Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第8章

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 ピピピピピピッ…
「んっ…」
 トシは腕時計のアラームの音で目覚めた。
 髪を掻き上げながらアラームを止め、時間を確認すると、針は午前三時を差していた。
 それはトシが合わせた時間であった。
 よく見ると自分が幾浦の腕の中で眠っていたことに気付いた。
「恭眞…」
 トシは幾浦を起こさないように自分の腕を廻した。
「ありがとう…恭眞…」
 そう囁くと、そっとベッドを抜け出し、シャワーを浴び身支度を整えると寝室に戻って、ベットの横の床に座り、じっと幾浦の寝顔を眺めた。
 恭眞…
 それにしても……
 何という情けないお願いをしたんだろうとトシは恥じた。それでもどうしても抱かれたかったのである。
 ただでは済まないという予感があったから言えた。
 日々蓄積される恐怖を克復するために、幾浦の腕で眠りたいと思った。
 一度でいい…安心して誰かに身体を預けたい…
 それは幾浦にしか与えてもらえないものだと知っていた。
 愛しているから…
 恭眞だから…恭眞しか僕は駄目なんだ…
 しかし最初、それを聞いた幾浦は、じっと押し黙ったままであった。
 でもちゃんと僕を抱いてくれたんだ……
 緩やかな抱擁に身を委ねた時、このまま死んでもいいと思った。
 でも忘れてはいけない…
 今夜だけの夢なんだから…
 続きを望んじゃいけないんだ…
 恭眞は僕を可哀想だと思って抱いてくれるんだから…
 最中での言葉は社交辞令だ……
 それが分かっていても嬉しかった……
 だけどそれでもいい…
 一時だけでもこの腕に抱かれることが出来るのなら…
 トシは又目が潤んでくるのが分かった。
 恭眞の低くて通る声が好き…
 優しく触れる手が好き…
 でもこれからは違う誰かのものになるんだね…
 トシはそう考えて涙が零れ落ちそうになるのを必死にくい止めた。
 忘れないよ…恭眞の腕…恭眞の温もり…
 全て…全てこの身体に刻み込んだから…
「クウン……」 
 いつの間にかトシの膝にアルが頭を乗せていた。
「アル…起こしちゃった?」
 トシはそう言ってアルの額を撫でてやる。アルは気持ち良いのか、目を閉じてしっぽをゆっくり左右に振っている。
 トシはおもむろに幾浦から貰ったアルバムを開いた。
「アル、見て。恭眞と一緒に撮った写真だよ…恭眞って男前だよね…僕なんか、ちんまりしてて似合わないよね…」
 トシの問いかけにアルはフンフンと鼻を鳴らしている。
「恭眞とアルだけが本当の僕を知ってくれてるんだよ…」

 トシの声がする…
 幾浦は、半分意識が眠ったまま、トシの声を聞いていた。
 そのトシの声は、ぼんやりとした意識の向こうから聞こえた。
「恭眞は知らないけど僕は孤児で両親がいないんだ…二歳の時、捨てられてたんだって…それもさ、身体中打撲と怪我ですぐ入院したらしいんだ。そんな両親だからきっと抱きしめてくれたことは無かったと思うんだ。だからね、誰かに力一杯抱きしめて貰ったことがないんだ。リーチには雪久さんがいて抱きしめたり抱きしめられたりして安心することの出来る所があったけど…僕には誰もいなかった…。羨ましかった…リーチのことが…」
 トシはそこまで言うと、幾浦の方をちらっと見て言った。
「でも、恭眞が僕を抱きしめてくれたんだ。アル、お前のご主人様が僕を抱きしめてくれたんだよ…嬉しかった。本当に嬉しかった。隠岐利一はいつもみんなから頼られる存在でないといけなかった。どんな犯人でも捕まえることの出来る人間でないと…そういう人間を演じるのは時にすごく疲れるんだ…でも弱音を吐けない。他の人に守られる人間には成れなかった。みんなが安心して犯人を追いつめられるように僕達はどんなことがあっても慌てたり、不安になったりは出来ない。でも僕だって誰かに甘えたい…安心する腕の中で眠りたいと思ってた…それを恭眞が与えてくれた…一番欲しいものを恭眞がくれた…」
 少しずつ意識がはっきりしてきたが、いつトシに声をかけようかとタイミングを計っていた。へたに声をかけて、ばつの悪い気分にさせるのも可哀想であった、何より幾浦はトシの話を聞いていたかったのであった。
「でも、これで終わり…魔法は今夜だけなんだ…アル…お前だけは忘れないでね…本当の僕を忘れないでね…」
 そう言ってトシはアルを抱きしめた。
 今夜だけ?トシは一体何を言ってるんだろうか……
 幾浦はトシの話の意味が分からなかった。
「また、僕だけひとりぼっちになっちゃうんだ…」
 私が言った事は覚えていないのか?
 幾浦は不安に駆られた。
「恭眞みたいな人にこれから出会えるかな…僕を抱きしめてくれる人が出来るかな…」
 まさか…最中に話したことは何も覚えていない?
 幾浦はトシの口調から、もう全て終わったとしか思えない台詞ばかりが耳についた。
 幾浦は声をかけようとしたが、同時にトシの携帯が鳴った。
「隠岐です…え、今ですか?知り合いの家に転がり込んでます」
 トシの仕事用の声が幾浦に聞こえてきた。
「湯河から?はい。分かりました今すぐ戻ります。迎え?いりませんよ…子供じゃありませんから…」
 そう言ってトシは小さな笑いを洩らした。
 早く携帯を切ってくれ…
 幾浦は何としてでもトシが決心していることを、思い止ませる言葉を告げたかった。
「え…呑気になんかしてませんって、怖いです。ホントですよ。参ったな…」
 トシは言いながら、こちらをを向いた。すると幾浦が既に目を開けているのに気付たのか驚いた顔を見せた。
「……」
 二人は一瞬視線が合ったが、トシの方から目線を外した。そして携帯を持ったまま幾浦に深くお辞儀をすると持っていたアルバムを小脇に抱えると逃げるように玄関へと向かった。
 幾浦はまだ話を続けているトシに声をかけることが出来ず、軽くシャツを羽織るとその後を追いかけた。
 トシは玄関で靴を履く頃、やっと通話を終えた。
「トシ…」
「起きる前に出ようと思っていたのですが…起こして済みません」
 その時幾浦が驚いたのはトシの瞳の色であった。
 何かを決心したような…目、それは紛れもなく刑事として任務を遂行しようとしている瞳であった。
「トシ…少しだけ話を聞いてくれ…」
「私の…願いを聞いて下さってありがとうございました。どうか…お幸せに…」
 トシはそう言って玄関の戸を開け走り去った。幾浦はそのトシの腕を掴もうとしたが失敗した。
「トシ!待て!戻ってこい!」
 幾浦はそうトシの後ろから叫んだが、トシの姿はもう無かった。
 明日…いや、今日の昼にでも携帯に電話をしよう。それが駄目なら警視庁に直接電話をすればいい…とにかく、ちゃんと話をしなければならない…話し合えば、誤解も解ける。
 幾浦はそう楽観的に考えていた。
 しかしその時、この日、トシを捕まえることに失敗したことを、後々後悔するとは思いもよらなかった。



 幾浦のマンションから出て、トシはヒヤリとした夜の中を歩いていた。
 そうしてリーチを起こし、警視庁から呼び出しがかかったことを伝えた。
「タクシー呼ばなきゃ…ね」
『トシ…後悔してないな』
 リーチはそう問いかけた。
「うん…幸せだよ…今が一番幸せだよ…。恭眞ね、本当に優しくしてくれたから…アルバムもみんなくれたし、思い出も最後にくれたよ…抱きしめて…くれ…たんだ…」
 そう言いながらトシは涙をこぼした。
「ご…めん…リーチ…暫く泣いていい?」
『ああ、気が済むまで泣いていい。俺もう暫くスリープするから、警視庁に着いたらまた起こしてくれるか?』
 リーチはトシの返事を待たずに意識を眠らせた。
 トシは、ほの白く滲んだ月を見上げながら、静かに涙を流した。
 恭眞…ありがとう……
 涙が涸れるまでトシは涙を流し続けた。



 リーチ達が警視庁に戻ったのは午前四時を廻ったところであった。
「湯河からお前に電話があった」
 田原が深刻な顔つきで言った。
 係長が、録音したテープを再生した。

 隠岐さんに伝えて下さい、まずはこんな遅くに済みません。追われてるものでね…

 そこで低い笑いがテープに入っていた。

 明日…いや、もう今日ですね。一日警視庁にいて下さいね。面白いゲームのお誘いをしますから自分からの連絡を待って欲しいんですよ。

 ひひひと笑いながら湯河はリーチとトシが驚くようなことを次に言った。

 可愛い子を一緒に招待してますから楽しみにしてるんだな…

 そこで録音は切れた。
「まさか…人質を取っているのでは…」
 リーチはそう聞いた。
「該当者かどうか分からないが昨日の夕方、自分の子供が小学校から帰宅しなかったと所轄に連絡が入っているのが一件ある。そちらの署では今も職員を総動員して、目撃者を探しているが一向につかめていない状況だ…」
『リーチ…』
『ああ、最悪だな…』
「どんな方法で、何を要求してくるかは分からんが、君は湯河からの連絡を待っていて欲しい。こちらは何があっても直ぐに行動を取れるように人員を手配しておく」
 田原はそうリーチに言った。
「分かりました」
「隠岐、分かっているな。今回は勝手な行動は許さんぞ」
 リーチを見る田原の目は有無を言わせないものであった。
「分かっております。行動を慎みます」
 にわかに騒がしくなった一課は田原の指示を飛ばす声が響き、署員が慌ただしく行き来する。その中でリーチとトシは苛々といつかかって来るか分からない湯河の連絡を待つことになった。
 篠原が心配そうにその横に座っている。
 こういう時は、篠原も冗談は言わない。ただじっと横について同じように連絡を待っていた。
「所轄からファックスが届いた。湯河に連れ去られたと思われる少女の写真だ」
 係長がそう言ってリーチにファックスを渡した。
 小学校四年生になる少女は、愛くるしい顔で笑いかけていた。
「必ず助けてあげるからね…」
 リーチがそう呟くのを横で聞いた篠原は苦渋の表情を浮かべた。
 時計の秒針の時を刻む音が、頭の中で木霊していた。
 これ程の焦燥感に駆られたことは未だかつて経験したことがなかった。
『子供には興味のない男だから、大丈夫だと思うよ…』
 トシはそう言ってリーチを力づけようとした。
『そう思いたい…いや必ず無事で助けてみせる』
 リーチはそう言った。
 そうして待ち望んだ電話が正午ピッタリにかかってきた。
 録音と、逆探知が手配され、リーチは受話器を取った。
「隠岐です…」
「やあ、やっと声が聞けたな…そんなことはいいか。用件はこうだ、九段の駅近くに平戸ビルっていう二十階建ての建物がある。お探しの子供はその屋上にいる。言っておくが隠岐、その子を助けるのは一人で行くことだ。俺はお前をちゃんと見てるからな…そうそう上着は着ずにシャツ一枚で防弾チョッキは無し、銃はいらないだろう。そう言う感じで来て貰えるかな…。一つでも守られないのなら子供の命は、どっかーんっだ。分かったな」
 それだけを一方的に言うと湯河は電話を切った。
「田原管理官!所轄に今確認を取って貰いましたところ、ビルの上のフェンスに誰かが居るということです。保護して貰いますか?」
「駄目だ!」
 リーチはそう言うと、みんなが見たこともない表情で更に続けた。
「湯河が先程言った筈です。私が一人で行かないと子供の命は無いと…ですから私が行きます。所轄にはそのビルの周りと、屋上の入り口で待機するようにして下さい」
 湯河が銃を手に入れていたのが分かっていたので、そこへ向けて無防備に行くと言うことが何を意味しているのか署員たちには分かっていた。
「管理官、私は行きます……」
 リーチはそれだけ言うと上着を脱ぎ、銃を掛けているバンドを外した。
「分かった。指揮権は捜査一課が仕切る。その旨を所轄に連絡しておいてくれたまえ、私も隠岐と一緒に出る。里中係長、ここで連絡の中継を頼む。くれぐれもマスコミには洩れない様に全員心してかかってくれ」
 田原がそう叫んでいる横でリーチは篠原に声をかけた。
「篠原さん…もしもの時はロッカールームにあるものを、指定の友人に渡して欲しいんですが…お願いできますか?ロッカーの内側に友人の住所と名前を書いた紙を貼り付けてありますから…」
「何言ってるんだよ!お前はどんな事件でも無事に今までやってきたんだ。今回も大丈夫!弱気は敵だ!」
 篠原はそう言ってリーチの肩を叩いた。
「はぁ、そう願いたいです」
 そう言いながらリーチは玄関へと急いだ。
 既にパトカーが玄関に横付けされ、一課の署員達は各々車に乗り、九段へと向かった。狙撃隊の手配もしてあったのか、彼らの車もその中に混じっていた。
『怖いよリーチ…』
 ここに来て始めてトシが不安を口に出した。
『大丈夫…心配するな』
 根拠のない台詞であったが言わずにおれなかった。
 平戸ビルの前は既に警官が溢れていた。
 警官達は交通整理及び、ビルにいた人々を外に非難させるべく誘導が行われていた。湯河が一度爆弾を使っており、何処かに仕掛けられている可能性があったからである。
 リーチは車から降りてビルを下から見上げると、屋上の端にスカートの様なものがヒラヒラと風に舞っているのが分かった。
「隠岐…」
 リーチがエレベータに乗ろうとしたとき田原が声をかけた。
「向かいのビルや、付近のビルには該当する人物は見当たらない様だ。狙撃隊も配置してある。何かあれば必ずフォローするから安心してくれ。それとマイクは仕込んでいるな」
「はい。襟元につけて貰いました。何か上から見て気付きましたら報告します。フォロー本当に宜しくお願いします」
 リーチはそう言ったが、心の中で鳴り始めた警報が自分達をフォロー出来ないことを物語っていた。
 屋上に近づくと警報は今までになくけたたましい音に変わり、上にいた署員が自分を呼ぶ声も聞き取りにくかった程であった。
「隠岐です。ご苦労様です」
 周りに待機している所轄の刑事や警官にそう言って一礼すると、屋上の入り口の戸を開けた。いつも鍵を掛けてあるところが、湯河により壊されており、彼がここに来たことが分かった。
「近づかないようにと本庁から指示がありましたので、こちらで待機しております。子供は右端の二重になっているフェンス向こうの四十センチの幅の所に気を失って横たわっておるようです。不審なのはその側に白い箱が置かれていることです」
 所轄の責任者らしき人間がそう言った。
「ありがとうございます。申し訳ありませんが何があっても側に寄らないよう注意して下さい。もうすぐこちらに爆発物処理班が到着しますので、後は田原管理官に指示を仰いで下さい」
「分かりました」
 緊張した面もちでその責任者が言った。
『トシ、いくよ』
『リーチ、もしもの時は僕が痛みを引き受けるから、利一の身体を使って必ず子供だけは助けてあげてね』
『分かった』
 屋上に一歩足を踏み出すと、ビルを吹き下ろす風が頬を切った。
 心臓の鼓動と、警告のベルが交互に鳴り、リーチは額から冷や汗が流れるのが分かった。
 三メートルある二重のフェンスの向こう側に行くため、入り口を探すとやはりそこの鍵も壊されていた。
「フェンスの鍵が壊されております。ここから湯河は侵入したのではないかと思われます」
 襟元のマイクが自分の声を上手く拾ってくれるといいが…
 リーチはフェンスを越え、ビルの端に立つと前方に少女が見えた。次に視線を地上に向けると黒山の人が下から自分を息を呑んで見つめているのが分かった。
「上から目視で確認する分には怪しい人物は見当たりません」
 そう言ってリーチはフェンスの網を右手で掴みながら少しずつ足を少女のいる地点へと向かわせる。最初は死んでいるかもしれないと思ったが、規則的に胸が上下しているのを確認して気を失っていることが分かりホッとした。しかしへたに声を掛けて驚かせ体勢を崩されると下へ落ちてしまう恐れがあるので、リーチは声をかけず、足音を出来るだけさせないように近づいた。
『リーチ…あの箱…爆弾かな…?』
 少女の向こう側に白いお菓子箱が見えていた。
『分からないが…この警報を何とかしてくれ…うるさくて気が散って仕方がない』
 心の中で危険を知らせる警報は、もの凄いけたたましさを木霊させていた。
『止め方は知らないよ。リーチは知ってる?』
『知ってたら聞くか!』
 リーチは少女まであと一メートルの所で立ち止まった。
 少女の体がピクリと動いたのであった。
 そうしてうっすらと目が開く。
「大丈夫かい?お兄さんは君を助けに来たんだ。そのままでじっとしていてくれるかな?」
 少女はリーチをじっと見て次に視線を周囲に移そうとした。
「こっちを見ていて!こっちだけ見ているんだ。いいかい、動かないで…お兄さんがそっちに行くからね」
「私…高いとこ怖くないよ…木登り好きだもん」
 そう言って少女はゆっくり立ち上がり、手でフェンスを掴んだ。
「そう、良かった」
 少女は意外に落ち着いていたので、リーチは安堵した。
 リーチが腕を捕まえようと側によると、少女は後ずさった。
「お兄さん。隠岐さんていうの?」
「え、そうだよ。君を連れ出した男が何か言ってたの?」
 リーチは優しくそう聞いた。
「う…ん」
 少女は真っ青になってそう答えた。
 何を言われたのだろう…
 二人は考えたが、狂った男の考えは読めなかった。
「何を言われたのか分からないけど、お兄さんは君の味方だからね、安心していいよ」
「言われたの…こうしないと…お前のパパとママを殺すって…だから…だから…ごめんなさい!」
 少女はジャケットの内ポケットから銃を取り出すと引き金を引いた。
「!」
 周囲にパーンという高い音が響き、リーチは受けた衝撃で体勢が崩れないようにフェンスを力一杯掴んだ。痛みを引き受けたトシが息も絶え絶えになっているのがリーチに分かったが、銃を撃った反動で少女の足が浮き上がりそのまま下へ落ちようとしていたのが視界に入り左腕を精一杯延ばして足首を掴んだ。
 すると少女は上空で宙ぶらりになり、その恐怖で激しく泣き始めた。
 ああ…暴れないでくれよ…手に力が入らないんだ…
 少女が持っていた銃が地上に落ち、下の警官達は何が起こったのか分からず、大騒ぎになっていた。
 もう少し…頑張ってくれ…
 トシが痛みを引き受けてくれているにもかかわらず、リーチも胸に鋭い痛みを感じていた。その部分が熱を帯びているように熱い…
「隠岐ーっ!」
 銃声を聞いた篠原が下からの指示を待たずに思わず駆けだした。それが合図となって他の警官も走り出していた。
「隠岐!」
「ああ、篠原さん…子供…早く…もう保たない…」
 呻くような声でリーチは篠原に言った。
 しかし言われる前に篠原は少女の足を掴んで引き上げていた。
 少女の泣き叫ぶ声がリーチに聞こえ、ホッとした。
 良かった…トシ…子供…助かったよ
 リーチはそう言ったが既にトシは意識を失っていた。
 なんか…やばそうな…かんじ…
 リーチの意識はそこで途切れた。
 篠原は後ろから来た捜査員に子供を託すと、俯きに頭を垂れて右手にフェンスを掴んで斜めに倒れている利一を後ろから抱えた。
「隠岐!手を離せ!もう大丈夫だ。子供は保護した!指を外せって!」
 リーチは渾身の力でフェンスを掴んでいたので、意識を失ってからもその力は緩まなかったのだ。
「ああ、くそ!」
 やっと指を外させた篠原は、撃たれた場所を確認して蒼白になった。
「あああっ…なんて事だ…心臓の真上じゃないか…」
 それでもまだ息が有ったので篠原は希望を抱いた。
「隠岐、大丈夫。大丈夫だからな…」
 篠原はそう言いながら利一を引きずり、屋上の真ん中に連れ出した。
「こりゃ、爆弾じゃ無いぞ!」
 菓子箱を確認した処理班が後ろで叫んでいた。
「こういう場合どうやって止血すればいいんだ!」
 篠原は利一の側で救急班に言ったが、場所が場所だけに皆一様に絶望視していた。
「馬鹿野郎!まだ息が有るんだよ!何とかしてやってくれ!」
 利一の頭を膝に乗せた篠原が怒鳴り散らした。
 その直ぐ横で少女が泣き叫んで謝っていた。



「名執君、君これからオペを手伝ってくれないか?」
 警察病院の院長が、診察を終えた名執に言った。
「院長先生がオペされるのですか?」
 この病院の院長の巣鴨は全国でも五指に入る程の腕前を持っている外科医であったが、余程のつてが無いと頼めない程忙しい人物であった。
「警察庁の友人に頼まれてな、もうすぐヘリでこちらに来るはずだ」
「警察庁の上の方が来られるのですか?」
「いや、ただの刑事らしいのだが、どうしても助けたいと言っておった。銃で心臓の真上をやられたそうだが、まだ息があるらしい。たぶんオペ中に亡くなるだろうが、出来るだけの事をしてやって欲しいと強く頼まれてな、借りのある人物なので引き受けたんだよ」
 そこへ婦長がやってきた。
「院長先生、患者さんがつきました。血液適合検査とレントゲンの手配は済んでおります。オペ室は第二です」
「直ぐ行くよ」
「では久しぶりにお手伝いさせて頂きます」
 名執はそう言って巣鴨に付いて小走りに走り出した。
 しかし、処置室で見た人物を確認して名執は愕然とした。
 かなりの出血のため顔色に血の気が無く蒼白であったが、その人物は利一であることが分かった。
 そんなまさか…
 利一は心臓の真上から放射状に出血しており、ガーゼを真っ赤に染めていた。それは誰が見ても最悪の予想しか出来ない状況であった。
 リーチ…トシさん…そんな…
 血圧が下がり、心音は低下、心拍は乱れながらもその鼓動を停止はさせていなかった。
「先生、レントゲンが上がりま…」
「早く見せて下さい!」
 名執の口調が今までにないものであったので看護婦の方が驚いた。
 震える手でレントゲンを見た名執は思わず、涙が出そうになった。
 神様…ありがとうございます……
「院長先生。患者に入っている弾は肋骨で止まっています。肋骨は折れてはおりますが心臓に致命的な傷は付けていないようです。ただ、近辺に血溜ができ心臓を圧迫しておりますので心臓の表面の血管が傷付いているのではないかと思われます。あとは開けて見ないことには…」
 巣鴨は名執の横に立ち、ゴム手袋をはめながらレントゲンを覗いていた。
「ほう、ラッキーな坊やだな…これは助かるかもしれん」
 助かる…
 院長先生がこんな風に言ったときは大抵患者は助かる。
 大丈夫…きっと助けて見せます。
 そして長い手術が始まった。
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