?」
「そうなんだ、それがどうもトシ一人で来た様だ、どうせ幾浦に仕事でも入ったんだろう」
「幾浦さんが、トシさんとの約束を守れなかったという事は、余程のことがあったのでしょうね」
 名執もリーチと同じ意見のようであった。
「ま、それはいいとして…今晩、勝手にお前の家を使わせて貰うことになりそうなんだが、いいか?」
「それは構いませんが…どうしたんですか?」
 トシの週にリーチが名執の家を訪れたことは今まで一度も無かったので、様子が変だと気付いた様だった。
「利一の家っていうか、俺達の済んでるコーポが放火されて、俺達のもんも一切合切燃えちまう予定らしい。で、帰る家が無くなった」
「らしい…って?」
「今、燃えてるんだ」
「私の方は、いつまでも居て頂いて構わないのですが…その様子では火事のこと、トシさんまだご存じでないのでしょう?勿論、眠っておられるんですよね」
「門の所で、気を失ったままだ。起こそうと思えば起こせるんだが。火事のことを言うのが気が重くて、起こせず困ってるんだ…。あいつこの間、小遣い貯めてやっと新型のパソコン買ったろ、ビデオカードとか結構値の張るもんもあった筈なんだ…知ったときの落ち込みを考えるとな…。それより、幾浦と取った写真も先週整理して、書棚にコーナーまで作ってたし、どうしようかユキ…」
「お金で何とかなるものは、私が力になりますが…写真となれば話は違いますからね…あっでも、幾浦さんがネガを持っている可能性もありますよ」
「トシの性格からいって、そうゆう細かい整理はあいつがするに決まってるだろ」
「そうでした…」
「写真といえば…トシに写真渡してくれたか?」
「えっ、渡しておきましたけど…」
「ああ…じゃ、それも燃えたか……」
「でも、それは私がネガを持ってますから…はいっ、今、参ります」
 電話向こうの名執が、看護婦に呼ばれた様であった。
「じゃ、ユキ、悪いが勝手に使わせてもらうよ」
「え、ええ。抜けられそうでしたら、遅くにでも一旦、戻ります」
「そうしてくれ…」
 リーチはそう言うと沈黙した。
「リーチ?」
「ユキ、あ…愛してるよ」
 リーチはそう言ってぶっきらぼうに電話を切った。
 くそっ!恥ずかしいじゃないか!全くユキの奴が言えって頼むから、仕方なく言うが、新婚の夫婦じゃあるまいし、もう二度と言うもんか!
 リーチは、いつもそう決心するが暫く言わないでいると、また名執にせがまれ言う羽目になるのが分かっていた。その度に、こうやって悪態を付く。しかし内心では、結構嬉々として告白している自分を知っていた。
 夜なら…二人っきりならば、何度だって言えるとリーチは思う。しかし周りが明るいと、なんだか誰かに見られているようで…落ち着かない。
 ーん?
 何となく視線を感じたリーチはその方向に振り返った。しかし先程の視線とは違い、憎悪も怒りも感じられなかった。ただ見られてるような気がする…という曖昧な感覚がリーチにはあった。
 ま、いっか…。悪意は無さそうだしな。
 携帯をポケットに直すと、リーチは、遠くからパトカーのサイレンが聞こえて来るのに気付いた。
 たかが俺達の家が燃えた位で、お迎えをくれるほど警察は暇じゃない。なんか又、ややこしいことがあったんだろう。
 リーチは何となく嫌な予感がした。
 パトカーが、門の所に立っている利一の前に止まると、警官が急いで車を降りてきた。
「警視庁捜査一課の隠岐刑事でしょうか?」
 リーチより、かなり若い警官がそう言った。
「はい、そうです。お手間をおかけします」
 リーチは利一モードに切り替え、恐縮した表情を作りそう言った。
「初めましてお目にかかります、自分は舞浜署の三浦と申します。警視庁より要請を受け、お迎えに参りました」
 その声が、妙に周囲に響き、園内に入ろうといていた人や、帰ろうと門をくぐる人達の注目を集めた。
「あの、車に乗ってもいいですか?」
「はいっ、どうぞお乗り下さい」
 と言って満面の笑みの三浦は、助手席側を開ける。
「どうもありがとう。でも、扉は自分で閉めますので、三浦さんも乗って下さい」
「そうさせて頂きます」
「飛ばしますので、シートベルトは必ずして下さい」
 警察関係の人間が、そんなことを言うのも妙だと、リーチはくすっと笑う。
「あ…なんか変なことを言いました。済みません。当たり前のことですよね」
 三浦はそう言って、車を発進させた。
「申し訳ないんですが…着くまで休ませて頂いても構いませんか?」
「ええ、着いたらお知らせします」
「ご厚意に甘えさせて貰います」
 そう言ってリーチはゆっくりシートに身を沈めた。

『トシ、ウェイクしろ!』
 リーチはトシを呼んだ。
『うーん。あれ…。やっぱり失敗しちゃったんだ…』
『みたいだな、幾浦はどうしたんだ?』
『えっ』
 リーチはしらない、僕たちが別れたこと…どうしよう…
 トシは言うか言うまいか、悩んだ。本当の理由を知れば、自分達の所為だとリーチがショックを受けることが分かていたからであった。
『あいつ、用事でも出来たのか?』 
『あ、うん。そうなんだ』
 何となく歯切れが悪い返答であったが、リーチはとりあえず自分が言わなければならない事を、告げた。
『まあ、こちらの都合もその方が良かったんだからいいか。本部から呼び出しがかかって今、警視庁に向かってる最中なんだ』
『ほんと?もうーっ、休み無しで、参っちゃううね』
 参っちゃうと言いながら、トシは困った風ではない。
 要するに、仕事が好きなのだ。それはリーチとて例外ではない。
『それより大変なことが…お前がスリープしてる間に起こったんだ』
『なに?』
『実はな、驚くなよ、それがだな…』
 リーチが、もごもごとはっきり言わないので、トシは驚いた。リーチがはっきり言えないのは名執に関する事だけである。
『雪久さんと喧嘩したの?』
『馬鹿野郎!誰がするかっ、じゃなくて…』
 と言いながら、また堂々巡りの様相を帯びてきた。
『リーチ』
『燃えたらしい…俺達の家が…違った、コーポが全焼しそうだってよ』
『燃えた?燃えたって何?冗談言わないでよ、僕ちゃんと火の始末してきたし、何より十戸ある部屋で住んでるのは僕達だけだよ、それにあの辺は火の気無いし…何かの間違いじゃ…』
『篠原が言ってたよ、どうも放火らしい…』
『そん…な。酷い…』
 トシにとって、ダブルパンチであった。幾浦との思い出を、これから生きていく糧にしようとしていた。新しいパソコンも買ったばかりで、幾浦と交わしてきた膨大なメールも、自分の生きてきた証、全てが燃えて無くなってしまったことが、トシには信じられなかった、信じたくなかった。
『トシ…。幾浦に貰ったものは、お前がねだればあいつは買ってくれるさ。パソコンは惜しいことをしたが、同じタイプのものをユキの病院で使っていて、今度買い換えるそうだから、お前に引き取って貰いたいと言ってた。あとは何とかなる、落ち込むな』
 名執はパソコンのお金を出してくれるだろうが、そのまま言えば、トシは断るだろうと思ったリーチは勝手に話を作った。
『そっか、これで良かったんだ…』
 過去を振り返って、思い出の中で生きるより…
『トシ?』
 全て、失って忘れる方がいいんだ…きっと…
『仕方ないよね、もう燃えちゃったんだから、』
 これですっきりした…何もかも、終わったんだ…本当に。
『お前、変だぞ、幾浦と何かあったんだろ、言えよ』
 言ってしまおう。後になればなる程、言えなくなる。
『振られちゃったよ、リーチ』
 寂しそうにトシは笑った。
『どうしてだ?一体何でそうなったんだ?』
 信じられないという口調でリーチが言った。
『恭眞に婚約者が出来たんだ』
 トシはそれしか無いと思った。幾浦がリーチと名執の姿を見、その事で揉めたことは絶対に言えない。かといって自分達の秘密をばらして別れたと、そう言う嘘を付くこともできない。どちらもリーチを傷つけてしまうことになるからであった。嘘でも、自分自身がどうにも出来ない理由を…それもリーチには全く関係のないことを選ばなければならない。そう考えたトシは、幾浦に婚約者が出来たと嘘を付くことにした。
『僕には、子供は作れない。でも恭眞の家には跡継ぎが必要なんだ』
『本当にいいのか?それで諦められるのか?手放してしまって後悔しないと誓えるのか?本当に誓えるか?』
 リーチの方が我を失いそうであった。
『恭眞が結婚して、それでもつき合えるほど、僕はできた人間じゃないよ。結婚後も付き合って欲しいなんて恭眞は言わなかったけどね、仕方ないよ…諦めるしか…』
 そう言ってトシは、肉体の無い心の目から涙を流した。
『トシ…』
『もう逢わない。きっぱり忘れる。これでいいんだ。だから悪いんだけど…今日だけリーチに、身体をお願いしていい?なんか疲れちゃったよ…』
 このままずっと眠っていたいとトシは思った。
『いいよ、じゃ今日は俺の好きにさせて貰おうかな…』
 努めて明るくそうリーチは言った。
『ありがと、リーチ』
 そう言って、トシは眠りについた。

 参ったな…
 リーチは一人ごちた。
 トシはきっと昨晩一人で泣いて苦しんだに違いない。今は何とか平静を装っているが、相当堪えているはずだ…リーチにはそれが痛いほどよく解っていた。トシは本当に辛い時に限って、スリープしているリーチを起こさないのであった。
 だが、子供が産めないって言われると何も言えないよな…
 それにしてもー…っとリーチは思う。そんなこと、男と付き合ってりゃ最初から分かっている事だろう。なら、最初からトシにちょっかい出さなければ良かったんだ。そうすればトシだってこんなに辛い目に合わずに済んだ。体よく遊ばれたも同じじゃないか!
 リーチは憤懣やるかたない気持ちで一杯であった。
 トシ…お前なら、幾浦よりもっと大切にしてくれる人がきっといる。お前は誰からも好かれるいい奴なんだからな。俺みたいに根性は悪くないし、世間を斜めに見る事もない。本当に素直で純粋なんだ。そんなお前を振るような奴はこっちから振ってやれ!
 リーチは、もう聞いていないトシに向かってそう語りかけていた。
 少し俺も眠ろうか…
 パトカーのサイレンを遠くに聞き、二人は眠りに付いた。
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