Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第15章

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 戸浪はクマのぬいぐるみの存在をすっかり忘れていた。色々問題が起こったことで、戸浪自身も振り回されて、出すタイミングを逃したままになっている。思い出したところで、今、祐馬に話すわけにもいかず、戸浪は当分黙っていることにした。
「戸浪ちゃん。あのさあ」
「なんだ?」
 助手席の扉に手を掛けたまま、向こう側にいる祐馬の方を見る。
「今日のこと、迷惑だった?」
 何処か困惑したような目になっている祐馬が戸浪には不思議だった。
「どうしてそんなことを聞くんだ」 
「だってさあ、すっげえ眉間に皺寄せたまま歩いてるから、そんなに気に障ったことだったのかなあって」
 病院に無理矢理連れてきたことか、べらべらと人がいるにもかかわらず二人だけの事を話していたことか、はたまた姉と見合いについて電話をしたことか、戸浪には一体祐馬がどの事柄について話しているのか分からなかった。
「全部だ」
「全部って何?」
 祐馬の言葉に答えずに、戸浪は車に乗り込んだ。一つずつ話して聞かせないと分からない鈍感な祐馬に郷を煮やしたと言った方が良い。以心伝心など祐馬に求めても無理な話なのだろうが、もう少し何とかならないのかと思うことがしばしばある。随分と一緒に暮らしていい加減戸浪が一体どういったことで腹を立てるのか、そろそろ分かっても良い頃だろう。なのに祐馬に進歩は見られない。
 いつだって、この調子だ。
「戸浪ちゃんって~」
 先に車に乗り込んだ戸浪を追うように、祐馬も運転席に座る。
「帰ろう。私は疲れた」
「病院に無理矢理連れてきたから、腹を立ててる?」
 エンジンを掛けずに祐馬が言った。
「……」
「じゃあ、これは怒ってないんだ」
「まあな」
「俺がべらべら人前で話してたから腹を立ててる?」
 チラリと視線を祐馬に向け、また前を向いて戸浪は答えた。
「そうだっ!」
「それと……姉ちゃんと電話してムッとした?」
 何処か楽しそうに祐馬は言う。
「当然だろう」
「戸浪ちゃん。俺の事……好き?」
 いきなり問われたことで戸浪は驚いて、祐馬の方を見ると真剣な表情でこちらを窺っている祐馬の姿があった。
「ねえ、どうなんだよ」
「……好きだ」
 言って戸浪は顔が熱くなる。祐馬から見ると、戸浪の表情は真っ赤になっているに違いない。自分でも驚くほど息苦しい。
 今更と言われたらそれまでなのだろうが、最近この言葉が口に出ることがなかった。だから余計に気恥ずかしく感じるのだろう。
「えへへ」
 戸浪の照れとは逆に、祐馬は嬉しそうに笑った。
「急に……なんだっ!」
「俺も好きだよ」
 ハンドルに手を掛けてこちらを下から覗き込むようなポーズで祐馬は言った。
「どうしていきなりこんな話になるんだ」
「だってさあ……最近戸浪ちゃんから『好き』って言葉、聞いてなかったような気がするんだもんな。だから突然、聞きたくなった」
「お前は、なんていうか……脳天気だ」
 もっと他に考えることはないのか?と、呆れるしかない。とはいえ、聞かされて悪い気がしないのも事実だ。最近お互いに他のことに囚われすぎて、『好きだ』『愛している』という言葉が交わされなくなって久しい。一緒に暮らしているのだから今更改めて必要の無い言葉なのかもしれないが、ギスギスしていた心が温まる言葉であることは間違いなかった。
「ん~それは分かってる。でもさあ、考えてみてよ。俺が戸浪ちゃんみたいな性格だったら毎日すごいことにならないか?」
「は?」
「ほら、二人とも眉間に皺寄せて顔をつきあわせてるんだぜ。どう考えても怖いし、そんで一緒に暮らせるわけないじゃん」
「お前はどうかしてる……。さっさと車を出せ」
 はあとため息をついて戸浪は言った。
「俺で良かったと思わない?」
 キーを差し込んで祐馬は車のエンジンを掛けた。
「まあ……まあな」
「えへへへ……」
「気持ちが悪い。もうこんな話はやめろ」
「じゃあ、じゃあさ。止めるから、帰ったらもっかい俺に言ってくれない?」
「何を?」
「俺のこと好きってさ」
 祐馬は、顔から笑みを消して真剣な眼差しで戸浪を見つめる。射抜かれるような瞳に、いつもなら怒鳴っていた戸浪が、拳を上げることすら出来なかった。
 真面目な祐馬には戸浪もさすがに手を出せないのだ。
「……わ、分かった」
