Angel Sugar

「沈黙だって愛のうち」 第9章

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 大地の住むマンションはいつ見てもため息が漏れる。まるでホテルの出入り口を思わせるような幅広い入り口から中に入ると、広々としたアトリウムロビーが、本当にマンションなのかと疑いを抱くほどだ。
 側面に配置された椅子や机は質素であるが、ガラス越しに作られた小さな庭園が、マンションの住民を訪ねてきた人達の心を癒す役目を果たしていた。ロビーから奥に入ると住民専用の自動ドアがあるのだが、手前にキーカードが差し込まれるようになっていて、誰もが出入り出来ない仕組みになっていた。訪ねてきた客は、キーカードの隣にあるインターフォンを使って来訪を告げる。
 すごいな……
 天井をよく見るとあちこちに防犯カメラがあった。有名人も借りていると、大地から話を聞いたときは信じられなかったが、ここに来て初めて戸浪は納得したと言っても良い。
 世の中にはすごいマンションがあるのだ。
 需要があるのだから、経済大国の名もまだ完全に廃れていないのだと戸浪は思えた。
 賃貸料がどのくらいかかるのか聞いたことは無いが、相当な額になるはずだ。戸浪には一生かかっても住むことなど出来ないだろう。
 このマンションのオーナーが大地の恋人である博貴だ。大地から聞いた話では、博貴の父親からの相続だった。マンションの権利をポンと渡せるのだから相当財産家だと言うことが考えられる。
 まあ……
 大地が将来お金に困ることが無いと言うことだけは安心だが。
 だったら何故まだホストなんだあの男は……。
 収入が確保されているのなら、ホストなど辞めてしまえばいい。だが博貴は未だに勤めているという。そのことが戸浪には理解できないでいた。
 もちろん、収入があるからとはいえ、家にこもられるのも困るだろうが、ホストでなくとも職は色々あるはずだ。にも関わらず博貴は未だにアルバイトではあるが、ホストとして働いていた。これには戸浪も賛成できなかった。
 大地がいないときに博貴と話し合わなければならないだろう。博貴がホストであることを大地が快く思っているとは思えないからだ。大地には言えないだろうから、兄である戸浪が間に入ってやれば良い。
 それが兄の務めだと戸浪は考えていた。
 あ……
 考え込んでいる場合じゃなかったな……
 視線をまたフロアに移すと、あちらこちらに置かれている調度品に目が吸い寄せられた。何故こんなところに壺が……と、気になるほど倒せばいくら請求されるか分からないものまでオブジェクトとして飾られていた。
 はっ……
 違う……
 見とれている場合でも無いんだ。
 田舎者のようにキョロキョロしている姿を、設置されている防犯カメラに捉えられたくなかった戸浪はインターフォンを使って大地を呼び出した。
『あ、兄ちゃん。来たんだ。そこのドア開けるから勝手に上がってきてくれる?俺、夕食の準備に忙しいんだ。じゃあ後でね』
 大地はそれだけを言うとさっさとインターフォンを切る。せわしないなあと思っていると、自動ドアが開いた。
「祐馬。上がるぞ」
 戸浪よりもあちこち物珍しそうに眺めている祐馬に声をかけると、今まで眺めていた絵画から目を逸らせてこちらを向いた。
「んな、戸浪ちゃん。この絵って本物かな?」
 壁に掛かっている風景画を物珍しそうに眺めながら祐馬は言う。
「そんなこと、どうでも良いだろう。それより、祐馬の方が東家で見慣れているんじゃないのか?」
 値段がいくらするか見当も付かないようなものに囲まれて育ったはずの祐馬が分からないことを、見渡すばかり草木が広がる田舎で育った戸浪に問いかける方が間違いだ。
 どうしてそんな簡単な事が分からないのか、戸浪は不思議で仕方がなかった。
「え、俺、じいちゃんちで育った訳じゃないよ。おれんちはごく普通の中流家庭だって。ていうか、じいちゃんちにあるものって、偽物しか置いてないって言ってたけどな。大事なものは私設の美術館に置いてるんだって。うちにすげえもん置いてたら泥棒が入ってきて仕方ないだろ?」
 東家の事情などどうでも良い。
 戸浪は東の名前が出ると不快になるのだ。
 祐馬の祖父母がどんな人物であるかなど見当も付かないが、従妹の鈴香と姉の舞には散々な目に戸浪はあっていた。
 だから余計に知りたいと思わない。
 ただ、祐馬は姉が企んだことなど何も知らないのだから、ごく普通に家族のことを話すことは責められないだろう。
 舞がたきつけ、鈴香が一体何をしようと企んでいたのかを、戸浪は祐馬に話していない。それらを知った時、祐馬がどういう気持ちを抱くかを思うと、結局話せなかった。
 姉は祐馬が可愛いからこそ、戸浪とのことを壊そうとしたに違いない。今のところ祐馬の両親が何も言ってこないのは、舞が話していないからだ。
 もし、二人の関係を知れば、世間知らずの祐馬を戸浪が騙したのだと責められるのは目に見えていた。
 ただ、戸浪はそれで良いと思っていた。
 誘ったのは戸浪であり、騙されたのが祐馬だという方が両親にとっても受け入れやすいはずだ。
 戸浪は祐馬の家族に認めてもらいたいと考えたり、希望を持つということはなかった。逆に応援された日には困惑してしまうはずだ。もちろん、戸浪は祐馬という男性とつき合っていて、一緒に暮らしているが、家族公認などとされると気味が悪い。
 やはり両親や兄弟には反対していて欲しいと戸浪は考えていた。普通なら認めてもらいたいと思うのだろうが、この点で戸浪は違った。
 家族は反対して良いのだ。
 大地の兄であるという微妙な立場からそんな風に考えてしまうのかもしれない。
「戸浪ちゃん?何、ぼんやりしてるの?……」
「え……あ……」
「行こうよ」
 祐馬がそっと指先を伸ばして戸浪の手を取り、歩き出した。恥ずかしい事をするなっ!……と思わず口から出そうになった戸浪だったが、触れる手の温もりが気持ちよく、促されるまま祐馬について歩いた。

「いらっしゃい」
 玄関で博貴がウサ吉を手に抱きながら笑顔で迎えてくれた。笑顔にしても、ウサ吉を抱き上げている手も戸浪には胡散臭く思えて仕方ない。
 ホストであるという先入観が博貴をそんな風に見せているのかもしれないのだが、戸浪は何度会ってもこの男を信用できないのだ。
 悪い男ではないとは戸浪も思う。大地を想う気持ちも本物だと分かっている。だが、博貴は己の心を見せる、開けっぴろげなタイプではない。
 祐馬は隠し事が出来ないタイプで、何かあるとすぐに顔に出る。博貴は聞けば驚くようなことでも上手に隠せるタイプだから戸浪も完全に信用できないのだ。
 これは何処まで行っても平行線だと戸浪も諦めていた。戸浪が嫌いな性格のタイプに博貴が分類されているのだから、交わることなど無い。
 だから好ましいタイプの男には今後、未来永劫あり得ないのだ。
「今晩は。今日は誘っていただいてありがとうございます」
 祐馬は愛想良く、戸浪よりも先に言った。
「いえ、本当に沢山タケノコがうちにあって……困っていたんですよ」
 ニコニコとした笑みで博貴は言う。
「ウサ吉も元気だな~俺んちにいたときよりまるまる太ってでっかくなっちゃって」
 博貴が抱き上げているウサ吉の頭を撫でて祐馬は嬉しそうだった。
「ところで大地は?」
 ようやく戸浪は博貴に言った。
「キッチンでタケノコと格闘していますよ」
「じゃあ……私は手伝ってくる」
 上がって良いとまだ言われていないのに、戸浪は勝手に靴を脱いで玄関を上がる。すると祐馬が戸浪のシャツを引っ張った。
「戸浪ちゃん。俺達は余計な事はしないで待っていようよ」
 料理が下手な戸浪であるから、手伝わない方が良いという含みがあるのだろうが、ここで博貴と顔をつきあわせているのが居心地が悪いのだ。
「それはそうだが……」
「ダイニングとリビングがくっついていますから、大ちゃんの姿も待っている間も見えますし、忙しそうにしているようだったら手伝ってやってください」
「そうさせてもらうよ」
「だから戸浪ちゃんって……」
「なんだ?」
「いやその……良いけどね……」
 祐馬は苦笑しながら頭をかいていた。
 言いたいことは分かるが、戸浪は祐馬とは違い社交性がゼロだった。それは戸浪自身も自覚していることであるから、博貴にどう思われたとしても構わない。
「じゃあ、先に行く」
 博貴に案内される前に、戸浪は大地のところに早足で向かった。後ろから二人がついてくるが、なにやらひそひそと話しているのが聞こえる。
 むかっ……
 どうせ戸浪には聞かれたくないようなことを祐馬が話しているに違いない。後で問いつめてやると本心から思いながら、戸浪はリビングに足を踏み入れた。
「あ~兄ちゃん。来たんだ。ちょ、ちょっと待ってね……」
 大鍋をカウンターに置いて大地は額を拭った。近寄って大鍋を覗き込むと、誰がこれを食べるんだ……と驚くほど大量のタケノコが薄い出汁に浸っていた。
「大……お前、本当にものすごい量だぞ……」
 鍋を見つめていた顔を上げて戸浪が言うと、大地は苦笑して言った。
「うん。湯がくのも大変だったけど、これ、食べきるのも大変だと思う」
「……普通はもう少し考えて湯がくだろう?」
「だって、新鮮なうちに湯がかないとさあ……こういうのってえぐみが出るだろ?いくつかは湯がいたのをそのまま冷凍にしたんだけど、冷凍庫も一杯になっちゃって……だから、揚げ物にしたり、みそ汁の具にしてみたり、ご飯に炊き込んでみたりしたんだけど……。そうしたらすっげえ量になっちゃって~あははは」
 大きく口を開けて、大地は本当におかしそうに笑った。
「……私たちが二人来たところで無理だと思うが……」
 よくキッチンを見回してみると、カウンターには大皿が置かれ、揚げ物が山のように積まれていて、コンロの方には鍋が二つ火にかけられていて湯気が出ている。他に刺身用にタケノコの先端を薄く切ったものが平皿に並べられ、炊飯器からもタケノコの匂いがした。
「博貴の店の人を呼ぼうって言ったんだけど、嫌だって言うし……、俺の友達誘うけどって話したらこれも却下されちゃって……。他人はこのうちに上げたく無いんだって。博貴ってマジでわがままだろ?」
 幸せそうな表情で大地は言う。
 これでは困っているようには見えない。
「のろけないでくれ……」
「あ、そう言うつもりじゃないんだけどさあ……」
 照れくさそうに大地は鼻の頭をかいた。
「あ、大ちゃん。こっちで三崎さんと話をしてるから、ゆっくり準備してくれるかな。手が足りなかったら呼んでくれたらいいから」
 キッチンから見えるリビングの方に博貴と祐馬が入ってきて、奥にあるローソファーに座っていた。祐馬の方はウサ吉を抱き上げてなにやら楽しそうにしている。
「分かった。でも戸浪にいが来てくれたから大丈夫だよ。準備にもう少しかかるから三崎さんの相手頼むな~!」
 大地がカウンターから叫ぶと、博貴は手を振る。
 どこから見ても仲むつまじい。
「……でさあ、戸浪にい。三崎さんと上手くいってんのか?」
 振り返った大地がいきなり問いかけてきた。
「は?何を突然言い出すんだ……」
「別に……何でもないけどさあ……」
 もごもごと何か知っているような口振りだ。
「なんだ。突然夕食の誘いを掛けてきた理由は、そのことを話したかった訳か?」
「ち、違うって……たださあ……心配で……」
 チラリとローソファーに座っている祐馬の方に視線を向けて、また大地はこちらを向いた。
「祐馬の噂でも聞いたか?」
「俺が聞いたんじゃないんだ。真喜子さんがね……お店で……その……」
 菜箸でタケノコをグルグルとかき混ぜながら大地は言う。
「なんだ?」
「真喜子さんのお店って、兄ちゃんも知ってると思うけど……高級クラブなんだよね。それでさあ、舞さんって知ってる?」
 いきなり大地から祐馬の姉である舞のことを聞かれるとは思わなかった。
「舞……舞というのは祐馬の姉だ」
 ムッとしながら答えると、大地は目を丸くさせた。
「……三崎さんって……やっぱりお姉ちゃんがいたんだ。なんかそんな感じに見えたけど……」
「だから、なんだ?」
「別に……。それとさあ、里江さんって知ってる?」
「なんだって?」
 これには戸浪も驚いた。
 何故、問題の二人が出てくるのだ?
「知らなかったら良いんだけど……」
「知ってる。祐馬の幼なじみだ」
「へ……へええ……そうだったんだ……」
 大地は不味いことを言ったという表情で、更にタケノコをかき混ぜていた。
「はっきり言わないか」
「……怒らないでくれよ。俺だって聞いただけなんだからさ……」
「だから何を?」
 ジロリと戸浪が睨み付けると大地は肩を竦めた。
「……なんかさ、数日前だけど、真喜子さんのクラブにその二人と剣山って男性を連れて来たんだって。まあ色々分からない話をしていたそうなんだけど、三崎さんって里江さんとなにか大事な約束をしてるらしいんだよ……」
「どういう?」
「その辺りは真喜子さんも指名が入って聞いてないらしいんだけど……」
「お前はそこまで話を振って置いて、肝心なことが分からないって言うのか?」
 小声だが思わず戸浪はきつい口調で大地に言っていた。大地に当たっても仕方がないのだが、舞と里江の事になるとどうしようもない。
「……三崎さんを連れて帰るって言ってた」
「連れて帰るって?」
「三崎さんって元々アメリカにいたんだって?だからさ……そっちに連れて帰るって里江さんが言ってたらしいよ。俺も色々聞いたんだけど、真喜子さんも最初は適当に話を流して聞いていたらしくて……それで三崎さんの事が話題になったから思わず耳をそばだてたらしいんだ。でもほら、全部聞けなかったから……」
 申し訳なさそうに大地は言った。
「……いや。いい。理由が分かっただけでも……いいさ」
 里江が祐馬に渡した手紙には、そのことが書かれていたに違いない。一体どういう理由で里江が来たのかが分かっただけでも戸浪にとって収穫になるのだろう。
 連れ戻す……か。
 祐馬はアメリカの東都で働いていたのだ。里江との約束もそこでしたのかもしれない。
 何も言わない祐馬は一体何を考えているのか、戸浪には分からなかった。もし、仮に、幼なじみである里江がアメリカに帰ろうと祐馬を誘ったとして、断ったと一言話してくれたら戸浪もこれほど苛つかなかったのだ。
 どうして話してくれないのだろうか。
 迷っているからか?
 出世など求めるタイプではなかったのか?
「兄ちゃん……ごめん。俺、なんか悪いこと聞かせてしまったかも……。三崎さんを問いつめた方が良かったよな」
 回していた菜箸を止めて、大地は心配そうに戸浪を見上げている。弟に心配をさせてしまったことが戸浪には心苦しかった。
「いや。知っていたことだから、お前が気にすることはない」
「知ってたんだ?」
「まあね……」
「じゃあさ。ちゃんと三崎さんから聞いてるんだな?だったら良いけど……。三崎さんって、ぼんやりしてそうだから、兄ちゃんが考え込むタイプって分かってないと思うんだよ」
 弟にまでこんな風に言われるとは戸浪は思いも寄らなかった。
「……そうだ。ぼんやりしてる。ああいう男が出世を望むことは無いよ」
「だよな~。俺もそう思うんだ。でもさあ、三崎さんのお姉さんと幼なじみの里江さんって、すっげえ三崎さんを買っていたらしいんだよ。真喜子さんも三崎さんを知ってるだろ?話したことは無いみたいだけど、あの人には無理だと思うわ……って笑ってたよ」
 それは余計だ。
 あれでいい男なのだ。
 仕事だって実は出来るかもしれないだろう?
 と、心の中で悪態を付いたが、口に出してしまうとのろけていると取られかねないために戸浪は黙っていた。
「大ちゃん、まだかい?」
 いつまで経ってもテーブルに料理を並べない二人が心配になったのか、博貴がカウンター越しに聞いてきた。
「今からするって。お前はあっちにいってろよ」
 口を尖らせて、大地は言う。
「はいはい。じゃあもう少し、三崎さんにつき合ってるよ」
 祐馬の方は相変わらず、戸浪が何を考えているのか分からない様子でウサ吉と遊んでいた。
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