「春酔い」 第9章
『まずいっ!お前、タクシーの運ちゃんの見えるところまでバックしろ!』
リーチはバックからトシに叫んだ。
『え、えええ?』
だが突然のことに動揺しているトシはすぐに行動に移せない。
『なんでも良いから誰かに目撃されていた方が良い。後で何言われるか分かんないぞ。うら、さっさとバックしろよ』
だが関わりたくないと思っているのか、リーチはトシに交替しようとは言ってくれなかった。
『う、うん』
トシは後ずさりしながら、コーポの階段の手すりまで戻った。遥佳の方はそんなトシにゆっくりと近づいてくる。
「運転手さーん!ちょっと時間が掛かりますけどそこで待っていて下さいね!」
そう叫ぶと下にいるタクシーの運転手は窓からこちらをちらりと見て、次に手を振って応えてくれた。これで大丈夫だろう。
「隠岐さんは……篠原さんの言うとおり……頭の良い方だわ……」
言って笑う遥佳は不気味だ。
「あの、なんの御用でしょうか?」
恐る恐るトシはそう聞いた。
「私……何でもするつもりなんです」
ゆるゆるとした動きで、遥佳は通路にある手すりにもたれかかり、またこちらを見る。
『り……リーチ……交替してよ。僕、怖いよ……』
おろおろとトシが言うと、
『この女、ぶん殴りたいんだけど……いいのか?』
その口調は本気だ。
こういう場合、トシはリーチを止められない。しかもよかれと思って下で待たせているタクシーの運転手に声を掛けたのだから、見られている場所でリーチを暴走させるわけにはいかないのだ。
「……」
「昔は私のこと愛してくれたのに……どうして?」
悲しげに目を細める遥佳は、何処かがおかしい。
「私は一度たりとも貴方を愛したことなどありません」
そう言いながらトシは確認の為にもう一度タクシーの方を見ると、運転手は見ない振りをしながらチラチラとこちらを伺っていた。
『リーチ駄目だよ。僕こういうのさばけない!殴らないって約束するなら交替して欲しいんだよっ!』
もうここで尻尾を巻いて逃げ出したくなるような気分にトシはなっていたのだ。
『殴らねえよ。代われ』
トシとリーチは交替した。
「私は春菜よ……貴方は一生私を守ってくれると約束したわ」
何処をどう思いこむとこんな台詞が出てくるのだろうか?リーチには理解が出来ない。
「貴方は病気だ……」
静かに言ったが、遥佳は無視をする。聞いているようでこちらの言葉を無視しているのだ。
「私ね……篠原さんと寝たの……」
『ね……寝たって……寝たぁ?』
奇妙な声をトシは上げた。
『セックスしたって事だろう?』
何を今更という風にリーチはトシに言う。
「……」
「でもその後すぐに病院に行ったわ……身体に土を付け、服を切り裂いてね……」
薄く笑う遥佳は、心の何かを壊したような気配がする。名執の言うように精神に問題があるのだろうか。
「何を企んでいるんですか?」
「お医者様には自分が誰に暴行されたか覚えていないと言ったの。でも精液のサンプルと暴行された証拠の写真をいくつか撮っていただいたわ……私が思いだしたと言って篠原さんを刑務所に送ることだって出来るの」
次ににっこりと笑みを浮かべた遥佳は、いつもの清楚な顔をしていた。
「貴方は……狂ってる……」
冷や汗が出そうなその笑みはリーチであっても背筋を寒くさせるのだ。こんな女性は出会ったことが無いからだろう。
「貴方が私のことを昔のように愛してくれると約束してくれるなら……。昔約束したように一緒になってくれるのなら……その事は忘れるわ……」
くすくすと声を上げて、まるで世間話のように遥佳はごく普通に言葉をはき出す。
「そんな約束を遥佳さんとした覚えはありません。私は春菜さんと約束したのです。貴方ではありませんよ。何を勘違いされているのですか……」
「私は春菜よ……」
そう言って笑った遥佳の笑みが心底二人をぞっとさせた。
「帰って下さい……」
冷や汗をかきながらリーチは言った。
「隠岐さん……篠原さんがどうなってもいいの?貴方の大切なお友達でしょう」
首をやや傾げ、どうなさるの?という表情で遥佳は言う。
「もう一度言います……帰って下さい」
怒りを押し殺しながらリーチはようやくそう言った。
「分かりました。暫く考えたいのですね。帰ります……」
そう言って遥佳はリーチの横を何事もなくすっと通り抜けた。
「遥佳さん……篠原は貴方のことを本当に愛しているのですよ……それなのに……」
階段を下りていく遥佳に向かってリーチは言う。少しでも篠原のことを考えて欲しいとここまで来ても尚思ったからだ。
「私にとって大切なのは隠岐さんだけなの……分かっていらっしゃるはずよ……」
ちらりとこちらを振り返って遥佳は言った。
「篠原さんをどうするつもりですか?」
「それは隠岐さん次第……」
遥佳はそう言って帰っていった。ようやく遥佳が見えなくなるとリーチは額に浮いた汗を拭った。
『リーチ……』
心配そうにトシは聞く。
『聞くな。今はまだ何も考えられないぜ』
『う、うん……』
とりあえずリーチは自分たちの部屋に入ると真っ先に冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を取り出して飲んだ。
「……篠原の奴……引っかかりやがって……どうしろってんだ」
ドンとペットボトルを机に置き、リーチは吐き捨てるように言った。
『篠原さんに言って信じて貰えるかな……』
「信じる訳無いだろ。暴行したって未だに思ってるんだぜ」
絶望的にリーチは言った。
『これってさ、結婚迫られてるの?』
おずおずとトシが言った。
「しらねえよ……結婚って言うより……つきあえって迫ってんだろ。トシ、飛躍しすぎ」
こんな状況でも思わずリーチは笑いそうになる。だがトシは真剣なのだろう。
『あ、そ……そうか。はは。なんか……女の人があんなふうに迫ってくるのって経験ないから……そうなのかなって……。そっか……つき合って欲しいって事かあ……。それでつき合わないなら、篠原さんを社会的に葬るって言ってるんだよね』
「分かり切ったこと言うなよ」
深くため息をつきながらリーチは椅子に座った。
『どうする?』
「どうするって……じゃあお前、あんな気味の悪い女とつきあえるのか?」
思い出しても気持ちが悪いのだ。
『出来ないよ。やだよ。理由はどうあれ、恭眞を裏切ることになるんだよ……』
ブチブチとトシは言った。
「俺だってユキを裏切る事なんて出来ない……。でも……そうなると、篠原のことはどうするんだよ」
もう一度ボトルの水を飲み、リーチは息を吐く。
『僕に聞かないでよ……どっちも出来ないよ』
「そうだな……俺もどっちも出来ない」
二人は沈黙してしまった。
「幾浦の所に行くんだろ?交替したら俺、スリープするよ」
『えっ……ちょ、ちょっと待ってよ』
リーチはトシの呼びかけを無視してトシに主導権を譲るとスリープしてしまった。
考えても今は良い案など出てこない。そう思ったトシは着替えを鞄に詰め、幾浦の元へ向かうことにした。
タクシーに乗っている間、いい方法が無いかどうかをトシはずっと考えていたが何も思い浮かばなかった。
その晩、トシは妙であった。何処か心ここにあらずであり、ぼんやりとしていた。何か考え事をしているのは分かるのだが、それが何かは分からなかった。今もめている事で考え込んでいるのだろうか?
「トシ……どうした?何かあったのか?」
トシは幾浦のうちにくるとまずリビングにあるソファーに座って、アルを暫く撫でるのだが、時折アルの背中から離れて違うところを撫でているのだ。本人はそのことに気が付いていないようだ。
「え、あ、ううん……何も無いよ」
そう言ってはいるが、トシの目線は何処か遠くを見ている。幾浦が変だと思っていると急にトシはとんでもないことを言いだした。
「僕たちが、隠岐利一として誰かと、どうにもならない理由である女性とつき合ったら、恭眞はどうする?」
「はぁ?お前は何を言ってるんだ」
「真面目に答えてよ……」
トシの目は笑っていなかった。
「どうして急にそんなことを聞くんだ?」
「答えを聞かせて……」
幾浦の質問にトシは答えてくれそうに無い。
「世間体の為か?」
そう言うとトシは首を横に振った。
「理由は聞かないで、恭眞の答えが聞きたいんだ」
相変わらずじっとこちらを見つめてくるトシはせっぱ詰まった様子だ。
「そうだな……まず許せないな」
「……」
「絶対許さないぞ」
からかうようにそう言ったが、トシは真っ青な顔をしていた。
「トシ……まさか本気で女とつき合うつもりなのか?」
どうもただ事ではない雰囲気が、幾浦を不安にさせる。とても冗談だろうといって笑い飛ばすことが出来ない。
「無い……けど……」
そこでようやく目線がこちらから離れ、アルの頭に向けられる。
「無いけどなんだ?見合いの話しでも持ってこられたのか?それが断れないことなのか?」
「何でも無いよ……今、言ったこと忘れて……」
「トシ……?」
幾浦はトシの背中に手を回して自分の方へ引き寄せた。そんな幾浦の行動にトシは逆らうことなく、腕の中でくつろいでいるのが分かった。
「恭眞……」
トシのぎゅっと力を込めた手が、背中から感じられた。
何かが変だ。
もしかしてこの間の話がまだ続いているのだろうか。もしかすると、その暴行されたと言っている女性が責任を取れと言っているのだろうか?
トシ達は何もしていないのに。
「お前達は北海道で例の女性を暴行した訳じゃないのだろう?なら、責任を取るとか取らないとか言うのは変な話しだろう」
「ううん。良いんだ恭眞……」
幾浦の胸に頬を寄せたままトシは言った。
「トシ?」
「僕は恭眞が好きなんだ……恭眞とずっとこうしているんだ……」
切実に聞こえる声が、幾浦を何故か酷く切なくさせる。こんなトシは滅多に無い。だからこそ余計に幾浦は不安になるのだろう。
「お前、やはり何かあったのだろう?どうした?私で良かったら力になるぞ」
「何でも無い……何でも無いんだ……気にしないで……」
トシはやっと顔を上げた。
「何でも無いといいながら、お前の様子は変だぞ。本当は随分悩んでいるではないのか?」
柔らかいトシの頬を指で撫でながら幾浦は聞いた。こればかりは聞かずにいられない。
「恭眞……僕を抱いて……」
言いながらトシは幾浦の首に手を回し、自ら唇を重ねてきた。
「おい、ト……」
言うより前にトシの舌は幾浦の舌と絡まった。こんな風にトシが自分から行動する事はまれだ。
「恭……眞……」
潤んだ様なトシの熱っぽい瞳が幾浦の理性を粉々にさせた。
「トシ……」
幾浦にきつく抱きしめられながら、トシは目を閉じた。
寝室まで幾浦によって運ばれたトシは、気遣うようにベッドに下ろしてくれる手に心が穏やかになった。
いつも幾浦はこうだ。
トシを傷つけないように、自分より大きな手で保護しようとしてくれる。それがトシには嬉しい。抱きしめられると温かい幾浦の体温が感じられ、それだけでトシは幸せなのだ。
そんな相手には自分は一生出会えないと諦めていたのはもう遠い昔だった。
今はこの抱擁に、癒され守られている事を自覚できる。
「恭眞……」
再度トシは幾浦に手を回してしがみついた。すると額に唇が添わされるのが分かる。やや湿った唇は額から頬にかけて移動し、そのままトシの唇に合わさった。
「……ん……」
何度もキスを繰り返す間だ、幾浦はトシの来ているものを器用に脱がしていく。もちろん、トシも口元を離さず幾浦の促す手にあわせて身体を捩らせ衣服を脱いだ。
すると室内の空気に触れた肩がひんやりとした感触を伝えてくるが、それがすぐに温かくなる事をトシは知っていた。
口元を離れた幾浦の唇は、首筋を這い、鎖骨に滑らされる。その浮いた骨の方向に向かって丁寧に愛撫されると、トシは小さく身を震わせた。
誰かを抱くことも、誰かに抱かれることも怖かったのはトシだ。セックスを何か汚れのあるものだという間違った思いが、昔、確かに自分の中にあった。潔癖であるからそう思いこんでいたのだろう。
そんな自分を変えてくれたのも幾浦だ。
もちろんまだまだ恥ずかしいことなのだが、嫌悪感は無くなった。一度、あることが原因で抱かれることに恐怖を感じた時期があったが、それは幾浦と抱き合うのが嫌だったのではなく、汚れたと思った自分に対し、嫌悪感を持っていただけだ。
「トシ……」
また幾浦の唇は首筋を上がり、頬に移動する。丹念に愛撫してくれる唇の感触がことのほか気持ちいい。
「……あっ……」
胸元に添えられた指のことに気が付いたのは、尖りを親指で軽く潰されたからだった。親指の腹で何度も潰されるとそこから快感が身体に放射状に伝わるような気分だ。
「気持ち良いだろう?」
「……ん……うん……あっ……」
ジクジクする刺激を断続的に繰り返されると、はき出す息に熱が籠もりだし、押さえているはずの声が、簡単に口から出るのが不思議だ。
幾浦の指は二つある胸の尖りを暫く弄んでいたが、次に腹に移動してそのまま茂みに滑り込んだ。
「……っ……や……」
嫌なわけなどこれっぽっちもないのに、まだ残る羞恥心がそんな言葉を口から出させる。もちろん、可愛い声でも上げられたら良いのだが、いつも出てくるのはこんな言葉ばかりだ。
「トシ……」
茂みにあるトシの二つ隠れているものを手の中に入れ、それらを重ね合わせるように揉まれると、自然にトシの両足が開くのだ。もうこれは自然な動きなのだと言うしか無いだろう。
「……っ……あっ……あ……」
うわずるような声を上げ、柔らかかった二つのモノがいつもより少しだけ堅くなるのがトシにも分かる。薄い膜に覆われているそれは幾浦の手によって、ぐりぐりと回されているのだろう。
「……あ……恭眞……」
ギュッと目を閉じると、快感によって浮かんできた涙がうっすらとにじむ。嫌ではなく、当然痛いわけでもない。抱き合うといつもこんな調子なのだ。
「こっちも触って良いな?」
ふるふると震えているような柔らかいトシのモノを今度は手の中に入れ。扱き上げるように上に引っ張られた。すると小さな痛みと、それを上回る快感が身体を突然走った。
「……あっ……そこ……」
あごを仰け反らせて、トシは呻くように言った。もちろん幾浦の手が離れることはない。ただ、小さく笑って、まだ力のこもらない部分を擦りあげては硬くしようとしているのだろう。
「ぬるぬるしてきたな……」
その一言でトシは顔が真っ赤になった。自分の欲望が表に出ている時が一番恥ずかしいのだ。それを現す己のモノを凝視することなど出来ない程だった。
「……言わないでよ……」
閉じた目を開けて、幾浦の方をじっと見ながらトシは言った。だが頬を赤くしているトシの言葉には説得力など無いはずだ。分かっていても言ってしまう。
「気持ちいいんだろう……?」
嬉しそうに幾浦は言って、益々トシのモノを上下に擦る。柔らかいモノが硬くなっていくのがトシにも感じられ、同じくしてブルブルと両足が震えるのも分かった。
「……恭眞……」
恥ずかしくて堪らない。
いつまで経っても馴れないのだ。
少しは成長したのだと自分では思うが、やはり肝心な所にくると、むくむくと羞恥心が身体を覆う。もっとこんな風にしてみたいという希望はあるが、今の自分を見る限り無理なような気もする。
愛されたい……
いつもトシはそう思っている。
幾浦に愛されて、いつまでもこうしていたいとトシは願っていた。
終わりを想像することは止めた。つきあい始めたときは、いつ別れを告げられるだろうと怯えていたが、今はもうそこまでの不安な気持ちはない。
愛されているのが分かるから。
気を配ってくれているのが分かる。
心配してくれているのを知っている。
それが自分だけに向けられていることをトシは身体全身で感じているのだ。だから幾浦を大事にしたいといつも考えている。大事にしてもらっている分をそのまま返したいと願っているほどだ。
「あ……っ……」
閉じている部分に指を突き立てられてトシは驚いたように声が出た。
「何か……考えてるのか?」
いつもと違うことに幾浦は敏感に気が付いたのだろうか?
「ううん……。僕の心の中は恭眞のことで一杯だよ……ひっ……」
そうトシが言うと、襞の周りでそろそろと動いていた指が、中に入ってきた。まだ入り口付近で動く指は一気に奥まで入り込んでくる様子はない。
傷つかぬよう、ゆっくり慣らしてくれているのだ。もちろん、早急に入れられてもトシがついていけないのを幾浦は知っているからだろう。
「……あっ……ああ……」
吐く息が益々熱く感じられる。体温も上昇している。肌に浮いた汗がそれを証明していた。
今は何も考えたくない……
遥佳の恐ろしさは、トシには全くはじめてのことだった。女性は儚くて優しいという幻想を何処かで抱いていたからかもしれない。
多分、春菜があまりにも優しく、とても気を遣う女性であったからそう思い込んでいた理由なのかもしれない。
春菜のイメージがそのまま、どの女性にも適用されてきたのだろう。
リーチはどうするんだろう……
答えはどうさがしても見つからなかった。
こんな事は忘れたい。
幾浦と抱き合っている間だけでも忘れたいとトシは切実に願った。
「恭眞……も……入れて……よ……」
トシが小さな声でそう言うと、幾浦がごくりと喉を鳴らした。