Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第7章

前頁タイトル次頁
 ……
 戸浪は祐馬とにらめっこした形で暫く見つめ合っていたが、急に現実に引き戻された所為かぼんやりとしていた頭が、冷静になっていた。
「……五月蠅いと思わないか?」
 バックで相変わらず鳴らされるベルは耳障りでしかない。火照った身体もいきなり水をかけられたように冷えてくる。戸浪の気分は最悪だった。
「だって、戸浪ちゃん、無視するって言ったじゃん」
 逆に祐馬の方はまだやる気満々のようだ。だが戸浪の気持ちは氷点下まで落ち込んでいたのだから、ここで続けるという気持が小さくなって逆に怒りの度合いの方が大きくなる。
 どうしていつも邪魔が入るのだ?
「客が来たんだろう……」
 はあ~と息を吐き出し、戸浪は額にかかる髪を掻きあげた。
「俺……っ……こんな状態で、俺が出るの?」
 こんな状態?
 ちらと祐馬を見ると、一人己の下半身を猛らせた男がそこにいた。だが、もう、戸浪はそんなこともどうでもいい。
「……しらん。どうせお前の客だろう」
「しらんって……。俺は無視するって決めたんだから……んなあ~」
 嘘付け。
 最初、気にしたのはお前だろうがっ!
 喉元まで出た言葉であったが、戸浪はぐっと堪えた。吐き出してしまうと手まで出そうだったから。そこまで行くと情けなくて涙が出てしまうだろう。
「……もう、そんな気になれない」
 もう一度深いため息を付き、戸浪は言った。
 一度冷めてしまった気持を盛り上げるのは至難の業だ。それをが祐馬に出来ると戸浪には思えなかった。要するにお互いムードを作るのが下手だということなのだろう。
「えー……んなのないよ~」
 と、言いつつ無理矢理両足を抱えてきたので、戸浪はとうとう手が出てしまった。
「いてえっ!」
 同時に抱えられていた足がベッドに落ちる。
「いい加減にしろっ!さっさとズボンを履いて玄関に行ってこい!」
 冷静になった戸浪の目には、大の男二人がベッドの上で恥ずかしくもシャツ一枚、しかも戸浪の方は全面がはだけている。尚、悪いことに下半身すっぽんぽんという姿が非常に情けなく映る。しかも戸浪の方は己のもので濡らしたままで、冷えてしまった液体はそのまま不快感に繋がっていた。
「……じゃ、じゃあさ、すぐ済むから、ここで待っててよ。絶対だからな」
 いそいそと祐馬は下着を身につけ、ズボンを履く。それが終わると慌てて寝室から走り出した。一人取り残された戸浪は、自分の脱いだズボンを引き寄せると下半身を隠すように膝に乗せた。
 あー……
 もうやる気が無いんだよ祐馬……
 多分、戸浪は一度抜かれたことで気持の余裕が出ているのだろう。それは分かるし、祐馬の状態も分かる。だが、じゃあ、待って、祐馬が帰ってきたと同時にもう一度盛り上がれるかと問われると、それは簡単なことではない。
 シャワーを浴びたい……
 だが、今廊下を歩くと玄関から丸見えだ。
 戸浪は仕方無しに、来客が退散してくれるのを待つことにした。シャワーはそれからでいいだろう。
 
 来客が誰かは全く分からないが、恨みの一言でもぶつけてやりたい気分を堪えながら祐馬は玄関に走った。すると、玄関の所でユウマが「うにゃうにゃ」と鳴いている。鳴らされるベルに反応して玄関でうろうろしているのだろう。
 祐馬はざっと自分の身なりを上から下までざっと確認して、別に違和感が無いことを見て取ると、インターフォンに出た。
「はい。三崎ですけど」
「いるんだ……留守かと思ったわ」
 いきなりそう言われて、祐馬はムッとした。
