Angel Sugar

「春酔い」 後日談 第1章

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 最初はどこでやるかが問題だったが、結局外もまだ明るいと言うことで名執のマンションに帰ってきた。久しぶりに訪れる名執のうちはいつも通りだ。
 広いリビングの床にコロリと身体を転がし、敷かれた柔らかいカーペットに頬をこすりつけてその感触を味わう。それは猫になったような気分だ。
 リーチはこのうちが好きだった。もちろん、名執がずいぶんと気を遣い、リーチがくつろげる空間を作ろうと努力してくれているのも要因だろう。名執がここをこうしたとか、あそこをこんな風にしたとか自分から言うことは少ない。季節によって代わるカーテンの色やカーペットの色。本来ならリーチがしなければならない洋服の入れ替えなど、名執自身も忙しい身であるのに、いつの間にかそれらはこなされている。
 そんな名執の心遣いがリーチは嬉しい。
 俺って結構甘えてるんだよなあ……と、一人でくすくすと笑っていると名執が不思議そうな顔をしてキッチンから戻ってきた。名執は持って帰ってきた弁当などを片づけていたのだ。
「何が可笑しいのです?」
 見つめる瞳はうす茶色で、光の当たり具合では透明に見えることもある。それがリーチが最初に惚れ込んだ名執の瞳だ。
「別に……」
 何となく照れくさくなったリーチが名執から顔を逸らせると、名執も隣に寝転がってきた。そして近づいてくる顔。
「もしかして、誘ってる?」
 分かっているのにリーチはそう聞いた。
「黙っていて下さい」 
 ちょっと怒ったような口調が余計にリーチには可愛く思える。名執の言うように口を閉じて黙っていると、そっと唇が触れ、次に腕がリーチの背に回された。
 名執の薄く開いた口元からのびた舌をこちらから迎え入れそのまま吸い付くと、待っていたように絡みついてきた。
「……ん……」
 ぎゅっと閉じられた名執の瞼を見つめながら、口内を翻弄すると、白っぽい頬がうっすらと色づいてくるのが分かる。照れているのか、それとも満たされた欲求が体温を上げつつあるのか分からないが、理由はどうでもいい。
 積極的な名執を見ているのはリーチも楽しいのだ。時折、驚くほど大胆な行動に出る名執ではあるがもちろんそれはリーチに対してだけ。言葉ではなく、腕を伸ばし、そしてすり寄る名執に言葉など必要ないのだろう。
「リーチ……」
 こちらのシャツのボタンに手をかけて見上げてくる名執の瞳はどうしようか迷っているようだ。
「ユキが脱がしてくれるの?」
「良いんですか?」
「ん~なんか、それって襲われているみたいな気分になりそう」
 苦笑していると名執が、ぐっと口元を噛みしめ、何かに耐えるような表情になった。この何かを耐える顔を見ると妙にリーチはそそられてしまう。嗜虐心が煽られるというのはこういう事をいうのだろう。
 だから時々意地悪してしまうのだ。名執がリーチに自分が愛されているという確認を取りたがるように自分の中にもそんな部分があるのだから、人のことは言えない。
 名執は自覚をあまりしていないが、もてる。困ったことに、ストーカーに発展しそうなやばいタイプにも惚れられる確率が高いタイプだ。男であるのにどこか頼りなげで、自分が守ってやらなければと思わせるような雰囲気を持っているからかもしれない。
 頼りない訳じゃないんだけどな……
 要するに……
 そそるタイプって言うか……
「リーチ」
 一人でにやついていると名執がこちらのほおをつかんで引っ張ってきた。
「あたたた……んだよ……」
「イヤなんですか?」
 今にもこぼれ落ちそうな涙が己の下半身に直に響く。
「ユキを見てるだけで、俺はそそられるなあって考えてたんだよ……」
「私は……」
 と言って名執は自分の上着のボタンを自ら外し、胸元をさらけ出す。すると、触れて味わいたくなる肌が目の前に現れ、リーチは目がそこに張り付いたまま逸らせなくなった。
「見られているだけじゃ嫌です。だから触って……」
 名執はリーチの手を取り、自分の胸元に引き寄せた。すると手のひらから温かい名執の体温が感じられ、同時に鼓動も伝わってくる。
