「沈黙だって愛のうち」 第1章
ユウマがソファーでごろりと体を伸ばしているのが戸浪の目線に入る。
黒い光沢のある体はしなやかで、それ自体が伸縮性のあるゴムのようだ。
外から入る光は黒い毛の表面を波打たせ、生きている証を示す横隔膜の動きが、光の筋を上下に移動させている。
鼻がヒクヒクと動くとヒゲが同時に動いて、時折「ふにゃ……ふにゃふにゃ……」と小さく鳴く。もしかすると夢でも見ているのかもしれない。
戸浪はユウマの隣りに座り、文庫本を読んでいた手を止め、先程から日がな一日眠っている愛猫を眺めていたのだった。
猫は何を考えているんだろう……
殆ど一日寝ているユウマは、それ自体飽きるのではないかと思うほど、あちこちで丸くなっている。一度、ユウマが何処で眠っているのか戸浪は追いかけたことがあるが、愛猫の一日の行動は決められたように時間通りに移動し、ソファーで寝ていたり、寝室のベッドの端に丸くなっていたりと様々だ。姿が見えない時はタンスの上で体を伸ばして欠伸をしている。だからといって毎日違うところにいるのではなく、ユウマ自身がこうしようと決めているかのように、毎日決められた時間に移動し、翌日も同じ行動を繰り返して惰眠を貪っている。
面白いな……
文庫本をテーブルに置き、そっとユウマの柔らかい腹の部分を撫でると、目を閉じたまま喉をゴロゴロと鳴らし、気持ちよさそうに両手を万歳させる。
ゴロゴロ……
ゴロゴロ……
猫は機嫌が良いとき、喉をゴロゴロと鳴らす。戸浪は最初その事を知らず、怒っているのだと思って狼狽えたことがあったが、今はもうそんなことはない。最近はこのゴロゴロという声を聞くと、戸浪は心が穏やかになる。
祐馬はどうするんだろう……
戸浪はユウマから視線を外し、置き時計を眺めてため息をついた。
今日は天気の良い週末なのだが祐馬が仕事で朝から会社に出かけており、戸浪が留守番しているのだ。
最近祐馬は土、日のどちらか出勤しており、忙しくしている。そんな祐馬を見ているとそろそろ色々な仕事を任されているのだと戸浪にも分かる。
本人はいやいや出かけていくようだが、それが仕事なのだから仕方ない。
祐馬にするとさぼりたいらしいが、さぼって地方に飛ばされたくないそうだ。だから多少なりとも出来高を上げているらしい。
転勤か……
どちらかと言えば戸浪が一番危ない。大体三年目位が一番移動させられやすいのだ。しかも少し前、色々と問題を起こしたものだから、ある意味飛ばしたい社員の上位に位置しているような気が戸浪にはする。
私が転勤になったら祐馬はどうするだろう……
そんな話をお互いにしたことがない。
毎日淡々と穏やかに暮らしている中で、大きな変化がいつかやってくるという事実が頭で分かっていても、今はまだ身の上に起こっていないために、戸浪はいつか来る転勤という事実が自覚出来ないのだ。
ゴロゴロ……
ゴロゴロ……
相変わらずユウマは目を閉じて喉を鳴らしていた。
昼を過ぎる頃、そろそろ戸浪はお昼の準備をしようとキッチンに立っていた。ユウマはうろうろと付いて廻り、今は戸浪の足元で丸くなっている。
祐馬はどうするんだろう……
連絡を入れてこない男を待っているのも馬鹿馬鹿しく思った戸浪は、冷蔵庫を開けて卵を数個取りだした。
だがそれは照れ隠しだ。
本当は可愛らしく待っていてやりたいのだが、性格的にそんなことが出来ない。もちろん、祐馬が今から帰る。もしくは、何時に帰ると連絡を入れてくれたなら、待つ理由が出来たのだろうが、電話が鳴る気配はない。
……
携帯メールという手もあるだろう。
こっちは二人分作るのか、自分だけ食べたら良いのか悩んでいるんだ!
……まあ……
私の料理など祐馬は食べないが……
じゃなくて……
帰るなら帰る。帰られないなら帰られないと、連絡が欲しいと言ってるんだ。
全く……
本当に祐馬は気が回らない……
ぶつぶつと文句を言いながら戸浪は卵を割って中身をボウルに移すと、菜箸でかき混ぜた。色々するのも面倒なため、卵を焼いてそれをおかずに、昨晩残った御飯でお昼を簡単に済ませようと思った。
そこに電話の呼び出し音が鳴る。今の戸浪の怒りが聞こえたのだろうか?
慌てて電話を取ると、聞いたことのない女性の声だった。
「……どちらさまでしょう?」
戸浪は間違い電話だと思ったが、違った。
「私、祐馬の姉の如月舞と申します。お時間宜しいかしら?」
……
祐馬の姉と言うことは……
あの、鈴香を差し向けてきた姉か?
「……ええ。どういうご用件でしょう?」
冷静を装い戸浪は言った。
「今そちらの自宅前までわざわざ参りましたのよ。扉を開けてくださらないかしら……」
……はあ?
うちの前って……
「もしかして今……来られているんですか?」
「そうよ。元々は私のうちでしたのよ。住所を知っていて当然でしょう?」
何となくしゃくに障るような言い方であったが、鈴香を焚き付けた程の姉だ。この位はするだろう。
「分かりました。一旦電話を切ります」
ため息を付きながら戸浪は受話器を下ろすと、足取り重く玄関に向かって歩き出した。するとやはりユウマが足元に絡みついてついてきた。相手は猫だとはいえ、一人で祐馬の姉と対峙するより、ユウマと一緒の方が気持にまだ余裕がある。
そんなことを考えながら戸浪は玄関を開けた。するとシルクのブラウスに花のプリント柄のスカートをはいた女性が立っていた。
初めて見る祐馬の姉は、美人であるが、目元がややきつく顎がやや細長い。ほっそりした体型だが女性らしく膨らんだ豊かな胸と引き締まった腰元が目に付いた。
「初めまして……」
舞はそう言って軽く会釈するに留まったが、表情には全く微笑みなど浮かべていない。逆に嫌悪感が感じられた。
……まあ……
仕方ないか……
「どうぞ上がってください」
こちらもクスリとも笑わない表情で言うと、舞はチラリとこちらをみて嫌そうな表情をさらに強めた。
「ここで結構」
舞は玄関から一歩も動かずにそう言った。
「はあ……そうですか……」
戸浪にはどう対応して良いか分からない。こういう時にこそ祐馬がいれば良かったのだが、あいにく会社だ。もしかすると祐馬がいないのを見計らって舞はやってきたのかもしれない。そう考える方が納得がいく。
「うちの弟をたぶらかさないで」
ジロリと睨んで、突然本題に入ってきた舞に戸浪は多少のとまどいを隠せなかった。
「そちらの弟さんにたぶらかされたのは私ですが……」
鈴香のことでも随分と腹を立てていた戸浪である。この位、言っても良いだろうと思ったのだ。
「馬鹿なことは言わないで貰いたいわ。うちの弟はゲイじゃないんですからね」
はあ……
こういう女性の相手をするのは疲れるんだが……
「弟さんに直接おっしゃれば良いでしょう。姉弟の問題は姉弟で話し合ってください」
呆れたように戸浪が言うと、舞は更に言った。
「あの弟に言っても無駄なのよ。だから貴方にわざわざこちらから出向いてお願いしているんでしょう?それがどうして分からないのかしら……」
フーッ!
いきなり足元にいたユウマが舞に向かって毛を逆立てた。すると同時に玄関がまた開いた。
「あれえ……姉ちゃん何しに来たの?」
手にビニール袋を持って、今問題になっている当人は場の状況を相変わらず読みとれないのか、笑顔だった。
「祐馬……」
舞は、祐馬が帰ってくるとは思わなかったのか、本当に驚いていた。
「お帰り」
戸浪は何時も通りにそう言った。
「あ、ただいま。取引先の都合が急に悪くなって、今日の予定が変更になったから帰ってきたんだけど……お昼食べた?」
最後の問いかけは戸浪と、そして舞の両方に聞いているようだった。
「いや……今からなんだが……」
舞の方はとぼけた弟に呆れているのか言葉がない。
「良かった。俺、肉買ってきたからさあ、今から焼こうか?あ、姉ちゃんも一緒に食おうよ。それとも飯食ってきた?」
嬉しそうな表情で言った祐馬に流石の舞も文句が出ないようであった。確か如月から聞いたところでは、姉の舞は弟の祐馬を酷く可愛がっているらしい。そうであるから弟の前で醜態を晒したくないのかもしれない。
じっと舞がどう出てくるか戸浪が見ていると、先程とはうって代わった明るい表情で言った。
「ご馳走になるわ……」
「んじゃ、俺、準備する~。戸浪ちゃん。姉ちゃんをリビングに案内してくれる?」
靴を脱ぎながら祐馬は言って既にキッチンに向かって行った。
「本当に祐馬は世間知らずなのよ。分かるでしょう?」
だから何を言いたいのか戸浪には分からない。
「リビングに案内しますよ。どうぞお上がり下さい」
戸浪が嫌みをこめて言うと、舞はムッとした表情で靴を脱ぎ、廊下を歩きだした。
「知ってるわ。案内して貰わなくても結構」
元々は姉夫婦のマンションを祐馬が譲り受けたのだ。だから部屋の間取りを知っているのだ。だが例え、元はそうだとはいえ、今は祐馬と、そして戸浪のうちだ。その場所で自分のうちのように振る舞われるのは気に入らない。
一言嫌みでも言ってやりたかったのだが、戸浪はその衝動を抑えた。
にゃうにゃう……
ユウマが戸浪の足元からこちらを見上げて心配そうな声を上げた。祐馬は場の雰囲気が分からない鈍感な男だが、こちらのユウマは何に対しても敏感に感じ取っているようだった。
ユウマの鋭さの一欠片でも祐馬にあれば……
そんなことを戸浪は考えたのだが、所詮無理なのだ。今は悪い方にしか働いていない鈍感さだが、好ましいときに働くときもある。それらどちらも含めて祐馬の良いところだった。
「ユウマ……お昼は焼き肉みたいだぞ……。行こうか?」
な~お……
一言鳴くとユウマはとことことリビングに向かって歩き出した。その後を戸浪は追った。
リビングに入ると、舞は何故か壁にぶら下げられているクマのぬいぐるみを不思議そうな表情で眺めていた。
「好きなところに座ってくださいね」
とりあえず社交辞令を戸浪は守った。
「……ブードゥ教でも信仰しているのかしら?」
ボロボロになったクマから視線をこちらに移し、冗談ではない表情で舞は言う。だが戸浪はボロボロのクマのぬいぐるみの説明をする気はさらさらなかった。
このクマのことこそ戸浪と祐馬二人だけが分かっていれば良いことであって、例え一応は身内であっても舞に話す義務などないからだ。
「違いますよ。ああ、御茶でも入れておもてなしさせて貰いますよ……」
ここから逃げる理由をようやく見つめた戸浪は、舞の返事を待たずにキッチンに逃げ込むように入った。
すると祐馬が丁度キャベツを切っていた。
「あ、戸浪ちゃん……お昼さあ、肉でも良かった?」
相変わらず笑顔で祐馬は言った。
祐馬は舞の差し金で鈴香がちょっかいを出したことを知らないのだから仕方ない。
「ああ……それは良いが……。お姉さんが来ること聞いていたか?」
急須に茶の葉を入れながら戸浪が聞くと、祐馬は首を横に振った。
「なんも聞いてないよ。聞いてたら戸浪ちゃんに話しておいただろうしさあ……。まあ姉ちゃんっていつも突然だから、あんま気にしなくて良いよ」
ニコニコ顔で祐馬は野菜を平皿に並べていた。
「……そうか……」
「あ、戸浪ちゃん。姉ちゃんには俺、ちゃんとつき合ってること話してあるから気にしなくて良いからな。もしごちゃごちゃ言ってきたら俺がちゃんと姉ちゃんに釘刺すから、そんなんで落ち込むなよ」
意外にしっかりとした口調で言うのだが、何となく頼りなく見えるのは、弟という立場であるからか、姉ちゃんなどと言う口調からなのか戸浪にも分からない。
それでも祐馬が気遣ってくれる優しさが戸浪には心地よかった。
「……ああ……頼りにしておくよ……」
そう言ってとりあえず戸浪は笑った。だがどう考えても祐馬よりも姉の舞の方が一枚上手のように思えて仕方がない。
如月が以前言っていたことを信用すると、祐馬は東と都によって立場を守られているようであるから、舞も表だって手を出せないと言っていた。だから必要以上に心配することも無いはずだった。
それに……
普段頼りなく見える祐馬であるがここという場合の押しは強い筈だ。
気にしない方が良いのだろう。
戸浪は茶の葉を入れ終わると、湯を入れて御茶の準備を整えた。
お盆にお茶を入れた湯飲みを乗せてリビングに戻ってくると、舞はよほど気になるのか、またクマのぬいぐるみを見つめていた。
「貴方、これ電気がつくのね?嫌だわ……気味が悪い……」
その意見には戸浪も同意したいと一瞬思った。
「お茶が入りましたので、どうぞ……」
舞の前に湯飲みを置くと、またチラリとこちらを見る。
「変な宗教に弟を引きずり込んだ訳じゃないでしょうね?」
怒りにも似た瞳を受けて戸浪は否定した。
「それをそこにぶら下げているのは他ならぬ貴方の弟さんです。宗教でもないし、私の趣味でもありません」
「全く……子供なんだから……」
独り言のように舞は言った。
それは祐馬に対しての言葉なのだろう。
「肉持ってきたよ~」
そこに祐馬がようやくやってきた。一人だけ妙に浮いているのは、戸浪と舞の気配を読めないからだ。
「肉は良いから、祐馬、ちょっとそこに座りなさい」
お茶を一口も飲まずに舞は厳しい口調で言った。
「ん?なんだよ……まったぁ小言か?」
ぶつぶつ言いながらも祐馬は肉を並べた皿をテーブルに置いて、戸浪の隣に座る。すると逆の方にいつの間にかやってきたユウマが座った。
「……祐馬。貴方、何か忘れてないかしら?」
舞は淡々とそう言った。
「俺?なんも忘れてないよ……」
思い出すように目線を彷徨わせながら祐馬は言った。
「柏木里江さん……。祐馬が里ちゃんって言ってる里江さんよ。覚えているわね?」
何故か戸浪の方を見ながら舞は言った。
「里ちゃん……里……あ、あははははは」
急に笑い出した祐馬は明らかに顔色を無くしていた。