「秘密かもしんない」 第13章
夕方、大地が帰ってくると、マンションの玄関を入ったところにあるホールに早樹が立っていた。
ホールにいるのが分かっていたら……いや、先に気が付いていたなら大地も引き返し、早樹が居なくなるのを待ってからそこを通っただろう。だが、大地は昨晩のこともあり、色々物思いに耽っていたため、かなり近づくまで早樹が立っている事に気が付かなかったのだ。
無視しよ……
そう思いながら大地はチラと合った早樹との視線を逸らせ、その脇を通り抜けようとすると、意外なことに早樹は何も言わずに大地を見送った。
……気持ち悪いな……
大地は早樹を目線の端で捉えながら、マンションのキーを取りだした。
このマンションは玄関から入ると二重の扉で仕切られたホールにまず入る。そこでこのマンションに住む住人はエレベーターホールのある向こう側に行くために、手前のホールに設置されている機械にキーカードを差し込んで、内側の扉を開けるのだ。管理人がいるのは最初のホールと内側をまたいだ専用の部屋があるため、どちらにも対応できるようになっていた。
……早樹にい……
何も言わないっていうのも恐いな……
チラチラと早樹を気にしながら大地はキーを差し込んで自分の暗証番号を入れたのだが、エラーが出て全く受け付けてくれなかった。
……あれ?
もしかして携帯と一緒にしちゃったかな……
磁気で出来ているものと、携帯などを一緒にしておくと、磁気の部分が反応しなくなるのだ。
参ったな……う~ん……
博貴は仕事だろうし……
ここであいつ帰ってくるの待つっていっても……
再度ポケットにカードを入れ、大地はホールに並べてある椅子に腰をかけた。すると何故か早樹も隣りに座った。
……
なんだよ……
まだなんかあるっていうのか?
しかしこちらから声を掛ける気など大地にはない。すると早樹の方から声を掛けてきた。
「キー……使えなかったんだろう?」
「……別に……早樹にいには関係ないよ……」
隣りにいる早樹の顔など見ずに、大地は自分の膝頭を見つめたままそう言った。
「管理人さんに開けて貰うから……」
椅子から腰を上げ、大地は管理人室の窓口になっている所まで歩くと、インターフォンを鳴らした。すると、窓が開き、見知った管理人が顔を出した。
人の良いおじさんという感じの管理人は佐藤という名前で、毎日出たり入ったりする大地を良く知っていたのだ。
「佐藤さん。済みません。俺のカードが磁気やられちゃったみたいで中入られないんです。開けて貰えませんか?」
だが佐藤は困惑した顔になった。
「大ちゃん。悪いんだけどね。オーナーが暗証番号を変えたみたいなんだよ。こればっかりは私も文句言えないことだから、直接オーナーに言って貰えないかな……。他の部屋の分はこっちで切替が出来るんだけど、オーナーキーの権限は大良さんしか持っていないんだ」
「え……変えたって?」
大地はそんなことを博貴から一言も聞いていなかった。
「今日の昼間だったかな……管理室にあるキーカードの暗証番号登録の機械で変更かけていたみたいだから……大ちゃん聞いてないのかい?」
「……う……うん……。ありがとう。俺、直接あいつに聞くよ。何かあって急に変更したのかもしれないし……」
何とか作った笑顔で大地は佐藤にそう言った。
「そうするといいよ。じゃあ」
佐藤はそれだけ言うと管理室の窓を閉め、内側のカーテンを閉めていた。何となく不味いと思ったのかもしれない。
大地は嫌な予感がしたのだが、携帯をポケットから取りだした。
「大、無駄だ」
いきなり早樹が大地の携帯を持つ手を掴んだ。
「な……なに?何だよっ……早樹にいには関係ないだろっ!離せよっ!」
掴まれた手を上下に激しく振り、早樹の手を振り払おうとしたのだが、がっちりと握られた手首から離れなかった。
「大良さんと私は今日、話しをしたんだ」
淡々と早樹はそう言った。
「……え……」
早樹が何を言ったのか大地にはすぐに理解できなかった。
「それで、私は大と別れて家族に返して欲しいと話したんだ。快くとは言えないが、最後には大良さんも納得してくれたんだよ。だから大はもうここには入られない。大良さんが暗証を変えて大を入られないようにすると言ったてくれたからね……。暫くは辛いと思うが、兄ちゃんと一緒に戸浪のうちに帰ろう……。それでやり直せば良いんだからな。大は若いんだから、これからまた可愛い女の子とも恋愛できる。気にすることはないんだ」
早樹は笑みを浮かべてそう言ったが、大地には訳が分からなかった。
あいつ……
あいつが暗証を変えたって?
俺を……追いだすつもりか?
家族に返すって……なんだ?
俺は……あいつの家族だろ?
違ったのか?
「大、おい……大丈夫か?」
心配そうな早樹の顔が大地に見えた。
「……あ……俺……俺は……」
違う……
早樹にいが勝手にそう言ってるんだっ……!
俺は……
あいつと何も話しをしていないっ!
「大……」
「俺抜きで話しをすんなよっ!何が家族に返せだよっ!俺は……あいつとずっといるんだっ!何も知らない早樹にいに、俺とあいつのこと勝手に決める権利なんかないっ!」
ガッと掴まれていた手をようやく離し、大地は叫ぶように言った。
「勝手に決めたのは悪かったが……。大良さんが最後まで嫌だと言えば良かったことだろう?だが大良さんは、暗証番号を変えてくれた。それが答えじゃないのか?」
声を荒げることなく早樹は言った。
「早樹にいが……早樹にいが大良に酷いこと言ったんだろうっ!あいつに酷いこと言ったんだっ!だからっ……だからあいつっ!」
早樹に言われたから……いや他人に何か言われたとしても、自分の意志を曲げるような博貴ではないことを大地は知っていた。そうであるから、結局の所博貴の意志で暗証を変えたのだ。それは突き詰めて考えると博貴が大地と一緒に暮らしたいと今は望んでいないからだ。
それだけではない。一緒に暮らす気はない……と、いうのはそのまま、別れようと言うことになるのだろう。
だが大地は何も博貴から聞いてはいなかった。
これっぽっちも博貴と話しをしてはいないのだ。
いきなり、こんな風に突き放されてどうその事実を受け入れろというのだろう。それは大地に全く理解できないことだし、理解したいとも思わなかった。
俺……
あんな事言ったから……
聞いてたから……
あいつ……
ショック受けたのかな?
それで……
それでもう俺なんか?
そうなのか?
だったら……ハッキリ俺に言えよ!
面と向かって言えば良いじゃないかっ!
……
……でもあれじゃあ……
あんな俺に何かを話そうとか……
言おうとか思わないよな……
自分の態度を思い出し、大地は項垂れた。
博貴が大地に聞いて貰いたいと思っていることを拒否してきた。そして昨晩、大地が徹に愚痴っていた事を博貴は聞いていたのだ。二つ合わせて考え、そんな恋人に相談したいとか、何かを話す気になるだろうか?
俺……謝ろうと思ったんだ……
でも……
「大。もう終わったんだ。帰るぞ」
終わり……
終わりってなんだよ……
俺は……絶対認めないっ!
「終わりなんかじゃない……俺はここで待ってる……」
大地はぽつりとそう言った。
「大……無駄だ」
「無駄じゃない……」
言って大地は先程座っていた椅子に腰をかけた。それを追いかけるように早樹は側に近寄ってきた。
「大良さんは、私の気持ちを分かってくれたんだよ。大の兄としての気持ちと……まだお前のことをしらない両親の気持ちをね……」
早樹の言葉に大地は顔を左右に振った。
「俺が……悪かったんだ。早樹にいのことに納得した訳じゃないよ……。あいつは早樹にいが言ったからって聞くような奴じゃない……」
膝を立て、椅子の縁にかかとを引っかけると、大地は両足を抱き込んだ形で呟いた。
「帰るんだ。大」
「……そんなの勝手に決めるな。これは俺の問題なんだ。早樹にいの問題じゃない」
膝を抱えた大地は早樹の方を見ることなくそう言った。
「大っ!」
「嫌だって言ってるだろっ!俺は何も話してないっ!あいつからちゃんと聞いてないんだっ!納得できるわけないっ!」
俯き加減の顔を上げ、大地は早樹を睨んだ。
これは俺の問題だ。
早樹にいは関係ないっ!
「……分かった。兄ちゃんは帰るが……。遅くなっても電話するんだぞ。迎えにきてやるから」
宥めるようなその早樹の態度に、大地は無言になった。それを見た早樹はこれ以上言っても無駄だと悟り、大地をそこに残したまま背を向け歩き出した。
暫くして自動ドアの開閉する音が大地の耳に入ると、そこで我慢していた涙が瞳からポロリと落ちた。
博貴……
大地は椅子の上で身体を小さく折り畳んだように座ったまま、博貴が帰るのをずっと待ち続けた。
何かの間違いだって……
多分……
そうなんだ……
膝頭に頬を付け、目を閉じる。お腹が空いたな……と思うのだが、一瞬でもここから離れたくなかったのだ。もちろん、博貴が朝方近くにしか戻ってこないのだから、何かを食べに行き、戻ってきたらいいのだ。しかし、大地はその僅かな時間もここから移動したくなかった。
もしも……を、考えて入れ違いになったら嫌だ……。その気持ちが大地にそこから動くことを禁じたのだ。
携帯に電話をしてみようと思ったのだが、今博貴は仕事中だ。そんな時に携帯を鳴らす気にはならなかった。もしかすると、心の奥底で、電話だけで全てが終わってしまうのを恐れたのかもしれない。面と向かい合うのなら、とことん話し合うこともできるが、携帯ではそれは望めないだろう。もちろん、博貴が途中で携帯を切るとは思わなかったが、ここで待っていることを知った博貴が戻ってこないことも考えられたのだ。
俺……
謝るよ……
ごめんな……
つい口に付いて出てしまった言葉がこれほど博貴を傷つけてしまったと大地は思わなかったのだ。確かに酷い言葉だったと自分で思い返しても分かる。だからといって別れる、別れないまで発展する等大地は考えもしなかった。
博貴……
空調のきいたエントランスは寒くも暑くもない。ただここの住民が出たり入ったりする度に、大地をチラリと見ていく姿が気配として感じられた。
格好悪いな……俺……
両膝に廻した手にギュッと力を入れ、次に頬を先程よりも膝頭に押しつけた大地はそのまま目を閉じた。
でも寝たら駄目だからな……
寝たら……
あいつ……気が付かずに通り過ぎちゃうかもしれない……
俺が気が付かなかったら……
あいつ……分かっていて通り過ぎちゃうかもしれない……
自分に必死に大地は言い聞かせ、目を瞑りながらも意識をハッキリと保とうとした。だが心地よい空調が大地に睡魔をもたらす。
駄目だ……
寝ちゃ……
うとうとしだした大地は、結局眠ってしまった。
「大ちゃん……大地……」
遠くで博貴の声が聞こえた。
「……ん……」
「こんな所で寝たら駄目だ。風邪を引いてしまうよ」
ユサユサと肩を揺すられ、大地はようやく目を覚ませた。
「……あ……大良……」
目を擦りながら、結局自分が椅子に座ったまま眠っていたことに大地は気が付いた。
「大良って……それは良いけど、君、まさか昨日からずっとここにいたのかい?」
苦笑したような顔で博貴はそういうと、ほのかなコロンの香りに混じりアルコールの香りが漂ってきた。
今帰ってきたんだ……
じゃあ……
俺の事、無視せずに声かけてくれたんだ……
別に特別なことではなく、普通の事であるのにも関わらず、大地は声を掛けて貰った事が何故か酷く嬉しかった。。
「……いたって……お前がキーの暗証番号変えたんだろっ!俺入られないじゃないか!勝手にそんなことすんなよっ!」
何も早樹から聞かなかったと必死に自分に言い聞かせ、大地は、精一杯いつもの口調でそう言った。
「……大地……聞かなかったのかい?」
困ったような表情で博貴は言った。
「……え……な、何のことだよ……」
心臓が急に鼓動を早めるのが大地に分かった。
「お兄さんとね、昨日の昼間色々話しをして……。仕方なかったんだ」
仕方ないって……
仕方ないってなんだよ……
「な……何だよそれ……早樹にいが何言ってもそんなの……関係ないだろっ。大良がそんなことで……ぐらつくのか?」
博貴のスーツの上着を掴み、大地は背の高い博貴を眺めてそう言った。
「……ぐらつくって……そうだね。大地は普通の家庭で育った男の子で、私とは違う。だから君がどれだけ頑張っても私を理解できないはずだよ。君の正直な気持ちは聞いたことだし……。早樹さんの気持ちも良く分かる。可愛い弟が、私のような人間に騙されたと思っても仕方ないことだろうし……。だからね。もうここに来たら駄目だよ大地……。君はお兄さんの言うことを聞いて、これからもまっすぐ歩いていく道を選ぶ方が君のためだと思う。君がどれだけ私の過去のことで傷ついていたか……知っているよ。それを許せないのも分かった。だから……。大地は大地が生きられる道を選んだ方が良い。私は私の生き方で生きるしかない。きっと少しだけ、大地と私の人生が交差したんだろうね。でも本来なら平行線のものだったんだよ……君もそれは分かっていたんだろう?」
こいつ……
何言ってるんだ……?
大地は博貴がまるで生徒に言い聞かせるように話しているのが信じられなかった。これは俺に対して言っているのか?そう思うほど、博貴の口調は何時もと異なり、ぐずった子供を宥めるような雰囲気すら漂わせていた。
「お前……何言ってるんだよ……いい加減にしろよっ!俺が……俺が言ったことは……悪かったよ……。ごめん……本当に悪かったって……。昨日謝るつもりだったんだけど……言いにくくて……。それで……お前……傷つけたなら……謝る……」
大地は最初は強気で言えたのだが、だんだん口調が急に萎んだように小さな声になった。
「いいんだよ。酔った席での事だからね。気にしていないよ。そうじゃないんだ。大地……。私は君のお兄さんと話しをして納得したんだ。君が言ったことで腹を立てているとか、辛かったなんて言うつもりはないよ」
俯き加減の大地を覗き込むように博貴は言った。
「……俺に……どうしろって言うんだよ……俺は……」
握りしめた拳がブルブル震えているのが分かる。それで博貴を殴ろうというつもりではない。何を言えば良いのか分からない自分自身に対する歯がゆさがその手に現れていたのだ。
「大地……キーを返してくれないか?」
……
キー……
キーを返してって……
それって……
それは……
「……博貴?……」
顔を上げ大地はこちらをじっと見つめる博貴の視線を受け止めた。
「大地……ごめんね……早樹さんの気持ちを考えると……こうするしかなかったんだよ」
別段辛そうな表情をするでもなく、博貴はどちらかというと苦笑に近い顔でそう言った。
なんで……
こいつこんな顔で言うんだ?
だって……
すっげー重大なこと言ってないか?
だよな……
なのに……
なんで……そんな……簡単に言うんだ……?
「……じょ……冗談言うなよ……よせよ……」
泣き笑いのような顔で大地はそう言った。するとやや博貴の瞳が辛そうに細められたように見えた。
「じゃあ……キーは……管理人さんに返して置いてくれたらいいよ……。大地……もう帰るんだ……」
「……え……ちょっと……博貴……っ……!」
自分の言いたいことだけ言い、博貴は背を向けて歩き出すのを、大地は椅子から飛び降り、追いかけた。
「博貴っ……なあっ……なんだよ……そんだけか?そんだけで終わりか?俺……分からないよっ!」
ようやくスーツの端を掴み大地が博貴を引き留めると、博貴は言った。
「……仕方ないだろう……どうしようもないんだからね……」
言って、新しい暗証番号の入ったキーを入り口にある機械に差していた。
「……仕方ないって……」
大地は博貴の目をじっと見据えてそう言った。
「ああ……他に言いようがないから……」
暗証番号が照合された音がピピッと静かなホールに響いた。
「……博貴……お前……」
何か信じられないものを見ているような気分だった。今目の前にいる博貴が博貴でないようなそんな気分だ。
「じゃあ君は……早樹さんに……いや、自分の両親にどれだけ悲しい思いをさせても自分の気持ちを突き通せる自信があるのかい?ねえ……どうなんだい?私の過去をどうにも許せない君に……出来るわけないだろう?そうだろ……大地……」
そう言った博貴の瞳はまるで他人を見つめるようなものだった。
「……出来る。俺……そのつもりで今まできたんだ……」
博貴とずっといると決めた。
家族の居ない博貴の家族になると決めたのだ。
それは生半可な気持ではなかった。
「……嬉しいよ。じゃあ……大地……。君が本当に私の過去について聞けるようになったら……。あのお兄さんを振りきれる覚悟が出来たら……一度連絡をくれたらいい……その時もう一度話し合おう……」
言って博貴は営業で見せるような笑みを浮かべてガラス戸の向こうに去っていった。それを大地は追えなかった。いや、気が付けば既にキーでしか開かない自動ドアが閉まっていたのだ。
「博貴っ!てめえっ!なんだよっ!なんだってんだよっ!訳分からないこと言うなよっ!ふざけんなっ!一人で納得して……俺にどうしろって言うんだよっ!」
バンッと硬質ガラスで出来た頑丈な自動ドアのガラスを叩き、背を向けて去っていく博貴に大地は叫ぶように言った。もしかするとその怒鳴り声で管理人が起きてくるかもしれない。だが今の大地にはそんな事を気にする心の余裕など無かった。
「ちきしょうっ!お前だって早樹にいの味方なんだなっ!違うっ!本当は俺のことなんかもうどうでもいいんだろっ!」
エレベーターに乗った博貴がこちらに向くのと同時にまた大地はそう言った。それでも博貴は表情を変えなかった。
そして締まっていく扉が大地の目に映った。
俺……
何やってるんだよ……
これって……
捨てられて泣いてる女みたいじゃないか……
はは……
ばっかみてえ……
ガラスに両手を置き、ズルズルとその場に座り込んだ大地はそんな風に思った。
馬鹿馬鹿しい……
俺……女じゃないんだから……
女じゃ……
「うえっ……」
そこで大地は涙が零れた。
「えっ……えっ……う~っ……」
口元を押さえて自分の馬鹿さかげんに涙を堪えようとした。だが後から後から零れる涙は、大地の頬を伝い、口元を押さえる手を越え大理石の床にポトポトと落ちた。