Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第14章

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 結局、互いに見合いのことを触れないまま、一週間を過ごし、土曜日に戸浪は無理矢理祐馬によって病院に連れて出された。味覚音痴を治そうとしてくれる祐馬の気持ちはありがたい。とはいえ、見合いを明日に控えて病院になど行ってられないのだが、どれだけ戸浪が嫌な顔をして見せても祐馬は譲らなかった。
 人間ドックにでも入れられるのだろうかと考えていたが、内科に行き、簡単な質問や、舌の粘膜を見られただけで結果はすぐに出た。
「亜鉛不足です」
 医者は良くあることのように言う。
 戸浪が質問しようとすると、一緒について入ってきていた祐馬が先に口を出した。
「治るんですか?」
「治りますよ。普段からミネラルを摂るように心がけて貰えるとすぐに治りますが、クスリも出しますので一週間ほど様子を見てみましょう」
「戸浪ちゃん良かったなあ……」
 大の大人が「戸浪ちゃん」と、人前で言ったことに戸浪は医者から見えないように祐馬の背中をつねった。
「あいたっ!」
「どうしました?」
「いいえ。何でもありません。それより、亜鉛不足になるような生活をしていた記憶は無いんですが……」
 同じものを食べていたはずの兄弟は皆、味覚はしっかりしていたはずなのだ。大地などは料理も上手いのだから味覚音痴の筈はない。ではどうして戸浪だけがこんな症状を出しているのだろう。
「澤村さんは、レバーや牡蠣が嫌いですね?」
 最初に戸浪が答えさせられたアンケートを見て医者はこちらを見る。
「はあ……そうですが」
「澤村さんの嫌いな食品や、食べ物がどうしたらこんな風に亜鉛を避けるような嗜好になっているのだと思われるようなものばかり書かれています。食事の取り方も不規則というか、澤村さんが食が細いというのも問題でしょう」
 子供の頃から戸浪は偏食だった。しかも三食きっちり食べた記憶がない。元々食に興味のない戸浪に更に味覚を感じない舌が、小食に拍車を掛けたのだろう。だから食べたいという気持ちがあまり起こらなかった。父親は戸浪が食事を抜くと、怒鳴り散らしていたが、母親がいつも間に入り「食の細い子供だっているんだから……」と宥めていたのを良く覚えている。
「……今度から食べるようにします……」
「あと、小さな頃に高熱を出されていますね。このとき熱で一時的に味覚を失ったことが、後々まで響いたのだと思われます。ただ、早く治さないと、慢性的な亜鉛不足は生殖機能の低下を招いたりしますので、意識的に亜鉛の多く含まれている食品を取るようにしてください。市販のサプリメントでも充分補えますから、足りないと感じたときは毎日でも飲むと良いんですよ」
 生殖機能の低下と言う言葉に、祐馬がチラリとこちらを見て、意味深な視線を送ってきた。一体何が言いたいのかと、医者がいなければ戸浪は祐馬に問いつめていたに違いないが、場所が場所なだけに怒鳴り声を上げるわけにはいかない。
 エッチが出来ない理由にしているような気がするぞ。
 生殖機能の低下と、セックスレスとは違うと思うが……
 出来ない理由は、私の方ではなくて祐馬が悪い。
「分かりました。気をつけて亜鉛を取るようにします」
「味覚音痴というのは、亜鉛を取ったからと言ってすぐに治るものではありません。ただ、少しずつ味覚は戻ってきますので、暫くはファーストフードや加工して売られている食品、味付けの濃いものなどを避けてください。どうしても味覚異常の方は味を感じる部分が麻痺していて、味付けの濃いものを好む傾向があります。それは元々身体に良くありませんし、この機会に薄い味付けで食品本来の味を知るのも良いのかもしれません」
 医者はにっこりと笑ってそう言った。
「そうだったんだ。だから戸……じゃなくて、澤村さんの作る料理は味付けが滅茶苦茶だったんだなあ……あ、先生、彼、料理が破壊的に出来ないんですよ。もう、食った瞬間に毒でも食わされたのかと勘違いするほどすさまじい味だったんです。それも味覚音痴に関係あるんですか?」
 人が作った料理の話など別にしなくてもよさそうなものだと、戸浪は震える拳を押さえながら耐えた。いちいち祐馬の言葉は戸浪の神経を逆なでするような言葉が含まれていて、口を開くたびに拳を飛ばしそうになっていたのだ。とはいえ、戸浪だからこのような状態になるのではない。これが大地であれば既に殴られてひどい目にあわされているだろう。
「ありますね。味覚というのは人間の快楽の一つです。それが味覚異常で味が感じられなくなってくると、味を感じられる料理を作るんですよ。普通の味付けで十分なところ、味覚異常の方は香辛料を多量に入れたりして普通の人はちょっと避けたくなるような濃い味付けになってしまいます」
 医者はかけていたメガネを外して、かけ直す。
「やっぱそれが原因だったんだ。でも、すぐに治るよ。俺、亜鉛の一杯入った料理作るからさ」
 ニコニコとした顔で祐馬は戸浪に言う。そんな祐馬の視線から戸浪は顔を背けて、他人の振りをする。
 絶対に医者は疑ってる……
 そうだ。私も思うぞ。
 こいつらはもしかしてゲイ?と。
 何故、大人の診察に、友達がついて入ってくるのだ?
 普通で考えてもおかしな行動だろう。
 しかも、俺が料理を作るって……
 兄弟でもない二人がこんな会話をすると変だと思われて当然だ。
 何故、祐馬にはそれが分からないんだ~!
 そんな会話はうちに帰ってからで充分だろうがっ!
 眉間に入った縦皺をぴくぴくさせながら戸浪はなんとか耐えた。そろそろ限界なのだが目の前に医者がいる。どれほど殴りたい気分に駆られても拳を振り上げることは出来ない。
「取り過ぎも弊害があります。程々ですよ。すぐに治るものでは無いのですから気長に治していきましょう。澤村さんの場合は、長期の間味覚異常を煩っていらっしゃった割には、身体の異常は無いようです。多分、亜鉛不足でありながら、時には亜鉛がきちんと摂取できて、味覚が戻りそうになると、不足になっていたと言う感じです。これからは三食きちんと取るようにして、味覚を感じないと言うことを気にしないで、生活をすれば治るでしょう。心配ありませんよ」
「……ありがとうございます……じゃあ……もうよろしいでしょうか?」
「ええ。クスリを窓口でもらってからお帰り下さい。次の診察は暫く様子を見てからになりますので、一週間後にまた来ていただけますか?」
 本当はもう二度と医者などに診てもらいたくないのだが、戸浪も折角だからこの機会に味覚異常を治そうと思った。祐馬の態度には腹を立てていたものの、原因が分かった事で安堵できたというのもあった。なにか他に恐ろしい病気を実は持っているのかもしれないと、深く思い悩むことも多かったから。
 そんな考えに浸ることはもうしなくていいのだ。
 不治の病でも持っていたなら今ここにこうやって元気に座っているわけなど無い。と、思いつつも不安になるのは人間であるから仕方のないことだろう。誰しも病院に好き好んで行くわけなど無いからだ。
 戸浪は昔病院にしばらくの間、膝の事で入院していた事があった。悪いのは膝だけであるのに、一日ベッドで寝ている生活を過ごすと、何故かもうここから出られないのではないかと不安になった。その記憶が未だにあって、戸浪にとって病院は足を踏み入れたくない場所の一つになっている。
「はい。じゃあ、また来週にお伺いします」
 戸浪が立ち上がると、祐馬も立ち上がり、ぺこりと医者に頭を下げた。それすら、おかしいだろうとつっこみを入れたくなったが、戸浪は何も言えずに逃げるように診察室を出るしかなかった。
「戸浪ちゃん……何、怒ってんの?」
 院内にある薬局の窓口前の椅子に座り、戸浪は口を閉ざしたまま祐馬に話しかけることもしなかった。戸浪の態度に祐馬はオロオロとした様子で問いかけてくる。
「……」
 戸浪はチラリと祐馬の方を見て、視線を窓口に戻した。
「んなあ~。何で怒ってんの?」
 膝に乗せた手を掴んで揺するので、戸浪はジロリと睨んだ。祐馬は肩を竦める。
「……お前が、立場を弁えずにべらべらと医者に話すから腹が立っていただけだ」
 ムッとした表情を崩さずに戸浪は言った。本来なら数度ぼこぼこにしていた計算になる。その衝動を抑えていたのは戸浪なのだ。ここで多少不機嫌な顔を祐馬に見せたとしても、向こうにとっても殴られるより良いに違いない。
「……だってさあ、俺、マジで心配だったんだからな。戸浪ちゃんはあんま気乗りしなかったみたいだけど、俺は……本気で戸浪ちゃんの味覚音痴を治してやりたいと考えてた。だって俺は戸浪ちゃんの恋人だぞ。好きな相手のこと、気になるの当然じゃんか……」
 祐馬は多少は立場を弁えるように小声で言った。とはいえ、祐馬の隣に座るおばあさんが、二人を眺めて意味ありげな視線を送ってきたのが戸浪の方からは見えた。祐馬は戸浪の方を向いているので見えなかったのだ。
 また……
 また恥ずかしい事を……
 くううと喉が鳴ったのを、喉元で押さえつつ、戸浪は祐馬の手をつねった。公共の場ではどうすればいいのかを全く祐馬は分かっていないのだ。うちに帰ったらきっちり話し合わなければならないだろう。毎度こんな事で恥ずかしい思いをするのは、戸浪にとって、それこそ精神的に負担が大きい。
「あ、戸浪ちゃん。クスリの順番が回ってきたよ。248番だっただろ?」
 電光掲示板に戸浪の持っているクスリの引換券と同じ番号が灯っていた。
「そうだ。もらってくる」
 戸浪は立ち上がって、窓口で番号のついた紙とクスリと交換した。その場でクスリの取り扱いと、副作用について詳しく聞き、最後に精算を終えてようやく病院を出る。外の空気を吸うと、戸浪は本当にホッと出来た。
「帰りに、牡蠣と、レバーを買って帰ろうか。今晩は色々亜鉛料理を作って食おうよ」
 脳天気に祐馬は言う。
「一つ頼みがある」
 駐車場に向かって歩いていた足を止めて、戸浪は祐馬の方に振り返って言った。
「なに?牡蠣は嫌いとか?」
「違う。お願いだから、こう、人が聞いていて私たちの関係が予想できるような会話は止めてくれないか?」
「……なんで?別にいいじゃんよ」
 ズボンのポケットに手を突っ込んで祐馬は不機嫌になる。
「誰が聞いているか分からないからだ。大体お前はそういう気配りがなってない。私がそんなお前にいつもはらはらしていることなど知らないだろう」
「あのさあ、戸浪ちゃん。俺達、いい大人だよな?そんな男二人、マンションで暮らしてるんだぜ。兄弟でも親戚でもないのにさ。そんなん、周囲の住民から見たら変な二人になってるよ。いちいち、気にしてたら身が保たないって。あんま気にしなくても良いと思うけど……。だってさあ、妙に言い訳したって、分かる人には分かるよ」
「私は嫌だ」
 どちらが駄々をこねているのか分からない言い合いをしながら戸浪は退かなかった。一緒に二人で外に出るのが嫌だと思うのもこれが理由だ。
 自分は男性とつき合っていて、一緒に暮らしている。戸浪も祐馬を愛している。それは事実で恥ずべき事ではないと自分では思うが、周囲の目が嫌なのだった。理解してくれとは言わないが、だからといって物珍しい目で見つめられたり、嫌な顔をされることすら理不尽に思う。
「戸浪ちゃんは本当になんていうか……人の目を気にするタイプなんだな……」
 祐馬の方が先に歩き出した。今度は戸浪が追うという順番になっていた。
「……気にしている。ああ。多分人より、気にする方だと自分でも自覚しているからそんなことはどうでも良い。私が言いたいのは……」
「あ、ちょっと待って。携帯入ったみたい……」
 祐馬はポケットから携帯を出して、耳元にあてた。戸浪は祐馬が電話をしている間は口を閉ざすことに決めた。
「姉ちゃん?明日のこと?え……、そんなん夜で良いって。俺から電話するからかけて来ないでよ」
 電話などしてくるな!と、男らしく祐馬は言えないのだろう。言ってくれたら戸浪も祐馬を見直していたはずだ。
 そんな言葉など永遠に聞かせては貰えないだろうと、既に視界に入っていた自分達の車を見つめて戸浪はため息をついた。
 もう一つ、ため息をつくようなものが、車のトランクに入っていたことを戸浪は思いだして、天を仰いだ。
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