「どちら様でしょう」
「私、ほら、里江。もう、祐ちゃんのお姉さんが、昼前に来たと思うけど……」
「はあああ?」
 祐馬は驚いて玄関をあけると、数年ぶりに再会した里江が立っていた。ピタリとしたジーパンに、リンネルのシャツを軽く羽織っている里江は首に小さなビーズのチョーカーを付けている。真っ黒だった髪は染めて肩までの長さで、色は赤茶をしておりパーマでクルクルと毛先が巻いていた。
 やや広い額に、きりっとした眉。比較的大きな瞳に、大きな口。全体的に顔の作りが大顔なのだが嫌みなタイプではない。 
「お土産なんだけど、生ものだから……早めに持ってきたの。帰ってきたのは昨日の夕方だったんだけど、色々忙しくてようやく来られたわけ」
 言って里江は紙袋をこちらに差しだした。
「……生ものって……」
「肉よ、肉。祐ちゃん肉が好きだったじゃない。まあ、私が絡んでるプロジェクトがその関係っていうのもあるんだけど……」
 笑いながら里江は言うが、昼間も肉を食べた祐馬にはちょっと困った代物だ。だが折角持ってきてくれたお土産を受け取らない訳にはいかないだろう。
「わざわざ、ありがとう……」
 紙袋を受け取り、祐馬が言うと、里江はニコリと笑った。随分前に会ったきりだったが、綺麗になったと祐馬は感じる。きっと良い人生経験を積んできたのだろう。人は人相にそれらが現れるのだ。
「でさ、珍しいね。里ちゃん、ずっと音信不通だったじゃん」
「実はね。好きな男を数年追いかけ回してたんだけど、とうとうふられちゃって、そんなことで落ち込んだり腐るのも性に合わないから、仕事打ち込んでたんだけど、これが結構面白くってさあ~今はバリバリよ!」
 カラッとした笑いを浮かべて里江はあっさりと言った。昔から何事にも情熱的な里江はパワフルで行動力に溢れている。そんな里江が好きになった男であるならさぞかし魅力的な男に違いない。
「へえ……里ちゃんが男を追いかけ回すなんて……ちょっと考えられ無いなあ……。男を尻に引きそうなタイプじゃん」
 幼い頃、里江が近所の悪ガキを従えて道を歩いていたことを祐馬は良く覚えている。
「やだあ、そんなこと無いわよ~」
 手を振って里江は言ったがまんざらではなさそうだ。
「あ、こんな所でもなんだから、上がって、御茶でも飲む?」
 気軽に言ったつもりだが、里江はチラリと下を向き、何とも言えない表情をしながら顔を上げた。もしかすると猫が嫌いなのかもしれない。ただ、里江からそんな事を聞いた覚えは無かった。
「ごめん。実はまだ客先周りの最中なの。近くを通ったから寄ったのよ。で、肉を配り歩いてるわけ」
 クスクスと笑う里江は、相変わらずパワフルだ。そういう事かと思いながら、祐馬は言った。
「へえ……行動的だなあ……。俺は休みの日はぼんやりうちでしたいな……。あ、そんなんは良いんだよ。来週。姉ちゃんが言ってた来週って……」
 肝心なことを聞くのをすっかり祐馬は忘れていた。
「楽しみにしてるわね。詳しいことは舞ちゃんが決めてくれるらしいから……じゃあ、私、そろそろおいとましようかな。下で車を待たせてるのよ……」
「あ……あのさあ、その話なんだけど……」
 帰ろうときびすを返した里江に祐馬は声を掛ける。
「小さい頃の約束。忘れてないから」
 チラリと振り返り、満面の笑みで言う里江に祐馬はそれ以上なにも言えなかった。ものすごい迫力のある笑顔だったからだ。
「あ~じゃあ……」
「またね」
 扉が閉められ、里江は行ってしまった。はっきり断れなかった自分が情けない。
 うにゃ……
 うにゃああああお……
 足元にいたユウマがパシパシと叩いてきた。爪は立っていないから、今の女は何だとでもいいたいのかもしれない。
「あ~幼なじみだよ……」
 頭を掻きながら祐馬は言った。だがユウマはその答えに不満なのか、更に足を叩いてくる。しかし、これ以上説明できないのだからしかたない。 
 うにゃあっ……にゃんにゃ……
「いてえっ!爪立てるなよっ!ちゃんと説明しただろう?」
 片足を上げると、ユウマが足にぶら下がったまま身体を伸ばし、真っ黒な腹を見せながら、う~にゃと鳴いた。かなりしつこい。
「……お前って……」
 呆れてため息をつこうとすると廊下を小走りに走り、バスルームに向かう戸浪が目に入った。
「あっ……あーーーー!!戸浪ちゃんっ!待ってくれるって言ったんじゃん!」
 里江からもらった紙袋をその場に置いたまま、慌てて祐馬が走ろうとすると、まだ足元に爪を引っかけているユウマを引きずってしまうことに気が付き、歩を止める。そうして反抗するユウマを無理矢理引き剥がして、自分もバスルームに向かった。何故かその後ろをユウマまで付いてくるが、無視だ。
 自分もバスルームにはいると、戸浪の姿はもう脱衣場にはなく浴室の方からシャワーの音が聞こえた。
「……と、戸浪ちゃんっ!」
 ガッとガラス戸を開けると、いきなり戸浪によってシャワーを浴びせられ、祐馬は慌てて戸を閉めた。しかも一緒についてきていたユウマが同じようにびしょ濡れになっていて、戸浪の所為であるのに、何故かユウマに対して唸る。それを見ない振りをして、磨りガラスの向こうに視線を移すと、ぼんやりとした戸浪の裸体が映っているのを見えた。はっきりと見えるよりも、見せそうで見えない姿に祐馬はごくりと喉を鳴らした。
「お、俺の所為じゃないだろ……じゃなくて……戸浪ちゃん!んだよ!さっさとシャワー浴びるってどういう事だよ!」
 祐馬が怒鳴っていると、シャワーの音が止まり、戸浪が出てきた。もちろん素っ裸であるのだが、祐馬をチラリとも見ずに、籠に畳んであるバスタオルで身体を拭く。いつもなら恥ずかしがって拳の一つでも飛んできそうな気配なのだが、それ以上に怒っているのか、淡々と身体を拭く戸浪が祐馬にはちょっぴり恐い。
「……と……戸浪ちゃん……あのさあ……」
 顔色を窺いながら言う頃にはもう戸浪はバスローブを羽織っていた。
「なんだ?」
 ようやくチラリと視線がこちらを向く。
「待っててくれるって言ってなかったっけ?」
 えへへと愛想笑いをしながら祐馬は言った。
「言ってない」
 ぽつりと戸浪が言う。よほど頭に来ているようだ。
「……怒ってんの?」
「別に……それより祐馬……」
 戸浪の視線がふいに下に移った。
「え、何?」
「前をそんな風に膨らませて客と会ったのか?」
「ええっ!」
 驚いて下を向くと、もっこりと膨らんだズボンが目に入り、顔が真っ赤になってしまった。だから里江は御茶の誘いを断ったのだろうか。
 犯される~なんて思っちゃったとか?
 ひゃあ……
 内心汗だくで祐馬は戸浪に誰が来たかは話さず、漏らすように言葉を吐いた。
「……まず……」
「……呆れた奴だな……」
 にぎゃあっ……
 にぎゃにぎゃっ!
 気が付くとユウマが自分の身体が濡れたことで、手足をばたつかせて嫌悪感を表している。そんなユウマを戸浪は抱き上げるとガシガシとタオルで拭いていた。
「……その……これは……はは。ていうか、続きの話は……その……」
「……知らないな」
 また睨まれた祐馬はどうにも戸浪の機嫌が戻らないことに肩を落としていると、戸浪は脱衣場から出ていった。
 当分立ち直れそうになかった。

 にぎゃ……
 にぎゃあああ……っ!
