Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 第13章

前頁タイトル次頁
「驚きましたね……」
 名執は利一の定期検査を終えて、そう言った。
 レントゲンではうっすらと折れた肋骨の部分に周りとは違う筋を残してはいたが、急速に折れる前の状態に戻りつつあったからだ。
「どうしたんですか?」
 リーチは何に驚いているかを分かっていながらそう名執に言った。
「いえ、随分治りが早いもので驚いているのです」
 何度もレントゲンを確認しながら名執はそう言った。
 手術の跡も新しい組織が盛り上がってきている。
「上着を着せてあげて下さい」
 名執が横に控えている看護婦にそう言うと看護婦はリーチの上着を馴れた手つきで着せた。左腕が延ばすことが困難であったのでパジャマを着るのも看護婦の手が必要であった。
「済みません」
 恥ずかしげにそうリーチは言う。
 リーチは利一モード全開であった。その照れた笑いも馴れたものである。
「それでですね……先生。退院しても良いですよね?」
 リーチは顔色を伺うようにそう名執に聞いたが、名執は首を横に振った。
「隠岐さん。確かに人よりも治りが早いのは認めます。ですが歩くのもままならない状態で本当に御自身の身体が一人で生活を出来る状態だと思っていらっしゃるのですか?手術をしてからまだ二週間しか経っていないのですよ」
 名執には珍しい厳しい口調であった。
「上手く歩けないのは、寝たきりだったので筋力が落ちているだけだと思いますが……」
 あ……ユキの奴、怒ってやがる……
「レントゲンでは分かりませんが……」
 といって名執は引き出しから人体を詳しく描いた絵を取り出した。
「よく見て下さい。こことここ、そして心臓近くのこの血管全般を補合しました。肋骨はただ折れたのではなくて、弾がめり込んで抉るように折れていたのです。それにレントゲンでは繋がっているように見えますが、よく見るとうっすらと盛り上がり縦に筋が入っています。これは折れて抉れた部分にやっと軟骨が出来上がっきているのです。この状態の頃が一番安静にしていなければならないのです。隠岐さんがなにかのきっかけでつまずいて転倒したりして胸に強い衝撃を受けるようなことになれば、くっつきかけている肋骨の接合点が今なら簡単に折れるでしょう。それだけならば問題はありませんが、折れた肋骨が最悪の場合、心臓か肺に突き刺さることになるのですよ。そうなればもう助けようがありません」
 一言一言念を押すように名執はリーチに言った。
「そうですか……」
 リーチは仕方ないなー……と言う表情を浮かべてはいたが瞳は怒っていた。
『リーチ……怒っちゃ駄目だよ……雪久さんは心配して言ってるんだから……』
 黙って二人の会話を聞いていたトシであったがここにきてリーチに言った。
『分かってるけど……ユキは頭が固いんだよ』
「では、病室に戻られてもかまいませんよ」
 名執はそう言って看護婦にリーチを連れ帰るよう指示を出した。看護婦は車椅子を押し診察室を出た。自分の病室に戻る道すがらリーチはため息をついた。
 情けないかっこ……
 リーチは車椅子に乗るのが嫌であった。上着を着せられるのも勘弁して欲しかった。それでも一度こっそりベットから抜け出そうと何とか病室内を歩いたのは良いが貧血に似た症状と反応の鈍い身体を思い知ることになった。
 胸の辺りもやけに突っ張るんだよな……
 仕方がないとはいえ心許ない身体が疎ましかった。本人は元気だからそう思うのかもしれない。
 隙を見ては足を上下に動かしたり手に花瓶を持ったりして少しでも筋力を戻そうとするのだが運動をし出すと血圧が上がる為か心臓の辺りが圧迫されたように痛んだ。特に左腕が固定されていた所為か左指がまともに動いてくれない。
 身体が思うように動かないというのは一種、恐怖すら感じる。
