Angel Sugar

「春酔い」 第13章

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「結城さん。駄目でしょう。名執先生は何も貴方に指示出していないとおっしゃっているわよ。帰りなさい」
 田村は困ったように言った。だが、今、気になったのは名執のことで、彼があんな風に怒鳴るような声で指示を出したことは今までなかったから、どことなく心に引っかかりを覚えていた。
「私……隠岐さんの側にいないと駄目なんです……」
 遥佳は必死の形相でそう言う。その姿に田村は何故か背に冷たいものが走るのを感じた。
「貴方はまだ研修生なのよ。それに隠岐さんの担当をされている名執先生の許可は下りていないでしょう。駄目なものは駄目なの」
「田村さんも私の邪魔をするんですか?」
 遥佳はどこからともなくナイフを取り出し田村の方に向けた。

 名執がICUに入ると入り口に田村が座り込んでいて、よく見ると脇腹から出血させていた。顔色はどちらかといえば青いのではなく、うっすらと赤い。
「田村さん!」
 驚いた名執は田村の身体を起こしたがその手を払われた。
「先生……結城さんが……私は大丈夫ですから……早く……止めて……下さい……」
 田村は痛みで目がうっすらと涙ぐんでいる。
 その田村に言われるまま名執が硝子向こうを見ると、遥佳が右手に血糊のついたナイフを持って利一のベッドに近づいていた。
 名執は田村を置いて再度駆け出す。
「結城さん!止めなさい!貴方は自分が何をしているのか分かっているのですか?」
 怒鳴るような声にも遥佳は反応を示さない。視線はまっすぐベッドに横たわる利一の方に向けられたままだ。
「うわっ……!一体……遥佳さん!」
 外で待つように言っておいたにも関わらず、騒がしくなったICUに篠原も入ってきたようだ。篠原はまず田村を見て驚き、次に刃物を持っている遥佳を見た。
「なっ……」
「隠岐さん……苦しんでるから……楽にしてあげたいの……でも一人で逝かせないわ。私も一緒に……それが運命なの……」
 利一の身体についていた点滴の針を遥佳は引き剥がした。だが脳しんとうを起こしている利一は目を覚ますことはない。
「止めろ!遥佳さん!」
「止めなさい!隠岐さんは苦しんでなどいません。今は眠っているだけです。何を勘違いしているのですかっ!」
 名執は蒼白な顔になりながら言った。近づきたいのだが、ナイフを利一に向けているためにそれが出来ない。下手に近づくと遥佳が何をするか予想が付かないので数メートルの距離を取ったままそれを縮めることができないでいた。
「みんな……私の邪魔ばかりする……苛々するわ……」
 右手に持った刃物をじっと見ながら遥佳は言う。愛らしかったはずの瞳には紛れもない狂気が宿っていた。それは虚ろで現実を映していない。
「結城さん。貴方は患者を助けるために看護婦になろうとしたのでしょう?その貴方が今、何をしているのか分かりますか?命を奪おうとしてるのですよ」
 必死に名執は説得しようとしたが、遥佳は全く聞いていない。真後ろにいる篠原も利一に突きつけている刃物の為に動きようが無いようだ。
「隠岐さん……私だけのものよ……」
 そう言って遥佳がナイフを両手でもって高く振り上げた。
「止めてーーーーっ!」
 名執は思わず走り出したが、床に散乱しているトレーに引っかかりその場に横転した。
「やめろーーーっ!」
 篠原が叫んだ。
 と、そのとき、仕切の硝子がものすごい勢いで砕け、同時に明かりが全て消えた。
「な……何が一体……」
 身体に飛んできた破片を払いながら名執は立とうとしたが、自分を拘束しているものなどないのに動けない。
「リーチ……トシさん……。身体が……動かない……どうして……」
「な……名執……先生……あれ……」
 後ろから篠原の声が聞こえ、それに導かれるまま顔を上げる。そうして篠原が言ったあれを確認した名執は目が見開いたまま言葉を失った。
 暗いICUの部屋はその人物の光で浮かび上がっていた。淡い光は明るくも暗くもなく、辺りをぼんやりと浮かび上がらせる。人をかたどった光は利一のベッドに移動し、そこで初めてくっきりとした女性の形になると、白い手を利一の額に愛おしげにのばした。
 そのゆるやかに動く手が何度か利一の額を撫でると、女性はこちらをゆっくり振り返った。
「お……お姉さん……?」
 遥佳も今の衝撃で床に尻餅をついたのか、腰を床につけたまま春菜のほうを見上げた。
「あれが……春菜さん……?ですが……春菜さんは……」
 名執はその次の言葉を飲み込む。
 それを言ってしまうと消えてしまうのではないかと思ったから。
 春菜は確かに遥佳に似ていたが、雰囲気が全く違う。腰まである黒髪、細身の身体を包む白いワンピース、その裾から伸びるすらりとした足は蛍のように薄ぼんやりと光を発しているのだ。小さな顔に不似合いな大きな二つの瞳。目鼻立ちはすっきりとしていて、薄い唇はほのかにピンク色。
 いくら遥佳が似ているとはいえ、春菜には足下にも及ばない。それほど美しい女性だった。
 何故今ここに春菜がいるのだろう?名執はそう考えてハッと気付いた。
 利一を迎えに来た?
 まさか……
 ナイフは刺さってしまったのか?
 だから春菜がやってきた。
 二人を迎えに来たのだ。
 そのぞっとするような強迫観念にとらわれた名執は思わず口を開いた。
「春菜さん……お願いです。彼を……彼を連れていかないで下さい……お願いです……」 思わず涙目で名執は懇願するように言った。リーチとトシを失うことなど考えられない。医者として出来ることがあるならなんでもする。それで命が救えるなら。
「私の命を削っても構いません。彼に私の分を分けて下さい。それでも駄目なら私と引き替えに……」
 名執が更に言うと、春菜はやっとこちらを向いて、儚げなかんばせに緩やかな笑みを浮かべた。それは慈愛のこもった温かい笑みだ。名執は、未だかつてこんな笑みを浮かべる女性を見たことがない。それはまるで聖書に出てくる聖母のようだ。
「眠ってるだけよ……」
 くすくすと笑いながら春菜は言った。
「春菜……さん」
 名執は涙が落ちた。リーチがいつも自分たちを守ってくれる天使がいる。と、よく言っていたが、やはりそれは春菜の事だった。春菜がいたから彼らは今まで、どんな危険な事件でも無事に遂行出来たと言っても過言ではないのだろう。
 こちらを見ていた春菜の視線が、自分の前に座り込んでいる遥佳に向けられる。それは悲しい表情であった。
「可哀相な…妹……」
 今にも泣きそうな春菜だ。
「春菜……貴方は春菜……じゃ……私は……誰?誰なの?誰なの……」
 遥佳は恐怖に満ちた顔でそう言うと、尻餅をついたまま後ろに下がる。もう一人の自分を見つめて恐怖に駆られているのか、偽物だと証明されたことで怯えているのか名執には分からない。
「貴方は私の妹の遥佳よ。貴方は遥佳なの……」
 恐れおののく妹を前に、春菜はきっぱりとそう言った。
「私……私は春菜よ……お母さんの自慢の……春菜……隠岐さんの恋人の春菜よ……」
 自分の両手を頭に置き、左右に顔を振りながら遥佳は言い続ける。それは自分自身に言い聞かせているようだ。
「違うのよ……。現実を見なさい。貴方は遥佳。分かっているんでしょう?」
「違う……違う違う違う……貴方が偽物なのよ……違う……あ……あああ」
 遥佳は泣き崩れて、ただ違うと言い続けた。そんな遥佳に哀れみの瞳を向け、次に名執の方を向く。
「名執さん……妹は可哀相な子……許してあげて下さい……。もう、遥佳の心は修復出来ないくらい傷ついてる。でもそれは遥佳の所為じゃないんです。だから許してあげて下さい……」
 大きな二つの瞳が涙で確かに滲んでいた。
「私は……彼が無事なら……何も言うことも誰かを責めることも致しません」
「良かった……。彼のことなら大丈夫……」
 春菜はベッドに横たわる利一をチラリと見つめた。どことなく寂しげであり、それでも温かい愛情が満ちあふれている。春菜は本当にリーチを愛していたのだろう。
「篠原さん……」
 事の成り行きに動転しながらも篠原は今の状況をつぶさに見ていたが、急に呼ばれたことで驚いたのか、声を出せずにただ頷いた。
「沢山……貴方も傷つけてしまいました。本当に申し訳ないと思っています。貴方と彼が心配している事は……今、この瞬間に消えました。ですので……許して下さい」
 篠原はなんのことか分からず、もう一度頷く。
「は……るな……」
 突然、蚊の泣くようなリーチの声が響いた。
「も……いい……」
 うっすらと開いた瞳であったが、しっかりと春菜を見つめていた。
「リーチ……終わったわ……」
 膝を付いて春菜はリーチの顔の横で言った。
「……め……んな」
「リーチ……」
 涙ぐんだ春菜の姿が次第に闇にとけ込んでいく。
「…………」
 完全に春菜の姿が闇にとけると、消えていた電灯が一斉についた。周囲がまだ声一つあげられない状況の中、利一は何事もなかったように眠っていた。



 ICUでの出来事は名執も篠原も説明できなかった。田村は気を失っていたので何も見ていなかったそうだ。
 遥佳は、完全に自我を崩壊させ退行をおこしており、すぐに病院に入院することとなった。もう二度と遥佳は病院から出られないだろう。それほど自己を崩壊させていた。だが、遥佳にとっては幸せなのかもしれない。
 遥佳は愛されたかったのだ。自分を愛して欲しかった。母親の愛情が自分に向けられなかったことが、一番の原因だ。その母親が亡くなったことで、愛情を求める対象を失った。それらの代償に隠岐利一という人間に今度は失ったものを求めた。
 利一が春菜に対し、大きな信頼と愛情を注いでいた事を知っていた遥佳は、春菜に成り代わることで自分も愛されるのだと考えたのだろう。だから遥佳は春菜になりたかった。
 そうすれば自分が愛されると思ったから。
 今、彼女は幼い自分に戻り、死ぬまで子供でいつづけるだろう。自分とは何か?誰なのか?そういうことでこれから先、悩むことは無い。無邪気でいつづける子供であることの方が彼女にとっても幸せなのかもしれない。
 篠原のことだが、遥佳が暴行されたと言って駆け込んだ病院で、ぼや騒ぎがあった。遥佳のカルテと、サンプルとして保管されていたものなどが焼けたらしい。人が亡くなったり、怪我をしたりすることはしなかったらしいが、カルテも半分以上、保管されていたものなどあわせるとかなりの被害であったと名執は聞いた。
 それらは春菜が姿を現した頃に起き、一時間程度で火は消えた。未だに火元の原因が分からないという。
 田村の怪我は出血が多かったにも関わらず、軽いもので、名執は一週間の休暇を与えたのだが、翌日には病院に来て、利一の看護に戻っていた。

「先生……俺……夢を見ていたみたいです。だからあの時のことは夢だったと思うことにしているんです。幽霊を見たなんて言っても誰も信じてくれないと思うし……。でも、あれが隠岐の愛した人だったんですね。あの人が隠岐を守っているんですね……」
 篠原はぽつりとそう言った。
「ええ……きっと……」
 名執は余り篠原のようにあの時のことを考えはしなかった。あの二人の間にある絆の深さを羨ましく思い、反面嫉妬してしまうから。
「で、先生……隠岐はどうですか?」
「まだ、意識が戻らないのです。一般の病室に移したのですが……」
 あの時一瞬だけリーチは意識を取り戻した。それ以来眠り続け、どちらも意識を戻さないのだ。たかが脳しんとうでここまで意識が回復しないことは無い。だから名執は心配になっていた。
「じゃ、俺……警視庁に戻ります。面会できるようになれば連絡お願いします」
「分かりました」
 篠原はにっこり笑うと病院を後にした。名執はそれを見送ってから利一の病室に向かった。戸口には面会謝絶の札がぶら下がっていて、扉を開けて中に入ると田村が気を利かせて窓を開けてくれたのか、柔らかな風が病室に流れ込んでいた。
 見下ろすと敷地に植えられた桜が満開になっている。いつの間にか季節は春を告げ、そして花が散ると共に暑い夏がやってくるのだろう。
 それでもまだ、頬に触れる風はひんやりとしたものだ。
 少し寒いだろうと、名執が窓を閉めようとしたとき、リーチの声がした。
「そのままで……良いから……」
「リーチ!」
 笑顔でこちらを向いてくれていると思ったが、リーチの視線はぼんやりと窓の外の景色に向かっていた。
「風……気持ちいいから……」
「分かりました」
 名執は半分閉めかけた窓をもう一度元に戻した。
「気分はどうですか?」
 名執はベッド脇にある椅子に座ってリーチに聞いた。だが、リーチは相変わらずこちらを見ずに窓の外ばかり眺めている。何か考え事をしているような、そんな雰囲気だ。
「うん……悪くないよ……」
「お腹は空いていませんか?ずっと点滴でしたので、夕方からは普通食をお持ちしますが、何か食べたものがありましたら用意します」
「いいよ……空いていないから」
 暫く沈黙が二人の間におりた。何故リーチはこんな風に話すのだろう。どうしてこちらを向いてくれないのか?名執にはその理由が分からなかった。
「そうだ……遥佳さんは……」
 今思い出したようにリーチは聞いてくる。本当は一番知りたかったのではなかったか。
「病院に……たぶん一生出てこられないでしょう」
「そう……か」
「リーチ……」
 そっとリーチの右手を名執は握った。すると、力強く握り返してくれる温かい指が絡まってくる。
「目が覚めて良かった……」
 死ぬような怪我でもなかったのに、名執は本心からそう言った。どんな手術を行ったときでも、患者の意識が覚めるまで安心できないのが名執の性分だ。普段でもそうであるのだからリーチのことならたとえ些細なことでも心配で仕方がない。
「……頭が死ぬほど痛いけどな……」
 含み笑いをしながらリーチは言った。
「撃たれた衝撃で脳しんとうを起こしたんですよ。多分今週はその頭痛に悩まされるでしょうね……」
「……脳しんとうって……情けねえな」
 ようやくこちらを向いてリーチは笑顔で言う。その笑顔に名執は胸が一杯になり、おもわず涙が溢れてしまった。
「おい、泣くなよ……」
「でも……リーチ……うっ……うう」
 泣くなと言われると名執は余計に涙が出る。何かピンと張りつめていたものが一気にゆるんだのだ。その何かは名執にも説明が出来なかった。ただ今は胸が一杯で泣きたくて仕方がない。
「うん……泣きたくもなるな……」
 又窓の外を見ながらリーチは言った。
「空……青いな……今日は雲が無い……。あのさ、ユキ……今時間良い?」
 涙が止まらなかったので首を縦に振ってリーチに返事をしたが、あちらが向こうを向いているのでそれが分かったかどうか。
「俺が春菜のことを話したくない理由の一つにさ……俺最後まできちんと話せる自信が無かったからなんだ。今でも思い出すのが辛いから……」
「その話は……いつでも……良いです……」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら名執は言った。
「うん、そうなんだけど……。春菜がお前には話して良いって言ったからさ……。ま、夢の中だったから本当に良いのかどうか分かんないけど……」
 名執を宥めるようにリーチはまだ繋いでいる手を上下に振って見せる。それはポフポフと毛布の上ではねた。
「……そうなんですか……」
 急に名執の胸を寂しさが支配した。自分と春菜を天秤に掛けると、どう考えても名執の方が分が悪いと思う。ただ春菜はもうこの世にいない。それだけが救いだと思う自分に自己嫌悪を感じる。何度こんな感情を持ってはいけないと自分に言い聞かせながらも、リーチを深く愛するが故に、春菜のことになると、自分でも信じられない感情をつい抱いてしまうのだ。
 初めて実物に会ったとき、何故か名執は負けたと心の底から感じた。だから余計に嫉妬してしまうのだろう。
「誤解してるんだよ……俺達のこと……お前も篠原も……な」
「誤解?」
「あいつと出会った時のことはもう話したと思うけど、あの頃の俺、本当に世の中を斜めに見てた。春菜のことなんかどっちかというと嫌いなタイプで……。あいつ苦労も知らない良いところのお嬢さんだと思ってた。トシはほのかな恋心を抱いてたみたいだけど、俺は嫌いだった。満たされていて、友達もいて、家族がいて……羨ましかった。俺なんかどれももてないものをあいつは持っていた。それが羨ましくて……。友人は利一としてはいたけど、今みたいにお前や幾浦はいなかった。世の中を拗ねて恨んで……馬鹿なことばっかりして……」
 そこまで言ってリーチは咳き込んだ。
「リーチ……苦しかったら……」
「大丈夫……だから聞いてくれよ。でないと俺もう二度と話さない。聞きたくないのならこれで終わるけど、いいのか?」
 名執は聞きたかった。
「いえ、聞かせて下さい」
「夜になったら、盛り場で喧嘩して、よく警察に捕まらなかったと思う……。逃げ足とかそういう勘はかなり昔から鋭かったから、ドジを踏むことはなかったよ。あの時捕まってたら、刑事にはなれなかっただろうな。そのときさ、ある……所で春菜によく似た女性がいたんだ。ま、俺が喧嘩しているのを見て、店から通りに下りてきたんだけど……俺……びっくりしてさ、大学ではなんにも知らない顔してたくせに、そういうところで働いてたからさ。向こうも驚いたみたいですぐに引っ込んだんだけど、次の日その事で俺、言わなきゃ良いのにからかってしまったんだ。そしたら春菜に思いっきり平手打ち食らわされて……。はは……当たり前なんだけど。何も私のことを知らないくせに貴方が勝手にこういう女と決めつけて、それとは違っていたらなんだというの!て、いって滅茶苦茶怒られたよ。外見だけ見て勝手に決めつけないで!ってさ。なんかそれで目から鱗だったんだ」
 リーチは空をずっと眺めながら話す。そんなリーチに名執はただ耳を傾けていた。
「それって俺とトシが感じていたことだったんだ。外見だけ……俺達は外見を偽って生きてた。辛いと思ってもどうにもならないことだったけど、外面だけ見て判断されるのって誰だって嫌な事なんだって、初めて知った。誰もが外と内を使い分けてる。俺達だけじゃないって。ただ俺達の場合は一つの身体に二人いるところが他の人と違うだけで、後はみんな同じだって思えるようになったんだ。それから春菜との付き合いが始まったんだ。自然と一緒にいる時間が増えていったよ……楽しかった……」
 思い出しているのか、暫くリーチは無言で空を眺めていた。
「あいつの……母親は春菜が小さい頃、他の男と不倫して出ていったらしい。最初の頃は父親の事業も上手く行ってたんだけど、春菜が大学に入る頃倒産寸前まで追いつめられて……春菜は父親に売られたんだ。それでもあいつはそれを受け入れてたよ。でも俺が許せなかったからやめさせた。トラブルにはならないように……岩倉の爺さんに手を回して貰ったんだ。暫くして父親が事故で亡くなって、春菜は親戚の人に引き取られることになった。やっとあいつも人並みに暮らせるんだなってホッとしたよ。それなのに……やっと人並みに暮らせるようになったのに……癌になるなんて……信じられなかった……」
 リーチは肩を小さく震わせていた。
「あいつの病気が分かる少し前にさ、俺達一泊の旅行に行ったんだ。そこで初めて俺はあいつを抱いた……でもそれが最初で最後だった……」
 名執は最初で最後の意味を測りかねていた。
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