「相手の問題、僕らの代償」 最終章
扉が閉ざされて既に十二時間を過ぎたが、手術中の赤いランプは消えそうになかった。
篠原は扉の前でじっと時間が過ぎるのを待っていた。出てこないと言うことは、まだ生きているということだと自分に言い聞かせる。
「隠岐……」
主治医の名執は「必ず助けます」と言って巣鴨院長と共に手術室に向かった。一度助けてくれたメンバーなのだから、きっと大丈夫だと思いたかった。
人質にされた幾浦という男は既に銃の弾を摘出され、病室に運ばれていた。その人に何が有ったのか早く事情を聞きたかったが、面会謝絶を言い渡されてしまった。
「隠岐……」
一時間ごとに管理官の田原から連絡が入っており、その間隔がだんだん短くなってきていたが、篠原はその都度「まだです」としか答えられなかった。
そこに杖をつき、真新しい包帯を巻いた男がやってきて自分の前の椅子に座った。
瞼や頬が腫れて、顔の相がはっきりとしない。
「あの…こちらは隠岐さんの……」
男はこちらに向かってそう言った。
「失礼ですが……」
篠原は誰か分からずにそう尋ねた。
「隠岐さんに助けていただいた者です……」
「えっ……」
篠原は驚いてその目の前の男に駆け寄った。
「一体何があったんですか?」
男は押し黙ったまま何も語ろうとはしなかった。
「混乱しておりまして……暫く時間を下さい……」
「……」
篠原は項垂れた男を見て、仕方なくその横に座った。
時間だけがだらだらと過ぎていく。
ぽつりと男が言った。
「助かりますよ。絶対……」
その言葉を篠原は信じたかった。
ただ信じるしかなかった。
そこは真っ暗な場所であった。
二人は何故か手をつないでぼんやりと立っていた。
「手、放せよ。なんか妙じゃないか……」
リーチがそう言ってトシの手を放そうとするが、どうなっているのか離れなかった。
「離れないね……。そんなことより、ここ何処?」
トシが見上げるようにして、そう言った。
「俺がしるかよ……」
きょろきょろし、リーチは落ち着きがなかった。
「二人でこうやって同じ所に居るのは初めてだよな……」
「そう言えばそうだね……」
互いに顔を見合わせてそう言った。
必ずどちらかが主導権を持っているので、同時に心の花畑に存在することは無かった。その為、互いに相手の事を知っていながら、お互いを出会わせることは出来なかったのだ。
「なんか……リーチって、思ったより背が高い……」
不服そうにトシが言う。
「お前は、思っていたより背が低い」
リーチは笑いながらそう言った。
「………」
むくれたトシが黙りこむ。
「トシって間近に見ると、利一をもっと幼くして、可愛らしくしたような顔だなぁ。背もちっこいし」
「うるさいなぁ。ほっといてよ」
トシは反撃をしたかったが、リーチはスレンダーな体型にバランスよく筋肉が付いており、利一の容貌よりもっと大人びていた。それに対して、男前だな……とトシは不覚にも思ってしまったので、何も言えなかった。
「トシ、あっち明るいぜ」
リーチが指を差した方向に光が見えた。
「行ってみようか?」
そうして手を繋いだ二人はその光に向かって歩き出そうとした。それを止める声が後ろからする。
「こっちよ……」
言葉で発する訳ではなく、直接心に聞こえた。
振り向くと何処かで会った覚えの有る女性が立っている。
真っ黒な髪を腰まで伸ばし、微笑みかける表情がとても暖かい。真っ白なワンピースが細身の身体を更に細く見せた。
「春菜さん?」
「春菜……」
驚いた二人は同時にそう言った。
その女性は二人の初恋の人であったが、既にこの世の人ではなかった。
「警告しても無駄な人たちね……」
少し困った様な口調である。
「じゃ、今まで君がベルを鳴らしてくれてたのか……」
リーチがそう聞いた。
「そうよ……約束したでしょう?ずっと守るって……」
随分昔に、そう言われたことを二人は思い出した。
「こっち、早く……」
その声に導かれるように二人は後を追った。しかし途中三度、彼女を見失った。その度に春菜は姿を現し、彼らを導いた。
「ずっと守ってるからね……」という言葉を最後に聞き、二人の意識はとぎれた。
カーテンから漏れる、朝の光が寝不足の目にしみた。
名執は立ち上がるとカーテンの隙間を閉じるように引く。振り返り、二週間意識の戻らない恋人の青白い顔を見た。ICUからようやく病室に移せたもののどちらの意識も一向に戻らなかった。
酷く長い手術だった。四人もの外科医が同時に手術をするという、滅多に経験ことのないものであった。そうなってしまったのは理由があった。同時に補合しなければならない部分が有ったからだ。
せっかく治り始めていた傷は開き、肋骨に入ったヒビは数え切れないほどあり、中には複数骨折していた。折れた部分は外部からの圧力により内蔵を傷つけ、何処もかしこも出血し、肝臓に至っては救いようの無い部分は摘出した。二ヶ所撃たれてはいたが弾は貫通しており、そこは一番最後に回された。
他にも突き刺された鉄の棒によって貫通した腸は壊死し始めていたので、十センチ程切除した。
とにかく開けてみると血の海だった。名執はその瞬間を死ぬまで忘れることなど出来ないと思う。それでも生きようとする彼らの生命力だけがまだ、そこかしこに見られた。
大量に出血をしているが、静脈や動脈は含まれていなかった。手術の最中に二度、一度ICUに入ってから再度出血を起こし、再手術中にもう一度、合計三度心臓はその営みを放棄した。しかし名執はそれを……いや、利一を担当したどの医者もそれを許さなかった。
「リーチ……起きて下さい。皆さん心配しておられますよ」
微動だにしない彼らの手を握る。
「いま何処にいるのですか?」
何度そうやって呼びかけたのか、もう名執には思い出せなかった。
本当ならもう少しICUで経過を見たかったが、様態が安定した患者が長居は出来なかった。安定したと言っても、助かる可能性が増したわけではない。緊急の患者が他にもいたからで、危険は去っていなかった。
院長の巣鴨は難しい顔をしていた。このまま眠るように亡くなる可能性も有るとも言っていた。その言葉はナイフのように心に突き刺さった。
「リーチ……トシさん……」
もう一度、そう言って手を握る。すると殴られた頬と額に貼った湿布の匂いがした。
以前入院していたときは譫言をよく言っていたが、今回は無かった。苦しむことは有っても、言葉は無かった。それも名執にとって不安材料になった。
「先生……」
扉を開けて幾浦が入ってきた。
「先生は……もうよして下さい。名執で結構ですよ。さん付けもしないで下さい」
そう言って笑みを見せようとしたが、顔は強ばったままであった。
「少しは良くなったのですか?」
幾浦も椅子を引き寄せて隣に座る。
「ピクリとも動かないので、心配しているのです。弱々しいですが呼吸は落ち着いているのですが……」
じっと利一の顔を見ながらそう名執は言った。
「痩せたな……」
ぽつりと幾浦が言った。
「彼の場合、かなり殴られたのが原因で首から上が酷く腫れておりまして、食道がその所為で狭められているのです。流動食を流し込む管を通せないくらいに……ですので肩を切ってホースを通せばいいのですが……その部分から細菌が入りやすくなって今度は風邪や炎症をおこす可能性が高いのです。それで今は点滴で何とかしのごうと思っているのですが……」
何より名執はこれ以上、利一の身体に傷を付けたくなかった。
「そうですね……私も賛成しますよ」
「ですが……あと数日うちに意識が回復しないのでしたら、体力の事も有りますので、ホースを通す手術をすることになると思います」
暫く二人の視線はベットで眠る恋人に注がれていた。
「幾浦さん。いつまで貴方の面会謝絶を警察に伝えなければなりなせんか?」
「彼らと打ち合わせしなければならないことが有りまして……」
「何を……打ち合わせするのですか?私には話せないことですか?」
当分、面会謝絶にして欲しいと頼まれたとき、まだ幾浦自分自身が混乱している為だと思ったが、事件から随分経っているにも関わらず、そう言う幾浦が気になり始めた。
「せ……名執さんには話しても差し支えないでしょうから話します。ですがここだけの話と後は忘れて下さい」
「心得ております」
「実は……」
一瞬、言いよどんだ幾浦であったが、暫くして言葉を続けた。
「湯河を撃ち殺したのは私なんです……」
「えっ……」
「それを警察に言っても私は構わないのですが、トシとリーチがそれを許してくれませんでした。たとえ正当防衛でも、私が世間から人殺しと言われることを、避けたかったのでしょう」
「そうだったのですか……」
「彼らが逃げろと言ったので、私は応援を求めに外に出たんです。それを終えて戻るとあの湯川と言う男は狂気を顔に浮かべ、トシ…いえ、彼らの身体に鉄の棒を突き立てていた。私はそれを止めようと駆け出したんです。すると躓いて転んでしまった。その足下には湯河が落とした銃が有った。それを拾って撃ったのです。夢中でした」
静かに幾浦はそう言った。しかし後悔をしているようには見えなかった。
「私はアメリカに出張する事がよく有りまして、その都度あちらで銃の練習をしておりました。それで扱いに困ることは有りませんでした」
湯河を死に至らしめた弾丸は、射程距離ぎりぎりにも関わらず、後頭部に命中していたので、さすが隠岐刑事と言われていたが、運び込まれた利一の身体を見た名執には信じられなかった。立ち上がることはもってのほか、銃を握って腕を上げることなど出来る状態では無かったのである。
たとえ構えることが出来たとして、標準を合わせることなどとても出来なかったろう。
「実は妙だと思っておりました。あの人が撃てるとは思いませんでしたので……」
「その話をしたいのです」
「トシさん……幾浦さんが話をしたいと言っておられますよ。起きて下さい……」
返事など返って来ないことが分かっていたが、話しかけずにはおれなかった。
「名執さん……眠っておられますか?」
「あまり……。眠っているうちに……もし…そう思ったら眠れないのです」
「貴方にリーチから伝言を受けていたのを忘れてました」
「な……なんて言ってました?」
その声が掠れる。
「ユキに伝えて欲しい……ごめん……と言っておりました」
その言葉を聞いた名執は落胆し、肩を落とした。
「それだけですか?」
「ええ」
「たったそれだけなんですね」
念を押すように名執が聞くと幾浦は頷いた。
「それだけ……なんて……」
名執は今まで堪えていたものが切れたのが自分でも分かった。
「名執さん……」
「リーチ!酷いじゃないですかっ!それだけなんて、どういうつもりですか?謝る前にもっと言うことがあるでしょう?もっと……酷い……リーチ!こんなに心配かけてどうゆうつもりなんですか?」
「名執!よせ」
幾浦が宥めようとして差し出した手を振り払って名執はベットにしがみつくと叫び続けた。それはずっと堪えていたものが一気に堰を切って溢れたかのような勢いであった。
「貴方が私に残した言葉、覚えてるんですか?他の人になびいても怒らないって言ったんですよ!それを撤回しないまま、逝く気ですか?いいんですね。このまま起きないつもりなら、私は貴方を見捨てて他の人に乗り換えますよ。リーチは怒らないと言ったのですから、構わないでしょう?嫌だと思うのでしたら、ちゃんと撤回して下さい!リーチ!」
「……」
幾浦は我を忘れて叫んでいる名執にかける言葉が無いのか黙り込んでしまった。
「リーチ……お願い……何か言って…。私のこと嫌いだと言ってもいいから……」
ユキ……
小さな声が二人に聞こえた。
「リーチ?」
名執は顔を上げてリーチの方を向く。すると細く開いた瞳がこちらを見ていた。
「リーチ!」
名執と幾浦は同時にそう叫んでいた。
やだ……よ…他の……奴となんか……
リーチのわずかに開いた瞳から涙がぽろっと零れる。そこに見える瞳は酷く傷ついているように見えた。
「リーチ……良かった……意識が戻ったのですね……よか……」
リーチのまだ青あざの残る手を握りしめた名執は、涙が零れ落ちるのが分かった。
もう…俺は……必要…ない…んだ…な……
そう言って瞳を閉じたリーチを見て、名執が気が狂ったかのようになった。
「嫌ぁっ!違います!違います!リーチだめ!死んじゃだめです!」
そんな名執の肩を幾浦が叩いた。
「ひっかかるな。あのド阿呆は、笑っているぞ。こんな状況でたいした奴だ…」
幾浦は、呆れた声でそう言った。
「え……」
