「春酔い」 第2章
真夜中にさしかかると、リーチと篠原は交代で休むことにした。先に篠原が休むことになり、後ろの座席に移動すると足を立てて横になった。リーチはただじっと田辺の部屋を凝視していた。
「な、隠岐」
ふと篠原が声を掛けてきた。
「無理にでも眠らないと明日辛いですよ」
視線をアパートから逸らさずにリーチは言った。
「分かってるよ。あのさ、ちょっと聞いて良いか?」
「今日は質問責めですね」
笑いを含んだ声でリーチは返す。
「俺が以前お前に彼女だって紹介したあの子とは実は一年ほど前に別れて、今はフリーなんだ」
リーチはその話を噂で聞いていた。原因が自分たちにもあるので篠原は言えなかったのだろう。丁度崎斗の件で捜査一課がひっくり返っていた頃、篠原の彼女は全く連絡をよこさなくなった篠原に別れを告げたのだ。それまでもいろんな約束を反故にしてきた為、仕方ないと言えばそうなるのだろうが、同じ職場の人間は同情を禁じ得なかった。
可愛い感じの子であったが、その子の周りに忙しい人間がいなかったため、刑事という職務がどういうものかを理解できなかったし、しなかった。
それが最大の理由だろう。
だが篠原はその子を大切にしていたことは事実だ。
だから篠原がこの一年時折見せる辛そうな表情をリーチは見逃さなかった。だからといって追求はしなかった。いずれ本人から聞かせてくれるだろうと思ったからだ。
こういうデリケートな話は無理矢理聞き出す事でもないだろう。
「そうだったのですか?知りませんでした」
リーチは今初めて聞いたように驚いたふりをした。
「黙ってて悪かったよ……この俺が、結構堪えてさ……」
篠原が苦笑するような表情が見なくとも窺えた。
「……で、何を協力して欲しいんですか?」
「お前と話していると余計な事を言わずに分かってくれるから嬉しいよ」
リーチは篠原が遥佳を気に入った事に気がついていたのだ。というより誰が見ても分かるに違いない。篠原はそんな男だった。
「あの……その……お前の友達の事なんだけど……いや、同級生の親戚だっけ……」
思い出すように篠原は言う。
「遥佳さんです」
「あ、その遥佳さんって誰かつき合っている人がいるのかな?」
しらねえよ……
俺だって今日会ったばっかりだ……とはリーチも言わなかった。
「さぁ、そこまでは分かりません。私もよく知らない人ですから……」
適当に誤魔化すようにリーチは言った。
「お前本当に知らないんだなぁ」
やっと分かったのか篠原は一人頷いている。
「ですから協力してあげたいとは思いますが、私が間に入るより、篠原さんがアタックする方が良いと思いますが……」
実際は勝手にしてくれよ……と言う気持ちが強い。
「分かってるよ……んなことは……」
ごろごろと狭い後部座席で身体を動かしている篠原がバックミラーに映った。
「篠原さん。応援しますよ」
笑いながらリーチは言った。
「お前は良いのか?」
「良いも悪いもありませんよ。それに私には優しくいつも支えてくれる人がちゃあんといると申し上げてるでしょう?どうも篠原さんは私の事を信じてはくれませんが」
今度はこちらが苦笑する番であった。
「な、お前の恋人って美人か?」
「心のとても澄んだ人です」
そう言うと突然無線が入った。
「隠岐です」
「田辺が人質を取ったようだ」
警部からであった。
「人質?」
「田辺の別れた奥さんから娘が帰ってこないと連絡が入ったんだ。そっちはどうだ?」
「今のところなんの変化もありません」
「分かった。引き続き張り込みを続けてくれ」
そう言うと無線は切れた。
「人質を取ったか……」
篠原が呟くように言った。
「もう休んで下さい。何かあれば起こします」
本当に寝てもらわないと、次に交代するときに篠原が辛いのだ。
「分かった。お休み隠岐……」
そう言ってやっと篠原は眠った。
『篠原さん寝た?』
今まで沈黙していたトシが声を掛けてきた。
『ああ、全くこういう話題は避けたいんだけどな』
リーチは肩のこりをほぐすように両腕を左右に振った。
『やっぱり篠原さん……』
困ったようなトシの声だ。
『不思議じゃないけどな。遥佳さんは美人だし、誰でも一目惚れするんじゃないか?』
春菜に似ているところは脇によけ、遥佳だけを見ているとリーチは正直に思ったことだ。
『僕、そんなことより気になってるんだけど……』
ふとトシが聞いた。
『なんだよ……』
『遥佳さんの持ってきてくれたお弁当どうして卵焼きしか食べなかったの?実はすっごいまずかったとか?』
うわ……
こいつ余計なところをしっかり見てやがる……
『いや、美味しかったけどな……気持ち悪くなってさ』
口元だけで笑い、リーチは答えた。
『気持ち悪い?気分でも悪いの?』
心配そうなトシに、悪いなあと感じながらもリーチは本当のことを言えなかったのだ。
『え、ああ。あの時はそうだったんだ……』
死んだ春菜にそっくりな容貌に料理の味付けも一緒。服の趣味も似ている。
遥佳が綺麗だと考える前にリーチは気味が悪かった。
何故あれ程似ているのだろうか?
似せようとしているのだろうか?
だが、そんな風に企むことのメリットなど無いのだ。
リーチは考えすぎだと自分の気持ちを改めた。遥佳はただ、二人の可哀想な刑事を見かねてお弁当を作ってきてくれたのだ。しかもありがたいことに温かいコーヒーもポットに入れて持ってきてくれた。
人の好意を疑うことなど失礼な事だろう。
リーチはそう思うことにして気持ちを切り替えることにした。
その週はリーチのプライベートであったが、忙しいのか名執には連絡が入らなかった。
名執の方も急患で呼び出しなどが頻繁にあり、やっと一息ついたと自室で自分の肩をもんでいると看護婦の田村が入ってきた。
「名執先生」
何か良いことでもあったのか、田村の表情は妙に嬉しそうであった。
「なんでしょう田村さん」
「今年は看護婦の実習生が十人ほど来る事になったのですが、私も今年から指導員になるんです。初めてのことでちょっと嬉しいんです」
丸い顔を赤らめて田村は照れている。
「大変だと思いますが頑張って下さい。田村さんなら大丈夫だと私も太鼓判を押しますよ」
名執も笑顔を返した。
「先生にもその事で迷惑がかかるかもしれませんが宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げる田村に名執は表情を曇らせた。
「こんな事を言うと気分を害されると思いますが、患者さんに迷惑がかからないようにお願いしますよ。本当ならば私はお断りして欲しい位なのです。田村さんだから安心して私の担当の患者さんをお任せできますし、雑多な用事もお願いできるのです。ですので余り実習生にばかり力を入れられますと私が本当に困ります」
心底名執は本当に申し訳ないと考えながらも本音を伝えた。
田村の方はそんな名執の言葉に気分を悪くするどころか、それほど自分の腕を買ってくれているという事が嬉しかったのか、満面の笑みを見せて言った。
「大丈夫です。先生に迷惑なんてこれっぽっちもかける気はありません。もし支障が出そうならすぐに辞退します。でも先生にそう言っていただけるなんて、光栄です」
「いえ、本当に田村さんはよくやってくれると私も感心しているのです。外科医の下の看護婦は特に大変ですから……」
「今日、私が担当する実習生を外科の先生方に紹介もかねて連れて廻ります。ここにも連れてきますのでよろしくお願いします」
田村は既に浮き足立っていた。それも仕方ないだろうと名執は苦笑するしかない。
「楽しみにしていますよ」
「では先生、失礼します」
田村はまるでスキップをしそうな足取りで部屋を出ていった。
……
本当に嬉しいんですね。
クスリと笑い、名執は自分の書類を片づけていると田村が実習生を連れてきた。だが三人いる実習生を見て名執は知った顔がいることに気がつき驚いた。向こうも覚えていたのか大きな瞳を更に大きくさせて驚いているようであった。
「貴方は……結城さん?」
「あ、はい」
慌てたように遥佳は言った。
「名執先生、お知り合いですか?」
田村が不思議そうに言った。
「知り合いというほどでは無いのですが……」
困惑しながら名執が言うと、遥佳の方も小さく頷いていた。
気を取り直したように田村が三人の実習生を順番に紹介していった。一通り言い終えると田村は次の挨拶先に三人を引き連れ出ていった。
そのうち遥佳だけは部屋を出る瞬間、ちらりと名執の方に視線を向け、何か言いたそうな表情で出ていった。
……
何か言いたかったのでしょうか?
名執は暫く仕事が手に付かなかった。
一日の仕事を終え、マンションに戻った名執は昼間の事を思い出しながら感嘆のため息をついた。遥佳が本当に美しい女性だったからだ。
大きな目と漆黒の瞳、逆三角形の輪郭ではあったがきつい印象ではない。一番驚いたのは豊かな髪だ。長い所為か、今日は頭の上でまとめていたようであったが、まとまり切らずに垂れていた前髪の一本一本が蛍光灯に照らされ光沢を放っていたのだ。
雰囲気も清楚で清潔感を漂わせ、ちらりと見ただけでも良家で育てられた女性だというのがありありと窺える。
リーチは遥佳が春菜と本当によく似ていると言っていた。では春菜という女性は遥佳と同じく美しい女性だったということになるのだろう。その春菜をリーチは今でも愛している。リーチは絶対そのことを口にしないが、記憶を失ったときですら、春菜のことは断片的に覚えていたのだ。
私のことは忘れていたのに……
肩を落とし以前のことを思い出した名執は憂鬱になっていた。
例え春菜が亡くなりこの世には存在しなくとも、リーチの想いは薄れることなど無いだ。
リーチというのはそういう性格だった。
だからこそ名執はリーチを愛した。
リーチとて過去つき合った女性は何人かはいただろう。その一人一人をいちいち気にしていたら名執も身が持たない。今が大事なのであって過去ではないのだ。
なにより春菜が守ってくれているから今も彼らは元気に仕事をしているといっても過言ではない。
リーチ達が危険なときに心の中で鳴るベルは春菜が鳴らしてくれていた。名執自身それに救われたこともある。ただ、春菜が亡くなった今でもそれ程の想いをリーチに残すのだから、半端な想いでは無かったのだ。もし仮に今も春菜が生きていたのなら、リーチは名執に出会ったとしても、今のような関係にはなりえなかっただろうという確信があった。
きっと見向きもして貰えなかったでしょうね……
どんより曇った空を見ながら名執は呟くように言った。それでも現実にはリーチに会うことができ、今、側にいてくれる奇跡を神に感謝していた。
私は……
こんな事を考えるのは不謹慎ですが……
春菜さんが今この世にいないことにどれだけホッとしているか……
ごめんなさい……
リーチ……
ごめんなさい……
春菜さん……
自分の心の中で色々とした事柄にふけっていると突然、名執の携帯が鳴った。急に現実に引き戻されながら携帯画面を見るとリーチからであった。
「名執です」
「隠岐です。申し訳ないのですが、ちょっと用事が入りまして……」
それは事件で今晩はそちらに行くことが出来ないというリーチの合図であった。
「ええ、診察はいつでも構いませんが、早めに来て下さいね」
遅くなっても待っているという返事を返した。
「いえ、ちょっと無理そうです。今度予約を入れ直します」
事件で当分動けないと言う返事が返ってきた。
「そうですか……落ち着かれましたら又お電話を下さい」
残念に思いながらも名執はそう言った。
「はい。又ご連絡します」
と聞こえたバックで篠原の声が入り、そのまま電話は切れた。その篠原の声が信じられなかった。
おい、隠岐、遥佳さんだ……
やっべぇ……向こうに聞かれたかもしれない
リーチは今名執が何を考えたか手に取るように分かったのだ。しかし、今度ちゃんと説明すれば良いだろうと割合気楽に考えた。
「隠岐って……」
篠原はこちらの肩を掴んで揺らしてくる。
はね除けてやりたいほどリーチは鬱陶しかった。名執に聞かれた声は篠原の声だったから腹を立てていたのだ。
余計なことを言いやがって~
と、かなり本気で怒っていたのだ。だから対応もぞんざいになる。
「篠原さんが対応して下さい。私は田辺のアパートをぐるりと見回してきます」
そう言ってリーチは車から降りた。遥佳と対面した形になったが、リーチは会釈だけをしてその場を去った。
ここしばらく、遥佳は張り込みを続ける二人に差し入れをする毎日だったのだ。リーチはそれを避けていた。
一つは篠原が遥佳と仲良くなりたいと思っていること。
二つ目は春菜を思い出す様な人物とは余り接触を持ちたくなかったからだ。
今もリーチは春菜のことを思い出すのが辛い。春菜が静かに息を引き取った時の事を今でもはっきりと思い出すことが出来るためか、それを思い起こす事は避けたかった。
そんな辛く悲しい思い出がリーチにはある。未だ癒えない傷に自ら塩を擦り込む気にはならなかった。
遥佳はリーチに聞きたいことがあると言ったが、たぶん春菜の事だ。それしか考えられない。ならリーチは何も話すつもりは無い。ただリーチも遥佳に聞きたいうことが山ほどあった。こちらが聞けば向こうは答えてくれるはずだ。だがそれは向こうからの問いにも答えなければならないということになる。
ぐるりと田辺の部屋の窓を視界に入れながらリーチはぼちぼちと歩いた。なま暖かい空気が頬を撫で、春特有の臭いが辺りに漂っている。
『田辺は帰ってくると思うか?』
起きているトシにリーチは話しかけた。
『それよりさ、リーチ……遥佳さんどういうつもりだと思う?』
だから……
聞くな。
『分かんねーよ……俺に聞くなよ』
ぶちぶちとリーチは言った。
『篠原さんは完全に遥佳さんに参ってるみたいだけど……』
困ったようにトシは言う。
『……だな』
篠原に頼まれなければリーチはもっと距離を置けた。だが頼まれたからには力になってやらなければならないだろう。
それだけの恩を篠原には受けているのだ。
『ね、一度話をしてみれば?きちんとだよ。なんだかリーチって妙に逃げ腰だし……』
『逃げ腰……かもしれないな……。俺、遥佳さんだけじゃなくて、誰であろうと春菜のことを聞かれるのが嫌なんだ』
それがリーチの本音だ。もちろんトシもその中に含まれている。
『リーチ……』
『あいつのことはもうそっとして欲しい……ただでさえユキに話すのも随分ためらっているんだ。井戸端会議するみたいに簡単に話せることじゃない』
淡々とリーチはトシに話して聞かせた。
『リーチ……怒らせたらごめんね。もしかしてまだ春菜さんのこと愛してる?雪久さんに話せないほど心残りがあるの?』
こちらの様子を窺いながらトシは尋ねてきた。
『今、誰よりも愛していて、大事な人がいるんだ。春菜には悪いけど、俺はもうユキに対する想いしか自分の面倒を見られないよ』
思わず名執を思い出し、それだけでリーチは口元に笑みが浮かんだ。
『じゃ、遥佳さんに春菜さんを重ねて見てるわけじゃないんだ』
『ユキが聞いたら倒れちまうこと言うな』
今まで一度たりとも名執と春菜を重ね合わせたことなど無い。
『じゃなんで……』
『春菜が人には言えないことまで俺は聞いて知っていた。その事を話さずに春菜を語れないんだ。これはユキにすら話して聞かせて良いのか俺はまだ迷ってる』
難しい問題があるから話せないのだ。
問題が無ければもう話している。
『雪久さんにはいえる?』
心配そうにトシは言った。
『言うつもりだけどな、ただ本当に俺とユキだけの問題じゃないんだ。春菜のことは例えユキであろうと話せることと話せないことがある。それは仕方ないと諦めて欲しいんだ。でもな……もっと大きな問題は……俺……些細な事でも春菜の事を話すのってまだ辛いんだ……』
話し出すと春菜を思いだし、泣いてしまうかもしれない。と、リーチは続けて言いたかったがその言葉を飲み込んだ。
『リーチ。その事を雪久さんに話してもう少し待って貰ったら?』
トシはリーチが春菜を失った時どんな風になったかを知っている。だから気を遣ってくれているのだ。
『いや、話すと決めた。今を逃したら今度、何時、決心が付くかわからないから、話すよ』
口だけでもそう言わなければ決心が揺らぎそうな自分をリーチは自覚していた。
もちろん名執は聞かせてくれとねだりはしないが、春菜の話題に心ならずもなってしまうと目線で何時教えてくれるの?という瞳をリーチに向ける。
必ず話しておかなければならない事では無いが、名執だから話したい。聞いてもらいたいとリーチは考えていたのは確かだ。
今まで話せなかったのは、タイミングが合わなかったことと、己自身の決心が付きかねていたことがこれほど延びた理由だった。
『リーチ……雪久さんは分かってくれるよ』
トシは明るい笑顔を浮かべていた。
『あたりまえだろ。俺のことだからな』
『……リーチしょってる……』
心配したのがばかばかしいという口調でトシが言う。
『あーあー……田辺はどうなったんだ。さっさと終わらせてユキんとこに行きたいんだよ、俺は』
リーチ達はゆっくりとアパートを一週し、覆面パトカーに戻ると何故だか助手席に遥佳が座っていた。
「篠原さん……私たちは仕事中ですよ」
口調がやや平坦になったのはリーチが腹を立てている所為であった。
「す、済みません」
それに気がついた遥佳がオロオロとし、篠原の顔を見た。
「いや、隠岐、さっき無線で連絡が入ったんだよ。田辺が自首したってな。事件は一件落着さ」
篠原は気味が悪いほど有頂天だ。
「そうですか……では本庁に戻りましょう」
心の中でため息をつきつつリーチは言った。
「部長が飯食ってから戻って来いって言ってるからさ、遥佳さんも誘ったんだよ。折角お弁当作ってくれてたんだからお礼もかねてさ。それならいいだろ?」
この男は~っと、リーチは呆れ返っていたが、利一としてそれは言えなかった。
「そう言うことなら……」
渋々リーチは同意した。
「じゃ、お前、後ろな」
それだけは篠原に感謝した。