 戸浪が小さな声で言うと、祐馬はようやく車を出して、閉鎖的な空間である駐車場から広い屋外に出た。空は既に赤紫色をしていて、もうすぐ周囲に闇が下りてくるのだろう。
 空には小さな星が弱々しく光を放っていて、夕日に反射した雲の間からもチラリと顔を見せている。
 そんな、いつも頭上にあるはずの景色が、戸浪にはとても新鮮に見えた。
 
 帰宅途中に、二人で亜鉛の入っているであろう食品を買い込んで、マンションに戻った。
 亜鉛不足だとは驚いたが、もっと早くに気がついても良かったのかもしれない。現代で不足になっているという新聞記事もあれば、テレビ番組もあったのだ。だがまさか自分がそうだったとは夢にも思わなかった。
 冷蔵庫に買ってきた食材を一つずつ確認しながら並べて戸浪は扉を閉めた。今晩、祐馬は亜鉛ばかりの料理を作るに違いない。程々と言う言葉を知らないのだから、予想しなくても戸浪には分かった。
 テーブル一杯に料理を並べて、祐馬はニコニコとして言うのだ。「沢山食べろよ。戸浪ちゃんはそれでなくても食が細いんだから……」と。鮮明に浮かんだ光景に思わず戸浪が笑いを堪えていると、祐馬がキッチンに入ってきた。
「何、笑ってんの?」
「いや……ちょっとな」
 立ち上がり、空になったビニール袋を丸めて、キッチンの引き出しに放り込む。
「そういえば、俺さあ、聞きたかったことがあったんだ」
 珍しく祐馬は戸浪の身体を引き寄せた。久しぶりにふれ合う身体に、戸浪は急に心臓の鼓動を早めた。初めて恋を知った時のような感覚だ。
「なんだ?」
「あっ!先に聞かせてよ。忘れるところだった」
 戸浪は忘れていなかった。祐馬は物忘れが酷いのだろう。だが、こんな風に面と向か居合い祐馬に『好き』だと告白するのは恥ずかしくてなかなか出来ない。
「私は……忘れた」
「え?嘘ばっか。だって、戸浪ちゃん、顔が真っ赤だもん」
 くすくすと笑う息が額にかかり、ゾクゾクとしたものが戸浪の背を這うのが分かった。今日は何となく互いの間にムードが盛り上がっている。このまま雪崩れ込んでも構わないという欲望が戸浪の心に浮かんだ。
「俺は好き。戸浪ちゃんが大好きだよ」
 ギュッと身体を押しつけられて、祐馬の重みに戸浪は後退すると、キッチンの縁に腰が当たった。冷たいステンレスの感触が腰に伝わっているのに、身体の体温は下がる気配を見せない。
「私も好き……ん……」
 自然に重ね合わされた唇が、戸浪の苛々としていた神経を宥めてくれる。そろりと口内に入り込んだ祐馬の舌が絡められると、どうなっても良いとすら戸浪は感じた。久しぶりのキスは、乾いた土地に雨が染み込むようなもので、何度唇を合わせようと満足できないものであった。
「祐馬……」
 何も言わずにこのまま抱き上げて、寝室に向かってくれないのだろうか。シャツを引きちぎって、手荒に一糸まとわぬ姿にされても良い。欲望の赴くまま、身体を貪られたい。
 普段では考えられないような過激な想像をしていることに戸浪は気がついていなかった。いつも中途半端で放置されている身体が、限界を感じているのだ。口にしてしまうと嫌らしく聞こえるかもしれないが、はっきり言って戸浪は欲求不満だった。
 満たされない身体が、小さな事にこだわっている理由だと言っても過言ではない。心も身体も満たされて初めて気持ちに余裕が出るものだろうから。
「俺、心配だよ……」
 広い胸板に力強く押しつけられるように身体を拘束され、戸浪は祐馬の体温に目を閉じた。一杯に膨らんでいた不安が、溶けて流れていく。
「だってさあ。やっぱ戸浪ちゃんの見合いは反則だって思うんだよ。なあ、なあなあ、止めるって今から言えないのか?」
 顔を上げることすら許さない強い抱擁に、戸浪は祐馬の胸に顔を埋めたまま、夢心地の気分に浸っていた。祐馬の声はこれほど側にいるのに遠くから聞こえている。
「なあって……聞いてる?」
「聞いている」
「じゃ、じゃあ断ってよ」
「それは無理だと話した。そうだろう?お前だって断れないんだから、私だって断れない」
 なんだか自分で妙な言い方をしていたのは気がついていたが、何がおかしいのか戸浪は分からなかった。
「戸浪ちゃんは俺のなのに……」
「そこまで言うなら、私の身体に祐馬の印でも付けておけばいい。そうすれば心配することもないだろう?」
 戸浪が言うと、祐馬の喉がごくりと鳴るのが聞こえた。大胆な言葉を発してしまったが、戸浪には今、恥ずかしいという気持ちはこれっぽっちも無い。
「うん。そうする」
 祐馬は戸浪の耳元で囁いた。
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