「相手の問題、僕らの代償」 第14章
幾浦は廊下を歩きながらトシのことを考えていた。
恭眞のこと……あ……
愛していると言おうとしたのか?
先程トシが途中で止めた言葉の続きを幾浦は考えた。
そう愛していると言うつもりだったんだ……
どうしても聞きたかった言葉がもう少しで現実にトシから聞けるところに邪魔が入ったのは残念であったが、機会はこれからいくらでもある。急ぐことなどない。幾浦はそう思いながら名執のいる自室を訪ねた。帰るときは一声かけて下さいと言われていたからであった。
自室を訪ねると、名執は机に座って何か書き物をしているようであった。
「もう、宜しいのですか?」
カルテをテーブルにいくつも積み上げながら名執は言った。その容貌は幾浦から見ても一瞬、瞳が固定されてしまう程のものであった。澄んだ瞳と柔らかな茶色の髪が印象に残る。幾浦はその名執に何度会っても、その印象が毎回強烈に瞼裏に残った。
但し綺麗だという他、恋愛感情を持つタイプではなかった。あまりに綺麗で清廉に見えるのが、一種侵しがたい存在に感じるのかもしれない。
そう言うわけで、リーチがどうやってこの名執と恋愛関係になったのか不思議で仕方なかった。幾浦はリーチを良く知らなかったが、似合いとは、ほど遠いような気がしていたからであった。
「幾浦さん?」
じっと考え込んでいる幾浦に不思議そうな顔をして名執は声をかけた。
「あ、済みません。考え事をしていたので……」
我に返った幾浦はそう言って頭をかいた。
「先生には本当にお世話になって……なんとお礼を申し上げれば良いのか……」
「いえ……私は何も……。それよりトシさんとはいかがでした?」
「何とかうまく仲直り出来ました」
「それは良かったですね」
そう言うと名執はフッと視線を下げた。
「ところで、こんな個人的なことをお伺いするのは筋違いですが、婚約の件はどうなさるおつもりなのでしょう?」
「あ……それもご存じでしたか……いえ……あれは嘘なんです」
「嘘?」
名執は驚いた顔を幾浦に向けた。
「実はこうなったのは色々ありまして……」
そうして幾浦は、トシともめた最初のきっかけを話した。
幾浦の話を聞き終わると名執は申し訳なさそうな顔をして窓際に立った。
「そうだったのですか……謝らなければいけないのは私たちの方ですね……」
「そんな風におっしゃらないで下さい……。一番悪いのはこの私なのです。きちんと話し合えば、こんな事にはならなかったと、今では後悔しています。トシの気持ちを……もっと考えてあげれば良かったと……」
「リーチは……トシさんと幾浦さんを応援しておりました。貴方なら任せられると思ったから保護役を降りたのです。それだけは分かってあげて下さい。決して意地悪をして貴方に辛く当たったわけでは無いのです」
「あの……リーチは私を許してくれたのでしょうか?」
「彼から何も聞いてはおりませんが……たぶん……」
名執は笑みを見せながらそう言った。その顔を見て幾浦はリーチがとりあえず許してくれたのだと思った。
「一つ伺って宜しいでしょうか」
「なんでしょう?」
「先生は、リーチから秘密を聞かれたのですか?」
「いいえ。私の場合、彼らの存在にいつの間にか気が付きました。リーチが私に対して好意を持っていた為でしょう。彼はその時、隙だらけでしたから……。自分から秘密を話したことは無いと聞いたことがあります。言えないのでしょうね……。だから私が幾浦さんに話したのです。貴方なら分かってくれると思いましたから……」
名執はちょっと困ったような表情でそう言った。
「理解してあげようと思います。言葉ではなく心からです。正直言って、まだ戸惑いはあります。それでも私はトシを手放したくない。だからリーチのことは友人になれるように努力するつもりです」
「とりあえずはそれで宜しいでしょう。戸惑いは当然の事ですから……。私も最初ずいぶん悩みましたので……」
くすっと笑った名執の意味ありげな表情が何を指すのか、幾浦には分からなかったが、色々ありながら、彼らは今まで仲良くやって来たのだから、自分達にも出来るだろうと安堵の気持ちが生まれた。
「では、私はこれで……又、明日参ります。リーチとも一度ゆっくり話がしたいと……良かったら伝えてくれませんか?」
「おやすいご用ですよ。ですがもう喧嘩はしないで下さい」
その名執の言葉に、苦笑し幾浦は退出した。
歩きながら、幾浦はこれからの事を思い、期待で一杯であった。
トシが今まで、こちらが驚くほど気を使っていた理由も、彼らの秘密にあった所為だと分かったからである。その秘密を知った今、これからはそんなことも無くなる。きっと自分に頼り、甘えてくれるようになるのだろう。
幾浦はそう想像して、思わず笑みが零れていた。そんな幾浦とすれ違う看護婦や患者は気味悪げに道を譲っていたことに気づかなかった。
地下駐車場はひんやりとしており、車の数もまばらであった。人影も無い。
幾浦が自分の車の前でキーを取り出すと、後ろから呼び止められた。
「済みません。ちょっと手伝ってくれませんか?」
「え……」
振り返るとそこには顔半分に包帯を巻き、包帯で巻いた片腕を肩から下げ、足にもギブスをはめ、杖で何とか立っている男であった。
その姿は痛々しかった。
「何をお手伝いすれば宜しいでしょう?」
幾浦は思わずそう言っていた。
「送ってくれるはずの家族が、まだ先生と話をしているのか来ないのです。たぶんもう暫く待てばいいのだと思うのですが、私は立っているのもつらくて……申し訳ないのですが車のキーは持っておりまずので車に乗せてくれませんか?」
震える手で男はキーを幾浦に差し出した。
「かまいませんよ。で、どの車ですか?」
「あの右端にあるバンがそうです」
幾浦はそれを聞くと男に肩を貸し、赤いバン迄歩き出した。そしてバンの前に着くと、男は急に笑い出し、手に持っていた杖を幾浦の後頭部に叩きつけた。
霞出す意識の中、コンクリートの冷たい感触を頬に感じながら、幾浦は瞳だけで何とか男の姿をとらえた。
包帯をとったその顔はテレビで散々見た男であった。
「まさか……」
そこで幾浦の意識がとぎれた。
篠原が帰るとトシは、ベットで思い切り身体を延ばした。
『トシ、良かったな』
リーチは本当に喜んでいるような口調でそう言った。
「うん。僕、本当に恭眞を好きになって良かったと思う。雪久さん以外、僕らのことを誰も認めてくれ無いと思ってたし……。絶対、恭眞は変な目で見ると思ってたからさ……。なんだか、心につっかえてたものが奇麗に無くなった感じがするよ」
嬉しそうにトシは、夢見るような顔でそう言った。
『あーあー。最初のプライベートは、お前に渡さなきゃな……』
リーチはそうは言っているが、嫌そうではなかった。
「あ、そうだ、僕、恭眞に電話するって言ったんだ」
ふと思い出したかのように携帯を取り出し、トシは幾浦の携帯に電話をかけた。
電話は二コールで繋がった。
「もしもし、隠岐ですが……」
そこまでトシが言うと電話向こうから押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「隠岐さんよ、あんたが電話をかけてきてくれるなんてなぁ……助かった。お友達に聞いても答えてくれなくて困ってたんだよ。あんまり強情だから、ちょっとお仕置きしてやった。おっと、死んじゃいないから安心してくれていい。生かしとかないと、隠岐さん遊びに来てくれないだろう?」
『湯河かっ!』
「まさか…きょ…幾浦さんを……」
トシの声は信じられずに震えていた。
「名前は知らんが、あんたんとこの病院の地下駐車場でご招待した。紳士ね」
「目的は……何ですか?」
トシは精一杯平静を保った。それに対する湯河の答えは低い笑いであった。
「目的は何だって聞いてるんだ!答えろ!この屑っ!」
『トシ!落ち着け!落ち着くんだ!奴のペースにはまるんじゃない!』
我を忘れかけているトシにリーチは必死にそう言った。
「余程大事な友達なんだな……。うろたえる隠岐さんを初めて知ったよ」
「目的は何です?」
トシを引っ込めたリーチがそう問いかけた。
「あんたの全て……」
湯河がそう言うと幾浦の声が聞こえた。来るな、と叫んでいるようであったが、聞き慣れた高い音が響き、その声が止む。それをリーチ越しに聞いたトシが、半狂乱になっていた。
「殺したら、ただじゃおかないからな」
リーチは冷静に言った。その声は暗く、凄みを帯びていた。
「足を撃っただけだ。もう撃たないよ。弾は大事にしないとな。スペシャルなお客さんを、おもてなしするためにさ」
「何処に行けばいい?」
「今から言うところに一時間で来い。もちろん一人でだ。妙なものは持ってくるなよ」
「分かった」
指定場所を聞き終わると向こうから電話を切った。
「あのやろう……なめたまねしやがって……」
リーチはギリッと歯ぎしりをした。
『リーチ……ど……どうしたら……いいんだろう……僕は…』
泣きながらトシはそう言って今度は訳の分からないことを言い出した。
「泣くな!お前がしっかりしないでどうするんだよ!お前は刑事だろ!」
そう怒鳴ったところで名執が入り口でびっくりしたような顔をして立っていた。
「どうしたんです……喧嘩でもしているのですか?」
「あ……いや……喧嘩じゃないよ」
『トシ、暫くスリープしてくれるか?ちゃんとあとで起こすから……それまで頭を冷やしてくれ』
トシはリーチからそう言われ、大混乱のままスリープした。
「ユキ……」
リーチは名執を呼び寄せ、ベット脇のいすに座るように促した。
「喧嘩じゃないのでしたらなんですか?酷く怒っているように見えましたが……それとも幾浦さんと何か……」
「違うよ……」
「そうそう、幾浦さんがリーチに謝って置いて欲しいと言ってましたよ。多分リーチはもう許してると思いましたのでそう伝えておきました」
名執は何も知らずに嬉しそうな表情でそう言った。
俺はこいつを一人にしてしまう……。
俺がいなくなって一人で立って歩けるだろうか?
「リーチ?」
リーチがあまりにも静かなのに気が付いた名執は、伺うようにそう言った。そんな名執をリーチはそっと抱きしめた。
「リーチ?」
「もう一度お前の顔を見ることが出来て本当に嬉しかったよ……。お前は俺を助けてくれたんだもんな……感謝してるよ……」
このまま二人で何処かに行ってしまいたい……。リーチはそんなこと出来る筈など無いのにそう思ってしまった。
「突然、何を言ってるんですか?」
「愛してるよ……ユキ……ね、キスして……」
「それが目的ですか?もう。だめです。そうやって人を煽るのはやめて下さい」
ほんとにもうという顔で名執が言った。何も知らないのだから仕方ない。
「………」
「さ、人が来ないうちに離して下さい」
名執はそう言ってリーチの腕を払った。
「ちぇっ……ばれたか。動けるようになったから、もうそろそろいいかなー…って思ったのにな」
不服そうにリーチが言うと名執の表情は半分怒っていた。
「そんな事ばっかり考えて、身体を治そうとしないつもりなら、他の人になびきますよ。私もほんとーに寂しいんですからね」
「ばーか。そんなこと出来ないくせに言うな」
リーチはそう言ってベットに沈み込んだ。
「もうすぐ夕食を運びますので待っていて下さい」
名執は戸口でそう言って出ていこうとした。
「ユキ……」
「なんですか?」
振り返る名執はやはり美しかった。
「誰かになびいても……怒らないよ……」
どうせ冗談を言っていると思った名執は「じゃ、そうしますよ」と言って出ていった。
今度は、もう…きっと会えない……ごめんなユキ……
リーチはそう小声で呟くと、窓から見える月を眺めた。
月が滲んで見えたのは、涙の所為かどうかは分からなかった。
夕食を運んだ看護婦が、利一がいなくなった事気づいたのは、名執が出ていって暫くしてからのことであった。
最初、看護婦は空のベットを見て、利一は手洗いに行っているのだろうと考えた。しかしいつまで経っても帰ってくる様子が無いので、暫く近辺を探し回った後、窓の桟からシーツが垂れ下がっているのを見つけた。そこで初めて利一が病院から抜け出したことに気づいた。
その事はすぐに名執に報告され、警視庁にも連絡された。
「何か隠岐は言っておりませんでしたか?」
同僚の篠原が聞いた。しかし名執は、ただ横に首を振ることしか出来なかった。
警察に分かったのは、利一が病院の入り口で見舞いにやってきた一人の主婦に、頼み込んでお金を借りたこと。大通りに出たところでタクシーを拾ったことであった。
乗ったタクシー会社が特定できた為、無線で各タクシーの運転手に連絡を取るが帰ってくる返事はそのような人物を乗せてはいないというものであった。
「警察ではどのように考えられているのでしょうか?」
名執は震えるような声で、篠原にそう問いかけた。
「犯人から呼び出しがあったと見ております。犯人は以前少女を誘拐しておりますので、今度も似たようなことで呼び出した可能性があります」
篠原は、蒼白の名執に今度は聞いた。
「隠岐の身体は……大丈夫なのでしょうか?」
「普通に……歩く位なら……少しは……。ですが……今は…歩くことすら苦痛を感じているはずです。何より入院生活で筋力は落ちております。走ることはまず出来ません。それより……胸に強い衝撃を受ければ……命の保証は……」
名執はそこまで言って言葉が詰まった。気を張っていないと、今にも涙がこぼれそうなほど、気が動転して、どうしていいか分からなかった。
「そうですか……。大丈夫、きっと無事ですよ。あの刑事は悪運が強いことで有名ですから……」
乾いた笑みを見せ、篠原は捜査に戻っていった。
名執は行き交う警官を、ぼんやりと視界に映しながら自室へと戻った。
扉を閉め鍵をかけると、その場に座り込んだ。
「リーチ……だから妙な事ばかり言ってたんだ……」
つい先ほど交わした言葉を思い出す。
(もう一度お前の顔を見ることが出来て本当に嬉しかったよ……。お前は俺を助けてくれたんだもんな……感謝してるよ……)
変な事を言っていると、名執はその時考えたが、こんな事になるとは思わなかった。そして最後の言葉が、今となっては胸を抉るような言葉となって蘇る。
(誰かになびいても……怒らないよ……)
それは生きて戻るつもりが無いからそう言ったのだろうか。名執は身体が震えるのが分かった。必死に止めていた涙が溢れ出し、視界が霞む。
「リーチ……どうして何も言ってくれなかったのです。私は何の力にもなれないと……そうなんですね。私のことなど何も考えてくれなかったのですね。リーチ……どうして……他にも方法があったはずなのに……何故、いつも一人で突っ走っていくのです……」
名執は、その手が血で染まるまで、床を叩くのをやめようとはしなかった。
「あんちゃん。さっきから無線で呼んでんのはあんたの事じゃないのか?」
運転手はミラーで後ろに座る人物を確認してそう聞いた。
「違いますよ……」
笑ってはいるが、その顔に血の気は無かった。
「それに、どっかで見た顔だしな……」
「有名人じゃありませんよ……」
「そうじゃなくてさ、何処でだったんだろうな……」
思い出せず、うーんと唸る。
運転手はパジャマ姿で乗り込んできた男が、どうしても家に帰りたいので乗せて欲しいー…と言って三万円ちらつかせた。それが病院の近くであったので、一瞬幽霊かと思った。それ程顔色が悪かったからである。無視して走り去ることも出来たが、今日の売り上げは芳しくなく、幽霊からでも金が貰えれば何だっていいかー…と半ば自棄気味で、その男を乗せた。
その上、先程から無線がけたたましく鳴っている。
警察病院近くで、年齢25歳、身長百七十センチ、水色のパジャマを着た男性を乗せたタクシーは至急連絡を入れろと所長が怒鳴っていた。
運転手はミラーでもう一度、後ろに座る男を確認した。
何となく該当者にも見えたが、パジャマはどちらかというと白に見えた。
「無線……煩いね……」
そう言ってじっと男に見つめられ、思わず無線を切った。
「そ、そうですね。済みませんね」
どう見ても幽霊としか思えない虚ろな表情が運転手を凍り付かせた。
指定された行き先も、何も無い原っぱで、ぽつんと崩れかけたビルの建つ場所であった。その近所では幽霊ビルと噂されるところであったので運転手は男を幽霊だと決めつけた。
まさか食われはしないだろう……そんな風に思いながら運転手は車を急がせた。