幾浦の言葉に、一瞬何がどうなっているのか理解できなかった名執は、リーチがこちらを見て、にんやりと笑っているのを見て今度は怒りだした。
「リーチ……これだけ心配をかけた人間がすることですか?」
きゅっと涙を拭うと、名執はもうなにも言わずに病室を出ていった。
「おい、いいのか?」
名執を目で追っていたリーチに心配そうに幾浦が聞いた。その声にリーチの視線はこちらを向く。話すのが辛いのか、リーチは声を出さずに睫をパチパチして見せた。
「トシも大丈夫なんだろうな……」
パチ…と一回睫が閉じる。
「それはイエスという意味か?」
もう一度、リーチの睫が閉じる。
「私に会わせてくれないか?」
そう言うと、リーチは酷く困った顔をした。思案気に睫が二度開閉する。
「よく分からないが、スリープというやつか?」
幾浦は彼らが意識不明の間に、名執から二人の意識が同時に飛ぶと先に意識が回復するのはリーチの方で、やや間隔を置いてトシの意識が目覚めること、そんな場合はリーチがトシを無理に起こすことは出来ないとも聞いていた。
「リーチ?」
幾浦の問いかけの答えに窮したような表情がリーチの顔に浮かんでいた。
「トシは今眠っていて、リーチには起こせないんだな?」
今度は返答しやすいように幾浦が聞くと、リーチはイエスと瞼を閉じた。
「早く元気になってくれないと、私は当分面会謝絶の看板を出しっぱなしにしなければならない。せめて、会話できるように回復してくれ」
そう言って幾浦は笑いかけたが、リーチにはその言葉の意味が分からないのか、今度は困惑した表情を向けた。
「警察の方から事情聴取の案内が来ていてな、お前達と口裏を合わせないといけないことが有るだろう?」
幾浦が言うと、リーチは理解したのか必死に言葉を発した。
「篠…原…を…よ……んで……」
「しのはら?」
篠原が誰なのか幾浦は知りたかったが、その言葉の先は無かった。一言発するのも、かなり苦しいのか、リーチは額に汗を滲ませ、その表情は痛みを堪えているように歪んでいた。
「いいから。そんなつもりで言ったのでは無いんだ。この話は今度にしよう」
名執を呼んだ方がいいと思った幾浦は、ベット脇にあるベルを押した。
暫くすると名執が急いで駆けつけた。
「どうしたんです?」
「痛みが酷いようだ。何とかしてやってくれないか?」
チラリとリーチに視線を投げかけると、薬を取りに、来た道を名執は戻っていった。
その態度は、まだ怒っているようであった。
しかし、名執が帰ってくる頃にはリーチは落ち着き、既に眠っていた。
それを見た名執が呆然とベット脇に佇む姿に、幾浦は少し気の毒になった。
「どうも、眠ったようだ」
「そうですね……」
「しのはらという人を呼んで欲しいと言っていたが、分かるか?」
「ええ、彼の同僚です」
「連絡を取ってやってくれないか」
「駄目です」
名執は幾浦の方を見ずにそう言った。
「え……」
「私ともちゃんと話をしてからです。医者の特権を、少しくらい行使させて貰ってもいいでしょう?」
今度はこちらを見てにっこり笑った。
「ああ、そうだな」
きっと自分が先にリーチと話したことが、名執にとって悔しいのだろう。リーチは心配をかけまいとあんな風にからかったようであったが、実際、笑うのも皮膚が引きつり辛かったに違いない。その証拠に目の上や頬は、湿布で巻かれていたからである。たぶん、そんなことは名執には承知の上だが、やはり腹が立ったのだろう。しかし、そんな名執の姿が妙に可愛く思えた。どんなことにも動揺しない人間だと考えていたからである。しかし、名執がこんな風な態度を見せるのもリーチの前だけだろうとも確信していた。
「意識が戻ったことを、院長先生には報告をして参りました。先生から警察の方に連絡が行くと思います。そちらからマスコミへの発表もしてくれるでしょう。ですが暫く病院のロビーが記者で埋まると思うと少しげんなりしますよ……」
「あれから随分経ったと言うのに、お昼のワイドショーはあの事件のことで今も騒いでいるからな……」
「他に大きな事件かスキャンダルでも有れば良かったのですが、こういう時に限って何もないんですよ」
名執は言いながら利一の額の汗を拭ってやった。
「さぁ、やっと安心できましたので今夜は少し眠ります。幾浦さんも今日はゆっくり眠って下さい。貴方もお疲れなのでしょう?」
「眠るように努力します。私の方はまだトシと話してないので、完全に安心したわけでは無いのでね……」
「二、三日すればすぐに話せますよ」
名執はそう言って笑みを浮かべた。
「もう少しの辛抱だ……お互いな」
そう言って二人は笑い合った。ずっと張りつめていた緊張感が一気に氷解したようであった。
「お休みなさい、リーチ、トシさん」
名執がそう言うと幾浦が病室の扉を閉めた。
三日後、リーチはベット脇に篠原が居ることを確認して「力になって欲しい……」と告げた。それを受けて、篠原は何も聞かずに「どんなことでも聞いてやるよ」と、涙ながらに言った。幾浦はリーチの代わりに、あの晩何があったかを話した。篠原は目を一瞬見開いて驚いたが、
「隠岐が、撃った。私たちはそう確信しています。民間人の貴方ではなく、刑事の隠岐がとどめを刺したと……。後は任せて下さい。ストーリーはこちらで作ります。その内容を私が貴方に話すまで、マスコミとは接触しないで戴きたい。宜しいでしょうか?」
篠原の酷く真剣な瞳が幾浦を見据える。
「はい。宜しくお願いします」
幾浦は深々と頭を下げた。
「隠岐、もう心配しないでゆっくり身体を治すんだぞ。今度こんな事をしたら、馘にすると管理官が言ってたからな。ま、そんな身体じゃ、動けやしないだろうけど……」
帰り際、篠原が笑みを見せそう言った。それに対し、リーチも笑って応えた。
そうして篠原が帰るのを見送ったリーチは幾浦に、もの言いたげな瞳を向けた。
「なんだ?」
「巻き…こん……で……悪か……った……」
「そんな事は言うな。これっぽっちもお前達の所為だとは思っていない。それとも私が今回のことでお前達を責めるような人間だと思っているのか?もし、そう思っているのならそのことこそ謝って貰いたいな」
「それ、言ってたのは……トシだから……トシに謝って貰えよ……」
リーチからそれを聞くと、まずいことを言ったという顔を幾浦はした。そして、ムッとする。
「お前って、本当に、憎たらしいことを言うな……。病人はもっと可愛気があっても良いはずだろう。そんな調子では名執にふられるぞ」
「人の……心配より……自分の……心配……しろよ……」
リーチは小声でたどたどしくそう言うが、決して話すことをやめようとはしなかった。言葉を発する度に、身体が痛むはずなのに、口をつぐんでいろと言っても聞き入れようとはしなかった。その上リーチが口を開くと、必ずと言っていいほど憎まれ口を叩く。
「トシはまだ起きないのか?」
「ああ…まだ…眠ってるよ…」
眠たげな目でリーチはそう言った。
幾浦は信じられなかったが、そこをぐっと堪えて「そうか」とだけ言った。
そこへ名執がやってきた。
「また、おしゃべりしてるんですか?」
困ったような顔で名執は言った。するとリーチは狸寝入りを決め込む。
リーチは意識を取り戻してから、名執とは殆ど会話をしていなかった。どちらかといえば幾浦と話す方が多かった。幾浦は最初、不思議に思ったが、リーチはどうも名執に対して遠慮しているようであった。それは自分がいる所為なのか、それとも何か引け目を感じることがあってなのかは幾浦には分からなかった。
名執の方も医者の特権を行使出来なくて苛立っているように見える。
「いつもこうなんですよ……」
幾浦の方を向いて名執はそう言った。
「本当に頼って欲しい時に限って、頼ってくれないのです。意地を張るんですよ…この人は……」
「え……」
トシにも似たようなところがあると幾浦は思った。リーチとはまた違うが、トシは神経質なほど自分に気を使う。
彼らの持つ秘密の所為で、素直になれないのかもしれなかった。秘密を知っている幾浦にも、時に正直な気持ちを偽る。それは今までそうやって生きてきたからなのだろう。
だが、それを知ったところでそんな性格をこのままにして置くつもりは幾浦には無かった。頼って、甘えて、わがままを言って欲しいのである。それは幾浦が、トシに対してずっと望んでいたことであった。
変えてみせる。第一関門は突破したようだからだ。
「リーチ……そうやって逃げないで、私とも話をして下さい」
そう言うとリーチの瞼が開いた。しかしそれはもうリーチでは無かった。
「トシさん……」
「え、トシ?」
幾浦は身を乗り出して、キョトとした顔をみつめた。だが幾浦にはトシとリーチの区別は付かなかった。
「では、私は暫く退散しましょう」
ため息をつきつつ、名執はそう言って病室を退出した。
「きょ……ま」
小さな…だが、意外にしっかりした声が幾浦の耳を掠める。
「やっと、起きたんだな。心配したぞ。リーチの方は三日程前に意識が戻ったんだ。なのにお前は一向に起きそうに無かったから……本当に大丈夫かと思って心配した」
トシの手を握りながら幾浦は言った。
「きょ…ま…は、大丈夫?撃た…れ……たはず……だし、身体も……酷く……痛めつけられた……でしょう?後遺症…残る…よう…な怪我は…無かった?」
「トシの方が酷いんだ。お前に比べれば、かすり傷だよ。心配するな」
「う…ん…。心配…してくれて…ありがとう…」
トシはそう言うとニコリと笑みを作って見せた。しかしその瞳は涙で潤んでいた。
「どうした?身体が痛むのか?」
心配になった幾浦がトシに問いかけるが、暫くトシは涙を流していた。
「巻き…込んで…ごめん…ね。恭眞が…もし、殺されていたら……僕は…きっと…生きては居られなかった…」
瞳を閉じたままトシは言った。幾浦はそんなトシの涙を自分のハンカチで優しく拭き取ってやった。
腫れた頬を刺激しないように……。
「トシ……。大の大人が簡単に誘拐されたんだ。恥ずかしいのは私の方だよ。だからもうその話はよそう。それより楽しくなるような事をお互い話し合おう」
「恭眞……」
「約束は覚えているからな」
「約……束…?」
「夜、遅くてもトシが会いたいと思ってくれたら、いつでも家に来てくれ。全く迷惑じゃないからな。私もそうしたいが、お前達は私より不規則だからな……」
それを聞いたトシは?という顔をしていた。覚えていないのかもしれない。
「火事で燃えたと言っていた、私からのプレゼントはちゃんと買ってあるから元気になったらあげよう」
「あ……」
そこで思い出したのかトシは真っ赤な顔になった。
「私とお前…それとアル。ずっと一緒に暮らそう」
「恭眞……」
幾浦がそこまで言うとトシは哀し気な顔を見せた。その理由は分かっていた。分かっていたが幾浦は言ってみたかったのだ。
「分かっているよ。最後のは諦めてるよ。だが、あの時トシの口からその言葉が出たときどれほど私が嬉しかったか分かってくれるか?本当に嬉しかったんだ…」
優しくトシの髪を梳きながら幾浦はそう言った。
「だが、お前の心は独占しても良いか?」
「うん……」
「私はしつこい男だが、そんな男でも好きでいてくれる?」
「うん……」
「愛していると聞かせてくれ……」
「う……えっ……」
トシは驚いた顔で幾浦を見つめた。耳まで赤く染めている。それは打ち身の傷では無かった。
「ずっと……聞きたかった。一度チャンスがあったのに邪魔が入って、お前の口から聞けずに終わって本当に悔しかった。だから……」
「え~…っと……」
「私を好きでも、愛してはくれないのか?」
少しショックを受けたような表情で幾浦は言ったが、内心トシをからかっていた。
「恭眞…僕に…とっては……同じ意味だよ……」
「同じなら、恥ずかしがることは無いだろう?トシ……」
「………」
「トシ?」
「い…ま…は、根性…無い…から」
「根性って…なんだ……?」
「恭…眞…僕に……根性…ちょうだい」
「?」
「キスして……」
囁くようなトシの言葉が頭の中を駆けめぐる。その言葉は甘美な響きを持っていた。
「トシ……」
「二度は……言え…ないよ……」
やや顔を横に向けたトシがそう言って照れた。可哀想な程、顔が赤い。その頬にゆっくり手を優しくかけ、こちらに向かせる。そうして幾浦は、少し震えるトシの唇をとらえて軽くキスをした。
唇をゆっくり離すとトシが瞳を閉じたまま幾浦に言った。
「愛してるよ…恭眞……」
その言葉は幾浦の心に染みわたるように、甘く響いた。