「相手の問題、僕らの代償」 第9章
夕方のニュースは何処も昼間の事件が流れていた。
幾浦はそれを部下から聞くことになった。
本当なら昼間にでもトシに電話をしようと考えていたのが、アメリカから視察が突然来ることになりその対応に追われて、出来なかったのである。
「何だと…それは本当か?」
「ええ、食堂のテレビでやってましたよ。まだ手術中みたいで容態は分からないそうです。隠岐さんって、ただの刑事じゃなかったんですね。なんすごい人だったんだと、みんなで感心してたんです」
ニュースではトシの経歴も流れているのか…それにしても、だったは無いだろう!
「でも可哀想ですよね、助けに行った子供に撃たれるなんて…その子供は湯河って犯人に撃たなければパパとママを殺すって脅されたらしいですよ、酷い話ですよね」
ーと、部署の人間が言った頃には幾浦は食堂まで駆け出した後だった。
トシ…まさか死ぬなんて事は無いだろうな…
まだ私はお前に何も話をしていないんだぞ…
言いたいことが沢山ある…
私はどうしてあの時、トシの腕を掴むのに失敗したんだ…
幾浦は後悔していた。
トシが訪ねてきた昨日の晩、互いの想いと熱を確かめた筈であったのに、トシは誤解したまま幾浦から逃げ出してしまったのであった。
食堂ではトシを知る人達がニュースに釘付けになっていた。
「代理…隠岐さんが…」
幾浦に気付いた課の受付の女性が幾浦に泣きそうな顔を向けた。
「大変なことになっているようだな…」
幾浦は言葉ではそう言ったが、心の中は嵐が吹き荒れ、必死に冷静さを保とうとしていた。
尚、依然犯人の湯河崎斗の行方は掴めておらず、警視庁捜査一課はこの事を重大なことと受け止め、犯人逮捕に全力をあげるとコメントを出し……
そんな事はどうでもいい!トシはどうなんだ…
警察病院に収容された同捜査一課の隠岐利一巡査は銃弾を受け、目撃者の証言によりますと心臓近くを撃たれた様であり、重体。現在、手術中であります。
心臓近く……
もしかすると…死…
幾浦はそれから仕事が手に付かなかった。遅くにマンションに戻ってからも、テレビに釘付けになっていた。
ニュースに出るトシの写真をアルが見て時々、ワンと鳴き、尻尾を振る。
そんなアルを幾浦は抱きしめながら、最悪の事が現実にならないように祈っていた。
トシ…頑張るんだ…死ぬんじゃ無いぞ、絶対死ぬな!
幾浦は会社が終ってから警察病院に向かったが、病院の玄関ではマスコミが溢れ、それを警官達が止めるという大変な騒ぎが展開されており、とても話を聞ける状況でないことを知ると、仕方なく自宅へ戻ったのである。
その夜、最終ニュースでトシの手術が取りあえず無事に済んだことを報じた。
良かった…本当に良かった…トシ…良かったな…
幾浦は半泣き状態でアルを思いっきり抱きしめた。
しかし、トシに関わった病院関係者が手術の方法や、その程度の説明をしだすと幾浦は驚いた。
手術を担当した院長と呼ばれる五十歳くらいの年齢の男の隣に、自分の恋敵を見た。
警察病院の…外科医だったのか…
胸のプレートは名執雪久と見えた。
ユキヒサとは、ああいう字を書くのか…
その名執は巣鴨に代わって、白板に手術の方法やどんな風に弾が入っていたかを説明していた。
憔悴をしてはいるが、名執の姿は写真で見るよりも綺麗な男であった。
必ず助けてみせるというオーラの様なものが名執の体から発散されているのを幾浦は見た。
トシは…お前は最愛の人に助けて貰ったのか…
幾浦は悔しかった。自分が無力であることを思い知らされたからである。
私は自宅でこうやってニュースを見ることくらいしか…
ここで、お前の無事を祈るしか出来ない…
トシ…お前を想う気持ちは誰にも負けないつもりなのに…祈ることしか出来なかった。
テレビに映る名執は淡々とマスコミの質問に答えていた。院長の巣鴨の方はいつの間にかマスコミを避け、消えていた。その後を名執が引き受けていたようであった。
「手術は成功いたしましたが当分ICUにて患者の容態を二十四時間体制で、監視を続けることになり、はっきり申しまして予断を許せない状況であります。その為に意識の回復もいつとは申せません」
そこでマスコミの質問が飛んだ。
「じゃ、いつなら話が出来るようになるんですか?」