 リビングまで来ると、戸浪はソファーに座り、ユウマを膝に乗せて更に濡れた身体を拭いた。猫の毛はぺちゃっとしており、何度拭いてもなかなか水分が取れない。ムッとしていて、足元にユウマがいたことに気付かなかったのだ。
「悪かったなあ……」
 膝であまりにも暴れるユウマに苦笑しながら戸浪が言うと、濡れて小さな顔になってしまったユウマが情けない顔でこちらを見た。
「でも、ドライヤーは嫌いだろう?」
 戸浪が言うとユウマは言葉が分かったのか、う~と唸った。しかも黄金色の瞳はぎらぎらとした輝きをもつ。一度洗ったときに、毛を乾かす為にドライヤーを使ったのだが、洗っている最中よりユウマは暴れた。いや、気が狂ったのかと思うほどの抵抗をしたのだ。もちろん、温度は入れていなかったのだが、風が勢い良く当たると、濡れてぺっしゃんこになっていた尻尾ですら毛を逆立てたのだから余程嫌いなのだろう。
 以来、ユウマを洗うときはドライヤーで乾かすことはしない。戸浪も腕を引っ掻かれるのは遠慮したかったからだ。
「ほら、嫌なんだろう?だったら諦めるんだな」
 耳の中にも水が入っていないかどうか確かめながら戸浪は半分乾くまでユウマを拭き、床に放す。すると後ろを振り向かずにリビングから走って逃げていった。多分、キッチンの椅子の上か、寝室のベッドに下にでも潜り込むつもりなのだろう。嫌なことがあると大抵ユウマはうちのなかにある隙間に逃げる。数時間すると何事も無かったように姿をみせるので、余り気にはしていない。
 最近、猫というものの性格が分かってきた。
 ユウマを拭いていたタオルを置き、自分のタオルで頭を拭く。完全に性欲は何処かに吹っ飛んでいて、もう祐馬が何を言おうとその気にならないだろう。
 まだこんな状態であっても、祐馬が押しの強い男性であったなら、話も違ってくるのだろうが、所詮それを望むだけ無駄なことだった。この半年、一緒に暮らしてそれがよく分かったのだ。
 まあいい……
 考えるとああいう男を好きになった私にも問題があるんだ。
 だが、あれはあれで可愛いと思う。
 性格も良い。
 気を使うことも無い。
 戸浪が一緒にいて自然に振る舞えるのは祐馬だけだった。
 これ以上、無い物ねだりをしても仕方ないだろう。
 自分が一度スッキリしている所為で心に余裕があることに戸浪は気が付いていない。
 ずるずる……
 何かを引きずるような音が聞こえ、戸浪が音のする方向に視線を移動させると、ユウマがなにやら紙袋を引きずっていた。紙袋には「I LOVE 牛」と書いてある。アイ・ラブ・ユウに引っかけて、アイ・ラブ・ギュウとでも読むのだろうか?どういう冗談なんだと思いつつ、戸浪が中身を見ると肉が入っていた。ユウマはその匂いに引かれて紙袋を引っ張ってきたのだろう。
「どこから持ってきたんだ?」
 しかも又肉だ。
 昼間も肉の匂いにうんざりした戸浪であったから、肉は勘弁して欲しかった。祐馬が買ってきたのだろうか。
 だが肉の包みと一緒に可愛らしい封筒がポロリと落ちた。
「?」
 手にとって裏を見ると里江と書かれている。では、里江という例の女が先程訪ねてきたのか?それはどう言うことなんだ?
 しかももっこり姿で祐馬は会った?
 ……
 里江は誤解していないだろうな。
 あれは私に勃起していたのであって、里江に会えたから勃起したんじゃない。
 それを考えるとムカムカとしてきた。
 ちゃんと説明したのかあの男は。
 と、普通では考えられないことを戸浪は頭に思い浮かべたことで、我に返った。
 違う……
 そんなことどうでもいいな。
 いや……いいのか?
 良くないが……。
 里江が誤解したとするとものすごくむかつくんだが……
 あれは私に興奮したんだ。
 ……
 だから……何か低俗な問題で私は悩んでいるような気がするんだが……。
 何処か納得できない戸浪なのだが何が問題なのか自分でも答えが出なかった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP