Angel Sugar

「春酔い」 第1章

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 電車から見える桜並木。
 そろそろ蕾が膨らみ、もうすぐ淡いピンク色の花を沢山枝につけるのだろう。
「春菜……」
 列車の中から見える桜を眺めながらリーチは誰ともなしにつぶやいた。
 桜がほころび始めるとリーチは憂鬱になる。そうして淡いピンクの花びらが風に舞う頃、忘れていた痛みを思い起こして胸を痛めるのだ。
 春菜……
 彼女は初めてリーチを認め、受け入れてくれた女性だった。
 名前は春菜。
 春菜は桜が満開の季節に亡くなった。
 真っ白なベッドの上、病魔に冒されやせ衰えた春菜はリーチの腕の中でひっそりと短い生涯を閉じた。
 白い肌。絹のような漆黒の髪を腰元まで伸ばし、いつもごく自然に揺らせていた。微笑みは穏やかで、愛らしい小さな口元から笑い声が漏れるとリーチはいつも嬉しくなったものだ。
 その春菜はもういない。
 桜の花が舞い落ちるように、命まで散らせた春菜はリーチの大切な人として胸の中に住んでいる。
 年追うごとに胸の痛みは薄らいできたが、やはりリーチは春という季節が好きになれなかった。春菜の命が春風にさらわれたからだろう。
 だが今年は違った。春菜が自分たちを見守ってくれている事を知った今では、痛みは安心感へと変わっている。
 名執には春菜という女性のことを話してはいなかった。時折、春菜の名が出ることがあったが、たいていそんなときは話したくない時ばかりであった。しかし話題として出るたびに名執の方は話して欲しい……と、訴えるような瞳を返してくる。
 リーチは話すつもりでいた。
 ただタイミングというものもがあるのだ。
 それでもすべてを話せるわけではなかった。春菜のプライベートも関わってくるからだ。いくら名執にでも包み隠さず……というわけにはいかない。

 誰にも……
 誰にも言わないでね……
 貴方だから話せるの……
 貴方だから許してくれる……
 だから……
 誰にも言わないと約束をして……

 ベッドに横たわり、か細く言った春菜を裏切るわけにはいかないからだ。あれは二人だけの約束である。そしてリーチはその告白を墓場まで持っていくと約束した。例え今、春菜がこの世にいなくとも決して破ることの出来ない約束であった。
 でもなあ……
 少しはあいつに話さなきゃな……
 ずっとリーチはそう思っていた。その為、毎年恒例になっている春菜の墓参りに今年は名執を誘った。名執は迷うことなくリーチの提案を喜んで受け入れてくれた。
 今日はその約束の日であった。
 
「済みません遅くなってしまって……」
 名執は走ってきたのか、頬がうっすらピンク色に染まっていた。その手には良く気のつく名執らしく、花を携えていた。
「急患でも入ったのか?」
 リーチが言うと名執は首を左右に振った。
「いえ……車を止めるのに手間取ってしまって……」
 名執は華がほころぶような笑みを浮かべた。
 俺の……
 ユキ……
 やっぱり笑顔が似合う……
 毎度向けられる名執の笑顔を見るたびにリーチはそんなことを思うのだ。しかも、名執の笑顔は自分だけのものだという独占欲までしっかり持っている。
「俺が有給取れれば良かったんだけど……」
 本当ならば休みを取りたかったが、リーチの方がそうもいかなかったのである。
「いいえ……リーチはお仕事が忙しいんですから……そんな風におっしゃらないでください」
「じゃ、いこうか……」
 リーチが歩き出そうとすると名執は何となく緊張した面もちで頷いた様に見えた。
 墓が立ち並ぶ中、目的の墓を目指してリーチは歩き出した。死者が眠るにふさわしく、あたりは都会の喧噪とはほど遠いほど静まり返っていた。雑音とは無縁のこの空間は、まるで時間が止まっているように見えた。
「そう言えば……俺、昼間に来るのは初めてなんだ……」
 思い出したようにリーチは言った。
「え……?」
「俺……春菜の親戚には、色々あって葬式で焼香もさせてもらえなかった……。せめて墓参りくらいと思ったら、そこにも親戚がいてさ……さんざん罵倒されて……それからは夜に来ることにしたんだ」
 名執を振り返ることなくリーチは言った。後ろからは名執が耳を傾けている気配が感じられる。そんな様子に満足するとリーチはあとを続けた。
「あいつと会ったのは……大学一年の時だった」
 背の低い木々の間から春菜の墓石が見え隠れする。親戚がまめに手入れしているのか雑草など一本たりとも生えていない。
「綺麗な顔をしてたけど……そんときは特別な感情は無かった」
 風がサワサワと木々を揺らす。きっとここに来ているのを春菜がどこからか見ていて喜んでいるのだろうとリーチは思った。
 俺の大事な人……
 連れてきたよ……
 何となく照れくさくなりながらリーチは鼻をかいた。
「……って言うより、春菜はもてたしな……どこから見てもいいところのお嬢さんって感じで……俺は苦手な部類の女性だった。それが……あ?」
 春菜の墓石の前に女性が座って手を合わせているようであった。風がそよぐ度にその女性の髪が揺れる。そのまっすぐ伸びた髪は真っ黒で、最近流行のヘアカラー類は一切使ったことの無い光沢を放っていた。それはいつか見たことのある後ろ姿であった。
 リーチは一瞬立ち止まり、今、自分が心に浮かべた人物を否定した。
「リーチ……お知り合いですか?」
 名執はリーチにそう聞いた。
「いや…でも……今日来る奴は、親戚関係だろうから……俺、顔見られたくないから引き返そう……」
 後ろからついてきている名執の方に向き直ってリーチは言った。
「リーチよろしいのですか?」
「ずいぶん昔の話だから、俺のことは覚えていないと思うけどさ、もしもってことがあるだろ……俺、また怒鳴られるのはごめんだから」
 後ろを気にしながらリーチは言った。
「リーチがそう言うのでしたら……」
 名執も残念そうにきびすを返すと、既に一歩先を歩き出しているリーチを追いかけた。
「あの……済みません!」
 叫ぶように発せられた声にリーチは立ち止まった。その声に思わず顔が強ばる。
 何で……
 春菜と同じ声なんだ?
「リーチ……先ほどの人がこちらを向いて呼び止めようとしている様ですが……」
 名執が後ろから困惑したような声で言った。
「……」
 ゆっくり振り返えると視線に入った人物はどこから見ても春菜の姿であった。
 幽霊?
 そういう言葉が一瞬リーチの脳裏をかすめた。だが春菜はもうこの世にはいないのだ。
 何を寝ぼけたことを考えているんだ俺は……
 春菜は死んだ。
 そして今は俺たちの中で、想いだけが息づいている……。
 だから……
 問題の女性は嬉しそうな顔をしてこちらに走ってきた。
「あの……済みません。人違いなら謝ります。もしかして……お名前、隠岐さんとおっしゃるのではありませんか?」
 春菜と違うのはその女性は健康そうな顔色をしているところだ。
「え……そうですが……」
 リーチは利一モードで目の前の女性に言った。
「良かった……少し自信がありませんでしたので……」
 言って女性はホッとしたような笑みを見せた。
 近くで見ると双子ではないのかと思う程、春菜によく似ている。一体どういう事なのだろうとリーチは混乱していた。
「私、結城遥佳と申します。あの……昔……春菜さんのお葬式の日に……いらっしゃっていたでしょう……?私、親族の席から拝見しました」
 まっすぐ向けられる瞳は、遠い昔ずっと自分に向けられていた瞳と同じものだ。
「あ……はぁ……」
 ということは葬式に出かけたリーチが、玄関先で親戚に止められ随分もめた光景を目撃したのだろう。リーチは当時を思い出して苦笑するしかなかった。
「それに……隠岐さんは有名ですもの……テレビでずいぶん出てらしたから……」
 崎斗の件で随分顔写真が報道されたのを遥佳も見ていたのだろう。
「そうですか……」
 そこにリーチの携帯が鳴った。
「はい。隠岐です。分かりました。現場に直接向かいます」
 その電話は事件発生を伝えるものであった。
「済みません、お話を伺いたいのは山々なのですが……」
 春菜との関係、そして春菜とうり二つの理由……知りたいことが山ほどリーチにはあった。
「お気になさらないで下さい。そうだわ……」
 そう言うとその遥佳はハンドバックから名刺を取り出してこちらに差し出した。
「私、結城遥佳と言います。そちらのご都合の良い日に御連絡頂けますか?隠岐さんからすれば私は見知らぬ人だと思いますが、少し話がしたいのです」
 名刺にも同じ名が印字されていた。そして住所とメール番号が記されている。
「電話は出来るかどうか分かりませんのでメールを送ります。よろしいですか?」
 リーチは掠れた声でそれだけを言った。
「お待ちしています」
 春菜と同じ笑顔で遥佳は言う。
「あの、では……」
 リーチは一瞬事件を忘れそうになっていた。
「あ、すみません……メールお待ちしていますね」
 そう言って遥佳はまた春菜の墓へと戻っていた。
「リーチ……」
 ぼんやりしているところを名執の声でリーチは我に返った。
「あ……ごめん……ユキ、悪いんだけど現場近くまで送ってくれないか?」
 目線はまだ遥佳を追いながらリーチは名執に言った。
「ええ……」
 名執は頼りない小さな声で言うと目線をこちらから逸らせた。

 車に乗り込んでからもリーチは先程の遥佳のことを考えていた。
「気持ち悪い事があるんだな……」
 ふと口からそう漏れる。
「何が気持ち悪いんです?」
 名執はバックミラーを覗いてこちらに視線を寄越す。
「さっきの遥佳って人……春菜に瓜二つなんだ……でもあいつが双子だったなんて話は聞いたことがない……それなのに気持ち悪いくらい似てるんだ……」
 本当に気持ち悪かった。
 春菜が生き返ったと言われたら信じてしまうほど似ていたのだ。
「春菜さんが知らなかっただけだという事ではありませんか?」
「そうなのかな……いや……」
 そうなのだろうか、春菜に知らされていなかった双子がいたのだろうか?
 いや……それもおかしい。
 何より遥佳という女性はどう見ても春菜より若いのだ。計算するとどうしても年齢が合わない。ならば姉妹なのだろか。だが姉妹であれほど似ることがあるのだろうか?
 ぐるぐるとリーチは思いつくまま答えを探してみたが見つからなかった。
「着きましたよ」
「あ……ごめん着いた?」
 ハッと我に返り周りを見回すと、警官がわらわらと野次馬を整理しているのが見えた。
「ええ」
 名執はそれだけ言うとじっとリーチを見つめてくる。その意味をリーチは良く分かっていた。
 聞けなくて聞けない。
 そんな名執の心情は語らずともリーチには分かる。
「ごめんな……次ぎに会ったときには何があっても絶対話すから……」
 約束をしておかなければ名執は一人で悩むだろう。リーチにはそんな名執の様子が簡単に予想できた。
「気を付けて……」
 やや気落ちしている名執に、リーチは小さく頷くと車を出て仕事に向かった。



 名執は一人マンションに戻ると、リビングのソファーに身体をもたれさせ、ぼんやりと視線を天井に向かわせた。
 先ほどの遥佳が非常に気になるのだ。
 リーチとていくら昔愛した春菜という女性に似ているからと言ってこれから先、何かが起こるとは思わない。ただ、リーチにとって春菜という女性は特別なのである。それが分かっているだけに不安が拭えないのだ。
 確かに今、自分たちの関係は上手くいっていた。それはこれからも変わらないと名執は信じている。だからといって安心という二文字には繋がらない。
 それは名執自身の性格的なものもあるだろう。今までいろんなものを失ってきた名執にしてみれば、どんな些細なことも不安の要因になるのだ。そんな自分を嫌だと、変えたいと考えるが、トラウマとなっているものはそう簡単には追い払えない。それでも不安に駆られるたび、リーチに名執は話しはしなかった。話さなくともリーチは敏感に気付くからだ。
 不安を気取られたくはないのだが、そんなリーチに名執は常々感謝していた。
 しかし今回は別である。
 リーチが大切にしていた人の話を本当は余り聞きたくはなかったが、そう思う反面、全て知りたいとも思うのだ。リーチのことは何でも知りたいのだ。ただ、リーチの口から自分以外の人間を過去であっても愛していたという事実を受け止めるのが辛い。又そんな心の狭い自分に名執は嫌悪も感じた。
「一眠りでもして、少し疲れをとった方がいいですね……」 
 名執は誰に言うわけでもなくそう呟くと、寝室へと向かった。



 現場のクラブに着くとリーチはトシを起こした。クラブの周りは野次馬で溢れている。そんな中をリーチは人間をかき分けて歩いた。
『うえー又殺人事件?』 
 トシの第一声はそれであった。
『一課の人間が又殺人事件何て言うなよ。俺なんか大事な日になるはずが無理矢理こっちに引き戻されたんだからな』
 ぶちぶちと不満を漏らす。
『じゃ、雪久さんにちゃんと話せなかったの?』
 驚いたようにトシは言った。
『ああ……それにな』
 遥佳のことを言おうとした瞬間、篠原がこちらに気が付き手招きをした。
「隠岐!やっと来たな。こっちこっち」
 リーチは仕方なく更に野次馬を押しのけ、篠原の所に向かった。
『その話は後だよトシ』
『分かった』
 意外にトシは大人しく引き下がった。
「で、状況はどうなんですか篠原さん」
 篠原に案内されながらリーチは聞いた。
「殺されたのは会社員の原田透、年齢二十六歳、殺したのは田辺憲吾、無職、五十二歳。最初は小競り合いだったのが、田辺の方が興奮して椅子で原田の後頭部を強打して、頭蓋内出血の為死亡。それを見ていたのはここのクラブのママ、吉田美代子、三十四歳。要するにだ、ママに熱を上げた原田が口説き倒しているのが気に入らないっからってさ、田辺が割り込んで言い合いになったんだって。ママはとめようとしたけど聞き入れなくて、エスカレートした結果がこれだ」
 こぢんまりとしたクラブ内は壁から机、椅子にかけて寒色系で統一されていた。そのカウンターの下に椅子をなぎ倒して、うつぶせに原田が倒れていた。周りには飛び散った血と、床に水たまりのように澱んだ血が鑑識のフラッシュに反射して照りかえっていた。
「こんな昼間からですか?」
 リーチは床を見て、次に篠原に視線を戻した。
「ママは開店までの準備をしていたそうだ。そこに原田が来て次に田辺が来たんだと」
 リーチはきょろきょろと見回しながら手袋をはめた。
「そのママと田辺はどういう関係ですか?」
「この店の資金を出したのが田辺だそうだ。で、そのあと、田辺の経営する会社が倒産してから、よくママに小遣いをせびりに来ていたらしい。今日もそれで来たようだ」
 やれやれという風に篠原は言う。
「それで、田辺は?」
「逃げた。緊配済みだけどまだ引っかかったという連絡は無いみたいだ。ママの方は事情聴取で所轄の方に連れて行かれたよ」
「田辺に家族は?」
「会社が倒産と同時に奥さんは家族を連れて出ていったそうだ。そっちの方は友田さんと有坂さんが行ったよ」
 そこに警部の中村がやってきた。
「隠岐、篠原。これが田辺の住所だ、いくら何でも自宅には戻って来ないと思うが、当分そっちを張り込んでくれ」
 中村がそう言ってメモをリーチに渡した。
「分かりました」