「ユキ……」
 自分の大胆な行為に恥ずかしさを堪える名執の表情には、なにかを訴えるような瞳でこちらを見つめていた。その奥には、リーチに対する信頼と愛情が確かに見えた。
「リーチ……」
 切なげな声。
「……ん?」
「愛しています……」
「……知ってる……」
 優しげにそうリーチが答えると、名執はホッとした表情の上に笑顔が広がった。
「だって俺もユキが一番好きだからな……」
 言いながらリーチはシャツを剥ぎ取り、次にズボンをも下ろす。その間も名執の胸元で自分の手をゆるゆると動かしていた。
「……もっと強く触って……」
 名執は決して快感が欲しくて言うのではない。リーチはそのことに気が付いていた。強く、時には痛いほど触れられることで、名執はリーチの存在を確認している。触れられて初めて呼吸ができるのだろう。いつも名執は快感に流されながらも、いつもリーチが側にいることを分からせてくれる刺激を欲しがるのはそんな理由からに違いない。
 心の奥にある過去の痛みと、そして孤独がそうさせるのだ。いつか癒えるとリーチは思っていたものの、最近は無理であることを知った。
 人は傷ついたことは一生忘れない。例え本来の痛みは忘れることが出来ても、心の奥底には小さな痛みとしてのみいつまでも残る。
 多分、一生。
 それが悪いことであるとはリーチは思わなかった。痛みを知っているからこそ、人に優しくできるから。だからこそいつまでもそこに小さな痛みを持っていて良いのだろう。
 人は、己の痛みを感じることが出来て初めて、人の痛みを理解できる。
 名執の持つ優しさは、そんな自分の身に起こった痛みから来ているから。当然、必要以上に痛みを思い出すことはしなくてもいいが、人に優しくできる小さな痛みは持ち続けて欲しいとリーチは考えていた。
「ユキ……」
 グイッと脇から胸元にかけて揉んでやると、名執の薄く開いた口から小さな声が上がった。
「貴方になら……何をされてもいい……」
 妙だなあ……
 もちろん、誘ってくることはあるが、なんだか名執の様子がいつもと違うのだ。
「……どうした?」
 リーチが名執を覗き込むと、まるで自分の顔を見られたくないという風にこちらの首に手を回して抱きついてきた。その所為で表情が読みとれない。
「こら」
「リーチ……」
 何かを含めているような声。
「……どうしたんだ?今日のユキはナーバスだな……」
「だって……」
 名執はこちらの様子を窺うように回していた手をゆるめる。
「だってなんだ?やるんじゃないのか?」
 くすりと口元だけで笑って見せたが、名執は真剣な表情を崩さなかった。
「私……」
「私?」
「……」
「はっきり言え」
「その……嫌なんです」
 最後の言葉は聞き取りにくいほど小さかった。
「嫌?嫌って何が……」
「あのとき……私は春菜さんを見ました」
「え?」
「覚えていませんか?ICUに春菜さんが出てきたとき。私も近くにいたのです。ですが……私はなにも出来ませんでした。それが悔しい……」
 口の端を噛むように口を閉じる。
「……そうか……知らなかった。いや……俺もあんまりあのときのことは覚えていないんだよな。夢を見ていた気分だったからさ……。でもまあ、春菜は遥佳さんを止めようとしてたんだろう?姉妹の事だからお前に入ってきて欲しくなかったんだと思うけどな」
 違うだろうが、春菜と俺のことだからとはリーチも言えなかった。
「綺麗な人でした。春菜さんを見た後で遥佳さんを見たら……太刀打ちできないほどの方だと本気で思えたんです」
「幽霊と競ってどうするんだよ。綺麗に見えただけだって。あいつはごく普通の女性だったよ」
 リーチが言うと、名執はまた絡みついてきた。
「私は……嫉妬してるんです。あの人は私の知らないリーチを知っている。それが堪らなく悔しくて、寂しくて……何故か腹立たしいんです。自分でもどうしてそう思うのか分からない」
「……可愛いな……ユキは……」
 そうリーチが言うと名執は怒り出した。
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