「沈黙だって愛のうち」 第11章
「里芋は……別にいい。私は寝たい」
頭が痛くなるような事ばかりで、解決策すら見いだせない。こうなると寝るしかないだろう。
「……考えると結構な時間だよな。俺はさっとシャワー浴びてこようっと。あ、戸浪ちゃんは先に寝てて良いよ」
室内時計を見て、祐馬はそう言うとバスルームの方に歩いていった。
「ユウマ……寝るか?」
足元に絡みついてきたユウマを抱き上げると、小さな鼻をヒクヒクと動かすのが見えた。もしかすると、大地のうちにいたウサ吉の匂いが付着しているのかもしれない。
「うにゃああ……」
口元を膨らませて、何となく嫌な顔をしたユウマに、戸浪は笑った。
動物を飼うことを考えたことは無かったのだが、こうして毎日世話をして、一緒に暮らしていると、今まで飼わなかったことが不思議なほど、ユウマは自然な存在になっている。
祐馬とそりが合わないくせに、戸浪が喧嘩を始めると側に来て身体を擦りつけてきて、まるで止めろと仲裁でもしているような行動を取る。
小さな身体で本気で二人の言い合いを止めようとしているのかどうか分からないが、確かにユウマの存在があったことで助かったことも多い。
「お前はベッドが好きだから、今日は一緒に寝よう」
ゴロゴロ……
目を細め、喉を鳴らしてユウマは戸浪の言葉に答えた。
寝室では真ん中にユウマが来るように戸浪は黒い身体を下ろし、毛布を被って問題の祐馬が来るのを寝たふりをしながらまった。
規則的に聞こえる喉を鳴らすユウマの声が、まるで子守歌のようにも聞こえるから不思議だ。
ゴロゴロ……
最初は寝たふりをするつもりであったのに、戸浪がいつの間にかうとうとしだすと、寝室の扉が開閉する音が聞こえた。
「戸浪ちゃん……寝ちゃった?」
ベッドが沈み祐馬が隣に潜り込んでくる。よほど熱いシャワーを浴びたのか、ユウマを挟んで互いに距離があるにもかかわらず、祐馬の方からほかほかとした温もりが伝わってきた。
「……あ……いや。うとうとしていたが……」
隣で丸くなるユウマの背を撫でつつ、戸浪は答えた。
「俺さあ、戸浪ちゃんのことで気になってるんだけど、聞いて良いかな……」
何が気になっているのだろうと、視線を祐馬の方に向ける。すると祐馬は天井を向いたままで、こちらを見ているわけでは無かった。
「何だ?気になっている事って……」
「戸浪ちゃんが、その……気を悪くしたらごめん。あの……味覚が分からないっていう自覚をしたのはいつなのかな~って……」
「……さあ。気が付いたら味がよく分からなくなっていた様な気がする……」
昔からそうであったから、いつものことであまり深く考えないようになっていたのだ。生まれ持ったものだと思うことで、両親に言い出せなかったというもあった。
もしこれが先天的なものであるなら、両親を悲しませるかもしれない。そう、幼心に考えた戸浪は、味がよく分からないと言うことを話さなかったのだ。
「それってさあ、病気なんじゃないの?」
ムッとした戸浪は身体を起こして拳を振り上げて見せた。分かっていることを、こう真剣に聞かれると腹が立つのだ。
「わっ!怒らせるつもりで言ったんじゃないって」
手首を掴んで祐馬は戸浪を宥めるように叫ぶ。
だが腹が立つような話題を出した祐馬が悪いのだ。知っているのだからそっとして置いてやるのが愛情ではないのか。
「どういうつもりだ?」
手首を掴まれながらも、相変わらず腕に力を入れていると、祐馬が情けない声で言った。
「手下ろしてくれよ~。あんりさあ、ぼこぼこ殴らないでって」
「お前が気に障ることを言うからだ」
「……大地君に聞いたんだけど、戸浪ちゃん、そんな風になったのは熱の所為だって言うんだよ。でも本当に原因がそこにあるかどうかは分からないってさ。だったら、ちゃんとお医者さんに行って調べてもらうのも良いだろ?治るんだったら治してもらおうって。俺、戸浪ちゃんが美味しいって顔で楽しそうにご飯を食べているの見たことないから、ずっと気になっていたんだ。言えばきっと嫌な気分にさせてしまうから言えなかったんだけど……」
茶化すわけでもなく、真剣な顔つきで言われたことで、戸浪は振り上げた拳を下ろした。意外に真剣に祐馬は戸浪のことを考えてくれていたのだろう。戸浪も祐馬の気持ちに対してありがたいと思うが、逆にあまり触れて欲しくない話題でもあった。
「……別に生活するのに支障がないから……気にしなくていい」
「だからさあ、気にする気にしないって話じゃないんだって。ちゃんとクスリ飲んで治るようなものなら、治そうって俺は言ってんの」
下ろした手に祐馬は手の平を重ねてきた。
「……それは……そうだが……」
「戸浪ちゃんだって、美味しい料理とか、味を知りたいだろ?」
「別に……全く味が分からないと言う訳じゃない」
甘いということや、辛いという味覚はわかるのだ。それが混ざり合うとなんだかよく分からない味覚に感じるだけだった。
「俺は、戸浪ちゃんが美味しいって顔をするのが見たい」
じ~っとこちらを見つめながら祐馬は言う。
「……祐馬……」
「今日はあの店の天ぷらを買って帰ろうか~美味しいからな。なんて会話も楽しみたいんだけど……駄目かな?」
俯き加減の戸浪を今度は下から覗き込むように祐馬は顔色を窺ってくる。それは決して嫌なことではなかった。
「……時間が……出来たら行ってもいい」
「俺もちゃんとついていくから心配しなくていいよ。ほら、医者ってなんか怖いだろ?俺、自分が健康体だって分かっていても、あそこにいると嫌な気分になるもんな~」
はははと祐馬は笑った。
「だけどもし……」
治らないと言われたらどうする?
別に、いつか治るだろうと希望を持っていたわけではないが、治らないとはっきり言われたことがない。決定的に宣告されるより、放って置いたらどうにかなるだろうとあやふやにしておいたほうが戸浪には気分的に楽だった。
ただ、こんな風に祐馬が戸浪のことを考えてくれている事を知って、胸の奥に奇妙な疼きを感じた。それが戸浪自身が照れくさいからか、恥ずかしいからなのか自分でも判断が付かない。
「治らなかったら今まで通りで別にいいじゃん。だろ?別に死んだりするような事じゃないし……」
「そうだな……」
起こした身体をベッドに沈ませて戸浪は言った。
なんとなく雰囲気がいいような気がする。
祐馬に期待しない方が良いのだろうが、時折こんな風に、お互いが意図しないうちにムードが高まっているときがあるのだ。
ただ、戸浪は敏感にそれに気が付くのだが、祐馬は全く駄目だった。ここで覆い被さってきても戸浪は素直に受け入れるに違いない。この辺りの見極めが、祐馬には欠如しているのだろう。
仕方ないか……
これが祐馬なんだ……
いつの間にか口元に笑みを浮かべていると、祐馬がまた話し出した。
「戸浪ちゃんさ。姉ちゃんのこと気にしないでいいから……」
折角の笑みがその言葉で凍り付いた。
戸浪が気にしているのは、祐馬の姉のことではなくて、里江という幼なじみの方だ。一体どう考えるとそんな風に物事をはき違えてしまうのか理解できない。
普通に考えても、戸浪がまず気になる相手と言えば、祐馬にとって過去にいたかもしれない恋人や、恋愛感情が無かったとしても、友人としてつきあっている女性などが思い浮かぶはずだ。
それなのに何故、戸浪が姉のことを気にしなくてはならないのだ。
ま……
もっとも、やることは陰湿……
いや……
陰険とでもいうのか?
確かに戸浪にとって鬱陶しい存在ではあった。とはいえ、祐馬の姉だった。
「……どうでもいい」
心中ではため息をつきつつも戸浪は平然とした態度をとった。
「どうでもいいんだ……」
落ち込むわけでもなく、祐馬は笑う。
「何処までいっても姉弟なんだからな。それを気にしたところで祐馬とつき合っている限り、姉はついてくるだろう……そういうことだ」
「おまけみたいに言うんだなあ……面白いよ……」
「そんなものだよ……私にとって……」
話しながらだんだん戸浪は眠くなってきた。
今日は色々と戸浪は気を回しすぎて疲れていたのだ。
里江のことも気になっていた。姉の動きもとても気になる。それでも今こうやって二人で一つのベッドに川の字になっていると、安心できるのだ。
「戸浪ちゃん……俺……明日さあ……」
何かを言おうとした祐馬の声を遠くに聞きながら、戸浪は睡魔に勝てずに意識を手放した。
翌日、珍しく寝過ごした戸浪は、隣に祐馬がいないことを見て、先に起きてリビングでテレビでも見ているものだと思っていた。
戸浪はすぐにはベッドから離れず、既に昼近くになっている時計を眺めながらも、暫く毛布の感触に浸っていた。それでも小一時間ほど経つ頃には、だらだらとベッドから下り、リビングに向かう。するとどこからともなくやってきたユウマが足元に絡みついて、戸浪の後を追ってきた。
「あれ……」
祐馬の姿はリビングにはなかった。見回しても気配がない。
「祐馬……?」
ぼんやりとした頭ではあったが、祐馬がいないことが分かった。
戸浪は額にかかる髪を撫で上げて、もう一度リビングを見回すと、テーブルにメモが一枚置かれていることに気が付いた。
ちょっとお昼の買い出しに行って来るよ~。
すぐ戻るから起きたらコーヒーでも沸かして置いてくれる?
祐馬
「なんだ……出かけたのか……」
ソファーに腰を下ろし、ぼ~っとメモを眺める。
まだ目覚めきっていない頭がクッションとなり、一瞬過ぎった不安もふわふわとした何かに包まれて消えた。
「にゃうにゃう……」
暫くメモを何となく見つめていたが、どこから見つけてきたか分からない紐でユウマが一人で遊んでいた。