 もしかしてこのままの状態が続くのではないかという恐れ……
 そんなことを考えているといつの間にか自分の病室に着き、看護婦に手を借りながらべットに横になった。
「隠岐さん。先生もああおっしゃっていますので、無理は禁物ですよ」
「はい……」
 できるだけ笑顔でリーチは答えた。
 看護婦が出ていくとそれと入れ替わりのように篠原がやってきた。
「隠岐、お前のご所望の携帯とノートパソコン持ってきてやったよ。んでも携帯って病院内じゃ駄目だろ?」
「いえ、私は別にペースメーカーを付けている訳じゃないですし、ここ個室ですから持って外に出ない分には大丈夫だと思いますよ」
 と、リーチは勝手にそんなことを言った。
「ならいいけどさ。ま、何かあったときには連絡しなきゃならねえから、実際は持っていて欲しかったけどな」
 言いながら篠原はリーチに携帯とパソコンを渡した。
『トシ、お前の出番だ。代わるよ』
『うん』
 リーチはトシと交替した。
「済みません。あの……カードも持ってきてくれました?」
「え、たぶんこの中に入ってると思うぜ……。よく解らなかったから、勝俣さんに病院でメールを読みたいと言ってるんだけどどうしたらいいでしょうねー……って聞いたら、お前の机に置いてあったパソコン一式を持たせてくれたんだ……」
 そう言ってパソコンと、カードなどが入った封筒をトシに渡した。
「ありがとうございます」
「それと、勝俣さんがこのフロッピーも持っていってやれって言ってたから持ってきたよ。何でもメールを毎日こっちに移し替えしてくれたらしい。一杯になると消えちゃうんだってな……俺はよく解らないけどさ……」
 そう言って篠原はフロッピーもトシに渡した。
 自宅の方(現在は名執の方にあるパソコン)は自動的にファイルをするようにしていたが、仕事場は毎日一度は見るようにしていたのと、見られない時は自宅のパソコンから呼び出ししていたので、実を言うとトシは気になっていたがそれを何とかする余裕がなかったのである。
「良かった……三係でそう言うこと解っていらっしゃるのは勝俣さんだけですから、やって下さっていたかも……とは思っていましたが……。退院したら勝俣さんにお礼しなければいけませんね……」
「俺だってワープロくらいは出来るんだけどな……。あ、悪い。俺、聞き込み抜け出してきたんだ。じゃ、戻るわ……」
 篠原はそう言ってあわただしく病室を飛び出していった。
『あいつっていつも落ち着きがないな……』
 呆れた口調でリーチがそう言ったが、トシは自分も似たとこあるくせに……と内心そう思い心の中で笑いを堪えた。
 トシはパソコンに電源を入れるためコンセントを探したが、それは自分の真後ろの柱にあり、普通なら身体を後ろに捩ればいいのだが今のトシにはそれが困難であった。仕方がないのでトシは看護婦を呼ぶスイッチを押した。
 暫くすると看護婦がやってきた。
「隠岐さんどうされました?」
「済みません。申し訳ないのですが電源に差し込んで頂けますか?」
 トシはそう言って配線を看護婦に渡した。
「ゲームでもするのですか?」
 看護婦は笑いながらトシから渡された配線をベット近くのコンセントに差し込んだ。
「そんなようなものです……」
「根を詰めるようなことはされないようにお願いしますよ……」 
 そう言うと看護婦は笑いながら部屋を出ていった。それを見届けトシは早速パソコンにカードを差し込み携帯と繋いだ。そして先ず現在到着しているメールを呼び出した。
 そうして着信のメッセージを見たトシは数あるメールの中の一つに瞳が止まった。
 それは一時は何度も目にしたものであった。
『おい、それって幾浦からのじゃないのか……』
「あ……うん。そう……みたい……」
 トシはキーに置いた自分の手が震えるのが分かった。
 見るのが怖かった。それでも意を決してトシはその内容を確認した。

 トシ、体はもう大丈夫か?意識が戻ったことは知ったが、どんなに頼んでも面会が許されないのでメールを送ることにした。会えないのは私がリーチに不注意な事を言ってしまったのだから自分自身が一番悪いことは私にも分かっている。その事はリーチにも謝っておいて欲しい。

「リーチ……どう言うこと?どうして恭眞がリーチのことを知ってるの?それに……何を言われたの?……じゃ、リーチが起きなかったのはその事が原因なわけ?」
 トシはリーチに矢継ぎ早に質問を浴びせたが、とうのリーチは無言だった。仕方なくトシは先を読み始めた。

 先にどうしても言いたいことが有った。婚約者が出来たというのは嘘だ。確かに専務からは話を貰ったことは認めるが私はまだ了解していない段階で、社内で先走った噂が飛んだようだ。しかし私は断った。それはお前を諦めることが出来なかったからだ。私達が揉めた最初の原因はお前が名執という男と別に付き合っていると思ったからだ。実はあの公園の話は人づてに聞いた話で実際私が目撃したわけではなかった。それなのに私は自分がいかにも見てきたかのようにお前に話したのは、お前に否定して欲しかったからだ。もし否定しなかったとしても私を選んでくれると信じていたからだ。お前を試したかった。今から思えば馬鹿なことをしたと思っている。それでもお前の心を知りたかった。本当の心を……

『まさか……本当は俺とユキが一緒にいるところを知ってお前ら揉めたとか言う……?』
 リーチは呆然と言った。
「ごめん……リーチ……言えなかったんだけど……実はそうなんだ……」
 トシは観念したようにそう言った。

 もっと早くにお前にそれは嘘だと伝えたかった。お前が怪我を負う前の晩言うつもりだった。最初、婚約の件を認めたのはお前と名執の関係に嫉妬していたからだ。情けないことだが、自分ではどうにもならないくらい嫉妬していた。なのにお前は私に抱いてくれと言った。嘘だと思った。手出ししないと心に誓ったものが崩れた。分かったんだ。あの時分かった。自分がどれ程お前を愛しているかを……。お前に誰がいても、もうそんなことはどうでもよくなった。私はお前を愛している。あの日、何度もそれを言った筈なのにお前は何故かそれを忘れていた。そして私になんの弁解もさせてくれずに帰っていった。どうしてあの時お前を掴まえることが出来なかったのだろうと、それが今も酷く心を苦しめている。

「恭眞……」
 トシはいつの間にか涙目でそれらの字を追っていた。必死に読もうとするのに画面がぼやけ何度も何度も目にたまるのを手で拭った。

 お前が撃たれたと聞いていても立ってもいられなくなった。自分が何も出来ない事を何度も恥じた。そこで知った。あの写真の男が誰かと言うことを……そしてもっと驚くことをその先生は言った。お前がどういう人間であるかを聞かされたんだ。

 そこにくるとトシは読み進めるのをためらった。画面から視線を外し、小さく息を吐くと次にくる文章を読み始めた。

 お前の中に、いや、一つの肉体にお前とリーチという人間が住んでいることを知って、私は最初驚くより嬉しかった。お前の心はずっと私だけのものであったということが分かったからだ。心さえ独占出来れば何も要らないと楽観視していた。それだけでは済まないことをリーチに会って思い知った。この間、お前にただ会いたくて私はリーチに酷いことを言ってしまった。思えば何と心ない言葉であったかを、冷静になってやっと分かった。何よりリーチが本当にお前を大切に思っている事が分かった。私とは違う意味でお前を愛して、大切にしている。だから以前、私がリーチの存在を知らないときに彼に出会い、リーチがお前を装い、トシからは考えられない言葉を私はお前からだと思って聞いたことがあった。その言葉は辛辣で更に的を射ていたので、かなりショックを受けたが、リーチにしてみればお前を傷つける私は敵なのだから仕方ないと理解できるようになった。
 今だからやっと分かる。あの晩、お前が話していたことを……私が眠っているのだと思ってお前がアルに話していた……。ずっと不思議に思っていたことがあった。リーチには雪久さんがいて……僕にはいない。その言葉がずっと心に引っかかっていたが、本当のお前を知ってやっとどういうことかを知った。
 トシ、私はお前達のことをあの先生程、理解してやれないと思う。しかし精一杯理解してあげたいと思う。こんな私はお前にふさわしくないだろうか……?もしお前が私のことをもう忘れてしまったとしても、これだけは分かって欲しい。私はお前を愛している。どうしてもお前を手放すことなど出来ない。忘れることも出来ない。そんな私の想いを拒否するならそれでもいい。だが一度でいい、会って欲しい。
 連絡を待っている。

 トシは読み終えると、じっと画面を見たまま凍り付いたように動かなかった。
『トシ……会ってやれよ……』
「リーチ……。リーチが僕達の本当の事を恭眞に言ったの?」
 その声は憤りを含んでいた。
『いや、俺達が意識不明の時。お前を心配する幾浦の姿に思わずユキが言ったそうだ……』
「雪久さんには関係ないじゃない……!」
 トシは思わず声を荒げてそう言った
『そんな風に言うな。あいつはあいつなりにお前を心配して話したんだ。それに俺よりユキの方が幾浦に同情的だ……』
「僕と恭眞の事じゃない。雪久さんには関係ない。僕がリーチにどうして揉めた本当の事を言えなかったと思う?全てそれが問題だったからなんだよ!それなのに……簡単に話すなんて……酷いよ……」
 トシは盛り上がる涙を必死に押さえながらそう言った。
『簡単に言った訳じゃない。それに今更何を言っても仕方ないだろう。幾浦が納得してるんだからそれでいいじゃないか!じゃなにか、お前はこのまま幾浦を騙していくつもりだったのか?本当の自分を、これから先ずっと隠し通せると本当に思ったのか?それとも上辺だけの付き合いで良かったのか?』
「やめてよ!」
 トシは思わず手で顔を覆ってそう叫んだ。
『トシ……怖かったんだろ?幾浦に変な目で見られるかもしれないってさ……。当たり前だよな。普通に考えれば俺達みたいな人間って気味悪いもんな……。だけどトシ、嫌なこと辛いこと避けて通ることは出来ないんだよ。一緒にいて楽しいだけじゃ付き合いなんか出来ない。お互いギリギリのところで苦しむことも有るんだ。それを乗り越えていかなきゃ虚しい付き合いになってしまうんだよ。そうだろ?』
 滅多に聞かれないリーチの優しい言葉にトシは余計に腹が立った。
「…………」
『ごめんな……俺がいるからお前がこんなに苦しい思いしたんだよな……俺だけいなくなることが出来れば良かったんだけど……』
「リーチ!」
 トシはリーチの言葉を遮るように言った。
「そんなくだらない事言わないでよ……僕は一度だってリーチのことそんな風に思った事無いんだからね。悲しくなるからもう二度と言わないで……」
 きっぱりとトシはそう言った。
『分かった……』
 それから言葉を探して沈黙しているとリーチが言った。
『会えよ……』
「え……」
 トシは驚いたように言った。
『これだけ色んな事があっても幾浦はお前に会いたいと言ってるんだ。ユキが何度追い返してもお前に会いに日参しているらしい。半端な想いじゃそこまで出来ないだろう?心配するなって、お前は愛されてるんだからさ』
 リーチはそう言ってトシを勇気づけようとしている。それは分かるのだが、決心がなかなかつかないのだ。
「でも……」
 トシはうんと言えなかった。
『いいから、会ってみて幾浦の気持ちを確認してもいいじゃないか……そうだろう?』
 そうかもしれない。会ってそれから考えるのだ。会ってもし幾浦が自分が考えていた最悪の状態になっていたら本当に諦めも付く。
 どんな目を向けてくるのだろうか?哀れみだろうか?それとも憐憫?
「う……ん……」
 俯き加減にそう言うとトシは幾浦への返事を考えた。しかし何をどう書けばいいのか散々悩み、結局用件だけをキーで打った。
 それは短い言葉であった。

 いつでも会いに来て下さい。

『お前さ、もっとなんか他にも言いたい事ないのかよ……』
 それを見たリーチが思わず言った。
「もっと気の利いた言葉を考えることが出来ればいいんだけど……僕には無理だよ……」
 そう言いながらトシはメールを送信した。
 それが済むとトシは他のメールの返事に追われた。フロッピーの方のメールと確認すると幾浦から同じ内容のメールが日に一度入っていたことに気付き、トシは胸が一杯になった。
 そうしていると幾浦からの返事が来た。

