「沈黙だって愛のうち」 最終章
「姉ちゃん。いきなり何?」
祐馬がかろうじて現実に戻ってきてそう言った。戸浪の方はまだ魂が抜けているような状態だ。その所為か、祐馬の言葉が遠くから聞こえる。
「……問題はあんた達二人よ」
「だから、アゲマンがなんだって言うんだ?」
戸浪がようやく現実に戻ってきて、言い合っている二人をはっきりと見ることができた。だが、頭の芯がなんだかぐらつい頼りない。
「祐馬のことは随分昔に分かってたわ。問題はそっちの澤村さんを見たときよ。世にも珍しいとはこのことね。はっきりいって二人に私は絶望したのよ」
はあと聞こえるほど大きな声で舞はため息を聞かせる。
「はあ?」
「いいこと、貴方達は二人ともサゲチンなの」
この言葉に、時間が一瞬止まった。
「戸浪ちゃん……」
「なんだ?」
「チンって元々下がってるな?」
「まあな……」
ぼんやりとした顔で二人がそう話すと、舞のバッグ攻撃が祐馬の頭にヒットして、その勢いで、戸浪の肩を直撃する。
「あいたっ……!戸浪ちゃんにまで何するんだよっ!ていうか、姉ちゃんが訳が分からないこと言ってるんだぜ。なにがサゲチンだよ。下がってて当然だろ?男なんだから……まあ、勃ってることもあるけどさあ……」
頭を押さえながら祐馬が更に言うと、今度は祐馬の頬にバッグが飛んだ。先程からボカボカと殴られているが、祐馬が戸浪の殴る行為に耐えられるのも、元々姉弟がこんな風だからだろうかと、叩かれた肩を押さえつつ、戸浪はケーキの箱を持ち直した。
「いてーよっ!いい加減にしてくれよっ!」
「祐馬が下品なことを言うからでしょう。なにが勃起よ。勃たなきゃ男じゃないでしょう。そんなことを話してるんじゃないのよ」
「そこまで言ってないけど……。いや、その、なんていうか……もういいけど……」
半分魂の抜けかけたような表情で祐馬が言った。
「いいこと無いのよ。私はね、あんた達二人は、一緒にいるだけで運が下がるっていいたいの。二人ともサゲチンだからよ。分かる?だから私がアゲマンの女性を貴方達に紹介したんじゃないの。サゲチンとアゲマンとぶつけてようやく普通の出世や、生活が出来るってこと。あんた達、本当に頭が悪いわね……」
フンと鼻を鳴らし、舞は吐き捨てるように言った。
「……別に俺、運が悪いと思ったこと無いけどな……。もともと出世なんて興味ないし……。なあ、戸浪ちゃん」
「あ……ああ……そ、そうだな」
「ほらみなさい。男なら、出世をまず考えるのに、あんた達は二人とも、そんな気が更々ないじゃないの。サゲチンだから、出世とか肩書きに興味がなくて、今しか見えないのよ。男はね、生まれたときからグローバルな考え方が出来なきゃ駄目なのよ。なのにあんた達はこれっぽっちもそんな気持ちが無いでしょう?自分達にそういう欲が無いのはどうしてだろう、そうか、サゲチンだからだ!って、少しは分かってもいいんじゃないの?あんた達みたいな男はね、自ら積極的にアゲマンを見つけなきゃ駄目なのよ。でもあんた達にはそんな気すら起こらない最低のサゲチンだから、私がアゲマンを見つけてやったんじゃない。どうしてこの優しい姉心が分からないのかしら……」
憤慨した舞は、眉間に皺を寄せている。綺麗な顔をしているだけに、恐ろしい。
「え、遠慮するよ……俺、アゲマンの女……怖いよ……」
舞を指さして祐馬は引き気味に言った。
「私はアゲマンでも超がつくのよ。まあ、こういう女性は、あんた達みたいなサゲチンを避けて通るから、まかり間違っても夫婦にはなれないわ。諦めなさい」
「……ていうか、姉ちゃん。その勢いで秀幸さんの尻叩いてんの?」
指先を震わせて、祐馬は言った。戸浪の方は舞の言葉に呆然としたまま、頭が回転しない。何がサゲチンなのだろうかと、ぐるぐる考えているだけで前に進まない。舞にいくら説明されても理解できないのだ。しかも赤の他人である舞に叩かれようと、痛みも、怒りも感じないほど、戸浪の思考は完全に麻痺し、停止状態に陥っていた。
サゲチン……
そんな言葉があったか?
いや、そういう考え方を聞いたことがあっただろうか。
自分の記憶をひっくり返して探してみるものの、欠片も出てこない。
「あの人はアゲチンよ。私たちはね最強夫婦。あの人は放って置いても出世していくわ。だって、アゲマンの私が居るんですもの。わかる?アゲマンは一緒にいるだけで、運が舞い込んでくるのよ。だから私は何も心配することなんて無いのよ~。いいでしょう?こんな風になりたいと思うでしょう?」
今まで鬼のような顔をしていた舞が初めて笑顔を見せた。余程自慢の夫なのだろう。とはいえ、上がるチンと下がるチンが世の中にはあるのだろうか?元々どっちの役目もするだろう……などと戸浪は普段なら絶対に考えないようなことを頭の中で繰り返していた。
「……いや……なんか……別世界みたいだし……俺、多分、居場所がないだろうから、遠慮するよ……。な、戸浪ちゃん。俺達似たもの同士でいいよな?」
いきなり肩をぽんぽんと叩かれて戸浪は我に返った。
「え、あ……まあ。そうだ」
「……これがサゲチンの運命なのね。いくら私が頑張っても、どうしようもないほど、見放されてるってことだわ。私がいくら頑張っても無理ってことね」
何度目か分からないため息をついて舞は頭を抱えていた。
「じゃ、じゃあ。俺、帰るから……。姉ちゃん、あと、頼むよ」
はははと笑ってきびすを返そうとする祐馬に舞は恐ろしいことを呟く。
「男が好きなら、アゲチンの男を見つけたらいいのかしら……」
舞の言葉を聞かない振りをして、二人はその場から逃げ出した。とてもついていけないと本気で悟ったからだ。
駐車場まで舞が追いかけてくるかと戸浪は冷や冷やしていたが、それは杞憂に終わった。
辺りを窺い、誰もやってこないことを確認してから車に乗り込む。
だが、乗り込んでからも二人の沈黙は続いた。
衝撃が大きすぎて言葉が出ないのだ。
自分達がサゲチンだったのか……と落ち込んだからではない。あのような考え方の舞に付いていけなかったと言った方が良い。二人が理解できる範囲を超えているのだから、どうしようもないだろう。
舞は別世界の人間なのだ。
そう思う方が戸浪もホッと出来るし、今晩ゆっくり寝られるに違いない。
「帰る?」
祐馬がハンドルを握ったままぽつりと言った。
「……ああ。なんだか疲れたな……」
「うん。すげえ、疲れた。外食しようかと思ったけど、うちで食べようか?」
「そうだな……」
「そういえば、戸浪ちゃん。その箱なに?大事そうに抱えてるけど……」
キーを差し込んで祐馬は、ようやく箱の存在に気がついたのか、そう言って鼻をヒクヒクさせていた。甘い香りが箱から漏れていたのだ。
「……ケーキが食べたくなって……買ったんだ」
最初は別にケーキなど食べたいとこれっぽっちも思わなかったのだが、何故か、今、この甘いショートケーキを貪りたい気分に戸浪は駆られていた。
「……俺も食べたい……」
「帰ったらまず、これを食うか?」
「そだね……うん」
自分達の住むマンションまでの間、結局、会話はこれだけで終わった。
マンションにつくと、ボックスに宅急便が届いていた。それまで一言も口を利かなかった祐馬が、急に嬉しそうな顔で、包みを開ける。
「戸浪ちゃん。ほら、クマ、綺麗になって帰ってきたよ」
以前、リビングに置いていた、小さなクマのぬいぐるみを手に持って祐馬はこちらに見せた。
「あ……捨てたんじゃなかったのか?」
「違うよ。折角だから修理して貰ってた。またリビングに置くからね」
リビングの天井よりややしたの部分にフックを取り付けて、祐馬はクマのぬいぐるみをぶら下げていた。それを見ながら、戸浪は何か忘れていることに気がつく。
「あ!」
「どしたの?ここじゃまずい?」
「いや……ちょっと待っていてくれ。忘れていたことがあった」
戸浪はマンションを出て、駐車場に向かうと、トランクに入れていたクマのぬいぐるみの包みを抱えて、またうちに入った。玄関のところで、引っかかったが、それは横になっていたためだと暫く気がつかず、唸りながら悪戦苦闘し、縦にすればいいのだとようやく気がつくと、戸浪は一人で顔を赤らめた。
「げえ、なにそれ……」
リビングでクマの姿を眺めていた祐馬が、戸浪の包み紙をみて驚く。
「……いやその……クマのぬいぐるみを捨てたのだろうと思って、買ってきたんだ……。ほら、この間、ユウマを連れて出ただろう?あのときなんだが……」
ボソボソと説明しながら、リビングにある机に置いて、包み紙を取り払った。すると、買ったときよりも巨大になったように見えるクマのぬいぐるみが姿を現す。
こ……
こんなに大きかったか?
急に気恥ずかしい気持ちに駆られた戸浪は、俯いたまま言葉を失っていた。
「これだと、ユウマに何されても頑丈そうだ。でもさあ、嬉しいなあ、戸浪ちゃんも考えてくれていたんだ~」
机に乗せたクマのぬいぐるみを撫でつつ、祐馬は嬉しそうに言った。
「……ま、まあな」
「合図をどうする?手を挙げるとか、横にするとか……」
「何でもいい……」
こういうことは戸浪は苦手なのだ。
「そうだ。戸浪ちゃんがしたいときは右、俺がしたいときは左を上げるってどう?」
「どうして分ける必要があるんだ?」
「……それもそうだけど……。首についてるリボンを取ったときとか?」
祐馬が言ったとたんに、どこからともなくやってきたユウマがリボンに爪を立てた。
「こら~!」
慌てて祐馬がユウマを抱き上げると、また爪を立てて引っ掻こうと前足を振り回す。だが、祐馬も慣れたもので、ユウマから距離をとっていた。
「リボンも不味いか……」
「んな、すぐに思い浮かばないし、先にケーキ食おうか?後でゆっくり考えようよ」
「そうだな……そうしようか」
まず、クリームのたっぷりのったショートケーキを二人でしこたま食し、夕食は祐馬が亜鉛料理だと言って、レバーや牡蠣で埋め尽くされたものを作った。二人はクマの話題ばかり持ち出しレバー刺しや、牡蠣フライを食べた。そうして、いつも通りの夜を迎えたが、結局、祐馬は里江との約束がなんだったのか、話すことなく、ただクマの事ばかり話していた。
戸浪といえば、なにも語らない祐馬に腹が立ったり、だからといって無理矢理聞く気もなかった。なぜか触れない方がいいと考えたからだ。
もちろん舞の話題など一切出なかった。
戸浪は思う。
里江と約束について、祐馬は明日にでも話してくれるに違いない。
だが……
例の話題に関して、今後一切、互いの間では語られないだろうと。
―完―