「秘密かもしんない」 第1章
男は久しぶりに地面を踏んだ。タラップを降り、両手を上に向けて伸びをする。いつも揺れる床の感触に足が慣れている所為か、動いていない筈の地面が揺れているような気がするのは身体に身に付いている習慣の所為だろう。これも暫くすると慣れるだろうと男は思いながら足下に置いた荷物を持った。随分重いはずの荷物もその男が持つと、まるで手荷物のようだ。
顔を上げた男の顔は日に焼けており真っ黒だ。短くカットされた髪に、太い眉。その中にある瞳は丸っこい目をしており、一見すると瞳だけは可愛らしく見えるが、さらによく見ると厳しい光を灯しているのが分かる。
「澤村さん……実家に帰らないんですか?」
後から後輩らしき男がそう声を掛けた。
「今回の上陸休暇は弟のうちに世話になろうと思ってるんだ。久しぶりにゆっくりさせてもらうよ……」
澤村と呼ばれた男はそう言って笑った。すると丸っこい目が細くなる。だがエラの張った顎は、曲がったことは絶対に許さないという、融通がきかない性格そのものを現してるようだった。
「連絡はされたんですか?」
「いや……ほら、船のエンジントラブルで急な寄港だったろう。だからまだ連絡はしていないんだ。私は二人下に弟がいるんだが、どちらも住んでいる所を知っているからな。突然行って驚かせるのも一興だろうと思ってね」
「突然行ったら弟さん達困るんじゃないですか?恋人と一緒に住んでいたとしたら澤村さん恨まれますよ」
「何だって?結婚前の男女が同棲などしているようなら性根を叩き直してやる」
言って豪快に笑ったこの男が、澤村家の長男である早樹だった。
ピピピ……
目覚まし時計がベッド脇にある小さなキャスター付きの机で鳴っていた。
「……う~ん……」
大地は手を伸ばし時計の音を止めようとするのだが、広いベッドの上では端に移動しなければまず届かないだろう。だがまだ半分夢の中にいる大地にはそれが分からない。ひたすら手が空中で振られ、暫くすると諦めたようにパタリと落ちた。
パイル地の肌心地の良さが一旦意識を戻そうとした大地をまた夢の中に誘う。
気持ち良い……
もうちょっと……
頬をシーツに擦りつけ、大地は更に深く眠りにつこうとしたが、時計の音は少しずつ大きくなった。その音に耐えきれなくなった大地はようやく目を薄く開けた。
「……んっだよ……誰だよこんな時間にセットしたの……」
まるで芋虫の行進宜しく、大地はパイル地のシーツをのそのそと這い、ベッドの端に到着した。
ああ……
俺がセットしたんだよなあ……
ぼや~んと、大地は思いながら手を伸ばし、今度こそ目覚ましのベルを止めた。するとまた寝室内はシンと静まりかえった。何より、まだ外は暗い。
ん……あ……気持ち良いよ……
空調が効いている部屋は、体感温度がきっちりと設定されており、今はまさに至福の時だ。大地はまた眠りそうになるのを堪えるように目をごしごしと擦った。
う……ん……
ホストのアルバイトを終え、博貴がもうすぐ帰宅するはずなのだ。だから大地は朝ご飯を作るために目覚ましのセットをいつもよりかなり早くして置いたのだ。
それでも本来なら博貴が先に帰ってくるはずなのだが、人の気配がしないと言うことはまだ戻ってきていないのだろう。
もう少し寝ても良いかなあ……
大地はベッドを斜めに横断するような格好で突っ伏し、またうとうとし始めた。先程時計を止めた手はまだ脇机に置かれたままのポーズだった。
少しだけ……
ほんの……
少し……
大地が夢の中に引きずり込まれるのにそれほど時間はかからなかった。
次に大地が起きたのは昼を過ぎようとしている頃だった。
「……あっ?あーーーーーっ!」
目は一気に覚め、大地は慌ててベッドから降りた。そのままスリッパを履いてキッチンへと向かった。
もしかして……
大良帰って来てるのかな……
朝ご飯を食べさせてあげるつもりだったのだが、既に時間は昼を過ぎていた。慌ててリビングに来た大地だったが、博貴が帰ってきた様子はなかった。
あれ……
用事があるとか言ってたかなあ……
ふあああと欠伸をしながら、洗面所に行き、顔を洗いながら昨日のことを思い出してみた。だが、博貴はいつものように「行ってきます」と言って出ていったことしか覚えていない。
……う~ん……
なんかあったら電話入ってるよな……
洗った顔をタオルで拭き終わると、今度は伸びをしてキッチンに入った。
あと数時間して帰ってこないようであったら、博貴の携帯に電話を入れるといいのだ。
本当は直ぐに電話の一つでもかけたいのだが、大地は博貴が居ないからと言って直ぐに電話をするタイプではなかった。その行為が女性的なような気がして、気が進まないのだ。
いいや……別に……
大地は冷蔵庫を開け、うどんの玉を取りだし、あと卵とネギ、牛肉を取りだした。そうしてその材料を使って、肉うどんを作った。御飯は昨日の残りが合ったため、大地はそれにジャコと鰹節、そして潰した梅肉を入れてかき混ぜ、茶碗に入れた。
「頂きます~」
大地は一人で手を合わせ、箸を取ると、うどんとジャコ飯を交互に食べ始めた。もごもごと口を動かしながら、大地は暫く無言で食べていた。
やっぱり一人で食うのは寂しいよな……
ごくんと口の中のものを飲み込み、大地はそう思った。何よりこの今住んでいるマンションは二人で住むには広すぎるのだ。二人でもそう感じるのだから、一人でいると異様に広く感じる。
本当はここに住む気は無かった。以前、住んでいた狭いコーポの方が自分には似合いだと今も思っている。だが博貴は大地と一緒に暮らすと言い張ったのだ。
俺は別に……
通いでも良かったんだけど……
うどんをすくい上げ、ツルツルと食べる。その音だけがキッチンとそこから繋がるリビングに響いた。
自分が立てた音であるのに、何となく気味が悪くなった大地は丼鉢に箸を置き、熱いうどんを食べた所為で出た汗を拭った。
ふう……
小さく息を吐いて、残りのうどん等を綺麗に食べると、昼食を終えた。その食器を洗い、次にラフなシャツとジーパンを履くと、大地は郵便を取りに一階まで降りることにした。
マンションの一階はロビー風になっており、ソファーなども置かれて住民がくつろげるようになっていた。その端に郵便ボックスがあるのだが、こちらは盗難防止策として一度入れると逆向きに取り出せない仕組みになっいる。そのボックスが並ぶ場所の端に、キーを差し入れる所があるのだ。
大地が持っているキーを差し入れると、キーの番号に該当するボックスの下部が、パカリと開いた。
中身はほとんど新聞の束だ。
一つずつ確認しながら大地は中身を取りだしていったが、一つだけ送り主が何も書かれていない封筒があった。
……何だろう……
博貴宛なのだが、後ろを見ても、前を見ても誰が送ってきたのか書いていない。何を送ってきたのだろうと手で押さえてみると、四角い長方形の箱のような感触が伝わってきた。
これって……
ビデオ?
大地がそう思いながら再度触ってみると、どう中身を想像してもビデオのように大地は思えた。
あいつ……
また妙なものを買ったんだろうか……
差出人がないというのも変だった。怪しげなビデオを頼んだ為に、差出人の名前があえて書かれていないのだろう。
……全くもう……
ほんと大良って……
呆れながらも大地は新聞と、問題のビデオが入った封筒を小脇に抱え、また自分の階へ上がることにした。
エレベーターに乗っている間も大地はそのビデオが入っているらしい封筒が気になっていた。
あいつ……
今度は何を買ったんだよ……
溜息をつきながらも視線はその封筒から離れない。
そうして最上階に来ると、エレベーターを降り、ポーチを歩いてうちに入った。
いつものようにリビングにあるローテーブルに新聞の束と、色々な請求書や案内書を置き、最後にビデオが入っているらしい封筒を置いた。
じっとそれを見ながら大地は逡巡した。
どうしようかな……
すっげー無修正のホモエロだったりして……
あいつ……
買いかねないもんな……
博貴のマイコレクションは侮れないのだ。とにかく一般人が持っていないようなものばかりある。その全貌は恐ろしくて大地は全てを確認したことはない。
怪しげなゴム製のナニとか……
どうしてあるんだレッスンビデオとか……
あいつマジでコレクターだからな……
捨てろと騒ぎたいのだが、不燃物の日に出せるようなものではないので、仕方無しに大地はその存在を認めていた。それらを使って来るようならマジでボコボコにしていたのだろうが、博貴は別に大地に使いたいと思っているわけではないようだ。
お客さんがくれるんだよ……と、何時もそう言って誤魔化している博貴だが、それが何処まで本当か大地には分からなかった。
追求したところで本当の事を白状するとも思わなかった。
……
又なんか企んでるのかなあ……
いい加減にしろよ……
は~と深いため息を付くと同時に電話が鳴った。大地は一旦封筒の存在を置いて、電話の受話器を取った。すると相手は兄の戸浪からであった。
「あ、兄ちゃん……久しぶり……」
大地は弾んだ声でそう言ったのだが、戸浪の方はやや困惑したような声であった。
「お前の所は連絡は無かったのか?」
「え……何の事だよ……」
受話器を持ったまま、大地はその場に座り、足を延ばした。
「……早樹兄さんから連絡があった」
溜息をついた戸浪はなにやら困っているようだった。
「え、早樹にいが?あれ、そうなの?うちにはなかったぞ」
「……お前……新しい住所早樹兄さんに言ったか?私は連絡していなかった。来られても困るからな……そうしたら携帯に電話が入ったんだ……」
携帯の方は大地はチェックしていなかった。
「あ、ちょっとまって……俺、携帯取ってくる……」
大地は保留にすると、寝室に走った。そうして部屋の端に置いた充電器から自分の携帯を見ると、着信履歴が残っていた。
「早樹にいだ……あちゃ……」
携帯を持ったまま大地は又キッチンまで戻ってきた。保留した電話をもう一度繋げ、大地は戸浪に言った。
「かかってたみたい……俺、バイブにしたままだったから気が付かなかったんだ……。で、早樹にい何?」
「二週間ほど上陸するらしいんだが……実家に帰らずにお前達のどちらかに世話になるって言っていたんだ。まあ……その前に引っ越し先の連絡を何故しなかったと言って怒っていたがね……どうする?」
戸浪はそう言ったが、大地の方も早樹が来られると困るのだ。
「どうするって……兄ちゃんはどうなんだよ……俺んち駄目だぞ……。そりゃもちろん間借りしてるだけだって言う嘘は通用すると思うけど……。ただ大良は、見た目チャラチャラして見えるだろ……早樹にいが一番嫌いなタイプの男な筈なんだ。そんな早樹にいと大良を会わせられないし、逆にここに泊まってもらう訳にもいかないし……。でさあ、兄ちゃんとこ駄目なの?あの鶏冠の兄ちゃんはサラリーマンだし……兄ちゃんが間借りしてるって言ってたとしても通じる相手だよな……。だから……兄ちゃん……悪いんだけど……」
最後は言葉を濁して大地は言った。
「……うちも困るんだよ……大地……」
言われても……
俺だって……
困る……
「兄ちゃんお願いだよ……俺マジで駄目なんだって……。だって……絶対、大良追いかけられちゃうよ……。兄ちゃんだって最初大良見たとき、あいつの見た目をすげえ嫌がっただろ。その数十倍嫌がるよ……早樹にいは……」
ホスト等というアルバイトでしていることもマイナスになる筈なのだ。
早樹は何処までも曲がったことと、男らしくない(女らしくない)タイプが嫌いだった。その辺りは父親そっくりなのだ。
「う~ん……うちは猫もいるんだが……」
なんだか間の抜けた答えを戸浪は言った。
「兄ちゃんって……猫はどうでも良いよ。早樹にいは動物は嫌いじゃないから、上手くやるって……」
あはははと笑って大地は言った。
「……普通の猫じゃないんだよ……」
電話向こうで戸浪が溜息をつくのが大地には分かった。普通の猫じゃないなら、どういう猫なんだ?……と、聞きたかったのだが、聞いてまたやはりうちも駄目だと言われるのが恐かった大地は「ふうん」とだけ言った。
「……仕方ない……うちに来て貰うよ。客間はあるしな……まあ……祐馬は別に嫌がったりしないと思うから……事後承諾で……」
「ごめん……本当にごめん……」
こればかりは大地もうんと言えなかったのだ。もし、何かの偶然で博貴のマイコレクションを見たらと思うとその先を想像できない。何よりつき合っているのが男だと知ったら二人とも早樹によって血祭りに上げられそうだ。それはそのまま戸浪にも当てはまるのだろうが、大地より戸浪の方が嘘を付くのは上手いはずだ。大地の嘘は早樹に昔から全く通用しない。それを大地は良く分かっていた。
「……ああ……いいよ……。で、私は今、会社なんだが……こちらの仕事が終わるまで、早樹兄さんの相手をしてくれないか?もうこっちに向かっているそうだ。喫茶店で五時過ぎに待ち合わせにして置いた。私は六時頃行くから……」
「分かった。俺、そのくらいするよ」
大地がそういうと、戸浪は待ち合わせの喫茶店の場所を言った。
「じゃあ……頼むよ……」
気がやはり進まないのか、戸浪は力無くそう言って電話を切った。
「うう……ごめん……」
置いた受話器に向かって何故か拝むように手を合わせ大地は言った。
早樹にいが来るんだ……
父親にそっくりの早樹は性格まで父親に似ている。ゴツッとした身体に、余分な脂肪は無く、筋肉ががっちりと付いている。身長は戸浪より低いのだが、骨太な所為か横幅がある。もちろん太っているわけではなく、均整の取れた男らしい体つきなのだ。それは海上自衛隊に入って鍛えられているからだろう。
戸浪とは七つ離れていたがそれより上の早樹は大地にとってまるで父親の様な存在でもあった。大地が小さい頃から上の兄二人は随分と可愛がってくれた。とくに早樹の大地に対する可愛がり方は、父親の溺愛ぶりに匹敵するだろう。だが無茶な溺愛をするのではない。その辺りは大人の早樹は心得ているようだ。
それでも早樹は大地が可愛くて仕方ないようだ。大地が今の警備員の仕事を選んだことで戸浪は反対したが、早樹は認めてくれた。それは大地が男らしい仕事を選んだ所為もあるだろうが、やはり大地には甘いのだ。
……良いんだけどね……
俺も早樹にい好きだし……
男らしい早樹は昔から大地の憧れだった。
折角二週間も上陸するならうちに来てよと言いたいところだ。だがこっちは男とつき合っている。これは戸浪にしろ、大地にも口が裂けようと、滑ろうと早樹に知られてはならないことだった。
戸浪にい……大丈夫かな……
大地は不安な気持ちで、もう一度心の中で戸浪に謝った。
夕方きちんとした服に着替え、大地はまだ戻らない博貴にとうとう電話を入れた。
「あ……大良……俺。なあ……何かあったのか?」
あまりに遅い博貴に大地は心配になっていたのだ。
「ああ……大ちゃんごめんよ……。昨日の晩ね、お客さんとうちのホストがもめて……それでホストの千晶君が怪我してしまって、病院に付き添ってたんだ。榊さんが今居ないからねえ……。連絡遅れてごめんよ……」
博貴は申し訳なさそうにそう言った。
「そうだったんだ。大変だったんだな。その病院に担ぎ込まれた人、大丈夫なのか?」
「大ちゃんは優しいね……。ああ……千晶君は大丈夫だよ。それよりもう少し遅くなりそうなんだけど……」
博貴はそう言った。
「あ、俺は、一番上の兄さんが帰ってくるって言ってるから、夕方ちょっと出てくる。多分そのまま食事に出かけると思うんだけど……」
「気にしなくていいよ。じゃあ私の方は適当に夕食を摂るよ。君は充分楽しんで来るといい……。久しぶりだろう?三人で会うのは……」
博貴はそう言って電話向こうで笑った。
「詳しいことは又ゆっくり話すね。俺もう出ないといけないから……」
「分かったよ……大地……。君が居ないと寂しいが、仕方無しにお茶漬けでも食べるとするか……」
お茶漬けって……。
俺ましなもの作って冷凍庫入れてあるだろうっ……
もう……
「あのさあ、冷凍庫にグラタンとかハンバーグとかさあ、俺が居ないときの為に作ってあるんだから、それを温めて食えよ。茶漬けなんか食うなよ」
ムッとした声でそういうと博貴は大声で笑っていた。
「ああ……そうだったね。君が居ないときに私でも簡単に作られる料理をストックしてくれていたんだっけ……。さすが大ちゃんぬかりなし」
感心したように博貴は言った。
「くだらねえ事言うなって……じゃあ俺行くから……」
言って大地は会話を終わらせた。その頃には先程まで気になっていたビデオのことなど大地はすっかり忘れていた。
約束した喫茶店に着くと既に早樹は座ってコーヒーを飲んでいた。
「早樹にい!」
早樹の座る座席に大地は走るように近寄った。
「大、元気にしてたか?」
嬉しそうな顔で早樹はそう言って大地の頭を撫でた。
「うん……元気にしてたよ。あ、戸浪にいは六時になるって……」
椅子に腰を掛けながら大地はそう言った。
「私は時間までここで暇を潰すつもりだったんだが……。大はこの時間空いていたのか?」
そう言って不思議そうな顔を早樹は大地に向けた。
「俺、警備員だから、日勤と夜勤に分かれていてさ、今日はお休みだったんだ。そのへんは普通のサラリーマンとは違うんだよ」
えへへと笑っているとウェイトレスが注文を取りに来た。大地は「ミックスジュース」を頼んだ。そんな大地に早樹が笑いを堪えている。
「大は相変わらずだな。……それで仕事には慣れたか?嫌になったりしてないか?」
心配そうに早樹はそう聞いてきた。
「おっちゃんばっかりだし、みんな俺のこと孫みたいに可愛がってくれてる。最近は企業も若い警備員を表に出したいみたいで、俺はもっぱら裏手より表に立たされるようになったけどね」
その代わり、表に立たされると妙な男に声を掛けられることも増えた。だがそんなことは早樹には話さなかった。もちろん博貴にも話したことはない。
「大もどんどん大人になっていくんだな……お前に会うたびに兄ちゃんそう思う」
満面の笑みで早樹はそう言ってコーヒーを飲んだ。この兄がもし大地と戸浪が男とつき合い、その上一緒に暮らしていると知ったらどうなるんだろうと考えたが、背筋が寒くなった。そんな中先程注文を取りに来たウェイトレスがミックスジュースを運んでくると、大地の前に置いた。
「大?どうした?」
「え、別に……はは。あっ、戸浪にいが来た……」
意外に早く戸浪はやってきた。
「兄さん……お久しぶりです」
戸浪は二人の腰を掛ける席に来ると、早樹の方を向きそう言った。
「戸浪も元気そうだな……」
早樹はやはり嬉しそうに笑った。
「ええ。私は……。そうそう、兄さんは暫くうちに来て下さい。間借りさせて貰っている人にちゃんと許可を頂きましたから……」
そう言って大地の横に座った戸浪にウェイトレスが「ご注文は」と聞いたが戸浪は「すぐに出ますから」と言って断った。
「間借り?なんだそれは……」
「都内は家賃も高いので……友人のうちに間借りさせて貰っているんです。その友人はマンションを買ったのは良いんですけど、ローンが苦しくて……。それで私に間借りしないかと言ってくれたんですよ。今はそこに住んでいます。家賃も以前より安く付いて、友人のローンの手助けになりますし、これだと互いにとってメリットがありますからね」
そう言った戸浪は何処か棒読み状態だった。
兄ちゃん……
なんか変なしゃべり方……
事情を知っているだけに余計に大地にはそれが奇妙に聞こえたが、何も知らない早樹は気が付かないようであった。だが大地はその会話に入ることをせずにひたすらミックスジュースを飲んでいた。
「そんな人様のうちに私がやっかいになっていいのか?大、お前のうちはどうなんだ?そう言えばお前も引っ越ししていたが……」
いきなりこちらにふられた大地は「えっ……おれんち?」と言ったまま次にどう言えば良いのか言葉が出なかった。
「あ、兄さん。大のうちは駄目ですよ。会社の独身寮だから……な、大」
そう戸浪に助け船を出して貰い、ようやく大地は声が出た。こういう状況には大地はすぐに反応できないのだ。
「あ、そうなんだ……俺、会社の独身寮に移って……。部外者は入れないんだ」
女子の独身寮ならまだしも、男の独身寮で人様が入れないのはどういう寮だと思いながら大地はそう言って笑った。
「そうか……なら仕方ないな……戸浪の友達には悪いが世話になるよ……」
不自然な事であるのに、海上での生活しか知らない早樹は納得したようであった。
「気にしないで良いんですよ。じゃあ兄さん、荷物を一旦預けて食事にでも行きませんか?」
戸浪はそう言って話を変えた。
「ああ、そうだ。腹が減って死にそうだったんだ」
早樹はそう言って笑った。
そうして兄弟三人が喫茶店での精算を済ませて出ると、昼までの快晴が信じられない程、今はどんよりと曇っていた。
「降りそうだな……」
早樹がおもむろに言った言葉に大地の顔が自然に空へと向けられた。すると垂れ込めた雲が、渦を巻き、空一杯に広がっている。それを見ながら大地は心の奥底で理由もなく言葉に出来ない不安を覚えた。