Angel Sugar

「春酔い」 第15章

前頁タイトル次頁
 夕方、篠原が形ばかりの手みやげを持って警察病院を訪れると、受付で田村に出会い、利一のところに案内してくれることになった。
「名執先生は?」
 斜め前を歩く田村の方を見て篠原が聞く。
「先生は急患で、オペの最中ですよ」
 程良くふくよかな田村が笑った。その笑みは安心できるものだ。今の篠原はやや神経が立っている状態であったので、その田村の笑みが張りつめた気持を解してくれる。
「先生……大変なんですね……」
「この一週間、ほとんど家に帰っていらっしゃらないのですよ。隠岐さんの事もありましたから……」
 そう言えば、利一のことになると必ず名執が出てくる。よくよく考えると外科医は忙しい身なのだから、一患者に構っていられないのではないのか。それともどの患者に対しても名執はあのような献身ぶりを発揮するのだろうか。
「名執先生って患者さんにはいつもですか?」
「そうですね。でも隠岐さんは特別みたいですよ。先生もご両親も親戚もいらっしゃらないので隠岐さんとご自身が重なるんでしょう。ですから普通より気になるのかもしれません。ただ、同じだと言って先生は贔屓はされませんよ。隠岐さんの場合は院長先生から直に頼まれているのもあるようですね」
 利一には両親も親戚もいないことは篠原も知っていた。だが名執までそういう境遇だったとは初めて知った。医者も人間で、多少は自分と同じ立場の相手に普通より思い入れがあるのは当然かもしれない。
 それよりも気になったのは隠岐と院長と知り合いかもしれないと言うことだった。
「隠岐って、院長先生と知り合いだったんですか?」
「院長先生のご友人と隠岐さんがお知り合いのようですよ。私も詳しく知らないんですけど。まあ、こんな事はあんまり大きな声では言えませんが、隠岐さんって、なんていうか……放っておけないタイプに見えてしまうのは、もって生まれた性格なんでしょうね」
 クスクス笑いながら田村は言った。確かに利一は母性本能をくすぐりそうなタイプに篠原も見える。どことなく飄々として見え、かといってぼんやりしているわけでもない利一は警視庁の婦警立ちにも人気があった。
「俺も……そう思います」
 だが、利一は婦警とつき合っているわけではなさそうだ。
 篠原は昨晩、霊感など無いはずの自分がICUで見たものを思い出した。あれは幽霊か亡霊という類なのだろうか。
 しかし春菜は驚くほど神々しい光を発していて美しかった。あれが利一の愛した女性。亡くなってからも利一に想いを残しているのだ。だからあの場に出てきた。
 利一が何故あれほど悪運が強いのか篠原は不思議に思ってきたが、きっとあの女性が守っているのだと感じた。
 どんなときも彼女の魂は利一の側にいるのだ。
 羨ましい。
 なのに自分は……。
 篠原が顔を上げると、隠岐利一と書かれたプレートが差し込まれた病室の扉に面会謝絶の札がかけられているのが見えた。が、田村は「入って良いですよ」と言った。篠原がそっと入ってみると、利一は眠っているようだ。それでも昨日より顔色は良く、別に死ぬような怪我などしていないのに篠原はホッと胸をなでおろした。
「先ほどまで続けざまに、警視庁の方が来られていましたので疲れて眠ってしまったのかもしれませんね」
 田村が言った。
「どなたですか?」
「田原さんと里中さんですよ。そこのお花を持ってきて下さいました。それと昼間に幾浦さんが来られていましたし。少し疲れたのでしょう」
 利一のベッド横に置かれた移動式のテーブルには花瓶が置かれ花が生けられている。更にその横にはいくつも見舞い品らしき菓子箱が置かれていた。
「幾浦さんは隠岐の親友だから心配してたのでしょうね」
 刑事と医者。刑事とサラリーマン。何となく不思議な関係であるが、同じ職場の人間より、合うのかもしれない。そんなものだろう。
「心配しておられました」 
「篠原さん……」
 二人が話している声で利一は起きたようだった。
「あ、隠岐……その……大丈夫か?」
 突然声を掛けられた篠原は、それだけで動揺した。ここに来るまでに言い訳を様々考えてきていたのだが、結局自分が反省することばかりに繋がり、良い言葉など一言も思い浮かばなかった。
「ええ……大丈夫です」
 利一は怒っているだろうと考えていたが、予想を裏切るような笑顔を向けられて篠原は居たたまれない気持になった。
「あの……さ、その……」
 田村がいる所為で篠原は言葉が詰まる。それに気がついてくれたのか、田村は「ではごゆっくり」と言って出ていった。
「仕事は大変ですか?田原さんも田中さんもそのこと教えてくれないんです。こういう時は仕事のことを忘れろとかおっしゃって……。いまはテレビも見られませんし……。新聞も駄目で……。明日結果が出るので、それが終わってから退院を許可してくれるそうです。頭に衝撃を受けている所為で、検査結果がきちんと出ないと駄目みたいですね」
 苦笑の混じった笑いを表情に浮かべる利一は本当にいつも通りだ。篠原は誤魔化すように頭を掻きながらベッド脇にあった椅子を引き寄せるとそれに座り、持ってきた菓子折を花瓶の置かれた机に乗せる。するとカサリと包み紙が乾いた音を立てた。
「これ……見舞いな……。あんまりたいしたものじゃないけどさ……」
 視線を合わせ辛く、篠原は病室のあちこちに目線を彷徨わせながら言う。ただただ、申し訳ないという気持しか今はない。だがそれを上手く言葉に出来そうになかった。
「ありがとうございます」
「隠岐……その……」
 虚ろな視線が今度は床に向けられたまま固まった。
「篠原さん……もう終わったんです。私は別に怒ってませんよ」
「隠岐……俺は……」
 許してくれるのは分かっていた。利一はそういう性格だから。
 だがそれでは自分の気が済まない。
 勝手に誤解して、利一の事を全く聞き入れず、女におぼれたのは事実だ。それなのに利一は篠原の事をこれっぽっちも責めようとしない。その事が篠原が自分自身を許せない理由なのだ。
 まだ多少なりとも責められるのなら気持も落ち着ける。だが利一が誰かを責めることなど絶対にしないだろう。それに甘えようとしている自分が心の何処かにいるような気がして篠原は嫌だった。
「……もう俺と……コンビを組みたくないよな……。いや俺が一方的に嫌だって突っぱねたんだった……。子供みたいに無視したりしてさ。お前には人を見る目があるのが分かっていて、俺……お前のこと信じられなかったんだから……。俺が悪いんだ」
 篠原はどうしてもまともに利一の顔を見ることが出来ない。
「篠原さんが……私と一緒にいることで……嫌な事を思い出すのが辛いのでしたら……私は諦めますよ。だから篠原さんが他の人とコンビを組んでも私は構わないと思っています。転勤がもし叶うのであれば、私は何処にでも行きます。だから篠原さんは、もうその事で悩んじゃ駄目です。済んでしまった事をいくら思い出して後悔してもどうにもならないでしょう?」
 宥めるような利一の声が、自分を余計に惨めにするような気が篠原にはした。責めてくれたら楽になれるのに……そんな無理なことを考える。
「隠岐……俺は……」
 膝に置いた手がギュッと拳を作った。
「篠原さんには感謝しているんです」
「感謝?」
 驚くようなことを言われ、篠原はようやく利一の方を向くことが出来た。その利一はうっすらと笑みを浮かべている。信じられないことだ。
「春菜さんに会えましたから……。例えこの世の人では無いにしても、嬉しかった……」
 年齢に似合わないはにかんだような笑みだ。
「……綺麗な人だったな……。あれがお前の言っていた人か?」
 聞くと利一は頷いた。
「でも、あの時あったことは誰に話しても信じて貰えないでしょう……。だからみんなで同じ夢をみたことにしましょう」
「そうだな……夢だったんだ……うん」
 ちょっと表情を和らげて篠原は言った。
「ね、篠原さん……。もし、篠原さんが少しだけ悪いと思ってらっしゃるのなら、一つだけ私のお願い聞いて貰えます?」
「少しじゃなくて全部悪いと思ってるだけどな……。いいよ。何でもしてやるよ。俺、お前がそう言ってくれないとやりきれなかったしさ」
 利一が誰かを悪いと、例え相手が悪かったとしても口に出して言うことなど無かったので、それには意外に思った。
「多分……篠原さんが一番いやがることだと思うのですけど……いいですか?」
 もしかして俺に転勤してくれと言いたいのかもしれない。だが篠原はそれでも良かった。自分の中にある良心を納得させることができる。
「言えよ。何でも言ってくれ。お前が望むことをしてやるよ」
「本当ですか?後でそれは出来ないと言っても無駄ですから……」
 確認するように利一は言う。一体何を言いたいのだろうか。
「良いって言えよ」
 篠原がそう言うと、利一は窓の外を向き、暫くしてからこちらを向いた。
「篠原さんは嫌だと思うんですけど……私が復帰したら又、私とコンビを組みませんか?」
「え?」
「断らないで下さいよ……」
「……で、でもな、隠岐……俺は……」
 本心はもちろん利一とこれからもコンビを組みたいと思っていた篠原だったので、その提案は心底嬉しかった。だがそれで本当に利一は納得できるのか。もし、篠原が利一であったら、同じようなことが言えるかどうか分からない。
「……断らないで下さい……何でも言えって篠原さん言ったじゃないですか……」
 利一は困惑したような表情になった。
「……ま、お前がそうしたいって言うなら……俺は良いけど……さ……」
 何故、素直に嬉しいと言えないのだろうか?
 篠原は自分の馬鹿さかげんに腹を立てた。
「じゃ、篠原さん。これからも宜しくお願いしますね」
 にっこり笑って利一は言った。
「あ、ああ。うん。その……ありがとう……隠岐……」
 精一杯感謝を込めて篠原は言った。歯がゆいほど、気持ちの現れていないが、利一なら分かってくれるだろう。
「ホッとしました……」
 と言った表情が篠原には妙に熱っぽく見えた。
「お前……熱でもあるんじゃないか?」
「え、あ、そう言えば……今日はちょっと疲れました」
 田村からの話では確か、本日利一はは何人も面会をしているようであった。もちろん名執が面会を許可したのだから大丈夫なのだろう。それでも篠原は心配であった。
「ごめんな。話すの辛かったんじゃないか?俺、先生に言っておくから、もうゆっくり寝た方がいい」
「そうですね。じゃ、今日はありがとうございました」
「又来るよ」 
 そう言って篠原は病室を出て、看護婦に利一のことを告げて病院を後にした。



「発熱は予想していましたからそれほど心配しなくても良いですよ。銃弾を受けたときに床に叩き付けらた貴方の身体の筋肉が、あちこち痛んで熱を出しているんです。以前同じようなことがありましたね?あれと同じですよ。心配しないで今日はゆっくり眠れば明日にはすっきりしています」
 名執はそう言ってリーチに注射を二本打った。
「怠い……」
 酷い筋肉痛が身体を覆っているような気分だ。しかも頭痛がそれに拍車を掛けている。
「怠いより痛いのではないですか?」
「痛怠い……」
 リーチが言うと名執は小さく笑った。
「鎮静剤も打ってますのですぐに眠くなりますよ」
 名執はリーチの身体を覆う毛布を整えて、最後のぽんぽんと叩く。それが何故か身体に心地よく感じた。
「ユキ……」
「なんですか?」
 リーチを覗き込むように名執は聞く。瞳は透明感のある薄い茶色で、いつも濡れているような輝きを持っていた。極上の宝石。リーチは見るたびにそう思う。
「手……握って」
「良いですよ」
 名執はリーチの手をそっと自分の手に包み込んだ。それは細く長い指で、一見すると頼りなく思える。だが命を救うこの指は、リーチにとって安心できるものであった。
「お前は……病気になんかなるなよ……」
「大丈夫ですよ」
 患者を安心させる笑みを浮かべる名執は、ここで毛布に連れ込みたい衝動にリーチを駆り立てる。当然出来ないが、心に思い浮かべるくらいは良いだろう。
「お前を失ったら……俺は駄目になる……」
 春菜を失ったときには思い浮かばなかった言葉。名執に出会ったことで、初めてこんな不安がこの世にあることをリーチは知った。
「私も……貴方を失ったら……生きていけないでしょうね」
 冗談だと思っているのか、名執はくすくす笑いながら言った。
「そうだ……篠原と仲直りできたよ」
 この話題をこれ以上続けたくは無かったリーチは、篠原のことを口にした。
「良かったですね」
「うん……良かったよ……」
 本心だった。
「早くて退院は明日のお昼ですね。たまにはゆっくり眠って下さい。そうそう、明日は私が自宅までお送りしますね。昼からは非番なんです」
「ふうん。えへへ……お昼からね……」
 嬉しそうな顔でリーチは言った。
「はいはい、おしゃべりはそのくらいにして医者の言うことを聞きましょう」
「お休み……ユキ……」
「お休みなさい……リーチ……」
 リーチが眠ったのを確認してからも暫く名執が手を握っていたことをリーチは知るよしもなかった。

 翌日、検査結果は当然のごとく良好で、リーチはすぐに退院できることになった。退院の手続きを取り、リーチは待合室を通り抜けようとすると田村に呼び止められた。
「隠岐さん。退院ですか?」
「ええ、ようやくですよ。色々ご面倒を掛けて……。それより田村さんはもう大丈夫なのですか?」
 田村は遥佳に刺されたはずだ。だがそんなことがあったと思わせない田村の笑顔にリーチは聞いた。
「私は大丈夫です。母は強いんです」
 ふふっと意味ありげに田村は笑う。
「もしかすると私より快復力があるのかもしれないですね……」
 リーチは苦笑するしかなかった。
「私は、隠岐さんより身体を大事にしていますからね」
「あははは……」
「まあ、笑うなんて……。まだまだ若い人には負けないわよ」
 田村は腰に手を当てて、胸を張る。もし母親がいたら、田村のような母親であって欲しいといつもリーチは考えるのは、きっと穏やかな気質と、母親である強さを持っているからだろう。
「田村さんには負けますね。あ、そろそろ行きます」
 時計は名執との約束時間を既に指していた。
「あまりここでは会わないようにしてくださいね」
 困ったような田村の声を後ろに聞いて、リーチは病院の玄関を出た。すると、ロータリーになっている左側に名執の車を見つけて、そこに向かって走った。
「ごめん、入り口で田村さんに会ってさ。ちょっと遅くなった」
 助手席に座り、リーチは名執に言う。すると、名執はうっすらと口元に笑みを浮かべて、車をゆっくりと発進させた。
 明けた窓から、春らしい風が入ってくる。寒くも暑くもない。そして芽吹く草木の匂いが混じっていた。
 春か……
 景色に時折混じる桜の木は枝一杯に花を付けている。薄ピンク色の花弁は風に揺られてチラチラと空中を舞っていた。
 春なんだ……な。
 今知ったようにリーチは心の中で呟いた。
「リーチ……堤防の桜の花見に行きませんか?」
 突然、名執は言った。
「え?」
「もう数日すれば花は落ちてしまうでしょう。今日辺りが一番見頃だと思います」
 名執の提案にリーチは頷かなかった。桜が満開だと言うことはあちこちに、その木の下で花見をしている浮かれた人間が沢山いるに違いない。そんなところにリーチは向かいたくは無かった。
「いや……」
 窓の外を眺めながらリーチは言った。
「リーチ?」
「花見はしたいけど、そこで浮かれた連中を同時に見るのが嫌なんだ」
 静かに楽しみたいのだ。今までもそうであったが、何処の桜もリーチのそんな気持ちをかなえてくれる場所は無い。だから今まで桜を見ることはあっても、近寄って木の下でいろんな思い出に静かに浸ることは出来なかった。
「うちの近所の公園に、桜の木がいくつか生えてるんです。そこならどうですか?こちらに来る途中見た限りでは誰もそこで宴会はしていませんでした」
 名執のマンションの近くに桜の花が咲いていただろうか?リーチは思い出せなかったが、折角名執が気を使って言ってくれるのだから、行ってみても良いだろう。
「いいよ。そこに行こうか……」
 だが車は既にそちらに向けて走り出していた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP