Angel Sugar

「春酔い」 最終章

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 公園の隣にある路上に車を停めると、リーチは早速外に出た。空気が柔らかく喉を通り気管に入っていく。春の独特の香りを含んだ程良い温もりをもつ空気は気持ちを落ち着かせてくれるのだ。
 チラリと名執の方を見るとなにやら大きな鞄を一緒に持って出てくる。風呂敷でも持ってきたのだろうか。
「リーチ……行きましょうか?」
 名執はこちらの疑問になど気付かない顔で、公園内に向かって歩き出す。リーチもその後を追うようにあちこち眺めながら歩いた。
 小さな公園ではあったが、あちこちにクヌギやヒイラギの木が生えており、歩道に沿って作られている花壇にデージーやホウセンカの苗木が植えられていた。意外に手入れが行き届いているのだろう。こんな所に桜があるのかとリーチが視線を彷徨わせていると名執が言った。
「あれですよ」
 公園の奥に入った場所は広場になっており、その端に小さな桜が二本立っているのがリーチに見えた。立派にはほど遠く、しかも奇特な人間でなければあの下で花見をしようとは思わないだろうと言うくらいの桜だ。
 当然、誰も木の下にはいない。
「ぷ……」
「どうしたんですか?」
「あははははは。あ、ありゃねえよ」
 リーチはもう少し立派なものを想像していたのだ。だから不意を付かれたような気分で笑いが出てしまった。そんなリーチの顔を見て名執は怒るわけでもなく、ただ柔らかな笑みを浮かべている。
「綺麗じゃありませんか……」
「俺はもっとすげえ桜を想像してたんだって……」
「すごい桜の下には人もすごいですよ」
 当然のように言って名執は呆れた顔を見せた。その通りだ。
「言えてるか……それにしても誰もいねえなあ……」
 決して雰囲気が悪いわけでもなく、綺麗に整備された公園であるのに、見たところ人気が無くて静かなのがリーチには不思議に思える。が、平日、しかも丁度入学式シーズンのこの時期は大人も子供も忙しくしていて、公園になど来る暇などないのかもしれない。
「近くにもう一つ大きな公園が出来まして……そちらの方は色々子供達が遊べるような作りになっているのも原因だと思います」
 名執は感慨深い声でそう言った。
「ふうん。俺はこういう静かな公園は好きだけどな……」
 砂場もない、人工池もない、そこで戯れる季節の渡り鳥などもいない。それでも喧噪に身を置くリーチにとってはこの場所がとても好ましく思えたのだ。
「夜は……意外に沢山人が集まるんですが……」
 苦笑しながら名執は言う。その言葉の意味がすぐに分かったリーチは言った。
「じゃあ、もしここにマンションでも建てる計画が持ち上がったら、反対する奴らはちゃんといるって事だ」
「……さあ……どうでしょうね。あ、あの辺りに座りましょうか?」
 桜の下を名執が指さすので、リーチは頷いた。

 名執が持ってきた鞄から半畳ほどあるチェック柄の敷物を取り出したのを見たリーチは、本気で例のブルーのビニールシートでなかったことにホッとした。
「何を見てるんです?」
 敷物の端にご丁寧に近くにあった石を置いて、名執は顔を上げる。
「いや……ほら、よく花見とかにでてくるブルーのビニールシートってあるだろ?あれじゃなくて良かったなあと思ったんだ」
 柔らかい草の上に敷かれた敷物にごろんと横になってリーチは言う。どうも仕事を思い出してあのブルーのシートは嫌いなのだ。
「警察で使うんですか?あ、そういえばブルーのシートって刑事ドラマに出てきますよね」
 言いながら名執はリーチの寝転がっている身体の隣に靴を脱いで座った。
「そうそう。花見が嫌なのはそれもあるからかなあ……あちこちブルーのビニールシートが敷かれているのを見ると、なんだか複雑な気持ちになるんだよなあ……」
「考えすぎですよ……」
 くすくす笑う名執の膝に、リーチは身体をずらせて頭を置く。久しぶりの名執の温もりが頬から伝わり、リーチは目を閉じた。
「桜は見ないんですか?綺麗ですよ……」
「いや……いいよ……こうしていたいんだ……」
「散ってしまったら、来年まで見られないのに……」
 残念そうに言うため、リーチがそっと目を開けると名執は上を眺めて桜の花びらが舞い降りてくるのを楽しんでいるのが見えた。
 桜……か。
 ゆるゆるとした風が大地を撫でると、花びらがくるくると円を描いて落ちてくる。それは頬に落ちるのもあれば、額に落ちてくるのもあった。
 重さは感じない。
 ささやかな感触だけが伝わる。
 そんな、音もなく散っている花びらをリーチは暫く目線で追いかけていた。
「あ、見てるじゃないですか……」
 何処か拗ねたような声で名執はこちらを覗き込む。
「うん。来年まで見られないってお前が言うからさ……」
「そうですが……」
 困惑した表情の名執もリーチには愛おしい。
「まともに桜を見たのは何年ぶりだろう……」
 言うと名執はまた上を見上げて桜を眺め出す。それが少しリーチには残念であった。いつまでも見ていたいのは名執の顔で、桜は二の次だから。
「私は……桜はあまり好きではないんです……」
「え?」
「花が咲いているときは良いのですが、これが散ってしまうと……ほら、毛虫がでるじゃないですか。それが嫌いなんです」
「うははははっ!確かにそうだよな……け……毛虫っ!」
「笑い事じゃないんですよ。桜の季節は急性アルコール中毒を起こした大人が。それが過ぎると今度は毛虫に刺された子供さんが沢山病院を訪れるんですから……。あ、毛虫は馬鹿に出来なくて、大量に一度に刺されると、毛虫の種類にもよりますが、大変なことになるんです」
「じゃあお前が嫌いな季節は春と年末か?」
「私は……」
 と、名執は言ってそっとこちらの唇に自分の口元を重ねてきた。それは触れるようなキスだ。
「リーチと一緒にいるときに緊急で呼び出されるのが一番嫌です」
 言って笑みを浮かべる名執の首筋に手を伸ばして、もう一度リーチはキスをねだった。当然、名執は逆らわない。
 だが、今度唇が離れると名執は瞳を潤ませていた。
「な……なんだよ……。目になんか入ったのか?」
 身体を起こして名執の頬を両手で挟んで、こちらを向かせたのだが相変わらず薄茶の瞳は今にも涙を落としそうだ。
「急に……」
「急に?」
「リーチに出会えた奇跡に感動してしまって……」
「はあ?お、大げさなんだよ……」
 頬から手を離し、名執の髪を撫で上げると、目を閉じてもたれ掛かってくる。そんな名執の肩に今度は手をかけて更に引き寄せた。
「……まあ……こんな場所にいるから湿っぽくなるんだろうな……」
 名執から視線を外し、頭上にある桜を眺めてリーチは言った。
「聞いて良いですか?」
「ん?」
「リーチにとって春菜さんはとても仲の良いお友達だったんですよね?」
 まだ気になるのだろうか?
 それともやはり上手く伝わらなかったのだろうか。
「そうだよ……仲の良い友達。それが一番近い」
「じゃあ……春菜さんもそう思っていたのでしょうか?」
 それをいつか聞かれそうな気がリーチにはしていたが、昨日話したことで聞かれなかったため、何となくごまかせて良かったという気持ちが何処かにあった。だがやはり名執は気が付いていたのだ。
「さあな……」
「……もしかして……?」
「知らないよ」
「……そうですか……」
 心なしか聞こえる名執の声が小さくなる。
「最初、春菜を見つけたのはトシの方だったんだ」
 仕方なしに白状した。
「え?」
「俺が春菜を知ったのはもっと後。トシが先に好きになって、淡い恋心を抱いていたんだ。いや、きっと好きだったんだろうな……。そう思うよ」
 トシがスリープしているのを良いことにリーチは言った。
「トシさんは何も貴方に話さなかったのですか?」
「俺達こんな状態だろう?どちらかが恋をするのは御法度だったんだよ。お互いその話を突き詰めてしたことはないけど、一つの身体でどうやって恋愛できる?まあ、今みたいに上手くつき合うことが出来るなんて考えられなかったから、当時は恋愛なんか出来ないってお互い思ってた。そのせいか、トシはただじっと心の中で想っていたみたいだ……」
 そう。
 多分トシの初恋になるのだろう。
 その事に何となく気が付いたのは春菜とつきあい始めた頃だ。トシからきちんと話を聞いたのは春菜が亡くなってからだった。気を使うトシはずっと黙っていたのだろう。とても辛かったのだろうとリーチは思う。リーチの方は自分のことしか見えていなかったから、気付いてやれなかった。
 それが深入り出来なかった理由なのかどうか。
 今ではもう分からない事だった。
「春菜さんは……貴方を愛していたのだろうと思います」
 名執はあっさりとそう言い、リーチの手をギュッと握る。
「かもしれない……」
 一歩を踏み出せなかったのは俺なのかもしれない……
 当時を振り返ってリーチはそう思った。
 自分がどういう人間であるか。
 「利一」が本当はどういう人間であるかを理解していたから。
 結局肝心な事は春菜が生きている間、何も話すことが出来なかったのだ。
 死んでしまった後で、「秘密」に気付いた春菜はどう思ったのだろう。
 既に聞ける相手ではないが。
「もし……」
「もし?」
「春菜さんが生きていたら……私は……」
「……」
「貴方と春菜さんがそのときつき合っていたら……」
