「春酔い」 第3章
後部座席に乗り込むとリーチはずっと窓の外を眺めていた。時折遥佳が気にするようにミラーでこちらを覗き込むような気配がしたが、知らぬふりをした。篠原といえばそういう雰囲気が分からないのか、遥佳の方に色々と話しかけていた。
篠原って……
全くよ……
呆れながらも仕方ないとリーチは思うことにし、窓の外を眺めることに終始した。
ファミリーレストランは車ですぐのところにある、混んでいるかと思ったが、意外に人は少なかった。リーチ達は窓際の席を確保しそれぞれ料理を選んで注文をする。
なんだか妙に浮かれている篠原一人が浮いているのだが、本人は全くそのことに気が付いていない。
「そうだ、遥佳さんは隠岐とどういう知り合いなのですか?」
何も知らない篠原は遥佳に聞いた。
「私のいとこのお姉さんが隠岐さんと同級生なんです。隠岐さんと今まで直接お会いしたことは無かったのですが、いとこのお姉さんから色々聞いていたので、私の方は良く知っていたんです」
笑みを浮かべながら遥佳は言った。
その笑顔が春菜と重なる。
「へー……じゃ、隠岐がつき合っている人って同級生の子か?」
いきなり篠原はこちらに話題を振ってきた。
「えっ……あ、いえ」
答えようのないリーチは困惑した表情を返す。
「なんだよ……別に隠さなくても良いだろ」
ムッとした篠原は、ここまで来て何故隠すんだ……と、言いたい様子だ。
「篠原さん。その人は亡くなったのです」
仕方無しにリーチは白状した。
「えっ……。そ、そうだったんだ。あ……ごめんな隠岐……」
ムッとしていた表情をいきなり変えて篠原はおろおろと言う。
「いえ、いいんです。昔のことですから……」
柔らかく笑みを浮かべてリーチは言った。
「じゃ、今つき合ってる人は別の人なんだなぁ」
そう言うと遥佳はじっとこちらを見つめてきた。その仕草に篠原は何かを感じたのか、リーチに彼女は一体誰だと詰め寄ってくる。篠原にしてみれば、利一には彼女がいると遥佳に知らせたかったのだろう。
「お前のつき合っている相手の名前とか写真くらい見せてくれても良いと思うんだけどな」
しつこい!
リーチはだんだん腹が立ってきたのだが、もちろん利一モードは崩さない。
「え、別に見せる程じゃありませんから……」
『篠原~勘弁してくれよ……』
リーチは心の中で呻いた。
「済みませんちょっと電話をかけてきます。料理が来る頃には戻りますから……」
あまりにも篠原の追求が激しいのでリーチは椅子から腰を上げた。
「隠岐って」
引き留めるような声を篠原は発したが、リーチはそれを無視するとファミリーレストランの表にでた。
外はなま暖かい風がゆるゆると流れており、何処にあるのか分からない花の香りが漂っている。そんな中、リーチは駐車場の裏に回って誰もいないことを確認すると名執の家へかけた。が、誰も出なかった。
急患でも入ったのだろうとリーチは仕方なしに携帯を切るとポケットに戻す。だがまた篠原や遥佳のいる場所に戻るのは気が進まなかった。
あ~あ……
勝手にやってくれよ……
たくよ……
駐車場を仕切る壁に背をもたれさせながらリーチは空を見上げた。雲一つない夜空は星を一杯にちりばめ、瞬く。
はーっ……
リーチはため息をつき、気の進まない場所に戻ろうかと思った瞬間、顔が上がった。
「私を……避けているように見えるんですけど」
やや表情を曇らせながら遥佳は言った。
「そんなことはありませんが……」
苦笑しながらリーチは言った。
「でも、避けていらっしゃるわ」
「……」
全くその通りであるためリーチは返答に困った。どうするかと見ていると遥佳はリーチと同じように壁にもたれた。
「お話があると言いましたが、勝手に話させて下さい」
こちらも見ずに遥佳は言った。
「私は春菜お姉さんと異父姉妹なんです。二人とも母親に似たせいか双子と間違われるくらいよく似ているんです」
だからよく似ているのだ。
ようやくリーチは何故春菜と遥佳が似ているのかが分かった。
「そうだったのですか」
「隠岐さんが……お姉さんの告別式の時に来られたのを見てから……ずっと聞きたいことがあったのです。あの時、声を掛けることが出来なかったから……」
「叩き出されましたので……」
リーチは視線を下に移した。
「訪ねていけば良かったのですが、私は隠岐さんが何処に住んでいるか知らなかった。でもつい最近どういう仕事に就かれているのかを知りました。知って益々会いたくなったんです」
「……」
「だからお姉さんのお墓参りの日に会えたことを、私はお姉さんが引き合わせてくれたと思いました。だから今度こそ聞こうって……」
一体何を聞きたいのだろうか?
リーチはチラリと遥佳の方に視線を移して言った。
「何を……ですか?」
「お姉さん……幸せでしたか?隠岐さんと一緒にいて、幸せだったのでしょうか?」
ようやくリーチの方を向いて遥佳は言った。
「春菜さんが……もうこの世にはいらっしゃらないので私には彼女が本当に幸せだったかどうか確認は出来ません。でも……私は幸せだったと信じています」
昔、そう思うことで自分を慰めたのだ。今もリーチはそう思っていた。
「良かった……」
安堵したような声で遥佳は言った。
「お姉さん……本当に辛い人生だったから……。でも隠岐さんと出会ってからのお姉さんは驚くほど幸せそうにしていたんです。だけどお姉さんは嘘をつくのも上手かったから、何処まで本当か私には分からなかった……」
春菜のかなりのことを知っているような遥佳の口振りだ。春菜は自分の秘密を妹には話していたのだろうか?
だがそれを聞くことはリーチには出来なかった。
「……そうですか……」
「本当に良かった……」
もう一度遥佳はそう言った。黒い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。そんな遥佳を見てリーチは今まで遥佳を避けていたことを情けなく思った。
「済みません……」
「え?」
「実は避けていました」
「ええ……」
「春菜さんのこと……思い出す事がまだ辛いのです。辛いから……話したくなかった。口に出してしまうと、やっと彼女の死を受け入れられている自分に自信がなくなりそうで……申し訳ありません」
リーチはそう言って頭を下げた。
「そんな風に今も姉は隠岐さんに想われて……本当に幸せだと思います」
遥佳はリーチに笑顔を向けたのだがリーチには春菜に見えた。
私、幸せよ……
きっと世界で一番幸せなんだわ……
貴方が側にいてくれるから……
まだ春菜が元気なときに一度だけ一緒に旅行に出かけたことがあった。夕闇迫る中、砂浜に腰を掛け、海岸線の向こうに沈んだ太陽を眺めながらリーチ達は将来のことを沢山話し合った。
そのとき春菜は言ったのだ。
幸せだと……
リーチはもたれかかる春菜の髪を撫でながら頷いたことをよく覚えている。しかしその時既に春菜の身体は病魔に蝕まれていた。
「……っ……」
リーチの瞳から突然涙がこぼれた。泣くつもりなど無かったのだが、春菜のことを思い出すといつもこうなるのだ。それは止めようと思ってもすぐに止められるものではなかった。
だからリーチは春菜の話をしたくなかったのだ。春菜の事を思い出すとき、自分では制御できない痛みが身体を走る。それは涙となってこぼれ落ちるのだ。
「隠岐さん……」
遥佳はそっとリーチの肩に手を置いて、身体を寄せてきた。
「気に……しないで下さい」
置かれた手を押し返し、リーチは慌てて涙を拭ったが、奇妙な間と何となく気まずいムードが二人の間に漂うとリーチは肩をすくめた。
間の悪いことに痺れを切らした篠原がやってきた。
「隠岐ーっそんなところで何をやってるんだよ?」
不服そうな表情で篠原は言う。
「何でもありません」
リーチは平静を装いその場を後にして歩き出した。今は、とにかく無性に名執に会いたかった。
「隠岐!」
篠原は何があったか分からずに後ろから叫んできたが、リーチは振り向くことはしなかった。
春菜と同じ顔の遥佳を見ることなど今は出来そうになかったからだ。
リーチは一人捜査本部に戻り、やっと解放された頃には二時を過ぎていた。それでもリーチは名執のマンションへと急いだ。
時間が時間であった為、名執は既に眠っているはずだろうが、リーチはそれでも良かった。ただ、安心できる場所と時間が欲しかったのだ。
予想通り名執は既に寝入っていた。来ることを伝えていなかったせいか、ベットの真ん中で眠っている。遅くにリーチが来ることを名執が知っている場合は、ベッドの端の方で眠るのだ。それは疲れたリーチを煩わせずに休ませたいという名執の心遣いであった。
だが今日は何も伝えていなかったために、真ん中で丸くなっているのだろう。
リーチはシャワーを浴びるのも面倒に思い、先に名執の側に横になった。そっと額に口づけをすると、名執は小さく身体を竦めた。
「……うん」
小さな刺激に気が付いたのか、うっすらと名執の瞳が開く。次に驚いたように目を見開いた。
「リーチ?」
「うん」
眠気の残る名執のあどけない表情がリーチをホッとさせる。
「遅くなったけど、今晩はどうしてもお前の顔を見たくてさ……」
「変なリーチ……」
ふふふっと名執は笑いながら、リーチの首に腕を廻してきた。
「ユキ……」
リーチは名執をキュッと抱きしめて瞳を閉じ、その柔らかい感触をじっと味わった。
ああ……
ホッとするなあ……
ユキは本当にだ着心地が良い……
「リーチ……誰かに悪戯されたのですか?」
急に名執がそんなことを言った。
「なんで?」
「香水の香りがするから……」
くすくすと笑いながら名執は別段疑いもせずに言ったのだが、リーチの方は内心慌てていた。遥佳が香水をつけていたのだろうか?
きっと遥佳がもたれてきたときにでもついたのだろう。
ま……
まずううう……
なんて顔など決してリーチは名執には見せなかった。
「うん。事件の被害者が半狂乱で詰め寄ってきてさ、胸ぐら捕まれてどうしてくれるのって怒られたんだ。たぶんそのときにでもついたんだろ。気になるんなら、シャワー浴びてこようか?」
間をおかずにリーチは嘘をついた。
「大変な職業ですね」
「うん」
言いながらリーチは名執の頬や首筋に軽くキスを繰り返した。
「夕方電話したんだけど……」
「ちょっと病院から呼び出しが入りまして……」
「お前も大変だな」
そっと名執の上に身体を移動させてリーチが言った。
「そうそう、リーチ。結城さん……いえ遥佳さんのことですが」
「えっ?」
一瞬リーチは身体が強ばった。
「どうしたのですか?」
めざとくそんなリーチの姿に名執は聞いた。
「あ、何でもないよ。で、遥佳さんがどうしたんだよ」
何故名執が遥佳の話題を持ち出したのかリーチは分からなかった。
「私の病院に看護婦の研修生として今来られているんです。驚きました」
研修生……
「ふーん……」
気のないふりをしながらリーチは言ったが、心は穏やかではなかった。春菜が将来なりたかった職業が看護婦だった所為かもしれない。
「どうでもいいや……そんなこと……」
リーチは名執の唇に舌を忍ばせた。手は既に名執のシャツの下に入れられていた。
「ん……リーチ……」
「ユキ……もう遅いけど、いい?」
「嫌だと言ってもリーチ聞いてくれないでしょう?」
長い脚をリーチに絡ませて名執は言った。
「聞かない」
といって、リーチは名執に覆い被さった。