Angel Sugar

「相手の問題、僕らの代償」 後日談

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後日談―リーチの場合―


「…という訳で、とりあえず現場検証と合致するように手配してあるから……」
 篠原はそう言った。
『リーチ、本当に気付かれてないと思う?』
 トシが心配そうにリーチに聞いた。リーチはそれを受けて篠原に聞いた。
「篠原さん。検証写真を見て、でも勘の鋭い人でしたら気付くのでは無いですか?」
「ああ、実は管理官には気付かれたかも…検証写真をいくつかネガから破棄したことを、どうも気付いているようなんだよ……」
 頭を掻きながら篠原は言った。
「え……。それでは管理官なんて……」
「何も言われなかったよ。ただ、幾浦さんから事情聴取を受けて貰って、最終報告を管理官に提出したとき、じっと俺の顔を見たけどな…知ってて見逃したんだぞって感じ…もしかしたら直接その件で管理官からお前に話があるかもしれない」
 篠原はそう言って苦笑した。
「そうですか……」
 その時なんて答えようかとリーチは少し気が重かったが、あの田原なら分かってくれると信じていた。
「何より最近警官が不祥事を色々起こして問題になてるから、今、警察にとってお前がヒーローになってもらいたいみたいだしな、例えもっと上層部にばれても文句は言わないだろう。なんてったって、隠岐は人質を救うために重体に追い込まれたんだからなぁ……警察の権威を取り戻す格好の材料ってわけだ」
「僕はヒーローじゃありませんよ……間抜けな刑事です」
「そんな事ないぜ、お前は立派だったよ。そうそう、みんなお前に会いたがってる。ただお前の主治医の…名執先生だったな……。あの先生が、俺以外の人間は許可してくれなくてさ、どうしてなんだろうな」
「まだ、様態が安定しておりませんので…もう暫くお待ち下さるように、皆さんにお伝え願いますか?」
 名執が急に病室に入ってきて言ったので、篠原は「あ、いや、その」と言いながら慌てて立ち上がった。その姿を見てトシとリーチは思わず笑いが漏れた。
「じゃ、俺帰るわ。先生、隠岐のこと宜しくお願いします」
 篠原はそう言って名執にペコリと頭を下げると、足早に病室を出ていった。
「俺、もう大丈夫だよ。他の同僚にも安心させたいからさ、面会の許可出してくれよ…」
 リーチがそう言うと名執は眉根をよせて言った。
「昨晩も熱を出した人が言う言葉ですか?」
「ちょっとだけだよ…」
 確かに昨晩は熱を出して結局名執の手を煩わせたのだ。
「身体を起こせるようになれば考えましょう。今は人に疲れるのも貴方の身体には負担になるのです。そこの所を分かってるんですか?」
 名執は医者の目でリーチを見据えてそう言った。
「そんなの俺が一番分かってるよ。ただ、なんでお前はそんな風につっかかった、ものの言い方するんだ。それも今日だけじゃなくて、俺が意識が戻ってからずっとそうじゃないか……」
「つっかかってなど……ただ…」
 そこまで名執は言って言葉を詰まらせた。
『リーチ、雪久さんは心配して言ってるんだよ。それなのに何てこと言うんだよ!』
 二人の会話を聞いていたトシが言った。
「お前には関係ないだろう。黙ってろよ!」
『どうして苛ついてるんだよ。そう言えば、ここずっと雪久さんに絡んだ言い方してるよね。なんで?』
「もういいよ」
 そう言ってリーチはむくれたポーズをしようとしたが、身体が動かない事を思い出すと「くそっ」と悪態を付いた。
「リーチ……」
 名執はベット脇の椅子に座ってこちらを見ていた。その瞳は潤んでいる。こういう名執にリーチは弱いのだ。
「何か…私…貴方の気に障ることをしたのですか?」
「ごめん……」
「どうして謝るんです?」
「別に…何となく…」
「私の気の所為かもしれませんが、リーチ私を避けてませんか?」
 確かに避けていた。
「それ、被害妄想だよ……」
 といいながら名執の視線を避けた。
「そうですか…それならいいんです。私の思い過ごしなら…」
 暫く沈黙が続く。
 リーチは意識が戻ってから色々考えていたのである。刑事というものがどういうものか、自分がその職業を辞めることは出来ないこと、そしていつか又、こういう事になるだろうと、次、助かるという保証は無いこと…。
 今回本当にその事を考えさせられたのだ。
「な、ユキ。お前の周りにさ、いい人いる?」
「それはどういう意味のいい人ですか?性格的なことをおっしゃっているのなら、イエスとお答えしますが……」
 名執は困惑した顔でそう言った。
「覚えてる?俺が他になびいても怒らないって言ったこと……」
「………」
「あれさ、今も有効だから……良い奴見つけたら、そっちに乗り換えろよ」
 それを聞いた名執は無言であった。その表情が、怒っているのか悲しんでいるのかはリーチには分からなかった。
『リーチ!何言ってるんだよ!』
 トシの言葉をリーチは無視した。
「リーチ…。それは……もう私のこと……」
 次の言葉がどうしても言えないのか、名執はうつむいてしまった。
 重い空気が病室を覆う。
「話…それだけだから……お前も仕事あるだろ?帰って良いよ……」
 トシがバックで怒鳴り散らしている。
『五月蠅いんだよ!お前に俺の気持ちが分かってたまるか!』
 怒鳴るトシにリーチはそう言った。
『何だよリーチの気持ちって!』
『ほっといてくれよ!』
 とバックで二人が言い合いしている間名執はそんなことも知らずにじっと動かなかった。そうして暫くして名執は立ち上がった。
「分かりました。リーチ…ですが、治療はちゃんと受けて下さい……」
 抑揚のない声で名執はそう言った。
「ユキ……ごめんな……」
 好きでもどうしようも無いことがあるのだ。
「リーチ…一つだけ答えて下さい。私の何が貴方にそう言わせたのですか?一体何処が悪かったのです?」
「お前は何も悪くないよ。俺が……悪いんだ……」
「それは…貴方に…誰か…出来たと…」
「えっ…そんなんじゃな……いや、そうなんだ…」
 本音と嘘が入った言葉で名執は不審気な目を向けた。
 うわ、まず……とリーチが思った時には遅かった。
『リーチ!何支離滅裂なこと言ってるんだよ!相手もいないくせに、雪久さんをどうして悲しませるようなこと言うんだ!リーチ!ちゃんと説明してよ!』
 と、トシが叫び、
「どうしてそんな奥歯にものが挟まったような言い方をするんですか?本当は誰もいないんでしょう?どうしてそんな嘘を付くんですか?」
 といって名執は、涙をポロポロこぼしだした。
 トシから責められ、名執に泣かれたリーチはどうして良いか分からなかった。内と外、交互に責められてはたまったもんではない。
「嫌なんだよ、俺のことでユキが泣くの……」
 と、思わず本音を言ってしまったリーチは「あっ」といって口をつぐんだ。
「それはどういう意味ですか?」
 ジロッと名執は睨んで言った。先程泣いていた顔とは大違いだ。
『何言ってるんだよ、リーチ』
「だから…その…あー…畜生っ!」
 どうしてこうなっちまうんだよ!とリーチが思ったときには既に遅かった。
「畜生はいいですから、私が泣くのが嫌ってなんですか?」
「俺…きっと又こんな事になると思う。刑事だからさ…その度にお前が泣くのが嫌なんだ。俺、意識戻ったとき驚いたんだ…お前本当に酷い顔してたから。俺、辛くて…俺の為にお前が泣いて苦しんでたと知って、本当に辛かった。お前にはいつも笑って幸せでいて欲しいのに、その俺がお前を不幸にしてるって思って…それで…」
 仕方無しにリーチはそう言った。
「リーチ…」
名執はその言葉を受けてただじっと耳を傾けている。
「ユキ……俺の気持ちも分かってくれよ…俺だってお前を手放すなんて今まで考えたこと無かったけどさ、その方がいいんだ。俺、お前が幸せな方がずっといい…」
 そうリーチが言うと名執は呆れたように言った。
「貴方とだから私は幸せなのが分からないんですか?他の誰とも幸せになんかなれない。今回のことで私が悲しんでいたのは、貴方が病院から逃げ出した日、私に何も相談してくれなかったことです。他にもきっといい方法があったはずなのに、私には何も相談してくれなかった。貴方が幾浦さんを助けに行ったことは、刑事として当然の事です。そんな貴方達を私は誇りに思います。例え刑事として殉職することになっても、私はそれすら誇りに思うでしょう。でも、肝心なときに貴方は私をのけ者にするんです。それがいつも辛い。そして哀しい。自分が貴方にとって、そんな存在であることに気付かされる事が、身を切られるような思いにさせられる。貴方が生死を彷徨っている間、そのことが私を責めて、どうしようも無い程の後悔とやり切れなさがずっと心を支配していました。だからただ泣くことしか自分を慰める方法が無かったんです。それを貴方は責めるんですか?」
「ユキ…」
「リーチ…本心から私が他の人に乗り換えてもいいと思ってるのですか?」
 良い訳無いだろと思うのだが、だからといって一度言い出したことを引っ込めることは出来ない。どうせまたその事で悩むことになるのだ。だったら早いうちに決心した方がいいのだ。
 リーチは必死に自分に言い聞かせた。
「分かりました。貴方がそう言うのなら、とりあえず担当を降りさせていただきます。私は貴方を愛しているのに、嫌われているのは辛いですからね。それに私の周りには、いい人がたくさんおりますので、誰かも~適当に探しますよ」
 心なしか「適当に」という言葉に名執は力を入れている。
「そんないい加減な相手は駄目だ」
 リーチは慌ててそう言った。
「い~え、貴方にはもう私の事に口を挟む権利なんてもう無いんですよ。私の好きにさせて貰います」
きっぱりと名執が言った。
「貴方達の命を救おうと、必死に手術をして、その上眠らず看病もしたんです。私には他にも一杯担当の患者がいるのにですよ!それに感謝されるのならまだしも、酷い顔だの、他の人に乗り換えろだの……。私は貴方にただ言って欲しかった。感謝の言葉なんかいらない。ただ、怪我する度にお前に助けて貰うって…。それだけの言葉で良かった。別に感謝して欲しいなんて全く思いもしませんでした。頼って欲しかった…。私だけはリーチにとって特別な存在だと信じていたかです。でもこんな状況ですら私に頼ってくれないのなら…。なにも相談すら出来ないのなら…。例えこの先一緒におれたとしても、心はずっと平行線で行くんですね。そんなつきあいは私も望みませんし、これでいいのかもしれません。ええ、貴方の本心が良く分かりました」
名執は淡々とそうリーチに告げた。
「ユキ……」
 いいのか?本当にこれで終わってしまうんだぞ。犯罪まがいまでして手に入れた名執を手放してしまって本当に良いのだろうか?こんなに自分の事を考えてくれる相手を失って自分はこれからまともに生活出来るのだろうか?
 リーチはぐるぐるとそんなことばかり考えた。
 いいのか?
『リーチ、早く謝りなよ。雪久さん本気だよ。こんな時まで意地張るのよしなって』
 トシはハラハラしながらそう言った。しかしリーチはじっと目を瞑ったままであった。
「では、失礼しますね。後で私の代わりの担当医を連れてきますよ」
 何も言葉が返ってこない事に諦めたのか、名執は病室を出ようとした。
「ユキ…!」
 駄目だ!やっぱり駄目だ……。俺はこいつを手放す事なんて出来ない!そう結果が出た瞬間、リーチは身体を起こして名執に向かって手を伸ばしていた。
「リーチ!駄目です!」
 リーチが身体を起こそうとしているのが分かった名執は叫ぶようにそう言った。しかしリーチの方は聞こえていたが、言うことを聞くつもりは無かった。
「ユキ…」
「リーチお願いですから無茶をしないで下さい。今、一番安静にしていなければいけないのですよ。治らなくてもいいんですか?」
 名執は言いながらリーチの身体を支えた。
「いい…もういい…治らなくてもいい…もういいんだ…」
小刻みに震える身体を少し浮かせてリーチは言った。その身体をベットに戻そうと名執は必死に宥めた。
「リーチ!お願いですから身体の力を抜いてください!冗談ではなくて本当に貴方の身体は今普通じゃないんです!」
 触れる名執の手が気持ちよくて、リーチは名執が言っている事などどうでも良いのだ。
「なんて言えば……俺がさっき言った台詞を…忘れてくれる?」
「え…」
 驚いた顔で名執はこちらを見る。
「嫌だよ…ユキ…お前じゃなきゃ俺の身体……治らないよ……お前がもう俺のこと担当してくれないのなら、ここ出ていく…」
「馬鹿なことは言わないで下さい。今、動くとまたICUに逆戻りですよ!」
体中の骨がギシギシ軋み、痛みが走るがリーチは必死に身体を起こそうとした。痛みを何とか堪えようと歯を食いしばるが、そうすると今度は殴られた顎が痛む。我慢しきれない痛みがリーチの瞳に涙を浮かべさせた。
「力を抜いて下さい…お願いですから…」
名執はリーチの背に手を回し、肩を支えながら、その痛々しい身体を自分の方にもたれさせた。名執に抱き留められると、消毒薬の匂いがかすかに鼻をかすめた。
「ごめん……」
「いいんです。どうせ冗談だと受け止めておりましたから。重病人はそうやって医者を困らせるんです。本気じゃないこと分かってましたから……。気にしていません。だから身体の力を抜いてください」
「え?」
「例え今そう貴方が決心したとしても、気弱な心がそうさせてるだけですよ。元気になって身体が自由に動くようになったら……もし、そのとき私に誰か仮に出来たとしても、貴方のことですから、私に何をするか考えなくても分かります」
 そう言って名執は婉然と笑った。もしかしてこいつって俺より上手かもしれないとリーチは思った。
「……身体……痛い……」
 なんだか自分自身が滑稽でリーチはそれだけしか言葉が出なかった。
「鎮痛剤をお持ちしましょうか?」
今度は困った顔で名執が聞いた。
「いらない……」
そこにはじっと名執のぬくもりを感じながら、トシにさえ見せたことのない姿のリーチがあった。
「情けないよな…動くことも出来ないんだ…」
 ぽつりとそう呟いた。
「しばらくの辛抱ですよ」
 小さな子供を撫でるように名執はリーチの頭をやんわりと撫でた。それが心地よくてリーチは目を細めた。
「うん……」
「痛かったでしょう?」
「うん……」
「怖かった?」
「いや…それはなかった…」
「嘘付いてるでしょう?」
 そう名執が言うと、リーチはやや首を横に振った。
「嘘つき…」
「怖くなかった…ただ、お前にもう会えないと言うことが怖かった…」
「リーチ…」
「ホントは病院から抜け出す前に言うつもりだった。もう会えないと覚悟してたから…。でも、お前の顔を見てどうしても言えなかった…。もし、言えばきっとここから出してくれないと思ったし、それに…もしお前が俺が行くことを許してくれたとしても、何を言っていいか分からなかった…。もし、本当のことを言えば、俺が死んだ後、お前を苦しめることになると思ったからさ…」
「本当のことって何ですか?」
 動かしていた手を止めて名執はこちらを覗き込んでくる。それを避けるようにリーチは目を閉じた。
「……いいよ…俺、生きてるし…」
「リーチ…教えてくれたら、さっき言った貴方の暴言を全部忘れてあげます。だから教えて下さい」
暫く考えた後、リーチは小声で言った。
「俺がもし死んだら…お前にはずっと一人でいて欲しい…他の奴を見つけて欲しくないって言いたかったんだ」
びっくりした顔をした名執をうっすら開けた目から見ながらリーチは言葉を続けた。
「分かってるよ…俺がいなくなった後も俺に縛るのは変だって…。普通は他に見つけろって言うのが本当なんだろうけど…。俺には言えないよ…。お前が他の奴とつき合うとか、抱かれるとか考えただけでも成仏出来ない」
リーチがそう言うと、名執は今よりもっと自分の胸に引き寄せた。
「何言ってるんだろ…な……俺。御免な…情けない俺で…こんな事言うつもり無かったのに…馬鹿みたいだな……」
 こんな気弱な自分を誰かに見せる時が来るなどリーチには信じられなかった。多分生まれて初めての大怪我に気弱になっているのだ。だがそれも名執にだから見せられるのだ。同僚の篠原になど絶対見せない姿だ。
「本当にそう思ってる?」
 コクリとリーチは頷いた。
「ずっと…俺だけのユキでいて欲しい…俺がいなくなっても…」
「私がもし先に……、その時リーチもそうしてくれるのなら、約束します」
「約束する…けどっ、お前それは無いだろう。俺より先とかそういうの止めろよ」
 リーチがそういうと名執はクスリと笑った。
「もう一つ約束して下さい。瀕死を負っても、例え意識がなくなっても…必ず私の元に戻ってきて下さい。生きて帰ってきて下さい…。そうすれば私が何としても貴方を助けます。どんなことをしても助けて見せますから。これでも私、腕のいい医者なんです」
「ユキ…」
「私の側以外で命を落とすことになれば、私は貴方の約束を破って、代わりの人を捜しますからね」
「げ…」
 リーチは思わずそう言った。
「約束…ですよ」
「…分かった」
「なんだか気か乗らないような返事ですね…」
「え、そんなこと無いって……」
 そう言って名執の胸に顔を埋めながら、言葉を続けた。
「すげーうれしい…」
「本当に?」
「ホントさ…」
「リーチ、この格好も辛いでしょう。ベットに横になって下さい」
「その前にさ、ね、ユキ少しでいいからネクタイ緩めて、シャツのボタン一個外してみてよ…」
「浮気でもしてると疑ってるんですか?」
「そうじゃなくて…その…直接お前の…あの…肌を感じたくて…」
 それを聞いた名執はそっとリーチをベットに寝かせると、時計で時間を確認し、カーテンを引き、病室の扉に鍵をかけた。
「特別ですよ」
 名執はそう言って白衣を脱ぎ、次にスーツの上着を脱ぐ。そんな姿が薄暗い病室で、そこだけが何故か明るく感じる。それから名執はネクタイをその細長い指でシュッという音と共に取り、シャツのボタンを外した。その下に見える男にすれば白すぎる肌がリーチには眩しかった。
「すげ、エッチなかっこ……」
 リーチは喉をごくりとならして言った。
「馬鹿……」
 名執は頬を赤くしてそう言った。
 そうして名執は前をはだけた格好でリーチの隣に横になった。リーチは身体は動かせなかったが、頭を何とか横に向けてその肌に顔を擦りつけた。
「誰かに見つかったら大変ですね」
 そう言いながらも名執は嬉しそうだった。
「面会謝絶だろ…だれもこないよ…」
 リーチは直接名執の肌の温もりを頬に感じ、何とも言えない安堵感が広がるのが分かった。
「気持ちいいですか?」
「身体が動いたらこのまま上に乗ってやるのに……」
「全く、こんな身体で何を考えているんですか……」
「だってな~俺ずっとやってねえんだぜ……すぐに退院出来ねえんだったら、お前夜忍んで来いよ……」
「え?」
「俺一回やってみたかったんだよな~病室でエッチってさ~。白衣のお前と病院でやるのってスリルあるとおもわねえか?」
 そういうと名執はリーチの頬をむにゅ~と引っ張った。
「あいてって……何だよ……痛いじゃないか」
「……この人は……」
「うん。はは。ま、たまには良いだろ……」
 呆れた風に名執は無言でリーチの髪を撫で上げる仕草を続けた。
暫く、そうしてリーチがおもむろに言った。
「後遺症とか…残るような怪我は無かった?」
 それは怖くて聞くのがためらわれていたことであった。
 もし重大な後遺症が残るのであれば、刑事を続けることは不可能だからだ。
「神経系で酷く破損した部分は有りませんでしたので、それは大丈夫だと思います。ですが、当分ベットに大人しくしていただきますので、かなり筋力が落ちて思うように動かせないのは覚悟していただかないと…」
「いいや…元の身体に戻れるんなら…」
 そう言って名執の胸にもう一度頭をすり寄せた。その感触がこそばいのか、名執は身をよじる。
「そうそうリーチ、貴方は覚えていないと思いますが、三回心臓が止まったんですよ。その度に電気ショックと心臓マッサージをして大変だったんです。三度目に止まったときは、もう…駄目かと…」
 そう言って名執は思わず涙ぐんだ。
「俺…悪運…違うか…。俺達は天使に守られてるから…よっぽどな事があってもきっと大丈夫だよ…」
「天使…ですか?」
「うん」
 名執は不思議そうな顔をしてリーチを見つめた。天使とは春菜を指していたが、そのことは言うのを避けた。何より春菜が初恋の人であると告白しなければならないからである。この状態でそれは言えなかった。
「言っておきますが、だからといって危険に飛び込むようなことは自らしないで下さい。その度にこっちの心臓が止まる目あうんですからね…」
「な、ユキ…キスして…。あ…今度は断らないでくれよ…」
 そう言われた名執は、ニコリと笑ってゆっくりリーチの唇に触れた。しっとりとまとわりつく名執の舌が心地よく、その感触に暫く酔った。
 名執の舌は唇や首筋にも這わされ、包帯や湿布を除けながら丹念にリーチを愛撫した。
「包帯…邪魔だな…」
「とらないで下さいよ。ですがリーチはこっそり外してそうで怖いですね……」
「傷…残るかな?」
「ええ、諦めて下さい…」
「酷く残る?」
「そんなに酷くは残りませんが、何年間かで薄くは成るはずです。でも消えることはないでしょう」
「俺の玉の肌が…」
「勲章になるじゃないですか」
そう言って名執はリーチの頬を撫でる。その、白く細い指が顔の輪郭をなぞる度に、この指でメスを持ち、自分を救ってくれたとは信じられなかった。意外に根性が座っているのかもしれない。
「こんな俺…幻滅した?」
「…?」
「だからさ、お前の前でこんな風に…その…なんか格好悪いだろ…」
「全然そんなことありませんよ。どうしてそう思うんです?」
「結局、幾浦に助けて貰ったし…。お前にも助けて貰ったし…ホント、良いとこなしだろ?」
「今回の件でくだらないことを言う人間がいたら、私が許しません。貴方達は精一杯のことをしたんです。もしかしたら死んでいたかもしれないんですよ。私は貴方達を誇りに思います」
「ありがとう…」
「リーチ…他にして欲しいことありますか?何でも言って下さい。沢山甘えて下さい」
「恥ずかしいよ…」
「誰も見てません…。確かに、強い貴方でいて欲しい。何時だって頼れる存在であって欲しい…。でも一方通行は嫌です。リーチが辛いときは一緒に悩みたい…。痛いときは痛いと言って…私にだけは気を使ったりしないで…。私だって貴方の力になりたい時だってあるの。だから…貴方にとって私が誰よりも特別でありたい…」
そう名執の告白を聞いてリーチは何か心の重みが取れたような気がした。どうしてだろうとリーチは思った。名執には本当の自分の姿を見せてきたつもりでいたが、それならばこんなホッとした気持ちが起こるはずは無いのだ。人に頼らず生きてきた分、誰かに頼るという行為が苦手なのかもしれない。特にリーチは問題を自分で解決してきた。それが知らず知らずのうちに身に付いてしまったかもしれない。
「なんだか…照れくさいな…」
 そう言ってリーチは名執の頬に鼻を擦り付ける。その鼻先に名執は優しくキスをした。それは包み込むような優しさがあった。
 自分に名執がいてくれて本当に良かったとリーチは思う。彼がいなかった時、自分は一体どうやって生きてきたのだろうかとも考える。しかしそれは所詮過去のことで、振り返る必要も無かった。
 何より思い出せないのだった。
「愛してる…ユキ…ずっと俺の側にいてくれ…」
「私も…愛しています。例え貴方が動けなくなっても、私は側にいます…」
 これほどの幸福感を与えてくれる相手に出会えたことに、リーチは感謝した。
 暫くすると、名執ははっと気付いたように身体を起こした。
「そうでした。もうすぐ幾浦さんが来られるんですよ…」
そう言って名執は衣服を整え、ベットから降りた。
「リーチ、トシさんは…」
 名執はスーツを羽織りながら、顔を真っ赤にしてリーチに聞いた。
「ああ、いつの間にかスリープしてたみたい。起こすよ」
 それを聞いて名執はホッとした顔を見せた。いくらトシと仲がいいとはいえ、リーチに甘えている姿や、リーチが甘えている姿は見られたくなかったのであろう。それはリーチとて同じ気持ちであった。
「暫く眠るよ…」
「ええ…お休みなさい…」
 名執はそう言って再度リーチの額にキスをした。唇が離れると瞑られた瞳がゆっくりと開いた。

後日談―トシの場合―


「もう、良いんですか?」
トシは名執にそう聞いた。
「あ、ええ…気を使って下さってありがとうございます」
 頬をやや赤らめて名執は言った。そんな名執は可愛いとトシは思う。端正な顔をしているだけに、そんな表情は滅多に見たことがなかった。きっとリーチの前ではいつもこんな感じなんだろうと、少し羨ましく思った。
「雪久さん。僕、本当に心配したんですよ。だってリーチは馬鹿なこと言い出すし…雪久さんは、じゃそうしますとか言うし…。確かにリーチの言うことも分かるけど…それに対しても雪久さんの反撃がすごかったな。どう考えてもリーチが雪久さんと分かれることなんか出来ない事を知っているけど、もしあのままになってたら本当に誰か違う人を捜してました?」
「まさか…」
 名執はとんでもないと言う風に手を左右に振った。
「じゃ、自信あったんですね」
「自信はありませんでしたよ。でも引く気はありませんでした。ここで引けばきっとリーチは素直になってくれないだろうと思いまして…。私に頼ることも時には良いって事を知って欲しかったんです。それにああいっておけば、どんな酷い怪我を負っても最期まで生きようという意志がはたらくでしょう?瀕死の怪我を負ったとき、人が助かる基準は確かに怪我の大小こそありますが、やはり生きようという強い意志がかなりのウェイトを占めます。あんな取引じみた約束はしたくはなかったのですが、約束することによってリーチの中に、生きなければという強い意志が生まれてくれたのではないかと私は思うのです」
「えっ、そんな深い意味があったなんて分からなかった…!すごいや雪久さん」
 トシは感心して思わずそう言っていた。
「ですが、リーチが私を好きでいてくれている間だけですから、期限付きみたいなものですが…」
「大丈夫、大丈夫!リーチが雪久さんと別れられる訳ないんだから…。反対に雪久さんの方がリーチに愛想尽かす方が先ですって」
「そうでしょうか…」
 そう言って名執は笑みを零した。
 トシは二人が羨ましいな…と思った。自分と幾浦も二人のような関係を築く事が出来ると良いなと本当に思う。
「ところで…トシさんは何処まで会話を聞かれていました?」
「え、え~っと。雪久さんがリーチに鎮痛剤をおもちしましょうかって言ったところで僕スリープしました。ごめんなさい…」
 何となくまずいと思ったトシは、そこからスリープを決め込んだのであった。
「あ…そんな、謝らないで下さい…」
 顔を桜色に染めた名執が苦笑していた。
「楽しそうだな…リーチか?」
 そこに幾浦がやってきた。
「いえ、トシさんですよ。では私は席を外しましょう」
 名執はそう言って病室を出ていった。
「元気そうだな…」
 先程まで名執が座っていた椅子に腰をかけた幾浦がそう言った。幾浦の方は撃たれたとはいえ、弾が貫通していたので治るのも早かったのだ。今はもう杖無しで歩ける様だった。
「うん。少しずつ起きられる時間も増えてきたんだよ」
「良かったな」
「恭眞、忙しいんじゃないの?」
「まぁ、少しだけだ。会社が今回のことを利用して、自社の宣伝をするもんだから、参っているんだ」
 幾浦は苦笑しながらそう言った。
「え?何のこと?」
「ああ、ここはテレビは無かったんだな。まだ事件のことをワイドショーとかで特集を組んでいてな。必然的に人質になった私の方にもマスコミ攻勢が酷くて、会社がメインで記者会見をしたんだよ。会社のマークをどーんとぶら下げてな」
 そう言って幾浦は笑った。
「宣伝効果ってあるの?だってコンピュータ会社だよ…。しかも子供向けのソフトも作ってるから反対にイメージ悪くなるんじゃない?」
「ああ、確かにそうなんだが…。本社のあるアメリカではうちの会社も結構名が通っているんだが、日本ではネームバリューが無い。かといって過大な宣伝費をぶち込む気もない。だがあっちからやってくるのを断るのももったいないということさ。妙な話だが、ソフトの売り上げが伸びてるそうだ…その心理はよくわからんがな…」
「ふーん…変なの…」
「それにつき合わされる私の方が困った」
「御免ね…」
「お前が謝ることなど無いだろう?」
「そうなんだけど…」
 原因を作ったのは自分達なのだ。
「気にするな。入院中は良い休暇を取ったと思っているんだからな。こんな事でも無ければゆっくり眠ることも出来なかった」
 ふふふと幾浦は笑った。
「……あのさ……恭眞……」
「何だ?」
「恭眞の会社に…その…いい人いる?」
「何を指していい人と言ってるんだ?」
 幾浦の声は不思議そうである。
「だから…僕の…その…僕より…いい人だよ…」
 どう言って良いか分からないトシはそう言った。
 幾浦ならどんな答えが返ってくるかトシは知りたかったのである。どういう反応を見せるだろう…か?名執のように言ってくれるのだろうか…?
「トシはいい人か…ああ、確かにそうだな…」
 いい人と自分で言う人間はいない。それなのにトシがそう自分のことを言っているのだと思ったようで、幾浦は笑いながら「お前ほどのいい奴はいないよ」と、言った。
 もう鈍いなぁ…
「だから…他の人を好きになってって言いたいんだ…」
 ちょっとストレート過ぎたかな?とトシは思ったが、この位言ってようやく幾浦には通じるだろう。
「いい人というのはそういう意味か?」
 少しトーンの低くなった幾浦の声が、トシの胸をちくりと刺した。
「うん…」
 暫く考え込むような仕草のあと幾浦が口を開いた。
「お前がその方がいいのならそうしようか…。私もそれは考えていたんだ。刑事とつき合うからこんな目に合うんだとな。なら、もっと頻繁に会える相手で、私に気を使うことなく可愛く甘えてくれる様な人を捜そうと思っていたところだ…。ただトシがこんな状態の時に言えないだろう?だがお前からそう言ってくれるのなら問題は無いな…」
 そう言った幾浦の顔は冗談を言っているようには見えなかった。動揺も、苛立ちも見受けられない。どうしてそんなことを言うんだ?ー…という返答を期待していたので、トシの方が動揺した。
「あ…そ…っだったの…。良かった…恭眞もそう言ってくれるんなら問題ないね」
 平静を保とうと必死だった。自分で何を言っているのかもよく分からなかった。
「実は、私を理解してくれる人間に出会ったんだ…私もその人を大事にしたい」
「……よ、良かったね…すごく安心したよ…僕には恭眞…もったいなかったもん…」
 トシは思いがけずジョカーを引いたような気がした。
「今日、随分ねだられてとうとう買わされたプレゼントを持って行くことになっているんだ。甘えられると弱いという自分の甘さに改めて気付いたよ」
 そう言って照れくさい笑いを見せた。その幾浦の表情が嘘を付いているようには見えなかった。名執の場合と全く違う。この場合はどう言ったら良いのだろうか?
「だ…大事にしてるんだ……その人のこと……」
 声は掠れながらも、ようやくそう言った。
「ああ、大事にしてる…」
 だが、トシとは違い幾浦はあっさりとそう言った。
「いつか…恭眞に……そう…言われると覚悟してたから……平気だよ…」
 平気なわけなど無かった。だからといって、既に別の人を見つけたという幾浦に、何を、どういえば言いのだ?
「トシはそうやって、いつでも思い切れるような付き合いしか私にしてくれなかったからな、疲れたんだよ」
「……うん。そうだね。僕みたいなのは疲れちゃうよね。で、さ…どんな人?」
 涙が出そうなのを必死に堪えるが、小刻みに身体が震える。
「甘え上手…で結構我が儘も言うが、惚れた弱みでそれすら魅力になっている」
「そう…」
 そんな話は聞きたくないのだがそう言えない自分が辛い。
「会いたいと思ったらこちらの都合も考えずに、私の家にいたりする」
「……」
「休みになれば、私が仕事でもだだをこねて休みを取らせようとしてな、それも可愛い。だから惹かれた…」
 自分とはまるっきり正反対……それはトシがそうでありたいと願った姿であった。それが無性に哀しかった。
「ー……っという性格になって欲しいんだけどな……」
 そう言って幾浦はいつの間にか涙でぐしょぐしょになっているトシの頬を撫でた。
「えっ…うぇ……?」
 泣きながらトシは幾浦の困った顔を見つめた。何を言っているのか聞きたかったが、口から漏れるのはしゃくり上げる音だけである。
「お前もな、いい加減私を止めてくれないか?全く、からかうつもりがどんどん進んで行くので私の方が参った」
「きょ…ま…」
 はめようとしてはめられたのは自分の方だということにトシはやっと気が付いた。
「泣く位なら、冗談でも他に見つけろとは言うな。今後、一切だ」
 ジロッと睨み付けるような顔で幾浦は言った。だがその瞳は優しい。
「ごめ……ん…なさい…」
「お前が本気で言っている時とそうでない時位簡単に分かるんだからな。今度そんなことを言い出したら…」
「言い…出したら…?」
 ベットの中で撤回させるー…。幾浦はトシの耳元でそう囁いた。
 カーっと耳まで赤くしながらも、トシはコクリと頷いた。
「プレゼントを買ったのは、もちろんお前にだ」
 そう言って幾浦は、ポケットから手に乗るくらいの箱を取り出した。金と銀の交差したリボンが目を引いた。
「ぼく…に?」
 まだ横隔膜が振動をやめないのでトシはしゃくり上げながらそう聞いた。
「お前以外にプレゼントなど買ったことは無いぞ。ああ、両親は別だがね…」
「ね、開けて…見せて…今見たい…」
 やっとしゃくるのが収まったトシは幾浦に言った。
「自分で開けられるようになってから開けるといい」
「今…見たい……だめ?」
 潤んだ瞳でお願いされたのは初めてだった幾浦は思わず縦に首を下ろしていた。
「ね、何?何を買ってくれたの?」
 がさがさとリボンを取り、無言で幾浦は包みを開ける。トシは幾浦に奇麗に畳んでね、リボンは捨てないでね…と、散々注文を付けたが幾浦はその度に笑いながら「分かってる。分かってるよ」…ーと言った。
 白い皮のケースは、その中に何があるか誰もが予想できるものであった。
「開けて見せて…」
 幾浦はそのケースをトシに見えるように開けて見せた。
 それはプラチナの指輪であった。
「アメリカに出張したときに特注で作らせたんだ。もちろん私とそろいでこの世に二つしかない。気に入ってくれた?」
 指輪は少しずつ色の違うプラチナが三重に捻りながら輪を作っており、それにも関わらず、でこぼこはなく一見するとシンプルな指輪に見えるが、手が込んでいる。その裏にはネームも彫ってあった。その彫られた部分には金のが流し込んであった。価値の分からない人間にもかなりの値段と言うことは分かる。
「こんな…高そうなの…貰って良いの?」
「高いということより、何を意味してるかを聞いて欲しかったな……」
 苦笑して幾浦が言った。
「あ……そうだよね。あの…僕が貰って良いの?だってこれの意味って…僕になんかにあげて後悔しない?」
「今までこんな気にさせた相手はお前だけだよ……」
「恭眞……」
 胸が一杯でトシは又涙が零れそうだった。
「指にはめて欲しいとは言わない。ただいつも何処にでも良いから身につけてくれるか?ああ、財布の中でもいいか…」
「だっ…駄目だよ…!十円玉とかで傷が付いたら嫌だ…。だから…ネックレスに通したら良いかな…あっでも刑事がネックレスって…まずいかも…」
「じゃ、トシがいい方法考えてくれ。私は傷つこうが、汚れようが何でもいい。いつも身につけてくれるのならな…ただ、落とさないでくれよ…」
「うん…大事にするよ…。一番の宝物だよ……」
 トシは今度は嬉しさのために押さえていた涙が零れた。それを幾浦は優しく拭ってくれた。触れてくる大きな手は温かかった。
「最近涙腺が緩そうだな…」
「ん…ごめん…」
「その上、謝ってばかりだ……」
「ごめ……」
んの言葉は、さすがに飲み込んだ。
「トシ、私はね、今回の事は終わってみれば良かったと思ってるんだ」
「え?」
「確かに、もう一度経験したいとはこっれっぽっちも思わないが、側にいてもいつも遠くにいるような感じのお前が、とても身近に感じる…。やっと私だけのトシになったと実感できるんだ…」
 そう言って幾浦はトシの手を取り、自分の唇で軽く愛撫をする。
「僕はもう、恭眞がこんな目に合うのは二度と御免だよ……。自分の怪我より痛い…」
「トシ…治ったら私に何かして欲しいことは無いか?何でも聞いてやるぞ。トシは私の命の恩人だからな」
「ううん…もう充分だよ……」
 トシはそう言ったが、幾浦が不服そうなのを見て取ると慌てていった。
「あ、じゃぁ…その…一つだけ……」
「なんだ?」
「あの…ギュって…」
 抱きしめて欲しい…ーと目を瞑って小さな声で言った。しかし暫くして、そっと目を開けてみるとまだ不服そうな顔をしている。
「あの……僕…迷惑なこと言っちゃったみたいだね……いいよ…今の忘れて……」
「どうしてもっと無理そうな事を注文しないんだ。抱きしめるくらいなら何時だって……全快すれば、お前が嫌がってもするぞ」
少し怒った口調でそう言った。
「ん…ん…」
 トシは何を言って良いか分からなかった。なにより幾浦が側にいてくれるだけで充分だからであった。
そうだ…言っても無理なこと言えば良いんだ…それで恭眞が困った顔をした後に冗談だよって言えばいいんだ。
「ホントにいい?」
 ちょっと意地悪っぽくトシは言った。
「二言はない」
 幾浦はきっぱりとそう言った。
「じゃぁねぇ…僕の家は無いから、当分居候させて貰って、僕が遅く帰ってきても恭眞がお出迎えのキスを一ヶ月してくれることと。一緒にご飯を食べてくれること。出勤も一緒に出来ればしたいなぁ…。んー……あ、旅行!旅行も行きたいな。近くで良いからやっぱり海外!僕遊びで海外に行ったこと無いんだ。それでね、一番高いホテルのスウィートルームにとまって、豪華な食事をとって、それから一緒にショッピングするんだ。もちろん恭眞が出してね。僕たち無一文だから一杯買って貰おう…」
 途中で止めてくれるのを期待したトシであったが、幾浦はそんな様子もなく、ただ、
うんうんと嬉しそうに頷くだけであった。あれこれと考えられるだけ口にするが、まるで本当に叶えてくれるつもりなのか幾浦は何も口を挟まない。
「りょ…旅行の一日位は外にも出ないで一日中べたべた……もう…どうして止めないんだよ!」
 トシは自分で言ったことにだんだん恥ずかしくなって思わずそう言っていた。
「それから?」
「い…今の冗談だからね……。さっきの…その…お返ししようと思って……」
 下を向いてトシはチラチラと幾浦を伺いながらそう言った。
「全部、了解した」
 聞こえていないのか幾浦はそう言った。
「あ~だから…」
「オプションは随時受付だ」
「恭眞ぁ……聞いてる?」
「ああ、聞いている」
 そう言って笑顔を向けられトシはますます困ってしまった。
「その…」
「費用は心配するな。お前に請求するほど私は貧乏ではないからな」
 既に幾浦はその気になっており、トシの言うことなど聞いてはいなかった。トシにしてみれば自分が言ったことさえ思い出せず、どう言って撤回しようかそればかり考えていた。
 幾浦はそんなトシを後目にさっさと話題を変えた。
「ところで、リーチに何か言われただろう?」
「えっ?」
「他の人を見つけろなんてとんでもないことを言ったからな」
「あ…それは」
「何を言われたんだ?」
「言われたんじゃなくて…」
 トシは先程のリーチと名執の事をかいつまんで話した。
「確かに……リーチの考えていることは分からないではないがな……。はいそうですかと名執が本気で言えるわけがないだろう…あ、…」
 幾浦が何かに思い当たったように小さく言った。
「なに?」
「トシ、私を試したのか?」
 少し怒ったような声で幾浦は言った。
「そ…そんなんじゃないよ…ただ…恭眞ならなんて言ってくれるかな…って…知りたかったんだ…やっぱりまだ自信ないし……」
「自信がなくなったら直接私に聞くんだな。リーチはリーチ、トシはトシだろ?」
「恭眞…怒ってる?」
「怒ってる」
「……」
「ー…といえば、お前はすぐ言葉のままに取るからな…私の本気と冗談をそろそろ分かるようになって欲しいんだか…」
「え…」
「怒ってなどいないよ」
 そう言って幾浦はトシに唇を合わせた。
 手が自由に動かせるならこのまま幾浦の背中に腕を回したいとトシは思った。動かない身体がひどくうとましい。
 暫くして幾浦の唇が離れると、幾浦が言った。
「もう二度とこんな思いをさせないでくれ…」
 次に幾浦はトシの両手を取ってそう言った。
「恭眞……」
「お前を失ってしまうかと……思った…。身が切られるような想いで、意識が戻るのを待ち続けた……もうこんな思いはしたくない…」
「……」
 何と答えて良いかトシは分からなかった。刑事として生きるのであれば、いずれまた起こるだろう事であったからだ。だからといってそれは出来ないともトシは言えなかった。幾浦は本当に自分の身を案じているからだ。そんな幾浦にまず言えなかった。
 トシが言い淀んでいると幾浦から口を開いた。
「お前は刑事だから、無茶をするなと言ってもきっと飛び込んでいくのだろうな…たとえ私が何と言っても……。それは分かっている。それがお前達の生き方なんだから私が口を挟むことではない。だがこれだけは知っていて欲しい。お前達は確かに家族も親戚も無い。だから今まで無茶もしてきただろう。しかしこれからは、お前が傷付く度に辛い思いをする人間がいることを念頭に置いていてくれるか?それだけでも随分違うだろう?」
 驚くほど優しく幾浦は言った。その口調は何処か幾浦自身も何かを決意したような表情であった。
「恭眞…僕、すごく幸せだよ……。ホントに恭眞に会えて良かった……ホント…」
 トシは胸が一杯で次の言葉が出なかった。
「僕……」
「でもまあ、お前が元気になってまず一緒に行くところはディズニーランドだな」
 軽くトシの額にキスを落として幾浦は言った。
「うん……」
 幾浦は忘れていなかったのだ。それが嬉しい。
「トシ……愛しているよ……」
「恭眞…僕も愛してる……」
その言葉は自然に口をついて出た。
「愛してる……恭眞……」

―完―
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