Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第12章

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「どなたでしょうか?」
「何でも名執先生からは、許可を貰ったそうですが、隠岐さんにもお伺いして欲しいとのことです」
 若い警官は少し言いにくそうであった。
「あの……ですからどなたでしょう?」
「隠岐さんに怪我をさせた女の子とそのご両親です」
「えっ……」
「あの……どうしましょう?一応、一般のお見舞いは下で全て断っているそうなんですが、その方達は名執先生も隠岐さんがいいとおっしゃるなら、面会をさせてあげて欲しいとのことなんですが……」
「ええ、構いません……お会いしますよ」
「はい、ではお連れします」
 警官は笑みを浮かべて病室を出ていった。
「隠岐……いいのか?」
「あの子には罪は無いですよ。あの時は仕方なかったんです」
 きっと自分のしてしまったことに苦しんでいるに違いないとトシは思った。もしかしたらその事で学校でも苛められているかもしれないのだ。
 暫くすると、あの日見た少女が両親に連れられてやってきた。
 父親の渡辺は手にメロンの入った籠を抱えていた。
「私し、美佳の父親の渡辺聡と申します。この度は何とお詫びすれば良いのか……美佳が隠岐さんにとんでもないことを致しまして……本当に申し訳ございませんでした……」
 渡辺はそう言って妻と共に深々と頭を下げた。
 勿論、美佳もそれに習った。
「あの、頭を上げて下さい……美佳ちゃんには、なんの罪も無いのですから……」
 トシは慌ててそう言った。
「つまらない物ですが……」
 渡辺はそう言って持ってきたメロンの入った籠を脇机に置いた。
「お気を使わないで下さい……この通り、軽い怪我で済みましたので、美佳ちゃんのことも余り責めるようなこともなさらないで下さいね。ご両親思いの娘さんですから……」
 軽い怪我と言っているがそんなことは無いことを誰もが知っていた。
「費用の方はこちらで……何年かかっても何とか……」
 一流の外科医に手術を受けた費用は一般サラリーマンにとって、簡単に払える金額では無かった。
「労災で精算できますのでご心配は無用です」
 トシはすかさずそう言って笑顔を見せた。
「ですが……」
「こんなことで税金の無駄遣いはしたくないのですが、一応公務中の怪我ですので、ちゃんと支払ってくれるそうです。反対に渡辺さんからお金を頂けば、公務員の私は今度、違う意味で新聞に載ることになりますのでそれだけは勘弁して下さい……」
「隠岐さん……」
 渡辺は、胸一杯の表情で言葉を継げないようだった。
「美佳、お前が一番ちゃんと謝らなければいけないのよ、ほら……」
 母親は、そう言って美佳をトシのベットに促した。
「あの……」
「こんにちは……」
 トシはそう言って美佳に笑みを見せた。
「ご、ごめんなさい……」
 美佳はこちらに視線を合わせないように下を向いてそう言った。
「ね、お兄さんの方を向いて……」
 トシは出来るだけ優しくそう言った。だが美佳はちらりとトシの方を見ては、又下を向いてしまう。
「変な男の人に脅かされたんだよね……可哀想に……美佳ちゃん怖かった?」
 その問いに美佳は小さく頷く。
「お兄さん……美佳の所為で死んじゃうの?」
 半泣きの美佳がやっとトシに向いた。
「美佳!」
 渡辺が叱った。
 それに驚いた美佳は泣き始めた。
「渡辺さん、美佳ちゃんを怒らないでやって下さい……」
 トシがそう言うと渡辺は申し訳なさそうな顔を向けた。
「お兄さんは死なないよ。それはね、美佳ちゃんの腕前が良かったから助かったんだ。下手くそな人が銃を撃ってたら死んでたよ。ちゃんと謝ってくれたし、お兄さんは怒ってないからね。だってそうしないと美佳ちゃんの大好きなパパやママを殺すって言われたんだろう?仕方なかったんだものね」
 トシはそう言って泣いている美佳を宥めた。
