「沈黙だって愛のうち」 第3章
意地を張るように、三時頃までベッドの上でゴロゴロしていた戸浪であったが、ずっとここにいるわけにもいかず、そう思い始めてからもたっぷり時間が経ってから、身体を起こした。
仕方ない……
体を更に起こすとベッドが軋み、隣で丸くなっていたユウマが顔を気怠げに上げた。
「にゃ……」
「いや……流石に何か食べたくてね……。キッチンに行こうかと……」
ユウマ相手に言い訳をしても仕方がないのだが、戸浪はそう口に出す事で、ここから出る理由を作ったのだ。そうでもしなければ理由無く寝室からは出られなかっただろう。
本当に自分が頑固であることを思い知らされるのがこんな時だ。もう少しだけ素直になれたら良いのだが、なかなか性格は変えられない。
戸浪は複雑な気持ちでベッドから降り、寝室から出ると廊下を歩く。すると自ずとリビングを横切ることになるのだが、戸浪は気になりながらも祐馬がいるであろう場所から目線を逸らせて通り過ぎようとした。だが視点を真っ直ぐ向かわせていた戸浪であったが、視界の端にはしっかりリビングに置かれたテーブルとソファーを捉えていた。
が、祐馬の姿は無かった。
……
出かけたのか?
そろそろと顔を横に向け、今度はリビング全体を視界に入れる。するとやはり祐馬の姿は見えず、昼間用意してあったホットプレートも既に無い。片づけられたテーブルは綺麗なものだった。
戸浪がリビングの入り口で複雑な気持ちになっている横をユウマはとことこと通り過ぎ、我が物顔でソファーに飛び乗った。何をするんだろうと見ていると、柔らかいクッションに頭を置いてまた丸くなる。その様子から、まだ寝たりないのがよくわかった。
そんなユウマの姿に苦笑しながら戸浪は、祐馬の書き置きか何か残されていないかを確認するように数度テーブル上やその周囲を眺めてみたが、それらしきものは見あたらなかった。
しかも事もあろうに例のクマのぬいぐるみも無くなっていた。
ここに吊ってあったクマは?
リビングの壁に添わせて置かれているキャビネットの上にそのクマは吊られていた。
元々は可愛いクマのぬいぐるみであったのだが、あちこをちをユウマに囓られ、爪で引っかかれた末に、今では呪いでもかけられたような無惨な姿を空中にさらしていたのだ。
だが、それでも視界から無くなると妙に寂しい。これは我が儘なのだろうが、あのクマのぬいぐるみに関して複雑な気持ちが戸浪にはあるのだから仕方ない。
祐馬……
拗ねて何処かに出かけてしまったのだろうか?
クマも持って??
それとも姉と外で待ち合わせ、例の里江のことで盛り上がっている?
むか……
むかむか……
里江の説明はどうなってるんだ?
……
「はぁ……」
考えるとため息しか出ない。
静まりかえったリビングから出ると、戸浪は元々作ろうとしていた卵焼きでも焼こうとキッチンに向かった。
祐馬の姉が乱入してきた時に放置してしまったボウルがステンレスの台に乗っている。それを手に取り、脇に置いていた菜箸で中身をかき混ぜた。
すると黄色と透明な液が混ざり合い、マーブル状の模様から薄い黄色一色になるまで、箸を動かしていると祐馬が肉を買ってきた袋が転がされていることに戸浪は気が付いた。
そういえば……
肉……余ったんじゃないのか?
姉の舞は食べなかったはずだ。しかも戸浪も肉を口にしていない。だからといって1キロほどあるように見えた肉を祐馬一人で食べきったとは思えなかった。
悪いことをしたな……
祐馬は多分姉のことなど知らず、戸浪と一緒に食べるために肉を買ってきたのだ。それなのに戸浪からあんな風に拒否されては祐馬の立場も無いだろう。何故自分はあの時、一緒に気持ちよく食べてやらなかったのだろうか?
それだけできっと祐馬は喜んだはずだ。なのに戸浪は祐馬の気持ちを僅かも理解せずにさっさと寝室に逃げた。これでは祐馬が怒るのも無理はない。
戸浪は卵をかき混ぜているボウルをテーブルに置き、冷蔵庫を開けた。だがあるだろうと思っていた肉が入っていなかった。変だと思いつつ戸浪は今度、冷凍庫を開けて確かめてみたが、やはり該当する肉は保存されてなかった。
もしかすると肉まで持って出ていったのか?
……
誰かにあげるつもりで?
ではクマは?
「ただいま~」
玄関の開閉と共に祐馬の声が聞こえると、戸浪は思わず走り出していた。すると祐馬の方は何時も通りの態度に戻っており、当初戸浪が心配していたような「拗ねている」様子は何処にも見受けられない。多分、祐馬も悪いと思ってくれているのだろうと、戸浪は思い自分自身も何時も通りに振る舞うつもりで言った。
「何処かに出かけていたのか?」
「ちょっとね」
嬉しそうに祐馬は答え、スニーカーを無造作に脱ぎ捨てていた。
「あ、そうだ。さっき冷蔵庫を探したんだが……。肉がなくてな……祐馬知らないか?」
ちょっと冷蔵庫を見て気が付いたという風に戸浪は言ったつもりだった。その口調が通じているかどうかはまた別の問題だ。
「あれ、戸浪ちゃんが食わないと思ったからさあ人にあげたよ。……俺もあんな一杯食えないし、だからって長々置いておくのも勿体ないしさ。それに、戸浪ちゃんが食わないからって、代わりに俺が毎日肉ばっか食うっていうのも勘弁だったんだよ」
「あげてって……誰に?」
それほど仲の良い人間がいただろうかと戸浪は考えながら言った。
「一階下の水沢さん。ほら、あそこ子供多いだろ?丁度良いんじゃないかなあって。俺、マンションの組合で知り合ったんだ。そんで、良かったらどうぞって持っていった。喜んでたよ~」
「……水沢さん……知らないが……そうか」
どことなく自分が知らない祐馬の生活の一部を発見したような気持になった戸浪であったが、とりあえず作った笑みを顔に張り付かせた。
「戸浪ちゃんはマンションの住人で集まる組合とか嫌いだと思って話さなかったんだ。家主は一応俺だし……。回覧板とかも俺が廻してるだろ?あれが連絡だよ」
祐馬は戸浪がそういう付き合いが苦手……いや、嫌いであるのを知っているから気を使ってくれているのだろう。ただ、祐馬の気持ちはありがたいが、一言くらい、そういう集まりがあることを教えて欲しかった。仲間はずれにされた気分であったからだ。
それでも祐馬が気を使ってくれていることが理解できるため、戸浪は自分が今感じた腹立ちを押し止めた。
「祐馬が忙しいときは……言ってくれていいから……」
「あ、駄目。戸浪ちゃんは行かなくて良いの」
速攻返ってきた祐馬の言葉にムッとした。
「……なんだその言い方は……私じゃ不味いのか?」
「意味はないんだけど……はは……」
逃げるように祐馬がリビングに歩いていくので戸浪はそれを追った。
「……要するに、祐馬が家主だから、私は関係ないと言うことか?」
祐馬の腕を掴んで言うと、祐馬は苦笑いしていた。
「簡単に言ってしまうとそうなるんだけど。ほら、俺達男同士で住んでいるから色々と噂って出るんだよね。戸浪ちゃんはそいういうの聞くの絶対嫌だろ?だから俺が適当に誤魔化してるの」
……
……それは……
「……そうなのか?」
今までそんなことを戸浪は考えたことも、想像したことも無かったが、意外に周囲は自分達の生活を見ているのだと気が付き、自分が知らないところで見られているという気味悪さと、人のことなど放って置いて欲しいという気持ちが同時に心の中に浮かんだ。
だが現実はやはりというか、当然というか、祐馬のうちに戸浪が一緒に暮らしていることをどこからか皆ここの住人は見ており、どうして男同士なのだと不思議に思いながら、チェックしているのだろう。
「あんま気にしなくて良いと思う。気にしたって仕方ないしさ……」
カラリとした笑顔で祐馬は言って、ユウマが丸くなっている隣りに腰を下ろした。
「……まあ……お前がそう言うなら……」
気にしても仕方のないことが戸浪には気になるのだが、これこそどうにもならないことだろう。祐馬が気にするなと言ってくれる以上、戸浪も気にすることはない。
いや、気にしないようにするのだ。
それと……
ぬいぐるみ……
チラリとぬいぐるみがぶら下がっていた場所を見て、やはりぬいぐるみが無いこと。そして帰ってきた祐馬が手に何も持っていないことを確認した戸浪は、とうとうクマのぬいぐるみが処分されたことを知った。
聞いた方が良いのだろうか?
口を薄く開けたが、結局戸浪はクマのことを聞けず、沈黙した。もし、祐馬が気を利かせてそっと処分したつもりでいるのなら、散々文句を言っていた戸浪があのクマのことを蒸し返すのも変な話だ。
だが処分したのなら、新しいぬいぐるみを買って置いてくれても良かったんだ……。などと都合の良いことを戸浪は考えてしまった。例え殆ど出番が無いクマであったとしても、クマの存在事態が自分が求められている証のような気がしていたから、姿を消すと祐馬の気持ちが分からなくて不安になるのだろう。
……
クマ……
じゃあ今度は私が買ってくるとか?
以前のクマのぬいぐるみは祐馬が買ってきた。それがボロボロになって処分されたのだから、今度は戸浪が買えば良いのだ。
そうだ……
私が買えばいいんだな。
ようやくそういう答えにたどり着いた戸浪は自分の決めたことに意外に満足している自分に気が付いた。結局の所、一番クマのぬいぐるみが必要なのは戸浪なのだ。だからボロボロになって、とてもぬいぐるみには見えない姿となり果てていたにも関わらず、戸浪はこっそり捨てることが出来なかった。
「戸浪ちゃん?」
「え?」
「いきなりニヤニヤして……なんだよ……」
祐馬が気味悪げな表情をこちらに向けた。
「いや……別に……。あ、ちょっと出かけてくる」
思い立ったらすぐに行動するのが良いだろう。戸浪はそう考えたのだ。
「何処に?」
「私用だ」
言いながら戸浪は既にリビングを出ようとしていた。
「私用って……だったら、俺、車出すけど……」
何となく焦っている祐馬がそこにいた。
「……一人で出かけたい所なんだ」
こっそり買って、祐馬がいないときにそっと置いたらどう思うだろう?それを想像すると戸浪は楽しくて仕方がないのだ。こんな気持は久しぶりだった。
「……一人って……んなあ~何処だよ……」
まさかぬいぐるみ専門店とも言えず、戸浪は苦笑するしかない。
「お前も一人で出かけるだろう。私も出かけたいときがあるんだ」
きっぱり戸浪が言うと、祐馬はもう何も言わず、やや恨めしそうな目を向けてきた事が気になったが、何時もベタベタして二人でいるわけではない。そうであるから一人で出かけること自体おかしなことではないだろう。
「……行ってらっしゃい。って、今晩帰ってくるんだよな?」
玄関で靴を履いている戸浪の周りをうろうろしながら祐馬は言った。挙動不審とはこの事をいうのかもしれない。そんな動きだ。
「当たり前だろう。何を言ってるんだ。すぐ帰ってくる」
立ち上がって戸浪は自分の車のキーを、玄関にある棚の上から取り上げる。するとユウマがいつの間にか足元に絡みついて、連れて行けとねだるように鳴いた。
「ユウマ……駄目だよ。お前は連れていけないところに行くんだから……」
すると祐馬がユウマを抱き上げて戸浪に押しつけてきた。
「たまには連れて行ってやれよ。可哀相だろ?」
ムスッとした顔で祐馬は言う。
「犬を散歩させるわけじゃないぞ」
「ユウマは大人しいよ。俺は結構連れ出してやるんだから、戸浪ちゃんもたまには外に連れてやってくれよ」
グイグイとユウマの小さな体をこちらに押しつけてくるので、戸浪は仕方なくユウマを抱いた。
「……まあ……そう言うなら……」
自分たちが出かけるとき、たまにユウマを車に乗せていくが、それは公園などに行くときだけだ。だが、祐馬は何を考えているのか戸浪には分からないが、それ以外でもちょっと外に出る用事が出来るとユウマを籠に入れて外へと連れ出す。
ユウマの方は籠から出して貰えなくとも外の景色を見るだけで満足なのか、暴れたりしないそうだ。だったら連れて行っても良いのかもしれない。
もっとも食品売り場は不味いだろう。だが戸浪が今から行こうとしているのはぬいぐるみを専門に扱っているところを予定していた。なら大丈夫だろう。
「……仕方ないなあ……大人しくするんだぞ」
戸浪がユウマを目の前に言うと、嬉しそうに「にゃあ~」と、鳴く。
「ユウマが良いんだったら……俺も~」
「駄目だ」
チラリと祐馬を見ながら戸浪は玄関の戸棚を開けてユウマの籠を取り出すと、蓋をあけて中に入れた。
「……なんかすっげー怪しい」
「訳の分からないことを言うな」
こっそり買って、こっそり置く。そんな計画を立てている戸浪なのだから絶対に祐馬と一緒にぬいぐるみを買いには行けない。
「……んなあ~なあなあって……」
戸浪がユウマの籠についている紐を掴むと、その手を祐馬が掴んできた。
「なんだ……ついでに買ってきて欲しい物があるのか?」
「……別に……そうじゃないんだけどさあ……」
祐馬は何故かもじもじしている。
「すぐに帰ってくる」
祐馬の手をやんわりと離し、肩に紐を引っかけると戸浪は玄関の戸を開けた。なんとなく寂しそうな祐馬の顔が気になっていたのだが、そのまま戸浪は扉を閉めた。
そうして戸浪は一階までエレベーターで下り、マンションのすぐ前にある駐車場までくると自分の車に向かって歩き出した。
駐車場はマンションの前に設置されているが、エルポートの合掌タイプで、正面にRを利かしたデザインになっている。それらがマンションの敷地に添って横並びになっており住民が数台車を所有したとしても、駐車場自体の面積を増やせる余裕を持たせた造りになっていた。
戸浪と祐馬の車は駐車場の丁度真ん中に確保されていて、二台仲良く並んで停められていた。そこにたどり着くと、車の助手席にユウマを入れた籠を置き、前に回って今度は自分は運転席に乗り込みエンジンを掛けた。
エンジンの低い回転音が響くと同時にユウマがとても楽しそうに鳴きだした事を戸浪は気が付いた。
それはまるで歌でも歌っているような声だ。
普通猫は車などに乗って外出するのを嫌うはずなのだが、ユウマは違った。籠に付いているプラスティックの窓から外を眺めて「にゃん、にゃにゃ……」と鳴いているのはユウマ自身の気分が良いからだろう。
微笑ましいものを見た戸浪は車を駐車場から出しながら、カーナビでぬいぐるみ、もしくは玩具屋と検索し、規模の大きそうなぬいぐるみ専門の店舗を見つけると、車をそちらへ向かって走らせた。