「春酔い」 第6章
「隠岐さん。検査結果は異常なしです。明日あたりから打撲をしたところがかなり痛むと思いますが、しばらくは我慢して下さい」
その名執の口調は医者であるときのものだった。
「な、ユキ……んなこといいからさ、……で、見たのか?」
表情を窺いながらリーチは言った。
「見たとは?」
俯き加減の名執の顔が上がる。
「いや、いいよ」
見ていなかったらそれで良いとリーチは思ったが、どうも名執の様子が腑に落ちなかった。視線がリーチに固定されず、チラリとこちらを見ては逸らすを繰り返す。
「遥佳さんが泣きながら貴方の病室から飛び出したことですか?」
暫くすると言いにくそうに名執は口に出した。やはり見ていたのだ。
「……見たんじゃないか」
不満げな表情でリーチは名執に言った。
「私のタイミングが良かったのですね」
名執の言い方には何処か嫌みが入っている。だが、悲しげな表情もそこにはあった。
「そう言うなよ……」
身体を起こしてリーチはため息を付く。
「で、何があったのですか?」
問いつめるように名執は言った。
「いや、大したことじゃないんだけど……」
ため息のような息を吐いてリーチは名執からの視線を外す。
「その事も話せないと私に言うのですか?」
名執には珍しくきつい口調だ。その様子からかなり腹を立てているようであったが、リーチには名執が何に腹を立てているのかまでは分からなかった。
「お前……昼間、篠原から何を吹き込まれたんだよ」
そうリーチが言うと、今度は名執がため息を付いた。
「そうやって私のことは話させるのに、貴方は自分の事を話してくれない……。何も……何もです。そんなの……不公平です」
辛そうな顔の名執がそこにいる。分かっているのだがリーチもどう説明して良いのか分からないのだ。
「春菜のことは待ってくれるって、お前、言っただろ」
「春菜さんのことは待ちます。貴方との約束ですから……。ですが遥佳さんのことも貴方は黙ってる。何か後ろめたいから話してくれないのですか?」
悲しげに、眉を顰めた名執は精一杯、強気になろうとしているのが窺われた。何より滅多に名執はリーチに対し、こんな態度は取らないのだ。それだけ名執が遥佳の存在に心を乱されていることをリーチは敏感に感じ取っていた。
「後ろめたいことなんかある訳無いだろ?」
軽い笑みを浮かべてリーチは宥めるように名執に言った。
「無いのなら、どうして話してくれないのですか?」
「色々ごちゃついてるからな。上手く話せないんだよ。お前が心配するようなことは何もないから……気にするなよ」
どんどん落ち込みを見せる名執を浮上させようとリーチは言ったが、どうも逆効果にしかならなかったようだ。
「……そうですか」
名執は目線を落とした。
「……だからさ、その……」
リーチが更に言おうとすると、名執は不意に顔を上げて言った。
「隠岐さん、もうお帰りになられても結構です」
名執はリーチの腕の点滴を外すと病室を出ていった。もちろん後ろを一度も振り返らずに出ていったのだ。
「……怒ったかな……」
頭をかきながらリーチはトシに言う。
『怒ったよ。僕だって怒るよ。違う、雪久さんは悲しいんだよ。リーチがちゃんと説明してくれないから……。だってリーチ思いっきり雪久さんのこと無視してない?』
トシまで怒っていた。
『無視してなんかないぞ』
ムッとしたリーチは、今の苛立ちの矛先を何故かトシに向けてしまった。
『してるよ。リーチがもし、今の話を雪久さんに関係の無い事だから話さなかった……なんて言ったら、僕、本気で怒るからね』
だがトシも負けてはいない。
『関係ないとは思ってないけどな……。遥佳さんが俺に告白してきたって言えるか?』
余計に名執を心配させると思ったから、リーチは話さなかったのだ。いや、話せなかった。
『言えば良いじゃないか。その後で、俺にはそんな気は無いって言ってやれば雪久さんだって安心するんだろ』
むーっと怒りを蓄積させながらトシは言った。どうも自分に立場を置き換えて腹を立てているようであった。
『でもな遥佳さんは春菜にそっくりなんだぜ。そんな遥佳さんに告白されたって言ったらユキだって嫌だろう……』
リーチはリーチなりに考えて、名執にああ言ったのだ。
『僕は隠される方が嫌だ。もし恭眞がそんなこと隠してたら絶対嫌だよ。自分の好きな人に誰かが告白したって聞いたら、そりゃあ気分は悪いけど、知らないより知ってる方が安心できるもん。知ってたら、その人がもし恭眞につきまとっているの見たとしても納得できるしさ』
受けの考え方はいまいちリーチには分からない。だがそんなことを口に出そうものならトシに何を言われるか分からないと思ったリーチは言わなかった。
『そうなんだろうか……』
『そうだよ。ちゃんと今晩話してあげてよね。可哀相だよ雪久さん……』
同情した声でトシは言った。
『黙ってる方があいつの為だと思ったんだけど……。色々心配させたくないんだよ。ほら、同じ職場にいるしさあ……』
話した方がいいのか、悪いのかリーチにもよく分からない。
『知らなかったらいいけど、雪久さんはもう遥佳さんのこと知ってるんだよ。知ってるのにリーチが話してくれないんだったら、変に考えちゃうかもしれないよ。僕はそっちの方が心配なんだ。だってリーチと立場が逆だったら、雪久さんに問いただすだろ?』
痛いところをトシは突いてきた。
『んー……どうだろ』
リーチは誤魔化すようにそう言って天井に視線を向ける。こういう時、トシは的を射てくる発言をするから困るのだ。
『リーチって、雪久さんに言い寄る男とか女とかすごい嫌だろ。で、その言い寄る奴が警視庁にいたら絶対切れてるよ……』
その通りだ。
『ま、そうだけど……』
またため息をつきながらリーチがベッドから降りると、携帯が鳴った。
「隠岐ですが……はい」
電話は警部の田中であった。
「隠岐、すぐに戻ってこい。自宅に戻って何泊か出来るように準備して登庁しろ」
「あ、はい」
「中際の件で道庁から説明して欲しいと要請があったんだ。電話ではあちらさんが納得していないらしい。解剖結果が出た時点であちらに飛ぶから、用意してこい」
いつものことだが、刑事に暇はない。
「はい。分かりました」
言ってリーチは携帯を切り、ポケットに戻した。
『今週は会えそうに無いな……』
『来週一日くらいなら譲ってあげるよ』
トシはそう言って笑みを浮かべた。気持ちの優しいトシはいつもリーチ達に何かあるとこうやって自分のプライベートを譲ってくれるのだ。
『ああ……頼むよ』
リーチは名執のことを考えながら病院を後にした。
名執は自室に戻ると、深いため息を付いた。
「リーチ……」
考えれば考えるほど、遥佳の事が気になって仕方がないのだ。どうして遥佳が泣いていたのかが気になってしかたない。もちろん、リーチがああいうのだから大したことは無いのだろうと考えるのだが、故意にリーチが隠そうとしている気がして仕方ない。
後ろめたいことをしているのだろうか?
それともやはり春菜と似た遥佳が気になるのだろうか?
考え込んでいると田村が慌ててやってきた。
「どうしました?」
田村は名執の座る椅子の隣に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしてため息をついていた。
「名執先生。ちょっと愚痴を聞いてください」
顔を上げた田村がそういうので、名執は驚きながらも頷いた。
「結城さんのことですが、気分が悪いといって帰ってしまったのです」
「えっ」
気分が悪いというのは先程の事が原因なのだろうか?だがリーチに詳しいことを聞いていない為、確信が持てなかった。本当に体調が悪いかもしれないのだ。
「理由を聞いても答えてくれませんでしたし……。外科で預かっている看護研修生ですので本来ならば外科主任の名執先生に許可を貰うのが筋ってものなのに、伝えて置いて下さいといって帰ってしまうなんて……」
どうしましょうという表情で田村が言った。
「分かりました。許可しましょう。書類の方は田村さんが代理で提出して下さい。婦長さんと院長先生には私から伝えておきます。結城さんのお宅には田村さんの方から連絡願えますか?」
「はい。先生……ありがとうございます」
田村はぺこりをお辞儀をすると、出ていった。
一体何があったのでしょうか……。
名執は更に考え込んでしまった。
リーチが準備を整えて警視庁に戻ると、警部の田中は既に待機していた。問題の解剖結果は夕方に届けられ、それらを携え二人は羽田に向かうと札幌行きの飛行機に乗った。
そうして飛行機を降りる頃、既に辺りは暗くもう春だと言うのに吐く息が白くなる。東京では見られない満天の星空を見ながらリーチ達はホテルには寄らずに空港から道庁に向かい、中際の事件を担当している警部の津波に会うと、遅くまで話し合った。その後津波の薦めで小料理屋で遅い夕食を取り、日付が変わる頃ようやく開放されてホテルに入ることが出来た。
ホテルは道庁の方が用意してくれたのだが、時期的に何処も満室であったため、仕方なしにダブルの部屋を二人で使うことになった。
早々に布団に潜った田中を見届け、そこから一時間ほど経ってからリーチは名執の自宅に電話を入れることにした。時間的に遅かったが、気になるとすぐに行動を起こさなければ気が済まないのはリーチの性格なのだ。
「……リーチ……?」
名執の方は当然眠っていたようで、目を擦りながら名執が電話を取っているのがリーチには想像がついた。
「遅くに電話して悪いんだけど、今週はもう会えそうにないからさ……」
リーチは窓際の椅子のところで座り込み、ぼそぼそと小さな声で話す。田中に気付かれては困るからだ。
「そうですか……」
名執の沈んだ声がリーチに聞こえた。普段事件で会えない事を連絡するときはこんな風に沈んだ声で名執は話さない。多分、昼間のことが尾を引いているのだ。
「今さ、仕事の関係で北海道にいるんだ。だから帰る頃にはトシに交代するけど、来週のうち一日は、トシも譲ってくれるって言ってるから……」
ちらちらと田中が丸くなっているベッドを見ながらリーチは言った。
「忙しいのでしたら……別に無理には……」
「ユキ……その……な……。昼間のことなんだけど……ごめんな……。お前が心配なの分かる。遥佳さんのことだけど、ユキに心配かけるのが嫌だったから、お前の知らないうちに何とかしようと思ったんだ。けど、トシに怒られちゃってさ、変に隠すと何も無いのに誤解されるよって。で、さ。ユキ……もしかして誤解してたとかいう?」
どきどきしながらリーチは聞いた。
「誤解はしておりませんが……妙だとは感じております。それより……リーチが何も話してくれない事の方が……私はとても辛いんです」
電話のむこうで名執がどんな表情でいるのかが手に取るように分かる。あの薄茶の瞳を潤ませているのだ。そんな名執をリーチは望まなかった。自分のことが原因で、悲しまれるのは嫌なのだ。
だが、今、名執はきっとリーチが見たくない表情になっているに違いない。それもこれも自分が話さなかったからに他ならない。
ここに来る前に名執に話さなかったことをリーチは本当に後悔した。
「ごめん……。ちゃんと話す。その代わり、あんまり気分の良い話じゃないぞ。それは分かってくれるか?」
「知らせてくれない事の方が私は嫌です」
名執は速攻返答した。
「今、時間いい?」
「ええ」
名執がそう言うとリーチはこれまでの事を話し始めた。意外に時間が掛かったが、名執はずっと聞き役に徹してくれていた。
途中でのどが渇いたが、リーチは全部話すまで携帯を話さなかった。その話が終わると名執が篠原から聞かされたことを教えてくれた。
「……篠原、滅茶苦茶誤解してる……」
うんざりしながらリーチは言った。
「リーチ……気をつけた方が良いかもしれません」
心配そうに名執は言った。
「気をつけてるよ。下手に優しくすると誤解するタイプだから突き放す態度を取ってるし。それより俺が心配なのは遥佳さんが春菜に似てるからって、お前が誤解するかもしれないってことだけ心配なんだよ」
遥佳と春菜は違う。それははっきりとさせておきたかったのだ。
「私は大丈夫です」
ようやくいつもの名執の声をリーチは聞いた。その声を聞いてリーチもホッとした。
「参ったよ。似てるって事だけでも気味悪いのにさ、私とお姉さんは同じですとか言われると怖くなってきてさ……で、俺はなんにもしてないのに泣かれるし……」
何もしていないということをやや強調してリーチは言った。
「それは少し精神に問題があるかもしれません」
すると名執は驚くようなことを言う。そこまで言わなくても……と、リーチは思った程だった。
「……まぁ。今日の事で遥佳さんも俺が何とも思ってないって分かっただろうから、自然に向こうから避けてくれるさ。でも、お前の意見は違うのか?」
医者の意見は聞いて置いた方が良いとリーチは考えた。
「ええ、ちょっと常軌を逸してるようなところが見受けられます。自分を他人と同一視すること自体問題があるのです。人間は生活する中で無意識に他人と違うという事を表現しながら生きているのです。それが個性なのですが……。その個性を自分で否定して他人と自分を同一視するのは精神に問題があります」
携帯の向こうには確かに医者の立場で物事を判断している名執がいる。
「そっか……で、俺はどうしたらいいと思う?」
専門的なことはリーチにも分からない。
「そうですね、遥佳さんは今、休みを取られていますので……というより貴方との事があって、ショックで帰ったのだと思いますが、病院に来られたら一度私が話をしてみます」
ショックで帰ったと言われても、リーチにはそれ自体が鬱陶しく思うことでしかなかった。
「ショックね……勝手にショック受けくれていいよ。俺にはお前がいるし、お前以外に魅力を感じねーんだから仕方ないだろ。悪いけど、あれっぽっちの事でショック受けた~なんていうのも腹立つけどよ。もっとむかつくのは周りにそんな姿を見せながら仕事をほったらかしにする奴だ。冷たいかもしれないけどさ……」
警視庁にもやたらそんな姿を見せる婦警がいるが、馬鹿な警官達にちやほやされて喜ぶ姿を遠目に眺めては、いつも馬鹿馬鹿しいとリーチは思っていた。
「そうですね……」
「あっれーユキがそう言うことに同意することもあるんだ」
リーチは意外だというように名執に言った。
「いえ、リーチの判断は適切だったと思うからですよ。別に遥佳さんに嫉妬しているから意地悪したいという意味で同意した訳では無いんです」
ちょっと笑いがこもった言い方だった。やっといつもの名執に戻ってくれた事が分かったリーチは嬉しかった。話して良かったのだろう。リーチ自身のもやもやも随分とすっきりとした。
「ユキ……今週はあんまり会えなかったから寂しいな……」
窓の外に見える町の灯りを見ながらリーチはぽつりと言った。
「私も寂しいです……」
「埋め合わせはちゃんとするから……」
といったところで後ろから声を掛けられた。
「隠岐……何ぼそぼそ話してるんだ?」
小さな声で話をしていたはずが、どうも田中に聞こえたようで、眠っていたはずなのにむっくり起きあがってこっちを向いていた。
「あ、警部……な、何でも無いです」
ささっと携帯を後ろに隠したが、めざとい田中に見つかった。
「ん?電話?こんな時間にか……ははぁ……彼女に電話しとるのか」
はははと笑いながら田中は言った。
「え、あ、はい。済みません起こしてしまいました」
「隠岐はいい男ですよ!振らないでやってくださいよ」
電話向こうにいる名執に聞こえるように大きな声で田中は言った。何故か笑い声も伴っている。
「警部……や、止めて下さい……」
名執の方は田中の叫びが聞こえたのか、電話向こうで、くすくすと笑っていた。
「じゃ、その……帰ったら連絡しますね」
利一モードに切り替えてリーチは言った。
「ええ、待っております。お休みなさいリーチ」
「お休みなさい」
「んー……青春だなぁ。わしも昔は……」
田中はもにゃもにゃ言いながら又布団に潜る。
「お休みなさい警部」
リーチが言うと田中は布団から手だけを出して振った。
札幌に一泊し、翌日はまた道庁に出かけ会議に出席し、警視庁にはその日の夕方に戻った。そうして管理官である田原のところに向かうと道庁での報告をした。
「そうか……ご苦労だったな……」
田原は忙しいのか言いながらスーツの上着を羽織っていた。
「何処か出られるんですか?」
田中が聞くと田原は苦笑していた。
「会議だよこれから……」
「そうですか。では失礼します……」
田原とともに管理官の部屋から出ると、そこで田中が言った。
「ああ、隠岐はもう今日は帰って良いぞ。どうせ青山の方の地取は今日は無理だろうしな……わしは一旦向かうが、向こうにも伝えておくから帰ると良い。まだ身体は痛いはずだからな……悪かったなつき合わせて」
「いえ、仕事ですから……。じゃあ今日は甘えさせてもらいます」
にっこり笑ってトシは、田中を見送ると、そのまま帰らずとりあえず自分の席に戻って、メールのチェックだけはしようと歩き出した。
三係りのあるフロアは静まりかえっており、留守番の婦警が一人電話を対応しているだけだった。目線が合ったので、小さく手を振ると向こうも話しながらもにこやかな笑みを向けてくれた。
それを通り過ぎてトシは自分の席に座ると、メールをチェックするためにパソコンを開けた。そこに篠原がやってきた。
「篠原さんただいま」
「……」
篠原は酷く暗い表情をしていた。
「どうしたのですか?体調でも悪いのですか?」
心配そうにトシが篠原の顔を覗き込むといきなり篠原はトシの頬を殴った。殴られたトシは床に転び、篠原の方を向いたが、何がなんだか訳が分からなかった。
『なんなんだ、どうしちまったんだ篠原は……トシ代われ』
リーチの方も突然のことで驚いていた。