 リーチと篠原は覆面車に乗り田辺のアパートに向かった。そのアパートは一Kで、家賃は破格の四万円であった。田辺の部屋は二階の八部屋ある家の左から三番目の部屋であった。外壁は所々剥がれ落ちており、壁の色も斑である。周囲に立ち並んでいるマンションが高級であるため、田辺の住むマンションは余計にみすぼらしく見えた。
 リーチ達はそのアパートの裏側に位置する通りに車を止め、様子を伺うことにした。そのころには日も落ち、アパートの住民達が生活している様子を現す明かりが各部屋に灯っていたが、田辺の部屋だけは暗く、ひっそりと静まり返っていた。
「なんか食い物買ってくるか……」
 篠原がそう言って財布の中身を覗いた。
「そうですね。私が買い出しに行きましょうか?」
 リーチが篠原にそう言って車から出ようとしたとき、声を掛けられた。
「隠岐さん?」
 遥佳であった。
「あ、今晩は……」
 篠原が誰としゃべってるんだ?という風に身体をよじって様子を伺っている。
「こんなところで何をされているんですか?」
 不思議そうな顔で遥佳は言った。
「え……」
 答えに窮したリーチはそう言うと、周りを見回してから更に言葉を続けた。
「仕事です」
 それで遥佳は全てを理解したのか、
「済みませんお邪魔したみたいで」
 と、いって慌てて頭を下げた。
「いえ、そんな……。それより遥佳さんはこの近くに住んでおられるのですか?」
 リーチが言うと遥佳は目を丸くした。
「はい、この先のマンションに……。昼間名刺をお渡したはずですが……」
 遥佳はくすくすと笑った。言われてみると遥佳が指し示す先にはかなり立派なマンションがそびえ立っていた。それらは昼間もらった名刺に書かれていた場所だ。
「そうでした。済みません。立派なところに住まれているんですね」
 感心したようにリーチは言った。
「いえ、そんな、大したことありません。じゃ、私は……」
 遥佳はにっこりと笑みを浮かべて、自分のマンションへと歩いて行った。
「なぁ隠岐、彼女か?」
 窓から顔を出した篠原が興味津々の表情で聞いてきた。
「違いますよ。大学の同級生の親戚です」
 慌ててリーチは適当にそう誤魔化す。
「ホントか?」
 篠原は疑うような目をこちらに向けてくる。
「もちろんです。私には既におつきあいしている方がおります」
 きっぱりとリーチは言った。
「ってさ、お前いつもそう言うくせに、写真とか見せてくれたこと無いじゃないか。だから俺はその台詞を嘘だって思ってるんだぜ」
 鼻をふんと鳴らして篠原は言う。
「はぁ……でも見て貰えるほどのものではありませんし……」
 どちらにしても、男性の写真を篠原に「これが恋人です」と、いって見せびらかすことなどとても出来ない。
「まあ、いっか……で、さっきの人はお前にとって何でも無いんだよな」
 なにやら篠原は期待に満ちた目をこちらに向けた。
「ええ、で、それがどうしたのですか?」
 気持ち悪いなあと思いながらリーチは聞く。
「いや、な……何でもないよ」
 そう言って篠原は窓から出していた首を車内へ戻した。
 は~ん、とリーチ心の中で声を発したが、とりあえず買い出しへと向かうことにした。
『あれが遥佳さん?でもリーチ、本当に春菜さんにうり二つで僕、幽霊が出たのだと思ったよ』
 リーチが歩き出すと真面目な口調でトシは言った。心底驚いているようだ。
『俺もそう思ったよ』
 呟きとともにため息をついてリーチは言った。
『それにしても綺麗な人だよね。ちょっとどきどきした』
 えへへと笑いながらトシは照れている。
『似てるけどな……あれは春菜じゃない。あいつはもう死んだんだ』
『そうだよね、ごめんリーチ』
『……もうこの話は止めてくれ……』
 春菜の事はトシにも詳しく話したことがない。だからトシからですら春菜の話題は出されたくなかった。

 リーチは近くのコンビニで、サンドイッチとおにぎり、缶コーヒーを二人分買うと篠原の待つ車へと戻った。
「悪いなー隠岐」
 既にコンビニのビニール袋を開けながら篠原は言った。
「次は篠原さんですよ」
 リーチはそう言いながら缶コーヒーを開けた。
「げぇっ、これお前食えよ」
 篠原はそう言って果物の入ったサンドイッチを掴み、気持ち悪そうな顔をした。
「なんだか甘いものが食べたくて」
 照れた笑いを作りながらリーチは言った。
「お前って辛いものも甘いものも好きって、両極端だな」
「良いじゃないですか……」
 そのとき遥佳が車を覗き込んできた。
「……」
 リーチは先ほどから遥佳が歩いてきている事に気がついていたが、こちらに来るとは思わなかった。
「あの……済みません」
 余りうろうろされたくないのだが、無下に断ることも出来ずにリーチは窓を開けて「どうしました?」と聞いた。すると遥佳は持ってきたポットとバスケットを差し出してきた。
「差し出がましいとは思ったのですが……良かったらこれを食べて下さい。お仕事ご苦労様です」
 早口で遥佳は言い、リーチの呼び止める隙もなく、元来た道を走って行った。
「どうしましょう……」
 リーチは困ったように篠原に言った。だが当の篠原はぼんやりと遥佳の後ろ姿を追いかけていた。
 全く……
 わかりやすい人だ……
 などとリーチは考えながら渡されたバスケットを開けると唐揚げや、ポテト、卵焼きなどが入っており、一口サイズのおにぎりが二人では食べきれないほどひしめいていた。
「感激だなー……彼女が作ってくれたんだ」
 先ほどまで遥佳に見とれ、言葉が継げなかった篠原が我に返っていた。
「はぁ……こういうことは困るのですが……」
 リーチはそう言うしかなかった。
「堅いこと言うなって。それよりさ隠岐、あの子の事、何時から知ってるんだ?」
「え、はぁ……」
 まさか今日初めて知ったとはさすがにリーチも言えなかった。
「こういうことしてくれるって……赤の他人にはしないよな……」
 からかうような口調ではなく、じっとバスケットの中身を見ながら、いつもとは違う声で篠原が言った。
「だから……篠原さん。私はあの人とつき合っているわけでは無いんですよ。どちらかといえば赤の他人といっても良いくらいです。変に勘ぐるのは止めて下さい。遥佳さんも困ると思います。きっと本当に優しい気持ちで持ってきてくれたのだと思うのですが……」
「本当か?」
 何となく意味ありげな目つきで篠原がこちらを見る。
『ね、リーチ……篠原さん滅茶苦茶真剣な目つきだよ、もしかして一目惚れとか……』
 といってトシは笑った。
『お前……笑い事じゃないみたいだぜ……』
 リーチは笑えなかった。
『え、まさか?』
「篠原さん。何度も言いますが、私には大切な人がちゃんといるんです」
 困ったようにリーチは言った。
「ふーん……俺も食べていいんだよな」
「いいんじゃないですか?そのつもりで遥佳さんも持ってきて下さったのだろうし」
「だよな……」
 納得したのかどうか分からない曖昧な返事で篠原はバスケットの中に入っていたおにぎりを一つ口に入れた。
「うわっ……すごく美味いよこれ!その上、中にたらこが入ってる」
 嬉々とした篠原を横目にリーチも卵焼きを口に入れた。その味は、気味が悪いと思えるほど昔、春菜が作ってくれた卵焼きの味にそっくりであったため、リーチは吐き出しそうになったがなんとか堪えて飲み込んだ。
「な、あの春菜って人は料理が美味いな」
 嬉しそうに言う篠原と反対にリーチは青ざめていた。
「なんだ、気分でも悪いのか?」
「え、いえ。喉に詰まりそうになって……」
「そんなに慌てて食わなくても良いじゃないか」
 何も知らない篠原は笑う。
 しかしリーチは二度とそのバスケットの中身に手を出すことは無かった。そんなリーチを見た篠原はお腹でも痛いと思ってくれたのか、食べない理由を質問して来なかった。
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