名執はマスコミの問いには全く答えず、言葉を続けた。その表情は怒っているようであった。
「マスコミ関係者の方々には申し訳ございませんが、何か変化があればこのようにお知らせを致します。ですので今後、他の患者さんのご迷惑にもなりますので、来院は控えていただけますようにお願い致します」
マスコミは一瞬ざわつき、また質問の嵐が吹く。
「当病院では以上で経過報告を終わらせていただきます」
名執の凛とした態度が、それ以上マスコミの質問を受け付けなかった。
そしてニュースは終わった。
トシ…
幾浦は無性にトシに会いたかった。会えないことは分かっていたが会いたかった。
出来ることなら側に付いていてやりたいと切望した。
明日…一度行ってみよう…あの男に頼むのは幾浦自身プライドが許さなかったが、今はそんなものを気にしている余裕は無かった。
もしも、本当に手の届かないところに逝ってしまったのなら、一生後悔することになる。
幾浦は決心した。
名執に土下座をしても、トシに会わせて貰おうと……
ICUでは機械音が響くのみで、ひっそりとしていた。
時折看護婦がガラス張りの向こうにいる利一を、こちらの機械で心拍数や呼吸数、血圧を確認しては記録を取っていた。
名執は記者会見が終わるとさっさと利一の元に戻り、主治医の特権でガラス向こうの恋人の側に寄り、その容態を確認した。
規則的な呼吸を繰り返すその身体を見て名執は安堵する。
動脈が切れておればあっという間に死んでいただろう…
巣鴨はそう言っていた。
後は意識が戻れば危険はまずない。但し、これで出血が止まればの話だが…
巣鴨はそうも言っていた。
しかし名執は巣鴨の手術を見て、今後出血が再度おこるという可能性は全く無いと信じていた。傷ついた血管全てを縫合する見事な腕前を見た後ではそんな心配など起こらなかった。
「リーチ……トシさん……」
名執はリーチとトシはもの凄い強運の持ち主だと思った。
警察の話では、銃は改造拳銃が使われており、その銃身には溝が無く、弾が飛ぶ威力が普通の銃より数段落ちることが、あれほどの至近距離から撃たれたにも関わらす命が助かった要因であった。何よりその命中したところは肋骨。
それを奇跡というのだろうと名執は思った。
肋骨に命中していなければ例え威力が普通の銃より落ちるといえども、死は免れない。
一瞬のうちに命は奪われただろう。
そしてオペをした院長が、この日病院におり、借りのある友人の頼みを聞くため、死を予想しながらもオペを引き受けてくれたこと、尚かつ手が空いていたこと。(大抵、他のオペの最中か、学会出席のため海外に出かけている)、
本当に見えない何かの力に助けられたとしか思えないほどの運の良さであった。
「…良かったですね…」
名執は感無量の思いで利一の額に滲む汗を、そっと拭いた。
しかし、楽観視していたものの麻酔が切れ出す朝方頃から熱が出始めた。
名執は懸命に熱を下げようと努力をするがなかなか下がらず、利一の呼吸が乱れ初めた。
発熱は体力を消耗させ、この状態で痙攣や、発作が起こるともなれば最悪の事態も覚悟しなければならなくなる。
二日その状態が続き、三日目の夕方頃、やっと熱は下がり始めたが依然危険な状態であった。
名執は巣鴨に相談をするために院長室へと向かった。
「院長先生、名執です。今、宜しいでしょうか…?」
「入りたまえ」
名執は院長室に入った。
「例の患者の事かね」
巣鴨は名執が言うにそう言った。
「はい、意識が戻らないのです。三日ほど高い熱が出ましたが、先程やっと下がり始めました」
「熱は予想されたことだが…そろそろ意識が戻ってもいい頃だな…」
「現在、出血は起こしてはおりませんが、時折血圧や心拍数が、がかなり低下することがあります。今後、痙攣などが起こる可能性もあるかと…」
「ショック状態を抜けきっていないのだろうな…意識が戻らないところで撃たれた状況を繰り返して夢にでも見ておるんだろう…困ったね。意識が戻ればそういうことは無くなると思うんだが…」
巣鴨がそう言うと、名執はハッと気が付いた。
トシさんだ…きっとトシさんの方の意識が混乱しているんだ…
痛みを引き受けるのはリーチの役目でトシは痛みを知らないと、名執は以前リーチに聞いたことを思い出した。
だが、今回、二人の意識が身体の主導権を握れずに混在していて、痛みはどちらも感じているのでは無いのだろうか…リーチに耐えることが出来てもトシには耐え難い痛みなのかもしれない。
名執は院長室を後にしてどうすれば良いか悩んだ。
問題はトシさんですね…
意識が戻らない二人に、もう大丈夫だと分からせるにはどうすれば良いのかが分からなかった。
トシが落ち着かないと二人とも大変なことになるのだ。
名執は冷や汗が流れた。
もし、トシが身体の支配権を持っているとき、ショックと痛みで痙攣を起こせば、縫合した血管から再度出血することも考えられる。その時はリーチも道連れになることは必至であった。
困りました…こればかりは私にはどうにも出来ないことですから…
その時、見知らぬ男性に声をかけられた。
「隠岐利一さんの担当医の名執雪久先生…ですね」
「そうですが…どちら様でしょう?」
名執は自分の前に立つ、すらりと背の高い男性を見つめて言った。
「わたくし幾浦恭眞と申します」
幾浦はそう言って頭を下げた。
「えっ」
名執は驚いた。
トシさんの想い切れない恋人…
この人が…
「無理なお願いとは思いますが…隠岐さんに会わせて頂けないでしょうか?」
「済みません。今はどなたも面会をご遠慮させて頂いております。隠岐さんの上司であってもお断りしておりますので、申し訳ございませんが…」
そう言って立ち去ろうとしたが、幾浦がそれを止めた。
「先生が…隠岐さん…いえ、トシの恋人なのは存じております。その間に入った私を避けたいと思われるのは…」
「あの、そうではなくて…医者として申し上げていると言うことを分かって頂けませんか?」
名執は困惑した表情でそう答えた。
私の事をご存じだったなんて…
その上、名執がトシの恋人だと幾浦は誤解している。
「どうあっても駄目でしょうか…」
「はい。お引き取り下さい」
「そうですか……」
幾浦は苦しそうな表情を名執に向けた。
「では…これを先生に返しておきます。私が持っていても仕方のないものですから…」
名執は幾浦から見覚えのある封筒を差し出された。
それは以前、名執がリーチに渡して貰おうとトシに頼んだ写真の入った封筒だった。それを幾浦が見ていないとは思えなかった。二人の関係がおかしくなったのは、その写真をトシに頼んでからの様な気が名執にはした。
まさかこの事でも、揉めたのだろうか?
「トシのこと…宜しくお願いします…」
そう言って幾浦が帰ろうとした所を今度は、名執が引き留めた。
写真の事でも揉めたかもしれないという罪悪感と、もしかするとトシが幾浦の声に無意識に元気付けられるのではないかと期待したのである。
「意識は戻っておりませんが…少しなら…。トシさんに声を聞かせてあげて下さい。今は容態も安定しておりますので、多分大丈夫でしょう」
幾浦はその言葉を聞かされると、名執の手を取って何度も感謝の言葉を告げた。名執はそんな幾浦を見て、悪い人間では無いと感じた。
名執が幾浦をICUに案内すると、その入り口に警官が二人立っており、幾浦をが入ろうとするのを止めた。
「この方は、隠岐さんの仲の良いお友達です。心配ありません」
名執はそう言ったが、警官はそれでも駄目ですと言い張った。
「今、隠岐さんはとても危険な状態です。意識もまだ戻っておりません。本来ならば、ご家族をお呼びしているところですが、隠岐さんにご家族や親戚の方はいらっしゃらないのです。それでお友達にわざわざ来ていただいたというのに、追い返そうというのですか?」
名執はピシャリとそう警官に言った。
警官達は、それならば仕方ないという表情で幾浦を掴む手を放した。
中に入った幾浦は苦しそうな表情で名執に聞いた。
「それほど悪いのですか?」
「危険は過ぎたと思います。が、ああでも言わなければ、通してくれなかったでしょうから…」
そう言って名執は微笑んだ。
消毒の仕方を幾浦に指示し、次に帽子と上着を着るように名執は言った。幾浦は言われるままに中に入る準備を整えた。そうしてガラスの扉を抜け次に磨りガラスの分厚い扉を開けて入ると、規則的な機械音のする部屋に着いた。
その部屋には患者を監視する機械が沢山並び、ガラス張りで仕切られた向こう側に利一は眠っていた。その利一の身体には何本もの点滴が腕に付けられ、ホースの様なものも身体から繋がれていた。
その姿を確認した幾浦がちょっと躊躇したように名執には見えた。
「先程、三日続いた熱が下がってやっと酸素注入も外せたのです。このまま落ち着いて意識が戻れば安心なのですが……」
名執は言いながら、ガラス向こうに入る最後の扉を開けて幾浦を手招いた。
「え、宜しいのですか?」
「特別に許します。手を握って声をかけてあげて下さい。もう大丈夫だと安心するように伝えてあげて下さい。今トシさんにはそれが一番必要なのです」
そう言って名執は利一が眠っているベットの横の椅子を幾浦に勧めた。
幾浦は椅子に座るとトシの手を握り、自分の唇に寄せた。
「トシ…良かった…助かって…」
名執は本気でトシを心配する幾浦の姿を見て、暫く二人きりにさせてあげようと部屋を出ようとしたその時、利一が掠れるような声を出した。
「ユ…キ……」
それを聞いた幾浦は一瞬凍り付いた。
「ユ…キ…ユキ…」
リーチ…リーチが今、身体を支配してる…
名執にはそれが分かったが幾浦にはそんなことを知る由も無かった。
「トシ…」
トシだと信じている幾浦は、掴んでいる手をぐっと握りしめて泣きそうな顔をしながら言葉を続けた。
「分かってる…お前が本当は誰を必要としているか…分かっている。だが今は、この手をお前が望む男に渡すことは出来ない…出来ないんだトシ…許してくれ…」
名執は絞り出すようにそう言う幾浦を見て胸が詰まった。
幾浦は彼らのことを知らないのだ。
トシさんが私を呼んでいると誤解している…
トシさんが私を愛していると…信じている…
それでも…この人はトシさんを愛している…
「先生…少し二人だけにして頂けませんか?」
そう言われた名執は何も言えずにその部屋を出た。
名執が出て行くと幾浦は、何度も何度も掴んだ手を唇で愛撫した。
「ユキ…」
無意識で名執を呼ぶトシを見るのが、幾浦にとって胸が張り裂けそうな程、辛く悲しかった。それでもやっと会えたトシの側を離れることが出来なかった。
暫くすると、幾浦は自分を呼ぶ声を聞いた。
幾浦は空耳かと思ったが、確かにトシが自分の名を呼んでいるのが聞こえた。
「きょう…ま…」
利一の中のリーチとトシはどちらも意識が混乱しており、その交替が無意識のうちに行われていたのである。
「トシ…」
幾浦は思わず涙がこぼれた。
私の名前も呼んでくれるのか……
「きょ……ま…」
トシの指が幾浦を探すようにピクピクと微かに動く。その指を自分の手に包んでしっかり握り返す。
「トシ…私はここにいる。もう大丈夫だ。助かったんだよ」
届いてくれと言う思いで幾浦はそうトシに言った。
「ぼ…く…を…捨て…ないで…ひとり…は…こわ…い」
掠れながらも小さな声でトシは言った。
「私はずっとお前の側にいるから…安心していい。トシ…お前を捨てたりなんかしていないだろう?私にはお前しかいないんだ。お前が誤解しているだけなんだ…。いや私が誤解させてしまうことを言ったんだな。済まなかった……」
幾浦は必死に聞こえる筈のないトシに向かって、ずっと伝えたいと思っていた事を話していた。
「きょ…う…ま」
トシの閉じた瞳から涙が流れているのに幾浦は気付いた。
「トシ……泣くな…私のことで泣くな…」
何度もそう言うが一向にトシは泣きやまなかった。
「きょ…う…」
そう最後に言うと、その口からはもう何も語られなかった。
それでも幾浦は満足していた。
自分の名を意識の無いまま呼んでくれた…
例えトシに名執という恋人がいても、不思議と嫉妬心は起こらなかった。
自分の事も必要としてくれている…
それが分かっただけで充分であった。
「トシ…」
幾浦はトシの涙の雫を手で拭ってやった。
早く元気になってくれ…
そして話し合おう…
沢山のことを…
婚約の事は嘘だと言うこともちゃんと話す…
幾浦は嫉妬心から自分が嘘を付いたことを後悔していた。あの夜、話すつもりだったが、その前にトシが幾浦を振り切って出て行ってしまい、その誤解を解くことが出来なかったのである。
その嘘がこれ程トシを苦しめるとは思わなかった。
「トシ…愛している…私はお前を一番に愛しているんだぞ…だからといってそれを押しつける気はない…ずっと待っている。私が一番になるまで…例え一生それが無理でも…お前を手放すことは私には出来ない…」