 夕方会いに行く。

 短い返事であったがトシは満足であった。会うことに不安があるとはいえ、本当のところトシは幾浦に会いたかったのである。
 そこでふと思い出したようにトシはリーチに聞いた。
「ね、そう言えば恭眞はリーチに何を言ったの?」
『え……別に大したことじゃないよ……気にするな』
 リーチは努めて平静にそう言っているが、トシはその声がうわずっているのを聞き逃さなかった。
「隠さないで。何を言ったの?」
 この年になってこそこそと夜中にお菓子を食べるくらいだ。余程酷いことを言われたに違いないとトシは思ったのだ。
『いいんだって、お互い様だから……』
「お互い様って何?」
 トシは追求を止めなかった。
 そこへ名執がやってきた。
「看護婦から聞きましたが、余り根を詰めないようにお願いしますよ」
「……」
 トシは先程の事もあって一瞬体を引いた。そんな様子に名執は?という表情でトシを見つめた。
「トシさん。何かあったのですか?」
「え、いいえ。別になんにも無いです。あ、パソコンですよね、メールの返事だけしたらすぐに終わりますので心配しないで下さい……」
 慌ててそう言ったトシであったが、目線は名執を避けた。トシは感情が高ぶっていたとはいえ先程名執に対して一瞬でも怒りを覚えたことが恥ずかしく、また申し訳ないという気持ちで一杯であったからである。
「トシさん……?」
 何となく病室に流れるムードが妙なことに気付いた名執が心配気にそう言った。
「あの……夕方、恭眞がお見舞いに来てくれるんです。それで……会う約束をしたので面会の許可を出してくれますか?」
 それを聞いた名執は驚いた顔をしたが、すぐに平静を取り戻して言った。
「それは構いませんが……本当にいいのですか?」
「はい」
「幾浦さんが来られたら、お通ししますね」
 と、名執は笑顔で言うと病室を出ていった。
『お前な、その態度はなんだよ……。ユキがばらしたことまだ怒ってるのか?』
 リーチがそう言った。
「ごめん。そうじゃなくて……本当にお世話になってるのに……あんなにいい人の事……関係ないとか、酷いとか言っちゃったから……。そんなこと言った自分が許せなくて……まともに顔が見れなかったんだ……」
 トシはそう言ってパソコンと閉じると脇机に置き、身体をベットにゆっくりと沈めた。
「リーチ……僕がそんなことを思ったとか、言ったとか……絶対雪久さんに言わないでよ。お願いだよ」
 必死にトシはそうリーチに頼んだ。
『分かってるよ』
 リーチがそう言うとトシは安心して、うとうとと眠りについた。



 湯河は警察病院に毎日のように顔を出していた。だが誰も湯河のことに気が付かなかった。湯河は病人の振りをして顔の半分を包帯で巻いていたからである。手も包帯で巻いて肩から吊っていた。その姿は誰が見ても通院している病人であった。
 湯河は広い待合室でじっと周りを伺っていた。彼の目的は一つであった。
 利一の仲の良い友人を捜すこと……
 湯河は利一に家族も親戚もいないことを知ると、今度は友人を探すことにしたのである。それも警察関係ではない友人を特定しようと、毎日ここにやってきては動向を見守っていたのである。そして利一が入院してから必ずやってくる男を見つけた。その男はひまわりを必ず持参しては通りがかる看護婦に「隠岐さんに……」と、言って渡し帰っていく。
 あの男は使えるかもしれない……
 行動に出ようと思った矢先に、その男がぷっつりと来なくなったので湯河は自宅までつけて居場所を突き止めておけば良かったと後悔したがその日の夕方、その男は病院を訪れた。
 今日は逃がさない……
 誰にも気付かれないように……そう呟いて低い笑いを洩らした。