「ホントに怒ってない?美佳のこと許してくれる?」
 それに対してトシは笑顔で頷いた。
「学校で友達に苛められたりしない?」
 そう言うと美佳は又床を見つめた。
 こんな結果を迎えるとは思わなかったので、誘拐された当初かなり美佳の顔写真がテレビで報道された。そういう訳で大抵の人が、誰が利一を銃で撃ったのかを知っていた。
「この子……今、学校を休ませているんです。近所の人や大人は美佳のことを不憫に思ってくれるのですが…子供はそうはいかないようで……」
 母親はそう言って美佳の頭を撫でた。
「そうですか……誘拐ということでかなり報道したのが裏目に出てしまったようですね…これはこちらの責任です。美佳ちゃんこそ被害者なのに、辛い思いを何度もさせてしまって……申し訳ありません……」
「そんなことをおっしゃらないで下さい……美佳が悪かったのです」
 渡辺はそう言った。
「美佳ちゃん。学校に行ってお兄さんとお友達になったって言えばいいよ。そうだね……その証拠にあのクマのぬいぐるみをもって帰ってくれる?」
 美佳の身長ほどあるクマが赤いリボンをつけて、プレゼントの山からこちらを見ている。
「いいの?」
 今まで泣いていた美佳が初めて笑顔を見せた。
「駄目ですよ美佳。あれは隠岐さんへのお見舞いなんですからね」
 母親は美佳にそう言った。
「いいんです。私はまだ結婚もしていませんし、当然子供も居ません。引き取り手を捜していたところなんです」
 トシはそう言って説明した。
「ですが……」
 渡辺は困ったような表情で言った。
「美佳ちゃん。お兄さんがいいって言ってるんだよ。ちょっと荷物になるけど持って帰ってくれる?それともクマさんは嫌いかな?」
 美佳は顔を横に振った。
「ホントにいいの?」
「うん。クマさんもお兄さんより美佳ちゃんの方がいいって言ってるよ」
「ありがとう。お兄さん」
 すっかり機嫌を良くした美佳がそう言ってクマのぬいぐるみの所へ行って、嬉しそうに抱きしめた。
「隠岐さん……」
「いいんですよ。ご両親は早く美佳ちゃんの心の傷を癒してあげるように努力してあげて下さい。私からのお願いはそれだけです」
「ありがとうございます……」
 渡辺夫妻は思わず目頭を押さえ、再度頭を下げた。
 そこに名執がやってきた。
「隠岐さん診察です」
「あ、では私達はこの辺で……」
「本日はわざわざありがとうございました。あ、篠原さん。ぬいぐるみを下まで持っていってあげてくれませんか?」
「いいよ。じゃ、お嬢ちゃん。お兄さんが下まで運んであげるからね」
 手持ちぶさただった篠原が、俄然張り切ってクマを持ち上げた。
「うん」
 そうして、名執と二人っきりになったトシは小さな吐息をついた。
「疲れたようですね……」
 名執が心配そうにトシを見た。
「少し……人と話をするのにこんなに体力がいるとは思わなかった……」
「長く人と会話をするのは入院してから今日が初めてですからね……」
 そう言ってうっすらと汗が滲んでいるトシの額を名執は優しく拭いた。
「暫く……眠った方がいいですよ」
「はい……そうします……」
 トシはそう言って布団を鼻もとまで引き上げたが、思い出したことがあった。
「雪久さん……リーチ夜中に起きてるみたい……」
「えっ……!」
 名執は驚いた顔を向けた。
「脇机の扉開けてみて……」
 トシがそう言うと名執は扉を開け、そこに菓子の屑を沢山見つけた。
「トシさん。あれほど注意したでしょう……こんな血糖値の上がる物を食べると身体に悪いんですよ……」
「あっ、やだな……僕じゃありませんって……リーチが夜中に起きて食べてたみたいなんです」
「リーチが?」
「リーチは小さい頃によく喧嘩をして院長先生に怒られて泣いてたです。その喧嘩もリーチが悪い訳じゃないんだけど、ああいう性格だから院長先生に言い訳なんか一切しなくて……結局いつも一人で泣いてたんです。その度にボランティアに来てくれてたおばさんから飴とかチョコとか渡されて、辛くて泣きたいときは甘い物を食べて元気になるのよ……って言われたんです。それからかな……リーチ辛いときとか悲しいときに限って僕に内緒で甘い物を食べる様になったんだ」
「そうなんですか……」
「ところで、リーチがそんな風にこそこそ甘い物を食べるなんて、ここ最近無かったのに、やっぱり何かあったんでしょう?でないとこんなに起きてこないっておかしいもの……」
 トシはそう言って名執に問いかけた。しかし名執は複雑な表情を返してくるだけであった。
「私にも……分からないのです……」
 名執はそう言ってうなだれた。
「んー……いっか、リーチと雪久さんのことだから心配ないよね。あ、だから夜中に一回病室に来てみて下さい。きっと一人でお菓子をごそごそ食べている筈だから……」
「ええ、そうします」
 名執はようやく笑顔でそう言った。



 夜半過ぎ、リーチは目を開けた。
 周りは真っ暗でしんと静まり返っていた。
 暗闇が妙に心を平静にさせる。
 そろそろ……起きなきゃな……
 リーチはトシの呼びかけが聞こえていたが、あえて無視していた。
 気が落ち込むと復活するのが難しい。リーチは意外に繊細であった。
 飴……あったかな……
 リーチはそう思いながら、じっとプレゼントの山に焦点を合わせた。月明かりに浮かび上がった箱の山は、次第にその様相をはっきりとさせる。
 たぶんあれは飴か、チョコレートのお菓子だという箱を見つけると、リーチは身体を起こし、点滴の吊っているポールを手に持ち菓子箱の方に延ばしてひっかけ、自分の方に引き寄せた。
 そうして引き寄せた箱のリボンに、目一杯延ばした自分の指を絡め、掴んだ。
「なんだろこれ……」
 がさがさと中身を開けて確認すると、クッキーとチョコの詰め合わせであった。
「目を付けたとおりだ……」
 嬉しそうにリーチはチョコの袋を破くと、いくつか口に含んだ。そうすると甘い味が口一杯に拡がった。
 すると人の気配がした。
 看護婦の巡回だろう。いつもはもう少し遅い筈だが、今日は早いのかもしれない。リーチはそう考えながら毛布に菓子箱を隠すと寝た振りをした。
 足音が聞こえ、自分の病室に入って来るとベット脇の小さな電灯をつけた。
 リーチは眠った振りをしているとその人物はいきなり怒りだした。
「リーチ!貴方が夜中に甘い物を食べるからトシさんが朝御飯を食べられないのですよ。早く治りたくは無いのですか?」
 ゲッと思ったリーチではあったが、寝たふりをし続けた。
「狸寝入りは止して下さい。私は怒っているんです」
 そう言って名執はひたすら怒っている。
 どいつもこいつもトシ、トシってうるせーんだ……
 リーチはそう思いながら名執を無視しようとしたが、いきなり自分の唇が塞がれたのが分かって驚いた。
 口をしっかり閉じようとしたが、やんわりと自分の口をこじ開ける名執の舌が心地よく
リーチは思わずその感触に暫く浸った。
「リーチ……口の中が甘い……」
 リーチが先程食べたチョコの味が名執の口にも拡がったようだった。
「さっき、チョコ食べたから……」
 ばつの悪そうな顔をしてリーチはやっと目を開けた。
「どうしてこんな時間に起きているのですか?」
 名執はそう言って、やっと目覚めた恋人の頬を撫でた。
「別に……」
 リーチは名執に、分かっているくせに……という顔を向けた。
「聞きたかったのですが……昔、精神科医に言われた……と言ってましたね。何を言われたのですか?」
「その話はもういい……」
「何がいいのですか?教えて下さい」
 名執はそう言ってまた眠りに逃げようとするリーチの顔をぐいと自分の方へ向けた。
「どうせ、お前も精神科医の端くれだから同じこと言うんだよ……」
「だから……何を言われたのです……」
 リーチは少し考える仕草を見せて、おもむろに言った。
「トシが基本のパーソナリティだと言われたんだよ」
「最悪の藪医者ですね」
 名執はすかさず呆れたようにそう言った。
「まさかリーチ、そんな藪医者の言ったことでずっと悩んでいたのですか?」
「悪かったな!」
「小さい頃から?」
「小さい頃からだっ!」
 リーチは吐き捨てるようにそう言った。
「馬鹿なリーチ……」
 そう言って名執はリーチの額にかかる髪を優しく梳きながら言葉を続けた。
「貴方が本当に世に言う二重人格という病気ならば、私はとうの昔に病院に入れていますよ……」
「ユキ……」
「理解できない殺人に対して世間ではよく、多重人格や二重人格を引合に出しますが、その中で本物はごく限られた人間だけです。私もアメリカでレジデントの時“自称なんとか病”を見てきましたが本物には滅多にお目にかかれませんでした。診断がついた二重人格にしても貴方達のような人間はおりませんでした。文献をいくらひっくり返しても出てきませんよ。ということは二重人格という病気では無いんです。貴方にその辺りの難しい医学用語言葉で話しても理解できないでしょうから詳しくは説明しませんが……」
「本当か?」
 名執の瞳をしっかりと見つめてリーチが言った。
「私は薮ではありませんよ。信用して下さい」
「お前が薮じゃないと言えるのか?」
「失礼な人ですね。ここの院長先生に是非うちの病院で働いて欲しいと強く言われて働くようになったんですよ。薮ならそんなことおっしゃらないでしょう?それとも私が持っている学位を端から貴方に説明しなければ、薮を撤回して下さらないのですか?」
 少し腹立たしげに名執は言った。
 その口調は本当に気分を害しているようであった。
「ごめん……信じるよ……」
 申し訳なさそうにリーチは言った。
「そんな愚にもつかないことで悩まないで下さい。そんなことで一人で悩まないで……」
 名執はそこで涙を見せた。
「私がここにいるんです……もっと私に頼って下さい……たとえなんの頼りにもならなくても一人より二人の方がいいでしょう?それとも私は貴方にとってなんの相談も、悩みも打ち明けられない人間ですか?」
 そんな風に聞かされたリーチは本当に嬉しかった。しかし元来素直な性格を持ち合わせていないリーチはそれを上手く表現できなかった。
「あんなに冷たかったのに急に優しくなるんだからな……」
「リーチ……」
 名執は再度リーチの唇に触れた。そんな名執にリーチは動く方の右手を首に廻して力を込めた。
 かなり長い時間、口内の温もりを感じ合いようやく唇を離した二人は暫く無言で見つめ合った。それは、リーチはもう一度名執の顔を見ることが出来たという事を、名執はリーチの命が助かったという事をやっと互いが実感したからであった。
 その緩やかな沈黙を破ったのはリーチであった。
「揉めたことは……トシには言うなよ」
「ええ……」
「幾浦……来てるのか?」
「ここ二、三日いらっしゃっておりませんが……毎日のようにお見舞いに、ひまわりを持ってこられています。ですがその度に面会はご遠慮して頂いています」
「ひまわり?」
 リーチが不思議そうな顔をして名執に聞いた。
「トシさんの好きな花だそうです」
「ふーん……」
 リーチは再度視線を天井に向けた。
「幾浦さん……リーチに謝っておいて欲しいとおっしゃってました……」
 名執からそう聞かされると、リーチは瞳を閉じた。
「済みません余計なことを言ってしまいました……」
「ユキ……幾浦のことどう思う?」
 ふと目を開けてリーチは言った。
「リーチ、怒りませんか?」
「それって俺が怒るってことだよな……」
 リーチは憮然とそう言った。が、名執は続けて言った。
「悪い人ではないと思います。私には本当にトシさんを愛していらっしゃるように伺えますが……」
「だけどさ、幾浦には婚約者がいるんだろう?互いに好きだからと言って、それだけであいつらを認めたとして、この先トシだけが辛い思いをするのは俺は耐えられない。幾浦に家族が出来てトシは蚊帳の外……。どうせ幾浦の都合に振り回されるのは目に見えてる。そういう関係でいいと割り切れるのなら……。トシが割り切れる人間なら俺だって何も言うつもりはないが、あいつのことだ……きっと幾浦と付き合っている間ずっと悩むだろう……それも幾浦のことを独占できない事で悩むのではなくて、幾浦の妻に対して申し訳ないと悩む筈だ。そんなに苦しい思いをしてまで幾浦と付き合う価値があるのか?」
「それでもトシさんがいいと言えば仕方ないのではありませんか……それに婚約をあの調子では破棄するのでは無いかと私は思うのですが……」
「婚約を破棄したとして、それだけじゃどうにもならないことを、幾浦が理解できる人間どと思うか?」
 それだけが問題じゃ無いのだ。
「それは私にも分かりません……」
 名執は申し訳なさそうにそう言った。
「リーチ……貴方が心配しているのは分かります。ですがトシさんはもう会わないと……そう決めたのだと、ひまわりを見ながらおっしゃってました。ですから今は身体を治すことだけを考えて下さい……」
 少しずつ興奮してくるリーチが心配になった名執はそう言って話を終わりにしようとした。
「分かってる……」
「リーチ……」
 名執はリーチの指に自分の指を絡めた。
「な、俺達いつ退院できそう?」
「早くて……そうですね……あと一ヶ月はかかるでしょう。その後も当分自宅療養をして頂いて、現場復帰はもっと時間が必要です」
「嘘だろ……」
「嘘なんか言いません」
 名執はきっぱりとそう言った。
「いいですかリーチ、今回の怪我はただの怪我ではないと言うことを分かって下さいね。勝手に退院……貴方の場合逃亡と言うのでしょうが、そんなことすると命の危険もあるということをしっかり理解して養生して下さい。勿論これからはお菓子は禁止します。必ず守って下さい」
 有無を言わせない名執の口調がリーチを素直にさせた。
「先生の言う通りにしますよ……」
 その言葉を聞いて満足した名執は、ベット脇の電灯を消すとリーチの毛布を引き上げようとした。すると布団の中に先程リーチが隠した菓子箱を見つけそれを取り上げた。
「ユキ……」
「言ったでしょう。駄目なんです。もう少し様子をみて制限付きで許可しますので暫く待って下さい」
「ユキ……」
 リーチは名執の手首を掴むと自分に引き寄せた。
「リーチ!」
 急に体勢を崩した名執はもう少しでリーチの身体に手を置くところであった。
「ああ、もう……私の体重で傷を開くところでしたよ……」
 リーチの頭をまたぐように手で体勢を整えた名執は冷や汗を滲ませながらそう言った。
「お前の肌に触れる事が出来るのはいつぐらいに許可がもらえるんだ……」
 名執の耳元でリーチは囁くようにそう聞いた。
「そんなことなら……いつでも……」
 そう答えた名執の頬に赤みがさしたがリーチには暗闇の所為でその表情は分からなかった。
「今でも……?」
 リーチはそう言ってシャツのボタンとボタンの間から手を差し入れ、名執の胸元をやんわりと撫で回した。
「今でも……いい……あ……やっぱり……駄目です……」
 眉を顰めながら名執は掠れた声でそう言った。
「ユキ……キスして……」
 請われるまま名執はリーチに唇を重ねた。すると先にリーチの舌が名執の口内に侵入した。その状態でリーチの手は名執の腰に廻り、ズボンの上から内股を荒っぽくまさぐった。
「リーチ……駄目……」
 喘ぐ息をリーチに吐き出しながら名執は止めさせようとした。
「ユキ……当分寂しい思いをさせるけど、ここは俺のだからな……」
 ここと言うと同時にリーチは名執のモノをズボンの上からキュッと掴んだ。
「あ……これ以上……は……駄目です……お願い……」
 必死に理性をつなぎ止めようとしているような名執の声はリーチの耳に心地良く聞こえた。
「約束の返事は?」
 手を放したリーチが再度問いかけた。
「私は貴方のものですから……それより早く元気になって下さい……。でないと私の方が我慢できなくなって無理矢理上に乗るかもしれませんよ……」
 甘い声でそう囁かれたリーチは名執を半分からかうつもりであったのに、自分の欲望に火がつきそうになって慌てた。
「元気になるよ……お前のために……」
「貴方の欲求不満の解消のためでしょう?」
「お前だってそうだろう?」
 そう言い合って互いに笑いを堪えた。
「もう遅いですから、休んで下さい……」
「ああ、おやすみ……」
 リーチはそう言うとゆっくりと目を閉じた。
「おやすみなさい……」
 名執は服装を整えると恋人の病室を後にした。
「あいつちょと痩せたか?」
 暗闇の中でリーチはふとそう呟いた。



『リーチ!何でこんなに長い間、僕をしかとしたわけ?』
 トシの朝の第一声はそれから始まった。
『俺だってな、色々悩むんだよ。お前と違って繊細だから……』
 リーチはしれっとそう言った。
『何、言ってるんだよ……もう……雪久さんと喧嘩でもしたのかと思って心配したんだからね!』
 半分怒り、半分呆れたトシが言う。
『ユキと俺が喧嘩するわけ無いだろう……それより今日は俺が身体を引き受けるよ』
 リーチはトシにそう言って機嫌を取ろうとしているようだった。
『んー……じゃ、そうしてよ』
 理由を聞いたところで自分から言わないリーチを知っているトシは仕方なくそう言った。
『やけに素直じゃないか……』
『警察関係の人が今日も来るらしいんだ……昨日も田原管理官と係長、篠原さん。それと僕らを撃った女の子とその両親……嫌じゃないんだけど、人に疲れて……』
 そう言ってトシは昨日の面会者や渡辺夫妻とその娘、警察庁の局長が自分達の事を助けて欲しいと警察病院の院長に頼んでくれた……等、リーチがスリープしている間のことを話した。
『それだけかな……じゃ、今度は僕がスリープさせて貰おう……』
『利一の身体は面倒見るけどトシ、起きておけよ。俺、お前に明日いちいち説明するの面倒臭いからさ……』
 リーチはそう言って、意識を眠らそうとしているトシを引き留めた。
『それって、我が儘だよ……』
 むーっと機嫌を損ねているが、トシはとりあえず起きておくことにした。
『何処に身を潜めて居るんだろうな……』
 勿論湯河の事だろう。
『こんなに血眼になって探しているのに目撃者も出ないなんて変だよね』
 トシはそう言った。
『協力者がいるとは思えないけどな……』
『きっとビックリするようなところに隠れてるような気がする……』
『俺も……』
 その湯河は下水道に身を潜めていたのであった。
 その事にだれも気が付かなかった。
『ユキから聞いたけどな、退院は早くて一ヶ月かかるってさ、現場復帰はもっと時間がかかると言ってた』
『そう。これだけの怪我をしたんだもの……仕方ないよね……じゃ、リーチに当分身体を譲らなきゃいけないね……』
 怪我をした場合、トシが身体の主導権を持つよりリーチが主導権を持っている時の方が数段治りが早いのである。それはリーチが人並みはずれて自己治癒力を発揮する為だ。本人に曰く、自己暗示をかけるそうだ。暗示によって身体の組織を活発化できるというのだが、そんなこと普通の人間に出来るわけなど無い。
 一度トシも挑戦したが上手くいかなかった。
『こんな大きな怪我したことはないからな……』
 困ったようにリーチは言った。
『時間は充分あるし、せめて入院期間を半分にするのを目標に頑張ってね』
 トシは気楽にそう言った。
『集中力がいるし……酷く疲れる。今日からするのか?』
 リーチはそう言って引き延ばそうとするので、トシはごちそうを目の前にぶら下げてやることにした。
『早く雪久さんと夜を過ごしたいんでしょ?なら元気にならなきゃね。それより、リーチが当分こんな状態だったら、寂しくなって他の人に乗り換えるかもしれないしさ』
『そんなことあるわけねえだろ』
 名執がそんなことを絶対しないとはトシも分かっていたが、リーチを煽るにはこれが一番いいのだ。
『普段なら軽くあしらえる相手も、こんな時期に誘われたら、ふらっとついて行ってしまうかもしれないよ~』
『くそっ!やる!俺、今までにないくらい頑張る!』
 リーチはトシにそう言った。
 ホント、リーチって雪久さんの事になると人間が変わるんだからな……
『じゃ、頼むね』
 トシはそう言ってリーチに主導権を渡した。
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