幾浦はそうトシに告げると、立ち上がってそのガラス張りの部屋を出た。
そこにはガラス向こうの幾浦を伺っていた名執が立っていた。
「ありがとうございました…」
幾浦はそう言って深々と頭を下げた。
「そ、そんなことはなさらないで下さい…」
「また…明日来ても宜しいでしょうか…」
幾浦は名執にすがるような目でそう言った。
「それは構いませんが…あの…少しお話があります…時間は宜しいでしょうか?」
「時間はありますが…なんでしょうか?」
何を話そうというのだ…幾浦は訝しげな目を名執に向けた。だが名執の表情は何を考えているのか読みとれない。
「ここでは何ですから…隣の部屋で話をしましょう」
幾浦は不安になった。
トシを愛するもの同士の話と言えば決まっている。だがこんな時に揉めたくない。そう思いながらも幾浦は、名執に促されるまま隣の部屋に入った。
そこは看護婦が時折休憩するのに飲み物を摂る為の部屋で、小さな事務机が置かれ、椅子がいくつか重ねて端に置かれており、机には湯沸かしポットと急須、コーヒーや紅茶、紙コップなど置かれていた。
名執は幾浦がその部屋に入るのを見届けると、鍵を掛けた。
「他の人に聞かれると困る話を致しますので…」
鍵を掛けた名執に不審の目を向けた幾浦にそう言った。
「話とは…なんですか…?」
「とにかく…座って下さい。お茶でも入れますので…」
幾浦は取りあえず差し出された椅子に座った。
名執はお茶を入れ、幾浦の前に置いた。
「何にも無いので申し訳ないのですが…」
「それで…話とは何でしょうか」
「隠岐利一という人間に出会ったのが一年ほど前です。付き合いだしてからは大体半年位になるでしょうか…」
半年…付き合いの差はそれほど離れていない……。
幾浦は何となく悔しかった。
「私はある日、隠岐利一という人間が時折、妙な言動をとることに気付きました。誰もいない部屋で一人で話していることもありました。最初、私は彼が刑事という責務に疲れ、心身症をおこしているのだろうと思いましたが、そうではありませんでした…」
それがどういうことか幾浦には分からなかった。
「ここで幾浦さんに申し上げたいのは…人間は様々な個性と、様々な秘密を持っています。そして科学では証明することが出来ないような事も時には起こるということです」
次第に名執の声が慎重に言葉を選びながら話しているのが幾浦に分かり、どんな重大なことを言おうとしているのかが分からず、不安が心に積もり始めた。
「隠岐利一という人間の身体の中には二人の人格が存在します。二重人格とは違う、くっきり別れた人格がそこにありました。一人は貴方が良くご存じのトシさんもう一人は私が愛しているリーチ…彼らは一つの肉体を二人で共有しているのです」
それを聞いた幾浦は何がなんだか分からずに呆然としていた。
「あの……混乱されるのは承知の上でお話し致しました。私は精神科医の免許を持っていますが彼らの様な人間に会ったことも、聞いたこともありません。病気ではないのです。それは分かって下さい…」
「そんな…馬鹿な話が…」
幾浦の見開いた目が、更に大きくなる。
「幾浦さん…トシさんはその事をずっと貴方に打ち明けたいと思っていた様ですが、怖かったようです。話して貴方に嫌われることを恐れた…。それは小さい頃、彼らを育てた施設の院長が彼らの真実を知ったとき、二人に憐憫の目と、奇異の目を向けたからです」
幾浦はただ、名執の話を機械的に聞いていた。
「彼らはその時、初めて自分達がこの世界では受け入れてもらえない存在だと気付きました。そして利一という人格を作り演じることで自分達を守ろうとしたのです」
「………」
「彼らは一週間交替で身体の支配権を交替させています。覚えがありませんか?二週間のうち会えるのはその内一週間だった筈です」
「そう言えば…」
大抵、判で付いたようにトシと会えるのは月のうち二週間だった事を思い出した。
「幾浦さん。幾浦さんががトシさんでは考えられない言葉使いするのを聞いたことはありませんか?先程、うわ言で私をユキと呼んだのがリーチです。貴方は気付かなかったようですが……。もっとも以前にも貴方とリーチは会っているのです」
「私が…リーチに以前会った事があると…」
そうなのか?
「ええ、余り良い印象は無いと思いますが…」
名執はやや、笑みを浮かべながらそう言った。
「トシでは考えられない…言葉…」
そう言えば…確かにトシでは考えられない言葉を聞いたような気がする…
一番堪えた言葉…
ケダモノ…
その言葉が余りにもトシに不似合いで、それでいて的を射ていたのが辛かった事を幾浦は思い出した。
他にもそうだ!トシは愛しているとは言ったことがない…どんなに求めても恥ずかしいのか望んだ言葉はもらえなかった。
好きだとは言いましたが愛しているとは言ったことはありません…
あれもリーチだというのか…
そうだ、トシにはあんな事は言えない…
幾浦は一つの肉体に二人の魂が存在するという特殊な人間に驚くより、リーチがトシを装った事に対する怒りの方が強かった。どう考えてもトシの性格には程遠い言葉を聞かされたからだ。それに混乱し、悩んだ。それはトシではなく、もう一人の人物……リーチという人間がトシを装い幾浦に対し言ったのだ。リーチが自分達の間に入って来た所為でおかしくなったのだ。
そこにたどり着くと幾浦は急に腹が立ってきた。
「あの男…あいつの所為で…くそっ!」
幾浦が、いきなりすごい形相で怒りだしたので名執が驚いた顔を向けた。
「あの…幾浦さん…」
「もう一人は、リーチ…といったな…」
ギロリと睨まれた名執は思わず後ずさる。
「は、はいっ」
「あいつには言いたいことがある!意識が戻ったらとっちめてやる!」
「はぁ…」
「ああ、先生が…トシの恋人で無かったという事が分かって…ホッとしました…」
そう、トシは今でも私だけを愛してくれているんだ……。トシが名執を愛しているわけではないのだ。リーチが名執を愛し、トシは自分を愛してくれているのだ。
「そ、そうですか…それは良かったですね……」
「では、私はもう遅いのでこれで……」
そう言って立ち上がるのを名執は止めた。
「あの、幾浦さん……貴方はそれで…納得されたのですか……?」
「えっ?」
「一人の身体に、二つの魂が存在しているということを納得して頂けたのでしょうか?」
「ああ、何となくだが……」
まだ実感が無いのは確かだ。
「何となくではなくて、これからのこともちゃんと考えておられますか?」
「これから?」
「そうです。独占は出来ないということです」
それはさせないと名執の目は語っていた。
「身体の独占は出来ないだろうが、心の独占は出来るんだろう?私が欲しいのはトシの心なんだ……それさえ手に入れることが叶うなら……私は他に何も必要ない……」
幾浦は、はっきりとそう名執に告げた。
「幾浦さん……」
名執はようやく笑みを浮かべた。
「帰ります。明日……また参ります。トシのこと……宜しくお願いします」
「ええ、任せて下さい」
そう言って幾浦は病院を後にした。
トシ……早く元気になるんだ……
力一杯抱きしめてやる。
一つの身体に二人の人間が住んでいようが、トシはトシなのだ。トシさえ愛してくれるのなら他に何も望まない。
幾浦は嬉しかったのである。名執がトシの恋人ではなかったということがとにかく嬉しかった。
その本当の重大さが幾浦に分かるのは、もう少し時間が経ってからであった。