「本当に宜しいのですか?」
 幾浦は名執に付いて廊下を歩きながらそう聞いた。
 歩を進める度に持参したひまわりが足の横でカサカサと音をたてる。
「ええ、トシさんのご希望ですので……」
 名執は感情のない声でそう言った。その口調に気が付いた幾浦はまだリーチは自分を許してはいないのだと思った。
「リーチはまだ……」
 端正に整った名執の横顔は表情が無いと冷たく突き放しているような顔だった。それを窺うように幾浦は言った。しかしその表情からは何も読みとれなかった。
「私からは何とも……」
 こちらを見ようともせずに名執がそう言う。
 病室に近づくと名執が幾浦に言った。
「病人相手だという事を肝に銘じて下さい」
 その口調はこの間のようなことにはならないようにと言い含めている。
 幾浦は頷き、トシがいる病室の扉を軽く叩いた。しかし中からは返答は無かった。心配そうな顔を幾浦は名執に向けた。
「午前中、検査を致しまして。それで疲れたのか午後からずっと眠っているようでした。もしかしたら今も眠っているのかもしれません」
「入っても構いませんか?」
 もしここで帰らされたら二度と会えないような気が幾浦にはした。
「ええ、どうぞ」
 名執はそう言って幾浦のために扉を開けたが、本人は中に入ろうとはしなかった。幾浦はそれを見てきっと二人きりにさせてくれるのだと思った。
「ありがとうございます」
 その言葉を聞くと名執がやっと笑顔を見せた。写真で見た笑顔より若干作った感じはするが、あれはリーチに対しての笑顔なのだろう。
「帰られるときは一言声をかけて下さい」
 そうして名執は病室内に幾浦を残し扉をそっと閉めた。
 幾浦はベットで眠っているトシの側に近寄るとベット脇にある椅子を引き寄せ座った。
 顔色がICUで見たときよりも格段に良くなっているのが分かった。
 トシ……
 起こさないように気を使いながら幾浦はひまわりの花束を脇机に置き、小さな吐息をたて、眠っている多分トシであろうその頬をそっと撫でた。
 やっと会えた……
 幾浦は自分の目頭が熱くなるのが分かった。
 会えなかった日々を思い出して幾浦は思わず涙がこぼれ落ちるのに気が付いた。その雫がトシの頬を伝うとうっすらと瞳が開いた。
「え……恭眞?あれ……そんな時間だったの?」
 いきなり幾浦を瞳に捉えたトシが眠気の吹っ飛んだ顔をして上半身を起こした。
「あっ……いた……」
 急に起きあがったことで身体が痛んだのだろう。幾浦はそんなトシを押しとどめるように言った。
「良いから、横になっているといい……」
「あ、大丈夫……」
 ようやく身体を起こしてトシは言った。
「トシ……だな?」
 幾浦は確信が持てずにそう聞いた。その言葉を聞いたトシはやや身を竦めた。
 その表情も強張っている。
「う……ん……」
 トシは少し視線を外しながらそう言った。不安気なトシに気が付いた幾浦は壊れ物に触れるかのようにそっとその身体を引き寄せ自分の胸に抱いた。
「恭眞……」
 突然の事に目を見開いたトシはどうしていいか分からないようであった。
「こんな風に抱きしめて、傷……痛まないか?苦しくないか?」
 低く通る声で幾浦はトシに優しく語りかけた。
「ううん……苦しく……なんか……ない……」 
 トシの体温を感じ、その心地よさに幾浦は息が止まりそうになる。いつの間にかトシから廻された手にも力が入り、トシはしがみつくように抱擁を受け止めた。
「私はお前に酷いことをした。その事をずっと……ずっと……きちんとお前に謝りたかったんだ……」
 幾浦は以前トシを傷つける様に抱いたことを詫びた。
「恭眞は……僕に……酷い事なんて……何も……してない……それにもうちゃんと謝ってくれたよ……あれで充分だよ……」
「トシ……済まなかった……」
 幾浦は言葉を詰まらせた。そんな幾浦にトシが顔を振って否定する。
「トシ……お前がいないと私は駄目になってしまう……何も手につかなくなってしまうんだ……。こんな私を情けないと思ってもいい……だけど…もう……私の側から逃げ出さないでくれ……頼む……」
 本当はやっと手の中に戻ってきてくれたトシをきつく抱きしめたいと切に思いながら幾浦はその衝動を必死に堪えた。しかし予想以上にトシの方が力を込めて抱きついてくるので嬉しい反面、幾浦は心配であった。かといってこちらから引き離す事も出来そうにない。
 しかし暫くするとトシの方からその身体を離した。そしてじっと幾浦の瞳を見つめると悲しそうな顔をして俯くと横に顔を振った。
「駄目だよ……恭眞……」
 シーツに涙を落としながらトシは言った。
「僕は恭眞にふさわしくない……」
「それは私を振る為の理由か……?」
「違うよ……!そんなんじゃない……本当にそう思っているんだ……僕は……人とは違うから……その事知られたくなくて黙っていたけど……。もっと早くに……ちゃんと自分の口から言うつもりだったんだ。ごめん……ね……。恭眞も本当は気味悪いと思ってるんでしょ?いいんだ……だってそうだから……」
 途切れ途切れトシはそう言いながら幾浦の方を見ようとはしなかった。
「トシ……そうやってずっと怯えながら生きていくつもりか?」
 いいながら幾浦はトシの顎をそっと掴み、顔を上げさせた。
「恭眞……」
 その瞳は涙で濡れていた。
「お前はみんなと同じように笑ったり、悩んだりするだろう?その何処が人と違うんだ?お前の中にリーチがいる訳じゃ無いだろう。この身体にトシとリーチがいるんだ。ただそれだけの事だ。今も昔も私が知っているトシなんだ……お前は私が愛したトシだ……それは何も変わっていない……」
 幾浦は一言一言トシに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「それとも私を好きだと言って騙したとでも言うのか?」
 冗談のつもりで軽く幾浦は言ったが、トシが心底驚いた顔をした。
「騙してなんか無い!そんなこと僕には出来ないっ!」
 トシは幾浦の手を振り払うと大声で言った。
「トシ……」
 そんなトシが愛しくて幾浦は再度引き寄せると柔らかく包むように腕の中に抱いた。
「僕は……僕は……」
 それだけ言うとトシは沈黙したが幾浦は次に来るであろう言葉を辛抱強く待った。
「僕は恭眞のこと……ずっと……」
「ずっと?」
「…………」
 トシが何かを言ったが幾浦には聞き取れなかった。それほど小さな声であった。
「トシ……聞こえない……もう少し大きな声で言ってくれ……」
 幾浦はトシの髪を梳きながらそう言った。
 おずおずと幾浦の方に向いたトシが上目使いでじっと見つめた。その黒目がちの瞳が全てを語っていた。それでも幾浦はどうしても言葉として聞きたかった。そうやって確かめることも時には必要であった。
「トシ……」
 促すように幾浦が言った。
「好きだよ……恭眞が……一番好きだ……」
 そう言った瞬間トシの頬が真っ赤になった。
「トシ……」
 幾浦はゆっくりとトシの唇に自分の唇を重ねた。瞬間、トシが少し身を強張らせたが、その緊張を解きほぐすように幾浦は何度も背を撫でた。そうしながら幾浦の舌はトシの舌を捉え、優しい愛撫を繰り返す。すると瞳を閉じたトシが夢を見ているような表情を浮かべた。その顔が余りにも愛らしくて幾浦はトシをそっとベットに倒すと頬や首筋も唇で優しくなぞった。
「恭眞……」
 その声は幾浦を制止する為のものであった。
「ああ……」
 思いだしたかのように幾浦はそう言って顔を上げた。
 トシがただの骨折位の怪我であるならこのまま押し倒し、病院であろうと構わず衣服を脱がしていただろうと幾浦は思いながら、そんな不遜な考えをおこした自分を叱咤した。
「本当に僕でいいの?」
「トシ……そんな風に自分を卑下して言うのは止めてくれ。私にとってお前は誰にも渡せない大切な人なんだ。私だけのトシでいて欲しいんだ。お前は自分がどれだけ魅力的なのか分かっていない。いつ誰に奪われるかもしれないという不安の方が大きいんだ……」
「恭眞……」
「確かに二人は愛せない……」
 静かに幾浦は言った。
「トシしか愛せないが、それでもいいか?リーチとは友達になろうと努力する。だから……」
「恭眞……」
 とまった涙が又零れそうにトシの瞳が曇る。
「だから……もう私の元から逃げ出さないでくれ……。お前をどうしようもないくらい愛しているんだ……」
 そう言って幾浦はトシの手に口付けた。
「僕も……恭眞のこと……あ……」
 そこまで言ってトシは幾浦の手を振り払った。幾浦は突然のことに驚いたがその理由をすぐに知った。
「あ、悪いな友達が見舞いに来てたのか……」
 病室の扉を開けた篠原がそう言って頭をかいた。
「いえ、いいんです」
 トシが利一モードでそう答えた。
「何かあったのですか?」
 心配そうにトシが言う。
「いや、お前がこっそり隠れてまで食べたかった甘いもの止められたって聞いたからさ、持ってきてやったんだよ」
 そう言って篠原は持ってきた菓子箱をトシに手渡した。それはピンクの包み紙に赤いリボンが付いていた。
「ありがとうございます」
 トシは満面の笑みでそう答えた。
「それとな……ちょっと例の件で話があってな……」
 ちらりと幾浦の方に視線を投げかけ篠原が言った。
「じゃ、隠岐さん。今日の所はこれで帰ります」
 幾浦は篠原が刑事であることに気付き自分がいるとまずいだろうと思ってそう言った。
「あの……後で電話をします。構いませんか?」
 名残惜しそうに戸口に立つ幾浦にトシがそう言った。
「ええ、いつでも構いません」
 そう言って幾浦は病室を後にした。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP