「春酔い」 第11章
名執が戸川から聞き出したことはぞっとするようなことであった。遥佳は以前精神科で入院していたのだ。その病院名をようやく聞き出すことには成功したが、何故入院していたかまでは戸川は教えてくれはしなかった。
ただ、例え医者同士であっても個人の情報は開示して貰えない。事件性があって、裁判所に依頼し、初めて開示して貰える。
それが守秘義務だ。
これは幾浦に頼むしかないと名執は考えた。問題の病院は個人のデータをコンピュータで管理しているはずだ。幾浦ならハッキング出来ると思ったのだ。名執は今晩時間が空けば連絡を取ってみようと思いながら、夜勤の為に警察病院に出勤した。すると田村が慌てた様子で走ってきた。
「先生!先生!隠岐さんが……」
「どうしました?」
何となく名執は嫌な予感がした。
「先ほど急患で運ばれてきて、今、第三手術室でオペ中なんです」
「どなたが担当されているのです?」
必死に動揺を抑えながら名執は聞いた。
「外科の相模さんです。先生を電話で呼ぼうとしたのですが間に合わないということで、すぐにオペ室に……」
はあ~と息を付く田村には悲壮さは漂っていない。しかも外科の相模はそれほどの腕を前を持つ医者ではなかった。その相模で十分だと判断された理由は、簡単な手術だからだろう。
「どのような怪我を……」
「耳の上の辺りを銃弾がかすったそうです。出血が止まらなかったそうで、こちらに来られたようです」
「かすり傷ですね……」
名執はホッと胸を撫で下ろしてそう言った。
「先程入られたばかりなので、あと半時間ほどで出てこられると思います。ほんと隠岐さんって怪我ばっかりされてますね。こちらに来られたときを私、見たんですが、血まみれな姿を見たときはほんと、びっくりしました。ですが、オペに入られる前、相模先生が見た目より酷くないと苦笑されていました」
「……でしょうね。ちょっと様子を見てきます」
手術室に名執が行ったところで仕方がないのだが、リーチ達が入っているだろう第三手術室へ向かった。
そこは扉が堅く閉ざされ手術中のランプが灯っていた。その前に置かれている椅子に篠原と係長の里中を見つけた。
「先生が担当しているわけでは無いのですか?」
驚いた里中が言った。
「ええ、勤務外でしたので、病院にいなかったのです」
ちらりと篠原を見るとじっと床を眺めていた。
「そうですか……」
「大丈夫ですよ。かすり傷だそうですから……」
そう言うと里中が顔をしかめて言った。
「隠岐は……いつもああなんですよ。全く……本当に……なんと言えばいいのか……」
苦笑いというか、苦渋というか、複雑な表情で里中はため息をつく。
「隠岐さんはよほどでない限り無茶はされない方だと伺っています。きっと事情があったのでしょうね」
名執はどういう事件かまで知らなかった。
「薬中の男が子供を人質にとって、家屋に籠城したんですよ。隠岐は子供を助けるために記者の振りをして……いや……こんな事は話しても仕方ありませんな」
頭の後ろを数回かき、里中は立ち上がると、隣に座っている篠原に言った。
「篠原……済まないが、後は任せる。何かあったらすぐ連絡をくれたまえ」
「命令なら……」
ぼそりと篠原が言った。
「お前達が何を喧嘩しとるのかしらんがな、こんな時にまで同僚に対してそんな言い方をするんじゃない!」
里中は名執がいることなど忘れたかのような声で怒鳴った。それでも篠原は俯いたままだ。
「先生…済みません……後を宜しくお願いします……」
深々と里中は頭を下げる。
「分かりました」
里中は何度も篠原を振り返りながら帰っていった。
「篠原さん……少しお話をしましょうか」
名執が声をかけると篠原はちらりとこちらを見る。目の下にはクマができており、憔悴した様子だ。以前の篠原を知っているだけに、何か深く思い悩んでいることが分かる。
「なんですか?」
「ここでは出来ません。私についてきて下さい」
そう名執が言うと篠原はゆるゆる立ち上がり後ろをついてきた。途中で立ち止まるかと思ったが、篠原は無言で名執の後をおいかけてくる。それに満足しながら名執は自分の部屋に入るように促し、患者の家族にいつも勧めているソファーに座るよう手招いた。
「篠原さん……私は隠岐さんから色々相談を受けていました」
篠原が座ったと同時に名執が言うと、俯き加減の顔を横に逸らせる。この話題が出るのが篠原にとって気に入らないのだろう。
「先生もどうせ隠岐の味方になるんでしょうね」
「困りましたね。篠原さんがそんなに事実を見ようとしない方だとは思いませんでした。貴方は隠岐さんとずっと行動を共にして来たのではないのですか?」
何もかも知っているのだというのをほのめかす言い方をすると、篠原もそれに気が付いたようであった。
「俺は……だからショックを受けてるんです。隠岐があんな奴だったなんて……」
組んだ篠原の両手が小さく震える。それを見ながら篠原ははき出すようにそう言った。
「私は結城さんからも相談を受けました。北海道の話を聞きましたが……あれは結城さんの嘘だと分かっているのです」
この辺りをまずはっきりさせておこうと名執は考えた。
「……どういうことですか?」
一瞬目を見開き、そして顔を上げた篠原が怪訝な表情を名執に向けた。
「結城さんが隠岐さんに暴行を受けたと言う時間に、私は隠岐さんと電話で話をしていたのです。ですので、結城さんが話していることは嘘だと申し上げているのです。それに隠岐さんが同行していた田中……警部?さんでしたか、その方の声もバックに入っていました。隠岐さんは間違いなくホテルから私に電話をされていたのです。二時間ほど話しておりましたが、調べると記録は電話会社に残っているはずです。ですが、そこまで証拠をそろえないと篠原さんは信用できませんか?」
穏やかに名執は言う。
「どうして……先生が隠岐と話をしているんですか?」
「隠岐さんは丁度、北海度に行かれる前に事故に遭われました。軽い全身打撲でしたが、一応こちらで検査を行いました。その後異常が無いと分かった段階で、隠岐さんは北海道に行かれたんです。ですが、その打撲の跡がかなり夜中に痛んだらしくて、寝られなかったそうです。そのご相談を受けていたのですよ」
別に変な言い訳にはなっていないだろうと考えつつ、名執は話した。
「……じゃ、遥佳さんは嘘をついているって言うのですか?」
篠原は信じられないという瞳を向けてくる。だがそれが本当のことなのだから名執はなにも嘘はついていない。
「結城さんが話すことで真実を聞いたことはありません」
「……」
「これは話すつもりはありませんでしたが、結城さんは昔から精神的な問題を抱えていることが分かりました。完治したようですが、今、現在かなり情緒が不安定です。この件にかんしましては、明日にでも院長先生と話し合うつもりです。これがどういうことかは余り深くは聞かないで下さい。全部申し上げなくても賢明な篠原さんには分かっていただけますよね」
遥佳がいかに信用できない状態なのか、これで分かってくれるだろうと名執は考えていた。篠原は基本的に人を疑うタイプではないのだ。だから今も心の中で葛藤しているにちがいない。だからこそ思い悩み、目の下にクマを作るほど憔悴しているのだろう。
「……先生……隠岐は……遥佳さんとは……」
床を見ながら絞り出すように篠原は言った。
「これだけお話しして、それでもまだ隠岐さんが結城さんに乱暴したと思いますか?」
ややきつい口調で名執は言う。
「……」
「篠原さ……」
突然ドアをノックする音が聞こえた。一瞬、もしかしてリーチ達が……と思ったが、遥佳であった。
「先生……済みません。今、詰め所で隠岐さんの事を伺いまして……。出来たら私に看病させていただきたいのですが」
酷く慌てたような遥佳の様子であった。どこから見ても利一を心配しているように見える。
「遥佳さん……」
篠原は驚いた顔で扉の前に立つ遥佳を見たが、遥佳の方は篠原のことが目に入っていなかった。
「研修生の貴方では荷が重すぎます。それに隠岐さんの事はいつも田村さんに任せておりますので、貴方は心配せずにうちに帰りなさい」
遥佳の望みを切り捨てるように名執は語気を強めて言う。粘られると困るからだ。だが遥佳はそんな名執の考えなど一向に理解していないようであった。
「でも……先生……あの人は私にとって大切な人なのです……」
いかにもか弱い女性を演じる遥佳に名執はいらつきすら覚える。
「看護に私情は必要ありません。それに貴方では力不足なのです」
「先生は私の邪魔をするのですか?」
遥佳は突然、怒りにも似た瞳を名執に向けた。
「勘違いして貰っては困ります。貴方はまだ正看護婦ではないのですよ」
見下ろすように立ち上がり、名執は更に言う。
「先生……お願いします……」
瞳が潤みはじめた遥佳は今にも泣きそうであった。しかし名執は涙で誤魔化されはしない。
「帰りなさい。話は終わりました」
名執は冷たい声で言った。
「分かりました……でも……諦めません……」
遥佳はそう言って出ていこうとしたが、それを篠原が追いかけ廊下で遥佳を捕まえた。そんな様子を名執は見てはならないと思いながらも開け放たれた扉からは、二人の様子がよく見えた。
「篠原さん……」
「遥佳さん……どういうつもりですか?あんな奴の看病なんて……どうして出来るんです?だって貴方は酷い目にあってるんですよ」
理解できない……という表情の篠原は必死になっている。だが遥佳の瞳には篠原が映っていないことを名執は知っていた。
「私にとって大切なのは隠岐さんだけなの……」
篠原からの視線から遥佳は避けるように顔を床に向けた。多分篠原の話していることの十分の一も聞いていないのかもしれない。
「今は俺がいるじゃないですか!どうして、隠岐なんだ!」
「私と隠岐さんは運命によって結ばれているの……誰にも邪魔させない……」
その瞳は篠原ではなく名執に向けられた。何か私怨がこめられたような瞳に背筋がぞっとする。利一と名執のことは遥佳は知らないはずだ。多分、墓参りの時に一緒にいた名執のことを利一の親友とでも思っているのだろう。そんな相手すらいま遥佳にとって邪魔な存在でしかないのだ。
「でも俺と今はつき合ってるでしょ。もう隠岐なんて……」
篠原は何も分かっていない。哀れな男は目の前にいる遥佳を未だ信じているのだろう。
「貴方とつき合ってなんかいないわ……私の全ては隠岐さんの物なの。昔から……ずっと……約束したもの……」
そう言った遥佳の目は半分夢を見ているようであった。
「遥佳さん……」
「帰ります……」
篠原の掴む手をふりほどくと、遥佳は去っていった。その後ろ姿をみながら篠原は呆然と立ちすくんでいる。
「篠原さん……」
名執は篠原が遥佳によって上手く利用されていることを知っているせいか、酷く心が苦しかった。何も知らないのは篠原だけだからだろう。
「先生……俺……分からないです……」
振り向いた篠原は今にも泣きそうな表情をしていた。
「廊下では誰が聞いているか分かりません。もう一度入って下さい」
名執が言うと篠原は、惚けたように椅子に座った。
「本当に暴行されたとして、あんな風に振る舞えるでしょうか?」
名執は再度、尋ねるように聞いた。
「分かりません……」
頭を左右に振る篠原は、今の出来事を信じたくないのだろう。だが事実は事実として受け止めてもらわなければならない。
「篠原さん……」
「先生……昼間……隠岐から電話があったんです……。俺……それも隠岐の作り話だと思って……酷いことを言ってしまった。俺は……信じたくなかったんです」
途切れ途切れ話す篠原は頭を垂れたままボソボソとした口調で言った。
「どういう話しですか?」
「隠岐が……遥佳さんにつき合ってくれなかったら俺を犯罪者にするって脅されたって言ってました。でも隠岐は自分には大切な人がいるからその人を裏切ることは出来ないって……でもそれを完全に断ったら……俺が犯罪者になるから……それも出来ないって……」
篠原の瞳が涙で潤んだ。
「篠原さんが……犯罪者とは一体どういうことですか?」
その話は知らなかった。
「俺……遥佳さんと男女の関係になったんです……。最初、彼女とそうなったとき、朝にはもう帰っていませんでした。でも……隠岐が言うには……遥佳さんは……その足で病院に駆け込んだって……。自分で服を切って……汚して……襲われたと言って……証拠を……病院に……。それで……今は思い出せないといってるけど……隠岐がうんと言ってくれなかったら、俺のことを思いだしたと言って告発するって……俺は……どうなんですか?隠岐は嘘をついたんですか?それとも本当の事なんですか?俺は……何が本当の事かもう分からないんです」
篠原は浮かんだ涙を手の甲で拭い、呻くように言った。
「……」
名執は絶句してしまった。遥佳がそこまでするとは想像すら出来なかったからだ。
「私は……隠岐さんが嘘をつくとは思えないのです……。貴方に知らせたのも……早く貴方に目を覚まして貰いたかったのだと思います。隠岐さんにとって貴方は大切なパートナーであり友人ですから……。私はそう思います……」
言いながらも名執の気持ちは遥佳の方に移っている。
一体彼女はどういう人間なのだろう。心の病の種類はなんなのか。そればかりを考えていた。
「俺……俺はどうしたら……」
途方に暮れた顔の篠原であったが、名執も同じように途方に暮れそうだ。
「今は……何も出来ません。……貴方は隠岐さんの所に戻ってあげて下さい。無事に出てくるのを……待っていてあげて下さい」
「……分かりました……」
篠原は完全に精気が抜けたようにふらふらと立ち上がると、出ていった。名執は篠原が出ていったのを確認してから扉を閉め、椅子に深く座り込む。そうして肘をつき、手を組み合わせて額に当てると、今までのことを思い出しながらリーチ達の手術が終わるのを待つことにした。とにかくリーチと話がしたかったのだ。
追いつめられすぎるとリーチは何をするか分からない。それが名執の悩みであった。対象が男であれ、女であっても、リーチは自分たちを、そして今の環境を守るためならどんなことでもする男なのだ。名執はそれを良く理解していた。
そこに来客があった。そろそろ来るだろうとは思っていたがやはりやってきた。
「幾浦さん……」
顔を上げると幾浦は腹立たしそうに、ソファーに自ら腰を落とした。