Angel Sugar

「春酔い」 第8章

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 翌日、捜査会議に参加するため練馬の捜査本部に向ったトシであったが、会議室で自分の席に着こうとすると篠原とすれ違った。
「篠原さん」
 昨日のことは無かったかのようにトシは笑顔で声を掛けたが、篠原はこちらをちらりと横目で見ただけにとどまり、何も言おうとはしない。いや、どちらかというと話すこと自体拒否しているようにトシには見えた。
『思いっきり無視ってとこか』
 リーチがやれやれという風に言う。
『当分ああいう態度を取ると思うよ……だけど……大丈夫かな……』
 トシはため息を付きながら配られた資料に目を通しはじめた。だが心の中では篠原の事が心配で仕方がない。
『仕事に差し支えないなら俺はいいんだけどな。ただ、あっちが嫌でも俺ら、ペア組んでるんだからさ』
 今度は苦笑している。
『誤解だって分かってくれたら良いんだけど……』
 そうトシは考えていたが、今の篠原を見ていると、こちらの言い分に耳を傾けてくれる雰囲気はほんの少しも見あたらない。だから余計に蒸し返すことが出来ないでいた。こればかりは篠原が歩み寄ってくれなければどうにもならない。
『頭に血が上っている奴は扱いにくいからなぁ……』
 ため息をリーチは付いた。
『でもさ、遥佳さんって……なんだか怖い人だと思わない?』
 最初は春菜さんに似た綺麗な人だなぁ……と気楽に考えていたのだが、今では外見と中身が違いすぎてトシには遥佳という人間が理解できないのだ。
『怖い通り越して不気味だって……。事もあろうか隠岐利一を犯罪者扱いだぜ。それも婦女暴行罪。一体どういうつもりなんだよ遥佳さんは……。冗談じゃ済まないぜ』
 同じようにリーチも考えているようだった。
『分かんないけどさ……本当に告発されたらどうする?』
『ユキん家に電話をかけた記録が電話会社に残ってるだろ。確か二時間くらい話してたから、とりあえずそれで逃げ切れるだろうと思うぜ。昼間は田中さんと一緒だったし、俺は嫌だったけどホテルも同室だったからな。だからもしそんなことになっても何とかなる。あん時、よく電話してと思うよ』
 ホッとしたようにリーチは胸をなで下ろしていた。
『ホントだね……』
 そうこうしているうちに会議が本格的に始まり二人はそちらに意識を集中することにした。もちろん篠原のことが心配であったが、当分口を利いてくれそうに無いのだがら仕方がない。
 こういう場合はそっとしておくのが一番だから。

 会議後、割り当てられた聞き込みを当然篠原と一緒にトシは行い、昼過ぎに一旦切り上げると、食事を摂るために喫茶店に入った。しかし篠原の方は仕方なくペアとして同じ机に座っているという感じだ。朝からの態度よろしく、篠原はこちらに視線を合わせることを一切せずに窓から外の景色を眺めている。
 気味が悪いほどの沈黙を耐えながらトシは注文を済ませた。同じように篠原も注文をする。トシは沈黙を続ける篠原に、料理が運ばれてくる間に何か話そうと考えたが、携帯が鳴った事で結局話せずじまいに終わった。
「ちょっと外しますね」
 トシはやはりいつも通りに篠原に言ったが返答は無い。仕方なしにトシは立ち上がると喫茶店の外に出て携帯を取った。
「隠岐です」
「トシさん?」
 相手は名執であった。
「はい。あ、変わりますね」
 トシは気を利かせてすぐにリーチと交替した。
「今、宜しいですか?」
「大丈夫ですよ」
 既にトシと交替したリーチが言う。
「大変なことになったようですね」
 名執は笑いを一切含まない口調で言った。それは名執がリーチ達の置かれた現状を理解しているからだろう。
「そうなんですよ……困っているんです。篠原さんがあのことを信じてしまっていて、全くこちらの言うことに耳を貸して下さらないのですよ。その上、責任を取って遥佳さんと一緒になれとまで言われました」
 笑いながらリーチは言ったが、名執の方は暫く声がなかった。
「先生?」
「リーチ……結城さんは私の方にも相談に来られました。はじめは驚きましたが、結城さんが話してくれた時間帯に、私たちは電話をしていたことを思い出して、彼女が言うことは嘘だと分かったのです。ですがもし、貴方とあの時電話をしていなかったら……今頃、大変なことになっていたのではないかと考えますと……背筋が寒くて……」
 言いながら名執は本当に震えているだろうとリーチは予想できた。そんな話し方である。
「あ、先生って、もしあの時電話をしていなかったら私のことを信じてくれなかったとか言います?」
 名執の不安を取り除くように穏やかな声でリーチは言った。
「いえ、そんなことはありませんが……やはり少しは気になったと思います」
 今度はホッとしたような声だ。
「ところで先生、どういった相談を受けたのですか?」
「泣きながら……隠岐さんに無理矢理……」
 といって名執はクスッと笑う。
「……はぁ……笑わないで下さいよ。私がそういうことをした相手は先生だけですよ」
 と、思わず言った台詞にトシが驚いたように声を上げた。
『え、リーチそれどういうこと??』
『何でもねーよ』
 こんな状況であったが照れながらリーチは鼻の頭をかいた。
「ですが、貴方を愛しているから、そんなことはもうどうでも良いそうです。身体だけでで、心が伴っていなくてもいいと……。ただ、貴方が優しいのは二人だけの時で、他に人がいるととても冷たい態度をとることが辛いと言ってました」
 不思議そうな名執の反応だ。当然だろう。リーチ達は遥佳と二人きりになって今まで何かあったわけではないのだ。逆にそういう嘘をどうして簡単に付けるのか理解に苦しむ。
「……困ってるんです。私は後ろめたいことは何もしていません。あの人に僅かながらの愛情も持ち合わせていないのです。それなのに結城さんは一人で妄想の世界を作り上げてそれを現実だと思っているのです。私は告発されても構わないと篠原さんにタンカを切りましたが、本当にそんな事態に陥ると結城さん自身も辛い立場になるでしょう。どちらも無傷では済まない。それが心配なのです」
「リーチ……私は心配です。そんなことよりもっと心配なことが……」
 また名執は真剣な口調に戻った。
「なんですか?」
「結城さんはどんなことをしても貴方を手に入れたいと思っているようです。貴方が不利な立場になったとしても、自分が傷つこうともそんなことは些細な事だと思っているようです。私が恐れているのは結城さんはパッと見た印象では、大人しく、清楚で美しい女性です。彼女が嘘を言ったとしても他の人には分からないでしょう。貴方が疑われる可能性の方が高いんです。確かに私から見ていると結城さんには精神的な問題も見受けられますが、こちらの情報が少なすぎてまだ判断が出来ません」
 医者である名執であるから分かる事なのだろう。
「私の様な人間じゃなくても、もっと立派な人は沢山いると申し上げたのですが……」
 突然会った瞬間から心酔されるほど利一が魅力を備えているとは思えない。なのにどうして遥佳が利一にこだわるのか全く理解が出来ないのだ。
「結城さんは自分自身を春菜さんと同一視しています。その理由は分かりませんが、春菜さんが大切に想っていた隠岐利一という人間は自分にとっても大切であると思われています。ですので今の結城さんはどうして貴方が自分を受け入れないのか?それが今の結城さんの悩みなんです。彼女は自分が愛しているのだから当然隠岐さんも自分を愛してくれるはず。そんな信念の様なものを結城さんが今、持たれていると私は感じました」
 リーチはそれを聞いてぞっとしたものが身体を這った。
「……そんな……一方的に想われても私には応えることは出来ません」
「応えてもらえるように必死になっているのでしょう」
 意外に名執の口調は冷静だ。
「……困りました……」
 こんな事ははじめてで、リーチもトシもどう対応して良いか分からない。
「リーチ……本当に気をつけて下さい。結城さんの事はこちらで少し調べてみますが……私は心配で……。ああいう方は扱いを間違えると大変なことに……」
 受話器を握りしめて名執は話しているのだろう。それが分かるように声のトーンが上がった。
「大丈夫です。心配しないで下さい」
 名執はただでさえ心配性なのだ。それを宥めてやらないと、一日悩んでいるに違いない。リーチは名執がこんな些細なことで悩む姿など見たくないのだ。
 いや、本当は巻き込みたくなかった。
「リーチ…」
「あ、切ります。篠原さんが来ましたので」
 それだけ言うとリーチは携帯を切った。と、同時にトシと交代する。
「済みません。すぐ戻ります。ちょっと電話が長引いて……」
 慌ててトシがそう言うと篠原は訝しげな目をこちらに向けた。
「俺は済んだから先に行くぜ……。お前の分は置いてあるから……」
 チラリと見ただけで逸らされる視線がトシには辛い。何故篠原とこんな風になってしまったのか。それを考えると情けない気持ちにもなる。
「え、あ、篠原さん……でも……」
 トシはこんな状態は耐えられなかった。どうにかして篠原に分かってもらいたかった。
「一つ聞くけど……今の電話遥佳さんじゃないよな……」
 突然思いもしない言葉が飛び出し、トシは硬直しそうになった。何故そんな事を聞かれるのかそれこそ分からない。
「違いますよ……で、篠原さん」
 去っていく篠原を呼び止めるようにトシは言ったが、こちらを振り向かずに篠原は行ってしまった。
「……行っちゃった……」
 上げた手を下ろしてトシは更に肩も竦める。
『放っとけよ。お前は飯でも食いに帰れ。今あいつに何言っても信じてくれないんだからさ。もう少し落ち着いてからしか無理だって。あいつも頭が少し冷えたら自分が馬鹿なことをしてるって理解できると思うしな……』
 仕方なさそうな声だ。だが確かにトシもそう感じる。篠原がああでは会話も成り立たないだろう。逆にまた殴られそうな気もした。
『なんだか辛いね……篠原さんにあんな態度取られるなんて……』
 警視庁に移ってからずっとトシ達は篠原とペアを組んできたのだ。そうであるから互いの性格は分かり合っていたはずである。それなのに篠原はこちらの言うことに耳を傾けてくれない。全くだ。
 だからこそ自分たちが信じて貰えなかったことに言いようのない寂しさを感じるのだ。
 仕方なくトシは喫茶店に一人で戻り、頼んだサンドイッチを食べようとするとメモが置いてあった。それは篠原の筆跡だった。

 俺は今、遥佳さんとつき合ってる。お前のしたことは許せないが今更言っても仕方ないから二度と言わない。俺は思い出したくも無いからな。だからもう遥佳さんに会うな

『どういうこと?』
 トシは手に取ったサンドイッチを無意識のうちに皿に落としていた。それほど動揺したのだ。
『しらねーよ』
『篠原さん……絶対何かに利用されようとしてると思うんだけど……』
 心配は益々膨らんでいく。だがどうにもならない。
『あいつに今言って聞くと思うか?』
 イライラとリーチは言った。
『どうしよう……』
 おろおろとトシは見ても仕方のない店内に視線を彷徨わせる。
『あっちの出方を見るしかないだろう。お前もさっさと食えよ。放って置くしか無いんだからさ』
『う……うん』
 トシは何とかしたいのだが確かにリーチの言うとおり、今は放って置くしかないのだろう。
『全く……篠原って……』
 不安な気持ちを二人は感じながら、トシは味のしないサンドイッチを頬張った。



 その週は何事もなく過ぎる様に感じていた。
 篠原は相変わらずこちらを無視していたが、ここまでくると仕方がないのだと諦めていたのだ。しかしその事で管理官の田原から呼び出しを受けることになった。
「篠原君と、どうなっとるんだね」
 嘘を付こうと思えばつけるのだが、下手に隠すとそれが本当に表で持ち上がったときにまずい立場に立たされると思ったトシは、はっきりと言った。
「篠原さんは私がある女性を暴行したと思っているのです」
 まっすぐ田原を見据えてトシは言う。
「それで?」
 田原は動揺もせずにトシの話を聞いていた。精悍な顔立ちの田原はキャリア組であるにもかかわらず、部下の話を良く聞き、そして何かあると必ず盾になってくれる男だ。だからこそトシ達も田原を信頼している。
 東北生まれらしいが、肌は程良く日に焼けて色白さはない。よく見ると地黒なのだろう。だが健康的な色だ。体格もがっしりとしており、腹もまだ出ていなかった。
 以前の事件の絡みでもうすぐ田原は昇進する。だがそれでも官僚によく見られる傲慢さは見られない。捜査一課でも群を抜いて周囲から信頼されているのがこの田原という男であった。
「先週の週末、私は警部の田中さんと北海道に行きましたが、そのとき私がその女性を呼びだして、暴行したと篠原さんは思われているんです」
 やや寂しそうな口調になったのは、まだ篠原と意志疎通ができていないからだ。
「で、隠岐はどうなのだ?」
 身体を乗り出し、膝で両手を組んだ田原はこちらを見透かすような瞳を寄越してくる。
「全く不愉快な事です。私はずっと田中さんと行動していましたし、ホテルも満室だったこともあって田中さんと同じ部屋で休みました。それに、その女性が暴行を受けたという時間に私は東京の友人と電話をしているのです。二時間ほどでしたが、記録が必要であれば電話会社に私は請求するつもりです」
 何も後ろ暗いところはないのだ。だからこそトシは胸を張ってそう言った。すると田原は乗り出していた身をソファーにもたれさせて口元に笑みを浮かべる。
 信用してもらえたのだろう。
「篠原君はそれでも隠岐君を信用しないのか?」
 不思議だという表情に田原はなった。
「その話しすらさせてくれないのです……。どうも軽蔑されてしまって……」
 とにかくここまで来るともうトシは笑えない。日々状況が悪くなっているような気すらするのだ。
「ふん……なるほど……」
「私が理解できませんのは、私が暴行したと女性が未だに話している事です。これは直に聞いたことはありませんが……。篠原さんが話していました」
 遥佳のことは既に理解を超えている。何故嘘を現実だと思いこめるのか。
「篠原も知っている女性なのか?」
 綺麗に手入れされているあごを撫で、田原は言った。
「その女性は、私の知り合いの従姉妹なのです。この間偶然再会しまして……そのあと、篠原さんと張り込み中に偶然出会いました。篠原さんはその時からのようです」
「知り合いの従姉妹……その知り合いには相談したのかね?」
 あごから手を放し、また田原は両手を組んだ足に置く。
「実を言いますと……その知り合いは私が元々つき合っていた方で……。数年前に病気で亡くなっているのです」
 春菜はもういないのだ。彼女から聞くことは出来ないだろう。
「そうか……聞いて悪かった」
 ばつの悪そうな顔で田原は頭をかいていた。
「いえ……」
「……で、何故その女性はそんな嘘を言うのだね?」
「……どう申し上げて良いのか……」
 困ったようにトシは田原と同じように頭をかいた。説明をしたくてもトシ達も聞きたいことなのだ。
 どうしてそんな嘘をつくのか?
 いや、つけるのか。
「君にその気が無いのにも関わらず、身に覚えのないことを言われ、付きまとわれていると言うことか?」
 今まで聞いたことを簡単にまとめるように田原は言った。
「その様です……困っているのですが、どうしていいものか……」
 考えても無駄なのだが、とにかくどうにかしたいのだ。だが何も方法が浮かばないのだから仕方がない。
「篠原には一度私からも話しておこう」
「申し訳ありません」
 トシは深々と頭を下げた。
「いや、君たちの様子がおかしいと小耳に挟んでな、気になったのだよ」
「お心遣い感謝します」
 トシはそう言って田原の部屋を退出した。
『話して良かったのか?』
 リーチが困惑したように聞いてくる。だがトシはあれで良かったと思っていた。
『ばれたときにややこしくなるだろ。こういう場合は先手を打っておいた方がいいんだって。ばれたときに話を知っているのと知らないとでは全然違うからさ……』
『それもそうだな……』
 感心したようなリーチだ。
『明日休みなのになんだか憂鬱だよ……僕……』
 はぁ~と大きなため息がトシから漏れた。このことだけで神経がすり減っているのだ。
『せいぜい、幾浦に可愛がって貰えよ』
 リーチはにやにやと口元を歪めている。すぐに気持ちを切り替える事が出来るリーチは幸せだとトシは常々思っていた。こればかりは性格だからどうにもならない。
『そういう下司な言い方止めてよね』
『何でも良いけど……俺は疲れたよ……どうせこのまま幾浦ん家に行くんだろ?俺スリープするぜ』
『いいよ。お休み』
 トシはリーチがスリープしたのを確認すると警視庁を後にして、表通りでタクシーを拾うとまず自分達のコーポに向かった。
 トシはいつもこうなのだ。
 幾浦のうちに泊まる日は必ず一旦自宅に戻り、自分の着替え等を鞄に詰めてそれらを持って向かうことに決めている。最近は少しずつ幾浦のマンションに自分の置いたものが増えてきたとが、それでも歯ブラシやパジャマくらいのものだ。
 トシはそれだけ生真面目なのだろう。

 コーポに着くとトシはタクシーの運転手に少し待って貰うように言い、コーポの階段を上がった。響く足音が意外に周囲に響き何とも言えない雰囲気が漂う。
 そんな中自分たちの部屋がある扉の前に遥佳が立っていた。
『うわああああっ!リーチ!ウェイクして!』
『んだよ……うわっ!』
「隠岐さん……」
 遥佳は見たこともない妖しいげな瞳でこちらを見つめた。
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