Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第18章

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 予想通り、祐馬はリビングから電話をかけていた。ユウマの方は寝てくれていたらいいのに、廊下で様子を窺っている戸浪に気がついて、こちらに黄金色の瞳を向けている。近寄ってこないでくれよ……と、目線で訴えた筈なのに、ユウマは廊下から見え隠れする戸浪の姿に、ソファーから飛び降りると、尻尾を振って近寄ってきた。
 うわ……
 来るんじゃない。
 様子を窺うためにリビングの方に向けていた顔を引っ込め、廊下の壁に戸浪はへばりついた。にも関わらず、ユウマは足元に既に来て、身体を擦りつけてきた。
「にゃ。にゃあ」
 し……
 し~……
 声は出せなかったので、戸浪は口元だけを人差し指で押さえると、息を吐く。ユウマの方は顔を斜めにして、不思議そうな様子だ。仕方がないので、ユウマをそろりと抱き上げた戸浪は頭を撫でつつ、またリビングの方に顔を出した。
 上手い具合に祐馬はユウマの行動には気がつかなかったようで、姉となにやら話し込んでいる。耳をそばだてると、途切れ途切れの声が聞こえてきた。
「え、父さん達が来るって?なんだよそれ……え、ひゃ~よしてくれよ。姉ちゃんと里ちゃんだけじゃなかったのかよ。……は?見合いだって……ちょっと待ってくれよ。里ちゃんとはそういう話をするんじゃないんだぜ。姉ちゃんだって知ってるだろ。どうして、そんなん、勝手に決めるんだよ」
 祐馬には珍しく酷く憤慨していた。だが、戸浪が気になったのは、『里ちゃんとそう言う話をするんじゃない』という、祐馬の言葉だ。見合いではないのなら、一体どういう話をするつもりだったのか。とはいえ、祐馬は見合いだと認識していないが、姉は違うようだ。どうあっても、強引に押し進めたいのだろう。
「……ていうか、姉ちゃんいい加減にしろよ。俺だって怒るからね。姉ちゃんだって、勝手に秀幸さんと結婚したんだぜ。あれもじいちゃんは賛成してたけど、父さんは反対してたよな。それを無理矢理結婚まで持っていったの姉ちゃんじゃん。姉ちゃんは恋愛して、俺は駄目だって言うのか?」
 ブツブツと祐馬は言って、なおも怒っていた。その声に腕の中にいるユウマが小さな声で鳴く。
「頼むから……静かにしてくれないか?」
 ユウマに理解できるとは思わなかったが、祈るような気持ちで戸浪はユウマの耳元で囁くように話した。立ち聞きしていることがばれても別に構わないのだろうが、気付かれた後で気まずくなるのが戸浪は嫌だったのだ。
 自分で反則なことをしていると、分かっていた。それでも戸浪は祐馬のことが気になって仕方ないのだ。祐馬が何を考えているのか話してくれない以上、自分で情報を集めるしかない。やっていることの善し悪しは別として、これは恋人として当然の行為だと戸浪は考えたのだ。
「に~……」
 小さな声で一つ鳴き、ユウマは目を閉じた。戸浪の頼んだことを理解してくれたように見えるほど、ユウマはおとなしく腕の中で収まっている。
 ホッと一息をついて、戸浪はまた聞き耳を立てた。
「……分かった。行くから。十時だね。はいはい」
 肝心な話を聞き逃したところで、祐馬は電話を切る。戸浪は、足音を立てず、且つ早足で寝室に戻ると、毛布に潜り込んだ。暫くして、寝室の扉が開閉する音が聞こえ、祐馬がベッドに腰を掛けたのか、スプリングが軋んだ。
「もう食べてきたのか?」
「え、あ……忘れてた。そうだった。俺、飯作ろうと思ってたんだっけ」
 間抜けなことを祐馬は言って、鼻の頭を掻いている。
「何か私に言いたいことでもあるのか?」
 毛布から顔を出し、戸浪は祐馬の表情を見た。祐馬は優しげに細められた瞳でこちらをみている。それは何処か大人びた笑みだ。こういう祐馬の表情は戸浪も初めてであったので、驚きと共に顔が赤くなった。
「どしたの?」
「……別に……」
 毛布に再度潜り込み、戸浪は言う。
 先程まで散々身体を重ね合わせていたのに、ふとした表情にドキドキするなど、戸浪にとっても信じられないことだった。
「別にって……なんか、見間違いかもしれないけど、今、戸浪ちゃん、照れてなかった?なんで?俺、変な顔してた?ねえって……」
 毛布の端を掴んで引っ張ってくる祐馬に対抗するように、戸浪は必死に毛布を掴んでいた。
「変なの……戸浪ちゃんって。でもさあ、時々、すんげー可愛いよな」
 掴んでいた毛布から手を離し、祐馬はベッドに寝ころび、丸くなっている戸浪の身体を毛布の上から撫でる。
「……にゃあ……」
 毛布の中で苦しくなったのか、腕に抱えていたユウマが毛布から逃げ出していく。それを止めることは戸浪にも出来なかった。しっかりと毛布を掴んでいたからだ。
「なんだ。ユウマ……なにしてるんだよ。あれ、お前、さっきリビングで寝てなかったか?そっか、戸浪ちゃんに会いたかったんだ……。お前って本当に戸浪ちゃんが好きだよなあ。でも、戸浪ちゃんは俺の……ぎゃああああっ!」
 あの叫び声は多分、祐馬がユウマに引っかかれたか、噛みつかれたかしたのだろう。ユウマが祐馬に慣れたとはいえ、あまり馴れ馴れしくするとユウマは凶暴になるのだ。祐馬もそれを分かっているはずなのに、いつだってあんな風にユウマの機嫌を損ねているのだから、学習能力が無いに違いない。
「お前な、俺が飯買ってきてやってるんだぞ。あ、戸浪ちゃんもだけど。俺だってお前の飼い主その2なんだから、そろそろ慣れてくれよ……ったくもうう……痛いっての」
 ふーふーと息を吹きかける音が聞こえる。傷口に息でも吹きかけているのだ。ユウマ相手に何を言おうと無駄なのに、祐馬はまるで人間に話すようにいつもユウマに話しかけていた。ユウマの方と言えば、反論するように『にぎゃ、にぎゃ』と、鳴いているから、なんとなく会話が成り立っているのかもしれない。
 人間みたいだな……
 戸浪は笑いを押し殺して、相変わらず毛布の中にいると、祐馬がまた毛布を引っ張ってきた。隙をつかれた戸浪はするりと毛布を手放してしまう。
「あ……っ!」
「今、笑ってなかった?見えたの?」
 祐馬は笑っていなかった。変わりに、眉間に皺を寄せてムッとしている。その理由を額に見つけて戸浪は思わず声を上げた。
「……あっ!」
「……ど~しよ……これ」
 額を撫でながら祐馬は肩を落としていた。ユウマの爪痕がくっきりと額に三本入っていたのだ。
「あ……あはははははははっ!」
 堪えることが出来ず、戸浪は腹を抱えながら大声で笑った。祐馬の額には傷跡が生々しく、綺麗に三本縦線になっているのだ。これで笑うなと言う方が間違いなのかもしれない。
「そんな、受けすぎ……戸浪ちゃん」
 はあと大きなため息をついて祐馬は、手の甲を舌で舐めている。そこにもくっきりと三本、爪痕が残っていた。
「だって……お前……それ……なんだそれは~!」
「……言っとくけど、ユウマがやったんだからな。何で俺、こんな変なところに傷跡つけられなきゃならないんだよっ!これじゃあ恥ずかしくて外を歩けない……」
「……は……は……ははははは……駄目だ……おかしすぎるぞ」
「あのさあ、俺、これでも戸浪ちゃんの恋人だろ。普通、痛むか?って聞いて、優しくクスリでも塗ってくれるもんじゃないのか?笑いすぎだよ……も~」
 また額を撫でて、祐馬はブツブツと文句を言っていた。確かに祐馬の言うとおりなのだろうが、額についた傷跡は、痛々しいと言うよりお笑いだったのだ。
「……それより……おま……お前……明日そんな顔で出かけるのか?」
 笑いを必死に抑えながら戸浪は肝心なことを思い出した。こんな面白い顔で見合いをする姿を想像すると、笑いが止まらない。だが、何故か戸浪は嬉しかった。これで里江が呆れて、祐馬のことを諦めたら万々歳だ。とはいえ、この程度で呆れる位なら小さな頃に交わした約束を今までしつこく、覚えているわけも無いだろう。
 戸浪は自分の浅はかな考えに、笑いが止まった。
 本当は、例え断る見合いであっても祐馬には行って欲しくないのだ。ようやく自分が何を望んでいたのかを戸浪は思い知った。祐馬が当然、断るはずだと本気で考えていたから、今まで我慢できたのかもしれない。
 だが、明日には実行されるのだ。
 そこで本当に断ってくれるかどうか……。戸浪にも祐馬の本心は分からなかった。祐馬が何も話してくれないからだ。どうして祐馬が里江との、本当の事をうち明けてくれないのか……行きつ戻りつする考えに戸浪は酷く悲しくなった。
 行って欲しくない……。
 叫ぶように口からはき出せたらどれほど楽になるだろう。
 まだ、祐馬が乗り気ではなく、行きたくないと子供みたいに駄々をこねてくれた方がどれほど気が楽だったか分からない。だが、祐馬は最初から、里江と会うことになんら躊躇することもなく、当然のこととだと考えている節があった。
 そのことが戸浪にとってショックだったのだ。
 今頃気がついた自分の本音に、戸浪は泣きだしたい気分に駆られた。本当にそんな姿を祐馬に見せてしまいそうなほど、今、戸浪は気弱になっている。それでも戸浪は、当然ながら、涙を見せることはなかった。三つ年上であるという年齢の差が、それを許さなかったのだ。
 いつまで経っても縮まらない差。
 死んでもどうにもならない垣根。
 年上だからと言って祐馬の保護者的な立場になることはないが、三歳の差は大きい。いつだって大人の態度を要求されるからだろう。いや、要求しているのは己自身で祐馬ではない。戸浪がそうありたいと強く願っているから、こんな風にしか振る舞えないのだ。
「戸浪ちゃん……どしたの?」
「……いや。なんでもない」
「俺、そんな、変な顔になってる?」
「変な顔になってる」
 笑いはもう漏れなかった。
「……笑ってないけど……」
「お前が笑うなと言ったんだろう」
「んなあ……どうしたんだ?」
「さっきから五月蠅いぞ。夕飯を作るんじゃなかったのか?」
「そうなんだけどね……」
 何故か祐馬はそわそわとして、こちらを見たり、視線を外したりとせわしない。
「私の顔に何かついてるのか?」
「……ついてるっていえばそうなるんだろうけど……」
 祐馬はそこでギュッと戸浪を抱きしめてきた。 
「なんだ?どうしたんだ……」
「俺が戸浪ちゃんを泣かしちゃったのか?」
 その一言で、いつの間にか自分が涙していたことに戸浪は気がついた。
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