「春酔い」 第7章
『あいたた……う、うん』
トシはリーチと交替した。
「篠原さん……どうしたのですか?いきなりどうして殴ったりするんですか?」
身体を起こしながらリーチは何か思い詰めたような表情をしている篠原を宥めるように言った。だが篠原は相変わらずこちらを睨んでいる。
「お前が……自分がしたことを思い出せないっていうなら俺が思い出させてやるよ」
そう言って篠原は再度こちらに殴りかかってきたが、リーチはひらりとかわした。
「篠原さん!私には分かりません」
「お前まだそんなこと言うのか?」
篠原は完全に目が据わっていた。
『ななな、何?どうしちゃったの篠原さん』
トシは驚きながらそう言った。
『知るかい!』
一定の距離を保ちながらリーチは、もう一度篠原が怒るようなことを考えてみたが、何も思い当たる節がないのだ。
「お前……北海道で何したんだよ」
篠原は突然そう言った。
「北海道へは中際の件で道庁に呼ばれたんですよ。それは篠原さんもご存じでしょう?」
豪遊に行ったわけではない。
「それは知ってる!その他のことだよ」
ようやくこちらを睨み付けていた視線を外し、篠原はため息を一つ付いた。
「それ以外、なにがあったというのですか?」
「てめーふざけやがって……」
あまりにも篠原が興奮しているので、まともに話し合うこともできないと判断したリーチは手加減をしながらしばらくつきあっていた。だが、このままではらちがあかないと判断し、篠原の鳩尾にきつく拳を一発当てた。手加減したはずのだが、篠原はそれで床に倒れてしまった。
「し、篠原さん……」
慌てて膝を付いたリーチは、鳩尾を押さえて呻いている篠原の様子を窺った。すると篠原の方はどうも泣いているようであった。
「お前……最低……」
篠原は俯いたまま小さな声で言う。
「だから……一体、なんですか??」
再度問いかけると僅かに篠原はこちらを見る。だがチラリと見ただけでまた俯いてしまった。
「……とぼけやがって、知ってるんだぞ。お前北海道で遥佳さんを無理矢理自分のものにしたんだろ」
「はあああ??」
『ええええ??』
リーチもトシも驚いて目が点になってしまった。
「刑事のくせに犯罪者じゃねーか……」
それは怒っている口調と言うより何処か悲しげな声だった。
「そ、そんなことしてませんよ。誰がそんなことを言ってるんですか?」
あまりにも突拍子もないことを言われると、どう聞いて良いかリーチにも分からない。
「夕方……遥佳さんから泣きながら電話があったんだよ。お前に無理矢理やられたってな。遥佳さんはお前が好きだから、訴えたりはしないと言ってたけど、やり方が酷いんじゃないか?」
何故遥佳がそんな嘘を篠原に話したのか?そう考えてリーチはぞっとした。
「ちょっと待って下さい。篠原さん。私のことは信用して下さらないのですか?私が本当にそんな卑劣なことをする男と思ってるんですか?」
篠原がリーチよりも遥佳を信じているのだろう。それが今一番リーチには腹立たしいことであった。
「さあな……だけど、お前だって男だからな……。何時何処でそうなってしまうのかは分からないだろ?彼女は美人だし……慕われるとお前だってむらむらするんじゃないのか?」
泣き笑いのように篠原が言う。
「……篠原さん……私は悲しいですよ。私と篠原さんはずっと一緒に仕事をしてきました。それなのに私の言うことを信用して貰えないなんて……」
本心で残念そうに言うと篠原はリーチの胸ぐらを掴んできた。
「てめぇ!往生際が悪いぞ!男らしく責任を取って結婚でも何でもすりゃいいんだ。上手いことに彼女はお前に惚れてる。問題になる前に、解決しとけ!」
捕まれた手をはね除けてリーチは言った。
「私は誓って遥佳さんのおっしゃるようなことはしていません。なのに篠原さんは好きでもない人と一緒になれと私に言うのですか?」
キッと篠原を睨み付けたリーチは本当はこちらが殴り飛ばしてやりたい程だった。
「お前には責任があるだろうが!お前がやったことはレイプだぞ!犯罪なんだよ!」
篠原がそう言ったと同時にリーチは思いっきり平手打ちを食らわした。
「人を侮辱するのもいい加減にして下さい。篠原さんがそう思いたければ勝手にすればいいんです。結城さんが私を告発するのならすれば良い。私は受けて立ちますよ」
冷たく言い放ってリーチは篠原を置き去りにした。
後ろで篠原は泣いている気配がしていたが、リーチは振り返ることもせずに刑事課を後にした。
『ねえ……リーチ……遥佳さんって、何を考えてるんだろう……ちょっと僕怖いよ……』
不安げな表情でトシは身体を強ばらせていた。
『何を考えてるのか知らないけどさあ……。それをネタに、だから私とつき合って~なんて可愛い感じではないことだけは確かだよなあ……。普通、相手が好きでつき合いたいからってあんな嘘を付くか?俺には考えられないよ……。すっげ~不気味……』
刑事という職業もあって、今までいろんなタイプの人間を見てきたリーチでも、今遥佳の考えていることが気持ち悪くて仕方がないのだ。
無理矢理既成事実を作った末に、結婚を迫るというのは聞いたことがあるが、それこそ何もしていない人間にレイプされたとか、しかもリーチ達の同僚に話しているというのがまず理解ができない。
いくら利一と篠原が同僚関係であるのを知っているとしても、普通は貴方のお友達にレイプされましたなどと話したりはないだろう。
それが事実であっても、嘘であったとしてもだ。
『なあ……トシ。今晩、俺、ユキの所に行って良い?』
警視庁を出たところでリーチはトシに聞いた。
篠原にとんでもないことを吹き込んだ遥佳である。名執にも何か吹き込んでいる可能性があるのだ。リーチはそれが心配だった。
『心配なのは分かるけどね、雪久さんは今週、夜勤でしょ』
トシはあっさりとリーチの願いを却下した。
『そうだけど……さ』
今週一杯は互いの働く時間が名執と逆になるのだ。当然、リーチはそのことを忘れていたわけではないのだが、何か行動に移さないと気持ちが落ち着かない。もちろん名執が遥佳から気分の悪くなるようなことを既に聞かされていたとしても信用はしないと思う。だが、あの名執のことだからまた余計な心配をするのではないかと、そちらの方がリーチは気がかりなのだ。
『それに恭眞まで妙なこと言われてるとは思わないけど、もしそうだったら困るからさあ……。心配だったら後で雪久さんに電話したらいいよ。僕だって……その……心配なんだからっ』
トシはぼそぼそと言うのでリーチは呆れた。
『お前が心配するようなことなんか無いだろ。何をどう心配することがあるんだよ。もし仮に、幾浦まで巻き込んでいたとしても、お前が誰かをレイプするなんて一体誰が信用するんだよ。どうせ、幾浦は俺を疑うに決まってるんだから……』
どう考えてもリーチが疑われることになるだろう。
『何でもいいから僕に主導権返してよ~』
このまま譲るつもりが無いのだと誤解しているトシは必死になっていた。
『ああ……はいはい』
色々心配事はあったが、リーチはひとまず利一の身体の権利をトシに渡した。もちろん、実は今日、名執は病院が休みだと聞いていたなら絶対に交替はしなかっただろう。
『幾浦が何か聞いていたらちゃんと否定してくれよ……俺だってしらねんだから』
『分かってるって』
トシは笑顔をリーチに向けた。
幾浦のマンションにトシが到着すると、いつもなら玄関で迎えてくれる幾浦が「お帰り」という言葉よりも、先に遥佳の件を問いただしてきた。誤解を招きかねない話であったため、トシは丁寧に何が起こったのかを幾浦に話して聞かせた。
「どういう事だ?まさかとは思うが、リーチが暴走でもしたのか?」
聞き終わった幾浦はからかっているような口調で言った。
「恭眞……僕でもリーチでも無いよ……」
ため息を付きつつトシは言った。
『てめっ、このやろー俺を疑ってたのか?』
まだ起きているリーチが幾浦の言動に怒っている。
「リーチが怒ってるよ」
そう言うと幾浦は笑い出した。
「何で恭眞は笑うの?それほど可笑しい事?僕たちは真っ青になってるのに……」
恨めしそうな目を向けると幾浦はまずいという表情になった。だがそれすらトシには悲しく思える。
「いや、トシがそんなことをしたとは全く考えられない事だ。反対に襲われ……あ、いや……その……。リーチ。リーチのことだったな。あいつにしても、名執がいるのに他の女性に懸想するとは思えなかったからだよ。だから逆にトシが真剣に話している姿が可笑しかったんだ……悪かった」
はははと笑って幾浦は言った。
「もう……笑い事じゃないよ……。でも、それ、誰から聞いたの?」
空虚に笑う幾浦の顔を眺めながらトシはため息をついた。
「名執だ。夕方電話があってな、心配してたぞ」
『おいトシ、幾浦に聞いてくれよ。俺がやったとユキは心配したのかどうかって……』
リーチが慌てて聞いてきた。
「ね、恭眞……雪久さん。まさかリーチがそんな事したって信じてた?」
それはあまりにも可哀想だとトシは思ったが、名執がそんなことを信用するようにも思えなかったのだ。
「いや、問題の晩、名執はずっとリーチと電話をしていたから、そんな事はできないだろうと言っていたよ。それに上司と一緒に行動している様だったから、疑う理由が無いとも言ってたな。良かったなリーチ。信じて貰えて」
にやにやとした瞳を幾浦はトシに送ってきたが、もちろんそれはトシの向こう側にいるリーチに対してなのだ。だがあまりトシにするといい気分ではない。
「じゃ、なんの心配をしていたの?」
「さあな、詳しい話は聞いていない。その前に切られたんだ。名執も忙しいのだろう」
『……くそー苛々するぞ』
幾浦の言葉を聞いて安心するどころかリーチはまたそわそわとしている。名執のことになると本当にリーチは心配性になってしまうのだろう。
『まぁ、雪久さんが誤解していないことが分かっただけでも良かったじゃない』
トシはリーチを宥めるように言ったが、苛立ちは納まりそうになかった。
「とにかくだ、どうでも良いが、そろそろリーチにスリープするように言ってくれないか?でないとトシといちゃつくことができん」
真面目な顔をして幾浦が言った。
「きょ、恭眞」
トシは真っ赤な顔をして狼狽えた。
『わーってるよ。くそーー。寝るぞ俺は!』
リーチはそう叫ぶとスリープした。
「リーチ、怒って寝ちゃったよ……」
幾浦は困った顔をしたトシを抱えると部屋へと入った。
篠原がよろよろとコーポに戻ると自分の部屋の前に誰かが立っていた。
「結城さん……」
「篠原さん……」
遥佳は泣きはらした目で篠原を見た。顔色も青白く可哀相なほど怯えた感じであった。そんな遥佳を見て、やはり彼女が嘘を付いていると篠原には思えなかった。
「大丈夫ですか?」
そろりと遥佳に近づいて様子を伺う。光沢のある長い髪が顔の半分隠していた。
「私……」
今にも崩れて落ちそうなほど遥佳は弱々しかった。
「こんな所ではなんですから汚い部屋ですけど、うちに寄っていきませんか?お茶でも入れますよ」
そう言うと遥佳は頷き、篠原に促されるまま家に入った。
篠原の部屋は2Kの部屋で、それほど広くはないが、男一人には十分の間取りであった。どちらかというときれい好きであったので、散らかってはいない。突然のことであったが普段から掃除をして置いて良かったと篠原は胸をなで下ろした。
座布団を押入からだし、篠原は遥佳に勧めた。遥佳も何も言わずに座布団の上にちょこんと座る。その姿はまるで人形の様に見えた。
「お茶……すぐに入れますから……」
「……ありがとうございます」
ちょっと顔を上げてこちらを見た遥佳の顔は先程とは違い、口元にやや笑みを浮かべていた。その可憐な姿が篠原の心拍数を上げた。
篠原は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、用意したコップに注ぎ、お盆に乗せると遥佳の前に置く。何故だかその手が震えているのが情けない。
「どうぞ」
「済みません……」
遥佳はコップを両手で挟むように掴んだまま微動だにしなかった。篠原は何か話題を探したが、何を話して良いのか分からなかった。
もともとこういう事は苦手なのだ。
「あ、市販の物で済みません。お茶の葉を切らしているので……」
実はお茶の葉などうちには無いのだ。元々篠原はお茶などはペットボトルで買い置きしている。だがそれを遥佳に知られるのが、なんとなく恥ずかしかった。
「いいえ、気になさらないで下さい。篠原さんの優しい心遣いが、今とても心地良いんです」
再度篠原を見た遥佳は満面の笑みだ。
「あ、そ、そうですか?いや……」
手で頭をかきながら篠原は言った。
「私……篠原さんを好きになれば良かった……」
篠原に向けた視線を逸らさずに、遥佳は大きな瞳を潤ませていた。
「結城さん……」
篠原は遥佳の視線から目を離せなかった。
「そうしたらこんな辛い目に合わずに済んだかもしれないから……」
ギュッとコップを握りしめた手が震えていた。
「もう忘れることですよ。それに、北海道に追いかけていったのは貴方ですから、裁判になってもその点をしつこく聞かれます」
仕方なしに篠原はそう言った。
「隠岐さんが私を呼びだしたのに……」
遥佳の口調は責めているようではなく、淡々としたものだった。
「この場合、合意があったか無かったかが重点になるんです」
自分でも間抜けなことを話していると篠原は思ったが、こんな言葉しか出てこないのだからどうしようもないのだろう。
「私……隠岐さんを告発しようなんてこれっぽっちも考えていません。私……あんな目にあっても……隠岐さんが好きなんです。だから、時々でも良いから……会ってほしいの……。隠岐さんにとってただの遊びでも……何でも良いんです……」
思い詰めた瞳はもう少しで涙が落ちそうだった。
「遥佳さん。それは貴方自身が辛いことでしょう?」
上手い慰めがこんな時に言えたら……。篠原はそんなことばかり考えていた。
「……例え向こうは私のこと……その……身体だけだと分かっていても……良いんです」
「そんなに好きですか?酷い目にあったのでしょう?何より俺が問いつめてもあいつはそんな覚えがないととぼけてるような奴ですよ」
今にも崩れ落ちそうな遥佳が嘘を付いているように見えない。
「覚えてないって……そんな……」
遥佳は涙をぽろぽろと零した。
「遥佳さん……」
思わず篠原は遥佳の肩を掴んでいた。あまりにも遥佳が健気で可哀想だったのだ。
「ずっとずっと好きだったのに……隠岐さんも私のこと愛してるって言ってくれたのに……全部否定するなんて……酷い……」
遥佳は顔を左右に振って相変わらず泣いている。
「これ以上、辛い目に合わないためにも、もう忘れた方がいいです。何より隠岐は頭も切れるし、友人も多い……。もし貴方が事を公にしたとしても……本当に可哀想だと思うけど……。誰も遥佳さんを信用しない。それほどの信用をあいつは持ってるから……」
だから篠原も信じられなかった。信じたくなかった。だが利一は知らないと言い張り、遥佳はもうここで倒れてしまいそうなほど儚げだ。
どちらを信用するかと問われると、篠原自身もまだ答えは出ていない。それでも今目の前にいる遥佳をうそつき呼ばわりなど出来ないのだ。
「でも篠原さんは信じてくれたわ……」
濡れた瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「それは……俺……その……遥佳さんのこと初めてあったときから……惚れてました」
「……え……」
「あ……いえ……その……」
篠原は思わず言ってしまった。
「私?こんな汚れた私に好きだって言ってくれるんですか?」
信じられないと言う表情の遥佳を見た篠原はまた利一に対し怒りが沸いてきた。
「貴方は汚れてなんか無い。隠岐の事だって事故だと思えばいいんだ。俺はこれっぽっちもそのことで貴方が汚れたなんて思わない。ただ貴方を大事にしてあげたい……」
普段では絶対に言えない台詞を篠原は自分でも信じられないほどすらすらと口から出した。
「篠原さん……」
じっと遥佳は篠原を見つめた。濡れ光る瞳が酷く扇情的であった。
「……聞きたくなかったでしょう……済みません。勢いでつい言ってしまいました」
照れたように笑う篠原に遥佳は抱きついた。
「遥佳さん……?」
「あの人を忘れさせて……」
「……」
篠原は遥佳のその台詞で頭が真っ白になった。