Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第19章

前頁タイトル次頁
「なんでもない……」
「……ごめん。明日絶対に話すから……」
 珍しく、戸浪の涙の意味に気がついたのか、祐馬はそう言って抱きしめていた身体を離した。
「何度も聞いた。だから……私は待ってる」
 今すぐにでも本当は聞き出したかったが、戸浪はそう言った。この話題を振ってみたところで、祐馬の答えは一貫して変わらないことを充分理解していたからだ。
「先に終わった方がメールで連絡することにしようよ。いいよな?帰り、落ち合ってご飯でも食べて帰りたいな……」
 戸浪の瞳を祐馬の指がそっと拭う。酷く優しい手つきに戸浪は頷いた。
「……分かった。多分、私の方が先に終わると思う」
「なんで?俺だってすぐに切り上げて帰るつもりだけど。だって里ちゃんと話すだけだし……そんなん、時間かかるはずないしさあ……。俺が先に終わったら、戸浪ちゃんの方に乱入でもしようかな」
 言って笑う祐馬は、口調は軽いものの、目は本気だった。
「私の方もそうだ。見合いと言っても堅苦しいのが嫌だというのが先方の話でね。二人で会って、食事をするだけだ。と言っても、私は食事をする気もさらさらないから、会ってすぐに断って帰ってくるつもりなんだ。だから私の方が先に終わると言いたかったんだ」
「え、う~。なんかその方が心配だよ……」
「二人きりがどうして問題なんだ。私はどちらかというとその方が気楽で良かったんだがね。両親にこんな話をすると、絶対に秋田から上京してくるだろうから。そうなるともっと問題はややこしくなっていただろう」
 チラリと祐馬の方を見て戸浪が言うと、肩を竦めていた。先程の電話を盗み聞きした内容から考えると、祐馬の方は両親が付き添い、舞も来るに違いない。あと、里江の両親も絶対に出てくるはずなのだ。
 これだけでも、どちらがより時間がかかるか考えなくても分かる。
「そうだね。俺もそう思う……」
 自分の両親が出て来るという話は祐馬の口から一切でない。戸浪がこっそり聞いていた内容は話すつもりが無いのだろう。それもまた、戸浪にとって不安の要素だった。戸浪が心配するだろうと、祐馬が考えているのならそれは逆効果だ。かといって、戸浪からばらすこともできない。
「……そろそろ夕飯にするか?」
「うん。今度はちゃんと作ってくる……。ここで待っていてくれて良いよ。出来たら呼びに来るから……」
 今度、戸浪は祐馬を追いかけることはなかった。


 翌日、当然のことながら祐馬の方が先に出かけていった。戸浪の方は十一時から会う約束をしていたので、まだ自宅にいる。用意と言っても、普段より少し高めのスーツを着るくらいで、日常、会社に出かけることとさほど変わらない。
 ただし、ユウマが近寄ってくると戸浪は逃げていた。足元に絡みついてこられると、スーツの裾に毛がついてしまうからだ。ユウマの方は逃げ回る戸浪が面白いのか、いつもよりしつこくつきまとってきたが、暫くすると諦めてソファーに寝そべった。追いかけ回すのも疲れたのだろう。
 戸浪は朝に入れたコーヒーを飲み、既に冷たくなっているにもかかわらず、温めることはしなかった。面倒くさいというよりは、冷たいコーヒーを飲みたかったと言った方が良いだろう。
 冷たい液体は、喉を通り胃に入る感触まで分かるほどで、朝に弱い戸浪にはぼんやりしていた意識をはっきりさせてくれる格好の飲物になっていたのだ。
 それにしても……
 気になる。
 出ていってしまった祐馬のことを、いくら気にしないと決めても、いつの間にか頭がそれで一杯になっているのだ。今日さえ過ぎれば明日にはいつも通りなのだと、自分に言い聞かせてみるものの、やはり気になるのは当然だ。
 祐馬を殴ろうが、怒鳴ろうが、好きだからここにいる。嫌いなら考えることもしない。これが相手を好きになると言うことだと、普段は思いもしないことを戸浪は考えている。そんな自分を笑うわけでも悲しむわけでもなく、ただ、寂しかった。
 祐馬といつも一緒であることが自然で、日常になっていたから、いなくなるという非日常など考えられないのかもしれない。もしも……と、思いつつ、それでも明日には相変わらずの日々を過ごしているのだろうと言う確信があった。
 大丈夫。
 心配することなどないさ……。
 チラリと時計を確認して、戸浪もようやく重い腰を上げた。
 


 祐馬は睨まれたカエル状態だった。プリンスホテルの一階にある日本料亭の座敷部屋に座らされていたが、左右に両親が座っていてにこやかな顔をしていて、向かい側には里江と里江の両親がにこやかに座っている。そして、上座に舞がドンと腰を下ろしているのだから、汗を流すなと言われても出てしまう状況だった。
「……こんなん、堅苦しいの俺、駄目だって~」
「祐馬。口の利き方、失礼でしょう?」
 母親ではなく、舞が言う。気合いを入れてきたのか、濃いエンジ色のスーツに首からかけた二連の真珠のネックレス。ベルトはバックル部分が大きくて丸い。エルメスのヒールもエンジ色をしていた。指輪は舞お気に入りの、殴れば人殺しでも出来そうな程のダイヤモンドがはめられて、周囲は小さいダイヤがちりばめられている。これは祖父の東が舞にプレゼントしたものだ。なにか大きな行事に出席するときに舞はこれを必ず指にはめてくる。
「まあまあ、舞、いいじゃないか。これが祐馬のいいところなんだから」
 父親の方はにこやかに言う。
「そうですよ。祐馬も大人なんですからね」
 コロコロとした笑みで母親が言う。
 両親は、いつだってこうだ。よく言えばおしどり夫婦。悪く言えば似たもの夫婦と周囲からは言われている。
「……」
 やや腰を浮かせた舞が、椅子に座り直すと、また周囲に沈黙が鎮座した。そんな雰囲気すら、祐馬の両親は感じていないのか、ニコニコと、ただ笑みを浮かべて座っている。ある意味非常に居づらい状況だ。
「ところで、里江さん。随分とお綺麗になって。私、小さい頃の里江さんしか覚えていなかったもので、今日お会いしてびっくりしたんですよ」
 母親が里江を見て嬉しそうに言った。
「少しだけ、女に磨きを掛けてみたんです」
 照れくさそうに、里江は言い、頬を赤らめていた。
「そういえば、三崎さんのおうちで、この子、襖を破いたことがありましたよね。あのときは本当にご迷惑をかけて……」
 里江の父親が思い出すように言う。
「そうそう、あのとき、うちの息子がやったんだろうと、私は思いまして、随分と息子をしかった記憶がありますよ。後で、そちら様から謝罪に来られたときは、逆に恐縮しましたが……懐かしい思い出ですね……」
 祐馬の父親も遙か彼方の思い出に浸って、話が盛り上がる。
「里ちゃん……んな、俺達だけで話しない?ちょっと外でないか?」
「そ、そうね……」
 里江の方も居心地が悪かったようだ。
「姉ちゃん。俺、里ちゃんと、ちょっと外を歩いてくるから……」
「……いいわ。行ってきなさい」
 姉の方も、互いの両親だけの話題に盛り上がっている状況を見て、ややウンザリしていたようだ。だが、このようなセッティングをしたのは舞なのだから、責任を取って面倒を見るのが役目だろうと祐馬は考えていたから、これっぽっちも悪い気はなかった。
「じゃあ、庭に出ようよ、里ちゃん」
 座敷から外に出られるようになっていて、日本庭園が広がっていたのだ。いつか見たような景色だったが、あまり深く考えずに祐馬はホテルが用意している下履きを履いて石畳に足を下ろした。その後を里江は何も言わずにくっついてくる。
 庭園はそれほど大きくなく、芝生が引かれ、黒松があちこちにあって枝葉を伸ばしている。流れる川に繋がる人工池には鯉が泳いでいた。道として舗装されている部分には砂利が如かれて、足を乗せる部分に平たい石が所々にはめ込まれているといった仕様だ。
 時折砂利の間から小さな雑草がひょろりと顔を出しているものの、景観を損なわないよう、数日後には引き抜かれているに違いない。それでもまた、雑草は生えてくる。なんとなく自分を見ているようで祐馬は、小さな命に笑みが浮かんだ。
「祐ちゃん。なんだかものすごいことになっててごめんね。私も両親が出てくるとは思わなかったのよ……」
 手を合わせて、里江は小さく頭を下げた。
「……昔話に盛り上がって良いんじゃないかな……。俺の父さん達も楽しそうだったし……。姉ちゃんは余分だったけどさ」
 雑草から顔を上げて振り返ると里江は何とも言えないような笑みを浮かべていた。淡いピンクのワンピースが、いつもの里江の雰囲気を柔らかいものに変えているのだろう。
「そうね。でも……舞ちゃんが必死になるの、私が悪いからよ……」
「違うよ……多分、三人で約束したからじゃない?」
「祐ちゃん。覚えてたんだ……」
 本当に驚いたような顔で里江は言ったが、祐馬は決して忘れた訳ではない。覚えていたことを誤魔化してきただけだ。
「……う~ん。覚えてる。だけど、今の俺には無理」
 小さい頃、姉と里江、祐馬との間で、幼いながらに夢を語り合った。子供だから言える、とても叶いそうにもない夢。他の誰かが聞けば、これだから子供は可愛い……と、微笑まずにいられないだろう。
「でしょうね……分かってたけど……ちょっと期待しちゃった」
 歩道にせり出している松の枝を手で触れながら里江は言う。
「あ、俺、戸浪ちゃんとつき合ってるから。言ったっけ?」
「知ってた。邦彦さんから聞いてたから……」
 ……
 なんで、あいつが里ちゃんにばらしてるんだよ~!
 むかつく!
「あ、如月さんとは仕事上の付き合いなの」
 慌てて里江は手を振った。それは祐馬が誤解するまでもなく知っていたことだ。如月には宇都木がいるのだから、何かあるわけなどない。
「……ふうん。いいけどね。姉ちゃんも知ってるよ。知っててごり押ししてくるから、俺は怒ってるんだけど……」
 ブツブツと独り言のように祐馬が口にすると里江は笑った。
「当たり前じゃない。祐ちゃんのお姉さんなんだから。ああ見えて、本当に祐ちゃんのこと心配してるのよ」
「分かってるけどね。放って置いて欲しいんだよなあ。もう、俺でっかいんだから、姉ちゃんは姉ちゃんの生きたいように生きてくれたらいいよ。そんかわり、俺には関わらないで欲しいんだ」
 はあとため息を祐馬はついた。
「無理無理。舞ちゃんはもともと世話焼きさんだから、これからも絶対世話を焼いてくるって。嫌でもあれが舞ちゃんなんだもん」
「……知ってるけどね……」
「それで、やっぱり私の提案は無理かな?」
「無理。ごめん」
「貴方のパートナーを一緒に連れてきてくれても良いのよ。私が欲しいのは貴方の腕なんだから……」
 里江は真剣な面もちで祐馬にそう言った。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP