Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第6章

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「やっと帰ってきたんですね…」
 名執はそう言ってマンションの玄関にトシを迎えに出た。
 時間は夜の十二時を過ぎている。
「もう、嫌になちゃった…特にマスコミが…」
 トシはうんざりという表情で名執に言った。
 湯河家手伝い殺害の件で、全国指名手配になった湯河崎斗の話で世間は持ちきりであった。それでトシ達が前回の件でも湯河に関わり、尚且つ住んでいるところは放火され、今度は殺害現場の第一発見者ということもあって、連日マスコミ攻勢に合っていた。
「いくら管理官命令でも、三日も警視庁に拘束されたら暴れたくなると思いません?」
「そうですね。良く無事にここにたどり着きましたね」
 そう言って名執は小さく笑った。
「監視を振り切って逃げて来ちゃったんです。怒ってるだろーな…篠原さん」
「監視を付けられたのですか?」
「そうなんです、リーチがとにかく嫌がってる。いつも視線を感じて神経が落ち着かないって…」
「そうでしょうね…味方だと分かっていてもリーチは野生動物ですから…」
 名執は、トシの瞳の奥にいるリーチに向かってそう言った。
『なんだよ、誰が野生動物なんだ…』
「雪久さん。リーチが怒ってますよ」
「本当の事ですからいいんですよ。ところでトシさん、夕飯はどうされました?」
「実はまだなんです…お世話になってこんな事お願いするのは心苦しいんですけど…なんか食べさせてもらえますか?」
 トシは申し訳なさそうに言った。
「ええ、腕によりをかけて作りますよ。その間にシャワーでも浴びて下さい」
「本当に感謝します…」
 トシが今度は恐縮そうに言うので、名執は慌てて言った。
「気を使わないで下さいね、ここを自分の家だと思ってくつろいで下さい。いいですね、貴方の家だと思うこと。そうして下さらないなら追い出しますよ」
 名執は真剣な顔でそう言うと、にっこりと笑みを見せた。
「あの…リーチに代わりましょうか?」
「何を言ってるんですか…今週はトシさんの番でしょう?もうっ…また気を使う…」
 名執はそう言って少し困った顔をした。
 トシは名執の方が自分に気を使ってくれているのが分かったので、甘えることにした。
「じゃ、今週は雪久さんを独り占めさせてもーらおっと」
 そう元気良く名執に言うと、バスルームに走っていった。
『おまえーっ…分かってるだろうな!ユキは俺のだからなっ!』
『知らないよそんなこと。僕のプライベートなんだからリーチはスリープしてよねっ』
『う………』
 そう言われたリーチは渋々意識を眠らせた。
 それからシャワーを浴び、名執が用意してくれたパジャマに着替えると、トシはようやくホッと一息ついた。
「湯河は一体何処に隠れているんだろう…」
 湯河が殺しをしてから既に三日経っているにも関わらず依然、その足取りは不明であった。
 トシは以前見た、湯河の蛇のような執拗な瞳を忘れることが出来なかった。
「ああ…やな奴に睨まれたな……」
 そう呟くと、トシはキッチンに向かった。
 すると名執はテーブルに料理を並べ、トシを待っていた。
「わー美味しそう…」
 トシは嬉々として椅子に座った。
「お口に合えばいいんですが…」
 リーチは意外に甘党、トシは辛党。色の好みはリーチが寒色系を好み、トシは暖色系を好んだ。だがそれを知っている名執であるから、きっと自分に合わせてくれたに違いないと、トシはまた嬉しくなった。
 トシとリーチは肉体を共有していても二人は全く正反対なのだ。きっと色んな意味で正反対であることで、お互いの欠けた部分を補い合い、今まで上手くやって来れたのだ思う。
 唯一同じであるのは、刑事という職業に誇りを持ち、犯罪者に対し容赦しないということのみである。
「エビのチリソースは特に好きなんです」
 エビに箸を付けながらトシはそう言った。
「沢山食べて体力をつけて下さいね」
 そう言って名執はお茶を差し出した。
「ありがとうございます。雪久さんって、よく気の付く奥さんみたいでリーチが羨ましいな…」
「羨ましいですか?リーチにはお茶は入れたりしませんし…食事も滅多に作りませんよ」
 名執はそうトシに言った。
「えっ…そうなんですか?」
 驚いた顔でトシは聞いた。
「お皿も洗わせてくれないんですよ…困った人ですね」
「うそーっ。家ではなーんにもしないくせに…あいつ、自分のプライベートの時でも僕に食事を作らせたりするんですよ!それなのに雪久さんにはすっごい過保護なんだ…」
「あ、そうなんですか…」
 その事を初めて知ったのか名執驚いた顔をした。
 そうか…そういえばリーチって雪久さんの指がすごく好きっていってたから、包丁とか 持って怪我をされるのが嫌なんだ…
「愛されちゃってますね。ごちそうさまです」
「は、早く食べないと冷めますよ」
 名執は少しうろたえながらそう言った。
 そうしてトシは食事を終えて片づけを手伝い、お皿を直していると名執が言った。
「寝室の隣の部屋に、トシさんにパソコンを置いてありますから使って下さいね」
「え!」
 と言った瞬間、トシはぱたぱたと走っていった。暫くすると名執のいるキッチンに帰ってきた。
「あれ新品じゃ無いですか!駄目ですよ頂けません」
 息を切らしながらトシはそう言った。
「リーチから聞いておられるでしょう?」
「聞いてたけど…あんな最新型を交換するわけ無いじゃないですか…病院で使わないって言うのは嘘でしょう」
 本当は喉から手が出るくらいトシは、今見たパソコンが欲しかった。自分が持っていたのより、もうひとランク上の機種であったからだ。しかし、名執にそこまで甘えられないと必死でその欲求を抑えた。
「それがね、ホントなんです。経理が違う機種を頼んだらしくて、ホストと何故か上手く繋がらないんですよ。ホストをその機種に設定を合わせると、現在使ってるシステムを全部変えないといけないと言われましてね、そういうわけにもいけませんので新たに買い直したのですが、既に精算が済んでいて返却出来なかったのですよ。それでずっと倉庫に置いてあったんです」
 思いっきり嘘って分かっちゃうよ……。
 名執はきっとリーチから聞いて買ってくれたのだろう。だがそこまで甘える事は出来ないのだ。
「ちゃんと設定すれば、ホストと繋げること出来ますよ。僕がお手伝いしましょうか?」
「そうですか…いらないんですね…それじゃあ他に引き取って貰います」
 名執は残念そうにそう言った。
「だから…僕がホストと繋ぎますって…」
「もう病院の方は経理も誤魔化して一台しか購入していないように操作してあるので、はっきり言ってあういう新機種がある方が困るんです。でもトシさんが引き取って下さらないのなら他を探しますよ。はい、じゃこれで話はおしまい。遅いですしもう寝ましょうか?」
 名執はそう言って微笑んだ。
 どうしよう…
 トシは歯を磨きながら悩んだ。
 雪久さんの話はどう考えても嘘っぽいけど…本当かもしれないし…もし本当だったらすごく申し訳ないよね…それに例え買ってくれたものだとしても、こらから雪久さんが使うわけないし…やっぱりどう転んでも他に引き取って貰うことになるんだろう…。
 全財産が焼けて無一文の隠岐家は、当分安いパソコンだって買うことが出来ない現実を思い出し(生活用品だって買えるのか不安であった)なによりパソコンが無いと自分の仕事の大半がストップしてしまうことが分かっていたので、今回は名執に思いっきり甘えることにした。
「あの、雪久さん…」
 名執はその時、明日履く靴を拭いていた。
「何でしょう?」
「パソコンのことなんですが…ぶ…」
「あ、貰っていただけるんですね。良かった」
 分割で…とトシが言おうとしたのを止めるように名執が言った。
「助かりますよ。ありがとうございます」
 そこまで言われたトシはもう何も言えず、ただ感謝するしかなかった。
「じゃ、寝ましょうか。もう遅いですし…トシさんも明日早いでしょう?」
「あ、はい」
「一緒にベット寝ましょうね」
「えええっ」
「何をそんなに驚いてるんですか?襲ったりしませんよ」
 そう言う問題じゃないよ~とトシは困った。
「そんなこと分かってます!けど…」
 同じ布団で寝たとなると、何もなくてもリーチは激怒するに違いないとトシは思った。
「それにお客用の布団セットなんか無いんですよ。以前はあったのですがリーチが捨てちゃいました」
 それは友人であっても、この家に入れてはいけないということだろう…
「リーチの奴ーっ」
 トシはそう言いながら、仕方なく名執と同じベッドに眠ることにした。
 リーチにばれると困るな…と思ったが、客用の布団が無いことを知っているリーチである。どういう状況になるか、本人は分かっていたはずだ。と言うことは既に了解済みと言うことなのだろう。
 ま、いっか……
 トシはふわふわの羽布団を被り、適度な沈みのスプリングに身を任せた。
「なんかすごく気持ちいい…」
 部屋の電気が消され、トシはじっと眠気が襲ってくるのを待った。今日こそは眠れるだろうと思っていたのにもかかわらず、意識は少しも休む様子が無く、身体だけが眠りを欲してトシに訴えていた。
 名執に気付かれないようにそっと身体の位置を変えてみるがやはり、まんじりともしない。
「トシさん…眠れないのですか?」
 トシのそんな様子に気付いた名執が問いかけた。
「え、はぁ…最近、毎晩こんな調子で…気にしないと思っても事件のことが引っかかるんだと思います。気にしないで雪久さんは休んで下さい…」
 それを聞いた名執はトシの側に寄ると、その頭を自分の胸に引き寄せた。
「ゆっ…雪久さん!」
「リーチから…申し訳ないのですが話を伺いました…」
 暗闇の中でそう語りかける名執の声は優しかった。
「………」
「ね、トシさん。人前で泣いても良いときもあるんですよ。思いっきり泣いた方がすっとしますよ。リーチには内緒にしておいてあげますから、気が済むまでこの私の胸で良かったらお貸しします」
「やだな…雪久さん…僕そんな子供じゃな…」
 しかしトシは名執の暖かい抱擁の中で、必死で堪えていた何かが崩れた。
「僕は…あっ」
 何かを言おうとしたが声は嗚咽に代わり、瞳からは大粒の涙がこぼれ始めた。
 名執は何も言わず、泣きながらしがみつくトシをしっかりと自分の胸に抱く。
「もう駄目なの…分かって…る。でも…でも…恭眞のこと…諦め…きれない…何で僕…こんなに馬鹿なんだろ…」
 堰を切って溢れ出した言葉は止めることが出来ず、トシはしゃくりながらも必死に言葉を紡いだ。
「雪久さん…どうしたら…苦しくなくなるんだろ…胸が痛くて…辛くて…どうしようもないんだ…」
「……」
「嫌われたのに…会いたいんだ…。恭眞に会いたくて、会いたくて仕方ないんだ…好きなのに…こんなに好きなのに…それなのに…一番好きな人に嫌われちゃったなんて…耐えられないよ…」
 トシは幾浦の誤解を解きたいと思っていた。
 幾浦以外に付き合うことなど出来ないと…そんな器用な人間ではないと、それだけで良いから分かって貰いたかった。例え真実を告げて、奇異の目を向けられることになっても良いとさえ思った。
 しかし…
 幾浦が周りにその事を吹聴して廻る人間でないとトシは信じているが、確証は無かった。名執の場合、二人の存在にいつの間にか気付いたので、こちらから話したわけではない。
 そして現在はリーチの恋人であり、精神科医の免許も持っている。そういう人間が理解を示してくれたことが、二人とも安心して自分達をさらけ出すことが出来る要因であったが、幾浦は違った。
 二人は自分から一つの身体を二人で共有していると誰かに告げたことは、生まれて今まで一度も無かった。
 自分達の存在が世間では認めてもらえず、病人扱いをされることが分かっているので、
それを告白することに対し恐怖があった。
 結局、どんなに決心をつけてもその恐怖を克服することがトシには出来なかった。
「いいな…リーチにはこんなに優しい雪久さんがいて…いいな…」
 トシはそこでようやく眠りについた。



 幾浦は連日報道されるニュースを見て、トシが以前捕まえた人間に恨まれていることを知った。そしてついこの間まで自分の腕の中にいたトシが、テレビ画面でしか見られなくなったことが無性に寂しかった。
 画面に映るトシはマスコミのインタビューには答えず、ただ笑って交わしているが、かなり疲れているように見えた。
 父親の証言により、息子の崎斗(二十四歳)を殺人容疑で全国指名手配したが足取りは以前つかめず、警視庁捜査一課では捜査本部を…
 ニュースは無機質に毎回同じ事を繰り返す。
「アル…私は最低の人間だ…トシの家が放火された日に、酷いことをしたんだ…。本当は良ければ家に来て貰らおうと…新しく住むところが決まるまで、いつまでも家にいてくれていいと…そう言おうと思っていた。それなのにもう修復出来なくなってしまった…」
 アフガンハウンドのアルは幾浦の横で腕に頭を置き、フンフンと鼻を鳴らしていた。そのアルの耳の裏を幾浦は撫でてやっていた。
「トシのことになると、どうしてこういつも冷静になれないんだ。何故、感情に流されてしまうんだ…」
 幾浦は寝室の天井を見ながらそう言った。
 会社でも自宅でも幾浦は気が付くと電子メールのチェックをしていた。もしかしたらトシから何か伝言が入ってくるかもしれないという僅かな希望だけが幾浦をそんな行動に駆り立てた。
 充分解っていた。トシからはもう何も言ってこないだろうと言うことを…今頃、雪久という恋人と仲良く暮らしているんだろうー…と。
「ケダモノー…か」
 会社にやってきたトシが言った台詞が刃物のように幾浦の心に突き刺さったまま治療する術もなく、あの日から血を流し続けていた。
「言いたくもなるな…あんな酷くされたらな…」
 アルは話を続ける幾浦をじっと見つめたままゆっくり尻尾を振っている。
「トシのことを諦めるしか無いんだな…諦めるしか…」
 呟くような幾浦のその言葉を聞いたアルが急にワン!と吠えた。
 アルの瞳はそれは駄目だ、と言う風に幾浦に見えた。
「お前がトシのこと好きなのは知ってる。だけどな、もう無理なんだ、お前まで私を責めないでくれ…」
 アルは不服そうな顔を幾浦に向けたまま、動こうとしなかった。
 幾浦はアルは人間の言葉が分かるのだろうと思っていた。話しかけると耳を傾け、話に対して不満があったりすると嫌な顔をして絶妙なタイミングで吠えるからだ。
 不思議なのはトシには甘えるが、今まで他人になついたことは一度も無かった。少し長く付き合った女性を家に招いたときも玄関口で唸り、吠え、歯を剥き出して噛み付かんばかりの態度を示し、一歩たりとも家に入ることを許さず、訪問者は誰であろうが全て追い出してきた。
 幾浦はそんなアルを見て、猫のようにテリトリーを守っているのだろうと思ったが、トシには違った。
 初めてトシを連れ帰ったときアルは、ん?という奇妙な顔をして二人を出迎えた。そして吠えることもなく、逆にトシに可愛いと連発されて得意気の様であった。
 幾浦がトシを抱こうと服を脱がせ始めると、いつの間にかアルは居間へ退散し、その日はソファーで一晩を過ごしてくれた。(アルが気を使ってくれたように幾浦には見えた)
 幾浦が思うのには、アルは自分を犬扱いする人間や、犬嫌い、訪れた客や女性を幾浦に合わないと勝手に判断しては追い出していた様であった。しかしトシはアルの厳しい基準にどうも合格したようであった。
「なぁ、アル…専務から見合いの話が出ていて、毎日のように返事を催促されるんだが…いっそのことオーケーしようか?可愛い娘さんだそうだ…家庭的で…」
 そこまで言うとアルは睨みながら唸り、長い尾で幾浦の顔を叩くと寝室から出ていった。
 大反対か…
 幾浦は寒々とした心を抱えて、少しでも暖まるようにと布団に潜って丸くなった。
 トシ…
 トシを求める想いだけが宙に浮いて、それをどうすればいいのか全く分からず、幾浦は悶々としながら朝を迎えた。



 雪久さんって、優しい人だな…
 トシは自分の課の席に座り、パソコンのキーを叩きながらそう思った。
 朝も昨日のことは何も聞かずに美味しい朝食を作ってくれたし…
 警視庁まで送ってくれたし…
 トシは名執が送ってくれると言ったとき、迷惑がかかると断ったが結局送って貰った。
 別に何と思われても私は構いませんよ…
 日除けのサングラスを掛けた名執は妙な色気を漂よわせそう言った。
 きっと隠岐さんのお・ん・な・だと皆さん思われるんじゃないですか?
 車のドアを開けながら名執はそう言った。
 しかしトシは、雪久さんの車のナンバーからマスコミがかぎつけては迷惑がかかると考え、違反であったがナンバーに布を被せた。しかし交通違反で捕まると困るので名執にトシは名刺を渡して事情をその裏に書いて置いた。
『ユキは出来た奴だろ』
 リーチが得意げにトシに言った。
『ホント…リーチが良いなんて信じられないよ』
『何とでも言え!ユキは俺にぞっこんなんだ』
 えへへと笑いながらリーチは言った。
『しょってるなぁ…そんなんじゃ振られるよ、大事にしてあげなきゃさ』
『俺っは…大事にしてるつもりだぞ!』
 少々うろたえながらリーチが言った。
 やれやれという風にトシは自分の仕事に戻ったが、そこに篠原が難しい顔でやってきた。
「隠岐…ちょっと…」
「何ですか篠原さん」
「武田警部から妙な事を聞いた」
「武田警部というと……マル暴ですか?」 
「ああ…昨日の晩、岸田組の手入れをしたらしいんだが、改造拳銃とトカレフが見つかった。いくつかはもう売られた後だったそうで、組員を縛り上げてやっと売った相手の何人かを白状したんだ。その中にどうも湯河がいたようなんだ…」
「えっ」
「トカレフ一丁と改造拳銃が一丁。計二丁、百万で購入したらしい。何処かで見た顔だと組員がその客だけ思い出したと言うわけだが…たぶんニュースで顔写真でも見たんだろう」
「百万って…随分相場より高く購入したんですね」
 普通は今十万位の筈だった。
「あのなーっ…」
 篠原は呆れた顔でそう言った。
「済みません」
 トシは申し訳なさそうに言った。
「ところで私はいつまで現場を離れておれば良いんでしょう…」
「さあな、田原管理官にでも聞いてくれよ」
「出来たら湯川家手伝い殺害の捜査本部の手伝いに行きたいのですが…」
「無理無理、そんなの田原管理官が許してくれると思ってるのか?」
「ですがこのままだと身体が鈍りますし…データ整理ばかりさせられると本当に退屈なんですよ…」
「だからといってお前が外に出て聞き込みなんかしてみろ!後からマスコミが数珠繋ぎのようにくっついてきて仕事にならないぜ」
「それもそうでした…」
 トシはホーッと小さなため息をついた。
「当分いい子にしてるんだな」
 篠原はそう言って自分の席に戻り、書類の整理をし始めた。しかし視線は時折こちらを伺っているので監視を再開された事が二人に分かった。
『二丁の拳銃か…』
 リーチが呟いた。
『僕達を的にしたいようだね』
 トシはうんざりしたように言った。
 銃の話を聞いた二人は嫌な予感が益々強くなり、二人は鳥肌が立ったようなおぞけを感じていた。それをお互い気付かない振りをして、出来るだけ明るく振る舞おうとするがまとわりついた予感を拭う事は出来なかった。
 怖い…とトシは思った。
 いつも追う立場であったので、追われた経験は無かった。
 それに湯河が何を考え、どんな行動をとろうとしているのかが全く予想がつかなかった。
 その上湯河がすることは意表を突かれることばかりで、混乱することばかりであったからだ。
 そしてその日の夕方、湯河を追う捜査員達は拳銃の常備携帯と防弾チョッキの着用を命ぜられた。
『防弾チョッキか…ごわごわして俺ヤなんだよな…動きにくいし…』
『それよりまた今夜から缶詰みたい…』
 窓の外のネオンを見ながらトシは呟いた。
 帰って良いぞ、と言う上司の声はトシにはかけられなかった。
「隠岐!食堂に行くか?」
 篠原がトシに声をかけた。
「はぁ…そうですね。あ、でも私はお弁当を買ってきます」
「じゃ、俺が買ってきてやるよ」
 そう言って篠原はさっさと出ていった。
「………」
 トシは篠原を見送ると、電子メールのチェックをしようとパソコンの画面を切り替えた。
 画面には色んな警察署から利一に、励ましや彼を心配するのメールが届いていた。その中に幾浦と同じ会社の人間からのメールがあった。
『おい、奴の会社のマークが入っているぞ!誰だよ』
『恭眞と同じ課の人で時折、システムの事で質問のメールを貰っているんだ』
 トシはリーチに説明しながら、内容を開けてみた。
 それはトシが凍り付くような内容であった。

 うちの部長代理の幾浦さんを覚えていますよね?今度、専務の娘さんと婚約された様です。結婚式にはお祝いをみんなで考えていますが、良かったら一口乗りませんか?返事待ってます。

 嘘が本当になってしまった…
 トシは呆然と画面に見入っていた。
『婚約者って専務の娘だったのか…』
 何も知らないリーチがそう言った。
 しかしその話は、幾浦君にうちの娘を預けるつもりだ、と専務が社内で話していたのを聞いた社員の先走った噂であったが、トシにはそんなことは分からなかった。
 本当にもう手の届かない所に恭眞が行ってしまう…
 トシはそう思うと胸が締め付けられ、思わず涙がこぼれそうになった。
『トシ…大丈夫か?』
 リーチは心配そうに聞いた。
『え、あ、うん…』
 トシはそう答えたが、その声に感情はこもっていなかった。
「隠岐、どうしたんだ?お前、顔が真っ青だぞ…」
 いつの間にか戻ってきた篠原が、弁当の入った袋を提げてそう言った。
「あ、いえ、何でもありません」
 突然篠原に声をかけられたトシの声は掠れていた。
「好きな方の弁当を取ってくれて良いからな、これは俺のおごりだ」
 そう言って篠原は袋から弁当を取りだし机に置いたが、トシにその声は耳に入らなかった。
 恭眞…恭眞…
 このまま…あんな風に抱かれた記憶だけ身体に刻んで……
 これから過ごすなんて耐えられないよ…
 恭眞…
 僕には写真一枚の思い出も無い……
「隠岐、心配しなくて良いから食べろって。あ、二つとも食べて良いぞ!」
 篠原がそう言って肩を叩かれると、トシはやっと自分を取り戻した。
「す、済みません…ぼんやりしてしまって…あ、美味しそうですね。どちらが私のでしょうか?」
「もしかして、湯河から電話がかかってきたのか?」
 あまりにもぼんやりしているトシに篠原が不審気に聞いた。
「え、いいえ、そんなの一度もありませんよ…」
 トシはそう言い、引きつった笑いを見せた。
「ふーん」
 なんだか釈然としないな…という表情で篠原はトシを見つめた。
「さ、食べましょうか…!」
 トシはそう言って箸でお弁当をつつきだした。
 その日トシは結局、警視庁から一歩も出ることを許されず、仮眠室で篠原と眠ることになった。
 不安定な心と身体を持て余し、トシはごわっとした毛布にくるまって眠りについた。
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