「春酔い」 第10章
「トシ……」
「ん……良いんだ……」
幾浦の肩の部分に顔を寄せてこすりつけたトシは、小さく息を吐く。すると幾浦の唇が頬の上部を滑った。
「恭眞……」
心地よい愛撫に瞳を潤ませ、トシは自分が好きである相手を見つめた。いつも自分だけに向けられる視線がそこにあり、期待を裏切らない瞳を返してくれる。
だから僕も裏切ることなんか出来ない。
トシはそう心で呟く。誰にも聞こえないささやかな決心だ。
「……あっ……」
ぼんやりと愛撫に酔っていた意識が、挿入されたモノの感触ではっきりとしたものに変わる。幾浦のモノはここに自分がいるんだという存在感を示すように、鈍い重みをトシの下半身に伝えた。
「……ああ……」
トシの内部がギュッと締まっている感覚が脳に伝わり、身体も幾浦のモノを悦んでいるのだと感じた。狭い中が肉厚なもので一杯になり、それが動くと内部の襞が擦り合わされて言葉では言い表せない快感が身体を這う。
「……あ……恭眞……っ……」
理性も、本能も、快感に押されて真っ白になりそうだった。遠くの方から粘着質な音が聞こえるのだが、恥ずかしいという気持ちもない。
ただ愛されている事だけが嬉しくて、堪らなかった。
僕の好きな人……
五感がすべて快感に支配されたような気分にトシはなる。突き入れられるごとに感じるものは確かなもので嘘ではない。このままずっとこうしていたいと本気で思うことだった。
「恭眞っ……好き……大好き……っ……」
自然に出た言葉はトシの本心だ。
「愛しているよ……トシ……」
耳元でそう返される言葉が、トシの瞳に涙を浮かばせた。
翌日、夜までをトシに譲って貰ったリーチは昼前に名執のマンションへ向かった。名執は夜勤であるため朝方にはうちに帰っているはずだ。
だが予想に反してマンションには名執の姿は無かった。リーチは仕方なしに頭を一人でかきながら、お腹が空いていたのもあり冷蔵庫を開けてみることにした。しかしめぼしい物は無かった。
もしかすると買い物に出かけているのかもしれない。と、リーチは考えながら、キッチンテーブルのかごに入っていたリンゴを一つ掴み、それを持ってサンルームに向かった。
リビングにあるサンルームは現在リーチのくつろぎの場だ。そこでお気に入りのクッションに頭を乗せ、外の景色を見ながらリンゴを食べた。
さて……どうしようか……
篠原に話した方が良いのだろうか?
話して分かって貰えなくても、一言、言って置いた方が良いのだろうか?
それより名執にはどう話せばいいのだろうか?
「がーーっ……どうすりゃいいんだよ」
床を転がりながらリーチは叫んだ。
暫くそうして、又ぼんやりと外の景色を眺めながら、ふとポケットの中の携帯を取り出してじっと眺めた。篠原に知らせた方がいいのか、それともこのまま沈黙を守った方がいいのか、随分とリーチは悩んだ。今の状態で篠原が耳を貸すと思えなかったから。
だが、話さないわけにもいかない。
リーチは決心して、篠原に電話をかけた。
「あの……篠原さん……隠岐です」
そう言うと篠原が息を潜めるのが分かった。緊張しているのだろう。
「ちょっと話があるんですが……」
「お前……管理官に自分の都合の良いように話しただろう……」
突然そう言った篠原の言葉にリーチは驚いたが、昨晩田原が話したのかもしれない。
「篠原さん……。私は都合のいいようになど話はしません」
リーチはやけに悲しかった。
「本当にお前って最低だな……こんな奴とは思わなかった」
吐き捨てるように篠原は言う。
「……もう……どう取っていただいても構いません。これから話すこともきっと信じて貰えないと思います。でも話しておかないと……私自身が納得出来ないのです」
こちらの言うことを聞き入れてくれないと分かっていながら……それでも話しておかなければならないことがある。リーチはそう考えていた。
「なんだよ……」
「篠原さん……私は遥佳さんに脅迫されていることがあります」
はっきりとした口調でリーチは言った。
「はっ……彼女にそんなことが出来る訳無いだろう」
馬鹿にしたような篠原の声だ。
「暫く聞いて下さい。遥佳さんは昨日の晩、私のコーポに来ました。それで、こんな風に言われたのです」
私ね……篠原さんと寝たの……
でもその後すぐに病院に行ったわ……身体に土を付け、服を切り裂いてね……
お医者様には自分が誰に暴行されたか覚えていないと言ったの。でも精液のサンプルと暴行された証拠の写真をいくつか撮っていただいたわ……私が思いだしたと言って篠原さんを刑務所に送ることだって出来るの。
「嘘だ!彼女がそんなこと言うわけがない!」
篠原の怒鳴り声が響いた。
「私は……どうして良いか分かりません。遥佳さんはその事を公にしない代わりに私とつき合ってくれと言われました。ですが私には既に大切にしている人がいます。その人を裏切ることは出来ません。ただ、だからといって完全に遥佳さんに断ってしまったら……貴方が社会的に葬られてしまう……。私はどちらも選べないのです。私にとって篠原さんはとても大切な友人だからです」
淡々とリーチは本心を話す。少しでも篠原に疑問を持ってもらいたかったのだ。
「嘘ばっかりつきやがって……。お前は人間として最低だよ。二度とこんなことで俺に電話してくるなよ!」
電話は切れた。
半ばリーチは結果を予想していたが、実際に篠原が分かってくれないと言うことが辛い。
『言って良かったの?』
後ろで聞いていたトシが言った。
『仕方ないだろ……。言うべき事は言っておかないとさ……。それにしてもユキは何処をほっつき歩いてるんだ……』
お昼になっても名執が帰ってくる様子がなかったので、リーチは外に出ることにした。春菜の墓参りに行くつもりであったのだ。
『雪久さんに会わなくて良いの?』
トシが心配そうに聞いてくる。
『んー帰ってきてもな、あいつ夕方から又夜勤だろ。寝かせてやらないときついしな……来週でいいさ……』
名執にどう話して良いか分からないから、適当に理由をつけているのか、それとも悲しむ名執を見たくないから話したくないのかリーチにも自分の気持ちが分からなかった。
『来週……』
トシがそう言ってため息を付いた。
そのころ名執はまだ病院にいた。院長の巣鴨と話し合っていたのだ。遥佳の経歴書を調べたところ推薦者が院長であったからだ。
「それで、何かまずいことでもあったのかね」
巣鴨は不思議そうに名執に言った。五十代を過ぎる巣鴨は、髪は白髪が混じりはじめているのだが老人には全く見えない。かといって中年にありがちなみなぎるものは無い。淡々とした穏やかさが巣鴨にはある。そんな会えば安心感を与えてくれる雰囲気を持つ巣鴨は患者達から絶対的な信頼を受けていた。
「いえ……失礼ですが、結城さんは院長先生のお身内ですか?」
院長室の重厚なテーブルの前に立ち名執は巣鴨に聞いた。
「身内ではないのだよ。私の友人の姪御さんなのだ」
言いながら巣鴨は両手を組み合わせ、机に置く。
「その方にお会いしたいのです」
名執が言うと巣鴨は首を傾げた。
「何かあったのかね?」
「今は申し上げられないのですが……少々問題が……」
「そうか……」
巣鴨は理由も聞かずに、引き出しから名刺を取り出すと名執に差し出してきた。驚きながらも名執はその名刺を受け取る。
「院長先生?」
「私は何も知らないが、結城さんに何かあったら連絡が欲しいと頼まれていたのでね」
口調からは本当に巣鴨が何も知らないかどうか名執には判断がつかない。
「……ありがとうございます」
名刺を手の中に入れたまま名執は院長室を出た。そうして自室に戻ると、名刺に印刷してある戸川義満という男性の会社に電話をかけた。名刺に書かれた戸川の役職が専務であったので、いきなり連絡をして、繋いで貰えるかどうかは分からなかったが、自分の身分を取り次ぎの女性に話して待った。
「戸川ですが……」
電話は意外に早く繋がった。
「警察病院外科主任の名執雪久と申します。突然お電話をおかけしましてまことに申し訳ないのですが、こちらでお預かりしている結城遥佳さんの事でお話がありまして、宜しければお時間を頂きたいのですが……」
「分かりました。先生、こちらからお伺いします」
速攻の返事に名執の方が驚いた。普通なら何かあったのかと質問するだろう。しかし戸川からそのような質問はなかった。
「ですがこちらに来られますと、結城さんとばったり会うかもしれません。出来ましたら外でお会いしたいのですが……」
遥佳とばったり会うことが無いとは限らないからだ。そうなると戸川の立場も悪くなるかもしれない。
「分かりました。私の方はいつでも構わないのですが、先生のご予定は?」
「今週一杯、夜勤ですので昼間しかお会いできないのですが……」
申し訳なさそうな口調で名執は言った。
「では今からお会いしましょう。どちらに尋ねて行くと宜しいでしょうか?」
そんなに急に決まるとは思わなかったので名執は何処にしようかと迷ってしまったが、とりあえず、戸川の会社前にある喫茶店で会うことになった。
「では二時にお会いしましょう」
名執は電話を切ってホッと安堵のため息を付いた。
リーチとトシは春菜の墓に花束を添え、水をかけた。
「春菜……今までお前には何度も助けて貰ったよな……本当ならもう死んでるんだ。感謝してるよ……でもさ、もう休んで良いから……。俺達の心配はしないでゆっくり休んでくれ……もう助けてくれなくて良いんだ……」
線香を立てながらそう呟くように言った。
周囲は酷く静かだ。時間が止まっている……リーチはそんな風にも思えた。
さわさわと渡る風は春のにおいを運んでくる。墓地内に植えられている桜が左右に花びらを揺らし、時折ピンク色の花びらを空中に舞わせていた。
桜……
花びらは空を舞い、まるで海の中に泳ぐ魚のようにユラユラと空中をだだよっては地上に落ちる。春菜を失った春。やはり桜が舞っていた。今よりも沢山風に舞っていた。
春菜……
桜が嫌いだった。
春が嫌いだ。
春菜を失い、地の底まで落ち込むような悲しい思いにとりつかれた自分をリーチは今も覚えている。それなのに周囲は花見だ、春だと浮かれた気分の人間で溢れていた。
リーチは悲しかったのだ。
悲しくて仕方がなかった。
それなのに、世間の何も知らない人間達は楽しそうに笑っている。その声が耳に入るだけで耐えられなかったのだ。
一人で泣いていたかった。
いつまでも春菜のことを思って悲しみにとらわれていたかった。
それを出来なくした季節だから嫌いなのだ。
名執に出会わなかったら……
永遠にリーチは春が、そして桜が嫌いになっていたに違いない。
「俺達……どちらも取れない……選べない」
それだけ言ってリーチは立ち上がった。
桜は相変わらず舞っている。
青い色彩に混じっていくつも風に運ばれていた。
酔いそうな程。
そこで現実から逃避させてくれない音が鳴る。警視庁からの呼び出しだった。
緊急の呼び出しで慌てて登庁すると既に捜査一課は大騒ぎになっていた。篠原の姿も見受けられたが、案の定無視をする。もうどうでもいいやとトシは思いながら現場へと向かった。
犯人は銀行強盗をし、逃げるのに失敗した。警官に追われながら近くの民家に押し入り、幼い子供を人質を取って車を用意しろと二階の窓から叫んでいた。狙撃班も投入されているのだが、相手が人質を盾にしているために標準が合わせられず、その民家を囲んで警察とにらみ合いが続いていたのだ。
必死の説得が続いたが、犯人は興奮して訳の分からないことを叫んでいた。子供は恐怖で泣き叫ぶ。
「……このまま興奮状態が進めば子供を殺して自分も自殺するタイプですよ」
トシは係長の田中にそう言った。それを聞いた田中も苦い顔をしている。どのみち動けないのだ。
『リーチ……どうする?』
トシが窺うように聞いた。
『まず子供だよな……』
う~んと唸りながらリーチは答える。
『人質を僕らと交換して貰うとか?』
そんな話をよくトシは聞いていた。
『刑事丸出しなのにか?』
だがリーチは呆れたような声をだした。
『記者の人の腕章借りてさ……駄目かな……』
いい方法だとトシは思っていたのだ。
『自社の違反になるはずだけど……』
思い出すようにリーチが言う。
『良心に訴えるてのはどう?』
『そうだな……』
『じゃあ。決まり』
周りをぐるりと見回し、トシは知り合いの記者を見つけると事情を説明して腕章を借りた。その記者は兵藤といって二人の同級生なのだ。だが条件がついた。兵藤自身がカメラマンとして同行すること。
スクープを狙いたいのだ。
「危険ですよ……保証できませんよ」
トシは諦めさせるように言ったが、兵藤は笑顔だ。元々熱血漢の男であるから、制止しても無駄なのだろう。
「お前がそんなドジを踏む訳無いと分かってるから付いてくんだよ。スクープ狙えるしな」
兵藤はこんなチャンスを無駄にするか……という気合いの入れようだ。
トシは仕方なしに田中に相談したが当然のごとく許可はして貰えなかった。だが、数時間膠着状態が続いた為、子供の体力を心配した警察側はトシの案を許可することにした。
何よりまず人質を無事に保護したかったのだ。
トシと交替したリーチは身体検査をして刑事だとばれることになると、また問題がややこしくなることが分かっていたため、それらを証明する物は全て婦警に預けると、兵藤から借りた腕章を腕につけた。
「なかなか似合うな……お前」
兵藤が肩からカメラを担いで口笛を吹く。
「……そうですか?ばれなきゃ良いんですが……」
苦笑してリーチが言うと兵藤は背中をバンと叩いて笑った。何が可笑しいのかリーチには分からない。
準備を整えた二人は警官隊で包囲されている場所から抜け、犯人が立てこもっている民家に近づいた。
「すみませーん。東西新聞の者ですが、取材させて貰って良いですか?」
ごく普通にリーチは言った。すると犯人は二階の窓から少しだけ顔を出し、こちらをじっと見据える。
「うるせー記者なんかくそくらえだ!」
次に銃をこちらに向けた犯人は、今にも撃ちそうな気配をさせて叫ぶ。その瞳には何処か虚ろで、狂気が混ざったものだ。こんな男相手に説得が利くかどうかリーチには分からなかったが、とりあえず更に言葉を継いだ。
「ですが、子供の人質より私の方が都合が良いと思うんですよ。子供と交替してもいいですか?子供は言うことを聞いてくれないし、ぐずると鬱陶しいでしょう?私は大人ですから貴方の言うとおりにします!約束しますから!」
「お前……どうせ警官だろ!」
「違いますよ。ほら証明書です」
犯人に見えるとは思わなかったが、緊急に作った証明書を犯人に見せた。遠目からは本物にみえるだろう。
「そうか……」
相手が迷っている気配がリーチにはした。そのとき暫く疲れて眠っていた人質の子供が又泣き始めた。その声で犯人は又苛つきだした。この状態が一番危険なのだ。
「貴方が何故こういうことをしたのかインタビューさせて下さい。きっと貴方は悪い人じゃない。何か理由があって強盗をしたのでしょう?世間の人に言いたいことがあるのではないですか?」
犯人はじっとこちらを見て、次に泣き叫ぶ子供を見る。そうしてまた視線をリーチの方に向けて「分かった、交替させる」といった。
リーチと兵藤はそのまま家の中に入り、二階に上がると扉を開けた。犯人は窓際の影になった部分に背を添わせ、銃を持っていない方の手で子供を抱えたまま、小さな頭に銃口を突きつけて佇んでいる。
その様子は鬼気迫るものがあった。
「余計な奴らは後ろにいないな」
虚ろな瞳が現実を見据えたようにはっきりしたかと思うと、また霞がかったような瞳になる。
「はい」
リーチは相手に聞こえるように大きな声で言う。
「じゃ、お前、こっちに来い」
手を上げてリーチは犯人の側に近寄った。犯人は銃を持った手で、リーチの身体検査をすると口元だけで笑う。
「妙な物は持ち込んでいないな。そこにいるカメラを持ったお前、自分の仲間を縛れ!」
「兵藤さんお願いします」
リーチがそう言うと、近くにあったロープで兵藤はリーチの手を後ろで縛った。だが犯人は壁にもたれ掛かったまま虚ろな表情を見せているだけで、子供を手から離そうとしない。
『なんか……やばい感じだよ……』
犯人に聞こえるわけでもないのにトシは小声で言った。
『……思うな……』
縛られている手は兵藤の機転なのか、ゆるめに縛られている。これなら何かあったときでもすぐに解くことが出来るだろう。
「……子供を開放してください」
リーチはそう言うのだが、犯人は聞こえていない風に瞳を漂わせた。そのとき、まさかと思われる警告が鳴りだした。
春菜が知らせるベルだ。
『ど……どういうこと?』
『分からねえよ……』
表情では平静を装いながら、リーチは神経を研ぎ澄ませた。何があってベルが鳴っているのか分からないのだ。こんな時はあらゆる事に神経を配らなければならない。
『リーチ……あいつ……クスリやってる……』
子供を抱えている手は袖がまくられており、そこから麻薬常習者である証が見えた。それは青いあざとなり、まるで打ち身のようだ。
『捕まえたとしても、こいつは精神科行きだな……』
リーチはため息をついてそう言った。
「あのう……子供を開放して欲しいんですが……」
もう一度リーチが言うと、犯人はようやくこちらを向く。だが突然言ったことにそこにいた全員が凍り付いた。
「ゴキブリが……部屋中にいる……」
真っ青な顔で犯人は、リーチを向いていた視線を今度は部屋のあちこちへと向けた。それと同じくして、また子供が泣き出し、甲高い声を響かせる。
「この……このガキっ!お前が呼んだのかっ!」
意味不明なことを口走った犯人は子供を床に叩き付けて、銃口を心臓の上に向けた。
「隠岐っ!」
兵藤が持っていたカメラを犯人に投げつけ、同時にリーチが走り出し、犯人に身体ごと自分をぶつける。体勢を崩した二人が床に転がると、兵藤は慌てて子供を抱きかかえた。
「虫が……俺を……ゴキブリがぁーーーーっ!」
犯人は気が狂ったように暴れ出し、それを押さえつけようとして犯人に乗り上がったリーチの腹に銃を突きつけられる。
『まず……』
「隠岐っ!逃げろっ!」
兵藤の声と同時に銃声が響いた。