 じっとこちらを見上げながら名執は言う。一体何が言いたいのだろうかとこちらからも見返しているとにっこりと笑って続けた。
「略奪します」
「はは……なんだよそれ……」
「泣き寝入りはしません」
 一体何に対して泣き寝入りしないと言っているのだろうか。
「おいおい」
「それでも駄目なら……」
「うん……」
「リーチを監禁して私だけのものにします」
「あははははは……」
 一応笑って見せたものの、名執は真剣な表情を崩さなかった。では、本気でそう言っているのだろう。
「お前になら……監禁されてもいいよ……」
 ギュッと名執を抱きしめてリーチは言う。どちらかと言えば小柄な利一の身体に、すっぽりとおさまる名執は、時に折れそうな程弱々しい。だが強くもなれる。それをリーチは知っていた。
「……あ」
 名執が急に小さく叫び、リーチの身体から離れた。
「何だよ……」
 もう暫く名執を抱きしめていたかったリーチは不機嫌そうに言う。
「お弁当作ってきたんです」
 嬉しそうに名執は言って、先程から持ってきていた大きな鞄から、同じような大きさの包みを取り出して、敷物の上に置いた。驚いて見ていると、次にステンレスのポットが出てくる。最後に缶ビールだ。
「なんだそりゃ……」
「花見ですから……」
 包みを取り払い、そこから可愛らしい籐の籠が出てくる。ふたを開けるとお握りや厚焼き卵、フライドチキンなどがぎっしりと詰められていた。
「お前さあ……」
「朝からこれにかかりきりだったんです。食べてくださいね」
 と、名執はにっこり。
 もしかすると遥佳に対抗しているのだろうか?
 そんな様子だ。
「もらうよ……」
 籠からおにぎりを一つ手に取って見ると、形が綺麗な三角ではなく、丸と三角の間のような形をしていた。それは名執が初めて握ったのだろうとこちらに分からせるほど、不器用な形をしている。だがリーチは嬉しかった。
 人はみな違うのだ。
 誰にもすり替わることなどできない。
 当然、同じ人間であることもない。
 おにぎりの形一つとっても、十人いると十個の形があるはずだ。
「なんか……しょっぱい……」
 口にお握りを入れて、もごもごしながらリーチが言うと、名執は自分もお握りを口に頬ばり、次に困ったような表情になった。
「……握っていたときは丁度良かったのですけど……」
「でもまあ……旨いよ」
 お握りを飲み込み、ビールのプルトップを開けてリーチは厚焼き卵に手を出した。
「ショックです……」
 もごもごとまた口を動かして名執は肩を落とす。 
「厚焼き卵は、ほんのり甘くて旨いぞ」
「え、本当ですか?」
 本当に嬉しそうに名執は言った。
「うん。やっぱこっちは慣れてるからじゃないのか?俺だってにぎりめしなんか握った事あんまり無いからなあ……。まあ普通は無いだろうし……」
「ええ……私は初めてです……」
 言って顔を赤らめる名執が可愛い。
「分かるよ。だってお前……この形……ひでえよ……。外科医って手先が器用なんじゃないのか?」
 並べてみると分かるのだが、どれもこれも同じ形のお握りが無いのだ。かなり悪戦苦闘したのが目に浮かぶ。
「よく言われるのですが……。外科医ですが、お握りなど上手く握れません。メスを持つから器用ではないんですよ。それは両立しないんです」
「確かに……分かるような気がする……」
 笑いを堪えながらリーチが言うと、名執は今度厚焼き卵に手を伸ばし、そこで止めた。
「どうした?」
「桜の花びらが……」
 上から落ちてくる桜の花びらが籠の中にまで入り、あちこちピンクの花弁を覗かせていた。このままではもっと落ちてくるに違いない。
「場所が悪かったか……。満開過ぎてるからなあ……」
 言っている間もパラパラと風に舞いながら落ちる花びらは、もうすぐ春が終わることを知らせている。
 顔を上げると、風に揺られて花は粉雪のように散っていた。
 春。
 この季節はリーチにとって辛い思い出しかなかった。毎年春が来るのが苦痛で仕方がなかった。だが、記憶はいつの間にか楽しい思い出にすり替わり、来年はきっと、不格好なお握りが沢山詰まった籠を思い出すに違いない。
 名執が隣にいることも、同じように楽しい思い出として記憶に残るのだろう。
 これから、先。
 ずっと。
 春が訪れるたびに、少しの心の痛みとそれを和らげてくれる名執の存在をリーチは毎年思い出すことになるのだろう。いや、痛みはもう感じなくていいのだ。
 名執はいつだってリーチの傍らにいてくれるだろうから。
「リーチ……」
 名執が言った。
「あ?」
「今、貴方と……したい……」
 照れた顔をして小さな声でそう言う名執に、リーチは神妙な面もちで頷いた。
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