「春酔い」 第12章
「名執……私だけ蚊帳の外か?」
吐き捨てるように幾浦は言い、名執の方を睨み付ける。その口調は冷静であったが、幾浦は完全に頭に来ているのが分かった。
「申し訳ありません……。実は……」
名執は幾浦に自分が知っていることは全て話した。それらが全て済むと、幾浦は怒鳴った。
「どういうことなんだ。私は何も聞いていないぞ!」
机を叩かんばかりの勢いだ。
「落ち着いて下さい幾浦さん」
「その女、何処にいるんだ」
「会ってもどうにもならないでしょう。幾浦さん。お願いですから落ち着いて下さい」
本気で怒ると幾浦も手が付けられない。特に利一が怪我を負うとこんな風に幾浦は怒りを露わにする。当然と言えば当然だが、周りが怒りで平静を失うと、余計事はややこしくなるのだ。
「落ち付けだと?ああ、お前はいい、リーチからちゃんと聞いていたのだからな。だが私はどうだ、何も聞かされていなかったんだぞ」
トシの性格からすると、とてもこの話を幾浦には話せなかっただろう。
「ですが……篠原さんの件は……私も知らなかったのです……。リーチもトシさんも言うつもりが無かったのでしょう……」
「全く信じようとしない篠原という男を庇う必要などないだろう。そんな奴の名誉のためにあいつらは振り回されているのか?」
幾浦は怒りの矛を収めようとしない。自分が知らなかったことでショックを受けているのだ。
「幾浦さん……彼らは……どちらも性格は違いますが……人を思いやる気持ちも誰よりも強いことを私たちは知っています。だからこそ……私たちはそれぞれ隠岐という人間を愛したのでは無いのですか?」
幾浦はそれを聞くと急に黙り込んでしまった。
「……一つお願いがあります。こんな時に……ですが、結城さんが昔、何故精神病院に入院していたか調べたいのです。ですが私には知識が無いのでそれが出来ません。幾浦さんにお願いしてもよろしいでしょうか?」
幾浦の逸らされた顔を窺うように名執は聞いた。
「それはお前の範疇だろう」
目線だけがこちらに向けられる。その瞳にはもう怒りは無い。
「いえ……医者の守秘義務はすべてに渡って有効です。ですので医者同士だからといって開示して貰えるものでは無いのです。それで……違法ですが……」
言いにくそうな名執の後を受けて幾浦は言った。
「ハッキング……か……」
「ええ。この病院です」
名執は病院名と電話番号を書いたメモを渡す。すると幾浦はそれを当然のようにポケットに入れた。
「分かった……朝までに何とかしよう。それにオペはまだかかりそうだしな……今は気を紛らわせたい……」
それは名執も同じであった。
「お願いします……何かあったらお電話します」
口元にうっすら笑みを浮かべて名執は幾浦に言った。
「名執……怒鳴って悪かったな……」
ばつの悪そうな表情の幾浦に名執は首を横に振る。本来なら名執も一緒になって怒鳴りたい気分であったから。
「先生!急患です」
そこに田村がやってきた。
「分かりました。すぐに行きます」
名執はとりあえず今は自分の仕事に専念することにした。
そこは真っ暗だ。
しかも何も見えない。
そんな中、リーチとトシはやっぱり手を繋いでいた。こうやってお互いを身近で見るのは二度目であった。
「どうするよ」
リーチがため息をつきながら言った。
「じっとしてたら何とかなるんじゃない?」
「そ……だな」
ぼんやりと二人で立ちすくんでいる。何処にも光は見えなかった。
何をしているの?
「あ、春菜さんだ……」
振り返ると春菜が闇の中に浮かんでいた。白いワンピースがまぶしい。
どうしてこんなところにいるの?
悲しげに春菜は言った。
「いや……色々考えることが多くてさ……ここに居座る気は無いんだけどな……」
苦笑しながらリーチは言う。だがここが何処かリーチには分からない。ただ、いつも片方が主導権を持っている時にくつろいでいる花畑ではないのは分かる。
多分、ここは春菜の居場所なのだろう。
……ごめんね……リーチ……トシさん
酷く悲しげな顔で春菜は言った。遥佳を初めて見たとき、春菜に似ていると思ったが、こうしてみると全然違うことにリーチは気付いた。
優しげな黒い瞳は何処までも思慮深い。そして長いまっすぐの髪はサラサラと風など無いのに揺れ、光沢を放っていた。細い身体は決して不健康ではなく、透き通るような肌は死の宣告が下りる前の、春菜の若々しさを保っていた。
でもね……駄目よ。ここにいては駄目……
そう言って春菜はリーチとトシの結ばれている手を掴んだ。二人は抵抗したが、春菜の手は緩むことはなかった。
ここは……
私の場所なの。
そして生きている人が来ては行けない場所……
春菜はものすごい力で二人を引っ張った。
二人の意識はそこでとぎれた。
手術室の赤いランプが消え、相模が出てきた。それを見が篠原が、立ち上がる。
「先生……」
マスクを外しながら、相模は言った。
「傷は深くありませんでした。ただ、耳の脇を銃弾がかすった衝撃で脳しんとうを起こしているようです。出血は止まりましたが、目が覚めるには暫く時間がかかるでしょうね」
笑みを浮かべて相模は言う。篠原はただホッと胸を撫で下ろした。大したことがないと言われていてもやはり手術と聞くと不安になるのだ。
「ありがとうございます……」
深々と頭を下げ、篠原は言った。その横をキャリアーが音も立てずに通り過ぎる。
「場所が場所ですので、脳波の検査後、目が覚めるまではICUで経過を見ますが……。心配することは無いでしょう。まあ、目が覚めたとき、酷い頭痛に暫く悩まされるかもしれませんがね……」
「良かった……」
篠原はそれを聞き終えると利一が乗せられたキャリアーを追った。
名執が急患を何人か処置したところで、相模から連絡を受けた。そこで利一の手術が無事に終わったことを知らされ、心の中で重くのしかかっていたものが少し和らぐような気がした。
しかも脳しんとう。
酷い怪我ばかりしているリーチ達にとっては、それはかすり傷程度なのかもしれない。だがこれも意識が回復するまで油断がならないものだ。目覚めたときにあまりの頭痛のひどさと、すぐに身体が動かせないことでリーチあたりが悪態を付くはずだ。考えるとほほえましくも思える。
名執は手の空いた隙を狙い、急ぎ足でICUに向かった。気が急いて仕方なかった。殺菌をし、帽子とマスクをつけて中に入ると、既に田村がメモを取っていた。
「隠岐さんはまだ眠っていらっしゃいます」
田村は笑みを浮かべてそう言った。
名執は手術の経過の記録を見ながら利一の様子を窺う。もっと近くで見たかった名執は、ICUとこちらを隔てるガラス戸を開けて中に入った。
利一の表情には顔色が無い。だが病的なほどの青さは見受けられなかった。
リーチ……トシさん……
自分の返り血を浴びたのか、頬や口の周り首筋などに血糊のようなものがうっすらとついていて、名執はアルコールを含んだガーゼで汚れをそっと拭いてやる。しかし閉じられた睫毛はぴくりとも動かなかった。
名執は脈を測るふりをして、点滴の刺されている手をそっと握った。意外に温かい感触に何故か涙が出そうになる。
いつも弱いものを助けようとしている二人……
子供を救うために無理をしたのかもしれない。
優しい二人は性格こそ違うが、人間に対してとても温かい気持ちを持っているのを名執は知っていた。本来なら人間嫌いになっても仕方のない事情を二人は抱えているにもかかわらず。
貴方達が悩んでいた事は私が何とかします。いいえ幾浦さんも協力してくれます。貴方達だけで悩まないでくださいね。
呟くように名執は言った。
「先生……後は私が見ていますので少し休んで下さい……」
後ろから田村に声を掛けられ、名執は慌てて掴んでいた手を下ろした。
「田村さん大丈夫ですよ。私より貴方の方が……」
「いーえ私は大丈夫です。うちの子供達は父親が朝ご飯作ってくれたみたいですし、まだまだ大丈夫です」
田村には二人の子供がいた。どちらもまだ小学生であったが夫が今はやりのインターネットで商売をやっている所為か、いつも自宅にいて田村が不在の間、色々家のことはしてくれるらしい。
「無理はしないで下さいね」
名執がそう言うと田村は丸い顔を更に丸くさせて微笑んだ。
「なんだか隠岐さんって放って置けないんですよね。大きな子供みたいで……。うちの子供と似てるんですよ。見た目はそんな感じはないんですけど、結構やんちゃ坊主に見えますよ。隠岐さんが聞いたらきっと笑うでしょうけど……」
そう、特にリーチがそうなのだ。意外に鋭い田村に名執は感心してしまった。
「ちょっと自室に戻って書類の整理をして参ります。暫くここを任せます。何かあればすぐ呼んで下さい」
「はい」
幾浦にとりあえず手術が終わったことを名執は伝えたかった。むろん、たいそうな手術ではなかったのだが、連絡しておかないと今の幾浦はまた怒りだすだろう。
そうして自室に戻ると名執はすぐさま幾浦に電話をかけた。
「名執です。手術は無事終わりました。明日の朝には目を覚まされると思います」
「そうか……良かった……」
電話の向こうから幾浦の安堵のため息が聞こえる。例え簡単な手術でも心配だったのだろう。
「ところで、明日は会社を休むことにしたんだが、何時くらいに会わせてくれるのだ?」
「傷は浅かったのですが、耳の上部、丁度頭の側面を銃弾がかすったそうで、それで脳しんとうを起こしているようです。ですので傷の場所が場所だけに、何かあると困りますのでICUに今現在入ってもらっています。意識が回復した時点で一般病棟に移せますので、そのときはまたご連絡をしますよ」
そう言うと小さなため息が聞こえた。
「分かった……医者に任せる。ところで例の件だが……見つけたぞ。どうする?FAXはまずいだろう。メールで送ろうか?」
「ええ、メールで送って下さい。ところで、幾浦さんは読まれましたか?」
「読んだ。感想は想像に任せるよ」
何故か肩を落としているような口調だ。
「幾浦さん?」
「彼女も可哀相な女性という同情心が起こってしまったよ。ある意味読まなければ良かったと思っている」
「え……」
それはどういう事なのだろうか?名執にはまだ分からない。
「まあいい、トシ達が無事なら……」
「そうですね……ではメールをお待ちしております」
そう言って名執は電話を終え、すぐに机の上のパソコンを立ち上げるとネットに繋げた。すると既に幾浦からメールが届いていた。
結城遥佳 初診 十四歳
初診 ××年十月四日 終了 ××年一月十日
自分ではなく他人を自分と同一視する障害が顕著に現れる。原因となったのはその背景にあった。詳しく家族構成を追っていくと、彼女には異父姉妹がいることが分かった。その女性は彼女より四つ上の姉で、姿や容貌がよく似ているのも原因の一つと考えられる。
母親はかなり昔に、その姉を無理矢理手放したという経緯があり、再婚し、患者を生んだが、日を追うごとに手放した姉の方に似てくる患者を母親は頻繁に姉の名である春菜と呼んだ。それが幼い頃から患者を混乱させる要因となったのだろう。
患者が大きくなるにつれ、母親の方の精神が壊れ始め(患者の姉である高杉春菜を手放した罪悪感からだろうと推測されるが、母親は親戚らによって隔離されてしまったため確認できず)更に患者を混乱させたようであった。
患者と姉を会わせることによって認識が変わるのを期待し、何度か会わせることにしたが、それがかえって患者の精神を混乱させることになった。姉は既に一人暮らしをしており、自立した大人であったため、患者にとって姉は素晴らしい人物に映ったのだろう。元々患者は劣等感が非常に強く、自己否定的で他人に対する依存度が高い。その為、姉を理想と見なし、それに成り代わりたいという願望が、患者の症状を益々悪化させた。それに歯止めがかかったのは姉の死によってであった。
姉が病気で亡くなった後、それを追うように母親が亡くなり、急に患者の症状が落ち着き始め、自分を自分と認識できるようになった。本人も根気強く自分を取り戻す作業に専念し、治療から四年で完治する。
名執はその後、治療法や遥佳のコメント、描いた絵などを見た。それらからかなり心の浸食が激しかったことが窺える。完治と言っているが、この場合、継続的に診察しないと何時又再発するかもしれないと言う難しいものであった。その後、記録が無いところを見ると、継続的な観察はされていないのだろう。
幼い頃から蓄積された精神の病気は、簡単には治らない。
名執はざっと読み終えた後、軽い目眩を覚えた。急患のオペを続けざまにこなしたために目が疲労しているのだ。
再発の原因は、隠岐利一という人間に会ったからだ。
春菜に会うたびに聞かされていただろう利一の事を遥佳はずっと覚えていたに違いないのだ。そこで利一の事は頼りがいのある人だとでも聞いていたのだろうか?自分より立派に見えた春菜に憧れ、その春菜が愛していた男性のことを羨ましく思っていたのだろう。劣等感や依存度の高い遥佳にしてみれば、恋をし、輝くように見える春菜になりたいと益々思ったに違いない。
だが春菜は病気で亡くなった。全てがそこで終わってしまうはずであった。しかし利一は時折テレビのニュースで報じられていた。遥佳は思い出したに違いない。姉の愛した隠岐という人間を……。その後、春菜の墓前で会った。遥佳にとってそれは運命だと感じたに違いない。姉が頼り、そして愛した男性を自分のものにしたかったのだ。姉のようになりたい。姉ならばその男性は愛してくれるのだ。
だから遥佳は春菜になろうとした。
「名執先生……あの……」
篠原が扉を薄く開けてこちらを覗いていた。名執は慌てて見ていたレポートを閉じた。
「隠岐は……会わせて貰えないのでしょうか……」
「それは、申し訳ありませんが、ご遠慮して貰えませんか……」
「……あいつ……死んだりしませんよね……」
苦渋に満ちた顔で今にも泣き出しそうであった。
「あの程度で人間は亡くなったりしませんよ」
どう考えても死ぬほどの怪我では無いことを篠原も知っているはず。それでも手術をしたことで不安になっているのだろう。
「……なら……安心ですけど……」
すると内線が鳴った。
「名執です……はい……えっ……結城さんが?駄目です。彼女を中に入れないで下さい!私はなんの指示も出しておりません!」
名執は内線を切ると、部屋を飛び出した。そんな名執に篠原が驚いて後を追った。